第13話 ただ幸せでいてほしいのです
新しい主は可愛いか、と尋ねられれば、シェルはそれまでの主のことと同じく、当然だと答えるだろう。
シェルに限らず、武器に込められた精霊にとって、自分の持ち主は皆可愛いし大切だ。
しかし〈食らうもの〉が彼女の腕を襲い、それを契約前にシェルが切り落としたせいか、新しい主は彼になかなか懐いてくれない。むしろ同類のルカの方が好かれているようで気が気でない。
それでも最近は、ぎこちないながらも笑顔を見せるようになってきており、シェルの心は浮かれることが増えている。
それまでの、生まれたときから知っている主たちと違い、目も言葉もそらされることが多かっただけに、挨拶を交わし名前を呼ばれるだけで、妙に嬉しくなるのだ。
シェルは作られた当初から、思い出を重ねることを命じられている。精霊がその魔力で、どこまで記憶を抱えることができるのか、試したいのだとあの人は言っていた。
契約者の死を初めとして、悲しいことは避けようがなくやってくる。ならば自分では、楽しさや喜びを選んで重ねていくようにしたい、とシェルは考えている。
だから新しい主である彼女にも、彼は笑っていてほしいのだ。
***
彼女は今日も、黙々と本を読みふけっている。その姿は、一幅の愛らしい絵画のようだ。ゆったりと仕立てたドレスといい、賢そうな面もちといい、短く刈られた髪をのぞけば、貴族の子女で通じるだろうとシェルは密かに賞賛する。
それにしても、知識がそれなりに高価なこの世界では、貴族といえど蔵書がそう多くあるわけではない。そのうち全部読み切ってしまうのでは、というのが最近のシェルの懸念である。
子供の集中力はたいしたものだ。けれどそれが勉強にばかり向かうのは、ほんの少しつまらない――ではなく、体が心配になってくる。
適度に運動もしないと、人は体が弱ってしまう。まして彼女は、食が細い上に手足も肉が薄いのだから。
「主」
「はい」
「その項目読み終わったら俺の相手してよ。散歩に行こう」
「……はい」
浮かぶ微笑は、シェルへの呆れを含んでいるようだ。彼女には、せっかくの勉強を邪魔する、精霊のわがままのように見えているのだろう。それでいいと、シェルも考えている。
しばらく読み進み、主が本を閉じる。
「その前に少し、お手洗いに行ってきます」
「わかった」
立ち上がった瞬間、主はぐらりとバランスを崩す。
シェルが支えるよりも早く、彼女は机に手を突いてこらえる。
――よく見れば、顔色がくすんでいる。本も軽い内容のものばかりだ。下腹に手を当てるのを、シェルは見逃さず告げる。
「お腹痛いなら散歩やめとく? お茶でも飲んで――」
「いいえ」
首を振る動きさえやや緩慢に、主は返す。
「病気ではないですから、動かないと」
「でも、つらそうだよ」
「仕事がないだけ、マシですよ」
ぎこちなく笑う。それは親が子に案じさせないために浮かべるものだ。子供が浮かべていいものではない。
「散歩やめ」
「え?」
「夕飯までお昼寝しよう、主」
有無を言わさず、手を引いて部屋まで戻る。不調なら歩かせたくもないのだが、抱き上げると暴れるか固まるかするので、余計に負担になりそうだ。
「って、お手洗いだっけ」
「……行ってきます」
恥ずかしげに行っている間に、ジェイを呼んで寝る支度をしてもらう。飾りの少ない白の寝間着用ドレスが用意され、戻ってきた主はそれに着替える。
横になり、ふう、と無意識らしい大きなため息をこぼす。
「はい、主つめて」
「つめ……? え、うぇえ?!」
主が目を丸くする。驚く顔も可愛いなあ、と呑気に思いながらシェルは彼女の隣に潜り込む。
その背丈は十歳ほどの子供の大きさになり、薄水色の寝間着を着て同色の帽子をかぶっている。
「――ああ、俺は精霊だからね。見た目ってかなり自由になるの」
「そ、う」
「きょうだいみたいでしょー」
その声も子供の高さになっている。
健康そうなシェルの体と並ぶと、主の体はひどく痩せてか細く見える。シェルはその差が痛ましい。
掛布の中で手を伸ばし、主の手を探り当てる。引く前にぎゅっと握りしめる。
「あ、あの」
「おやすみー、主」
「……おやすみなさい」
シェルが率先して目をつぶると、ややあって目を閉じる気配がする。
眠らないようこらえながらしばらく待てば、かすかな寝息が聞こえてくる。
目を開いて主を見やる。眠る横顔は特に可愛らしい。あの子によく似ている。
誕生日を迎えられなかった小さな子は、元来気丈で弱音を吐かなかった。
今と比べ未熟な治療にも、病の苦しさにも負けず、親の前でさえ笑ってみせる子供だった。
涙する彼女を抱きしめたのは、シェルの誇りのひとつである。
美しい思い出を重ねること、それを自分で選ぶことを、シェルは彼女から学んだ。
「リラ」
名前さえも近い、かつての主。今の主とは違う存在だとわかっていても、重ねてしまうことはどうしようもない。
空いた手をぐっと伸ばし、短い黒髪の頭をなでる。寝台から主と同じ、控えめな花の匂いがする。
「――じぃちゃ?」
寝言がこぼれたらしい。主の顔が気持ちよさそうに緩む。その、ぎこちなさとは無縁の顔つきに、シェルは胸をつかれる。
これほど気を許した顔が、主にできるのだと。
「じーちゃ、わたし、がんばってぅよ」
もっとなでて、と言わんばかりに頭をすり寄せてくる。
こぼすのは、舌足らずの甘えるような口調。
「でもね……」
ふと、表情は陰りを帯びて。
「はやく、じーちゃのとこいきたい。〈王の座〉、いきたいよ」
シェルの手が思わず止まる。小さな頭がまたすりつく。
「ねぇ、いつ、つれてってくれる……?」
すぅ、と主の力が抜ける。シェルはとっさに呼吸を確かめる。
――眠りが深くなっただけのようだ。
「主……」
〈王の座〉とは、この国で言う死者の向かう場所だ。世界を動かす精霊の王が、そこで死者達を憩わせると言われている。
ジーチャと呼んだ相手は、おそらく一番気を許した存在で、もう亡くなっているのだろう。
それに、連れてってくれと言うことは――
「だめ」
手を握るだけでは足りず、シェルは全身で彼女を抱きしめる。
「だめだよ、主。早死になんて、やっと見つけたのに」
黒髪の精霊は、一番格下である故に契約者を得ることが難しい。
さらにシェルの場合、八百年以上続く膨大な記憶を抱えている。それはひとつの家の、始まりから終わりまでの記憶でもあり、彼らを護ってきたシェルにとって譲れないものだ。しかし大量の記憶を引き継いだまま、契約を望んでくれる人間はまずいない。
彼女との契約は、多分に偶然が起こしたこと。
召喚されなければ、〈食らうもの〉に襲われなければ、助けたのがシェルでなければ、シェルが幾ばくかの金銭を持っていなければ――
彼女の体が、異常なほどシェルの魔力と相性が良くなければ。
彼は今頃、無念を抱えて眠りに入っていたはずだ。
「どうすれば、どうやれば主は生きてくれる……?」
人はいつかは亡くなる。しかし奇跡のように出会えた契約者を、すぐにも喪うなど当然できない。
耳元で寝息を聞きながら、シェルはめまぐるしく考えはじめた。