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第17話 閉じこめきれなくなったようです

 心的過労、とロコンチェルキ家御用達の医師は診断する。

 患者である梨々は血の気のひいた顔をして、ベッドの上に座り込んでいる。


 朝食へ行く途中、立ちくらみとともに梨々は動けなくなった。

 それは近頃よくあることで、じっとしていれば収まっていたのだが、今朝はそこにめまいや耳鳴りも重なってきた。

 やがて体から力が抜けていき、廊下に倒れていたのを使用人が見つけて、今に至る。


「貴族の家で暮らすことは、慣れぬ者には心に相当の負担がかかるのです。まして作法や勉学は、急激に詰め込めばそれだけ負荷が増すものでしょう。これは経験上の話ですが、心に重石を積みすぎると、頭や体が壊れていくようなのです。お気をつけください」


 医師の言葉に、梨々は首を傾げる。

 たちくらみもめまいも、胸がふさぐのも頭が痛むのも、日常で当たり前のことなのではないのか。この程度で休んでいては、身につくものもつかなくなるだろう。

 むしろ、倒れてできた軽い打撲の方が重要じゃないかと梨々は思う。姿勢を整えると地味に痛みが増すのだ。


「先生、これからどうしたらいいのでしょうか」

「まずは十日ほど安静にすることです。寝台から動いてはなりません」


 ベルーシャの問いに医師が答える。

 梨々が息をのんだことに、二人は気づかない。


「心が落ち込むと痛みを起こすことがあるように、体を休めると心の疲労も軽くなるところがあります。教養の授業も、当面休止した方がいいでしょう。まず食事と運動で体力を――」

「だめです」


 気づいたときには口を挟んでいる。食事と運動なんて悠長なことはできない、自分には時間がない、〈話し相手〉として期待に応えなくてはならない、等々言い募ったが、医師は頑として十日の安静を翻さない。

 結局鎮静剤だけを処方して、医師は帰っていった。


「せめて本をください。刺繍でも楽器でもいい。弦楽器で持ち込めるのありましたよね?!」

「だめよ、お医者様が言うのだから休まないと」

「時間がないんです。私は馬鹿で阿呆だから、人より身につくのに時間がかかる。心なんかのために休んでなんていられません!」

リリ(・・)


 ひたり、ベルーシャの両手が梨々の頬を包む。少女の頬は十五歳とは思えないほどやつれて細い。全体の肉が薄いから、誰も気づかなかったのだ。


「ごめんなさい。私たちが――私が悪かったんだわ」

「当主様……?」

「確かにあなたは賢い子よ。教師たちも皆評価してる。でも、あなたに教育をつける前に、まず食事を最後まで食べて、街を散歩できるくらいに体力をつけさせなきゃならなかったの」


 それでは成人に間に合わない、と言う梨々に、間に合わなくていい、とベルーシャは首を振る。梨々は顔をさらに青くする。


「今は寝ていらっしゃい。顔色が悪いわ」

「私を見限るということですか? 私の能力じゃ、もう期待できないから?」

「馬鹿なこと言わないの」


 するりと梨々の額をなでて、ベルーシャは微笑む。


「私はリリが可愛いのよ。苦しんでほしくないわ」


 その言葉に虚をつかれ、梨々は丸い目を瞬かせる。

 聞いたことのない言葉だった。


 ***


 ベルーシャと入れ替わりに、世話役のジェイが傍につく。

 監視かな、と梨々は回らぬ頭でぼんやり思う。

 少なくともこれで、本や刺繍を持ち込むことはできない。


 勧められた水を断り、梨々は寝返りを打つ。

 有り余る時間は、自然気になる言葉を考える方向に向いていく。


 可愛い、とはどういう意味か。

 苦しんでほしくない、とはどういう意図か。


 幼い頃は、熱を出すとそれは怒られたものだった。

 風邪か何かをもらった日には、仕事を休ませるなと、ふざけるなと言われながら病院に行った。

 熱が下がると、ただでさえいつも遅い迎えがさらに遅くなった。母は普段以上に疲れ、苛立っていた。


 自然と梨々は病気を忌避し、体調の悪さを隠すようになった。

 それは随分うまくいっていたのに――


 ドンッ!


 壁の向こうから、何かがぶつかる派手な音が届く。


 ドン、ドンッ!


 それは例えるならば、剛速球が壁にめり込むような音。

 あるいが銃弾が撃ち込まれるのに近い音。


「大丈夫ですよ」


 いつの間にか、近くに寄っていたジェイが言う。


「シェル様とルカ様が追い払われます。実体化さえしていれば、すり抜けられることはありません」

「〈食らうもの〉……私のせい?」

「あちらのせいですよ。体調を崩されて、魔力が下がられたのでしょう」


 ぽん、と掛布の上から手が触れる。そのまま二度、三度指がたたく。


『おじーちゃん、ぽんぽんやってぇ』

『ほいほい、りりちゃんは甘えたさんじゃのぅ』


 ふいに脳裏を過ぎる、遙か遠い、かすかな記憶。


「おやすみなさいませ」

「……ん」


 なぜだか喉と目の奥が痛んで、梨々は枕に顔を押しつける。


 ***


 頬をなでる風に、意識が浮き上がる。

 知らない間に梨々は眠っていたらしい。

 寝ていたはずなのに体がだるく、ひどく重く感じる。

 目を閉じたまま、その重さに体を任せる。沈むような感覚が心地いい。


「ごめんね……」


 ふいに降り落ちる声は、この一節(ひとつき)で随分耳慣れてしまったもの。


「俺、止められなかった。主どんどん忙しくなって、倒れちゃうかもって、思ってたのに……」


 ごめん、と謝罪の言葉が続く。

 その口調に、胸の内を押しつぶすものが、少し力を抜いてしまう。


「主はいい子だから、頑張り過ぎちゃったんだよね……もうちょっと楽にしても、大丈夫なんだよ」


 力が抜けて、にじみ出てきたのは圧倒的な悲しみだ。

 ぎゅうと押さえ込んでしまわなければ、全身のまれて何も感じられなくなるような、冷たい痛い苦しさだ。

 飲み込んで、押さえつけて、長く長く閉じこめていたものが、胸を平手でたたいている。

 だめ、だめ、だめ、


 優しくしないで



「俺たちは、主が大好きなんだから」



 胸奥に、温かな言葉(こえ)が響く。

 限界だと告げるように、瞼に悲しみがにじんでいく。雫になろうとあふれていく。


「っ主、泣いて……そんなに苦しい? どっか痛い? 怖い夢でも見てるのかな。大丈夫、大丈夫だよ――」


 生え際から後頭部へと何度も撫でる、大きな手のひら。

 十年以上なかった、懐かしい熱と感触に、悲しみが止まらなくなる。


 望んでもいいのだろうか、謝罪を口にする彼になら。

 貴方は間違ったと、私を傷つけたと、言葉をぶつけて許されるだろうか。

 ――そうして今度こそ、梨々は死への望みを叶えたいのだ。

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