第12話 不穏をはらむ平穏
ライダは異世界の出身である。
突如飛ばされたこの世界で、家畜を育て、乳を搾り、畑を耕して生きてきた。
ライダの家族は多い。
彼を保護した酪農家は、きびきびと働く優しいライダの人柄に、娘を一人娶せた。彼の義きょうだいは多く、子供五人にも恵まれて、一族は小さな諍いをはらみつつも、この数十年おおむね幸せに暮らしていた。
「あなたを元の世界に帰します」
だからその言葉は、余りに遅きに失している。
故郷に未練がないではない。しかしそれは長い年月の内に、美しい憧憬をはらんだものになっている。
黒づくめの言葉は、だから今更のことである。
「これは王の命令です。慈悲深き王は、異世界から召喚されてしまった哀れな人々を、故郷に帰すとおっしゃっている」
「んだども――」
「逆らえば不敬罪、平民ならば一族郎党まとめて死罪ですね」
ライダは言葉に詰まる。
確かに自分は召喚オークションによって呼び出され、命からがら逃げ出した。その先で今の一族に出会い、今は幸せを築いている。
王の言葉は余計なお世話だ。しかし、家族を巻き込むわけには行かない。一番小さい孫はまだ乳飲み子なのだ。
「わかり申した。参りましょう」
この数十年で学んだこちらの言葉は、田舎のアクセントが色濃くしみついている。
子供たちも立派に育ち、隠居を考えていたところでもある。最後に故郷を見るというのも、いいかもしれないと考える。
「それにしても、どうしてあっしが異世界から来たとわかったんです? もう何十年と前のことなのに」
「王の目と耳は優秀なのです」
黒づくめはにこりともせず、淡々と告げる。
明朝の出立をうながされ、その夜はライダとの別れの宴のために、家畜が一頭潰された。
***
「王が人を?」
「ええ、それも異世界の者ばかり」
脱穀機に夢中の梨々達からそっと離れ、ベルーシャと商会主バドウは情報を言い交わす。
「元の世界に還す術が見つかったと告げているようで、既にいくらかは集まっているとか。根こそぎ集める勢いだという話です」
「言いたくはないけど、召喚オークションは数十年も行われているのよ。確かに福祉と衛生の面で問題になっているけれど、こちらでの生活を築いている人もいるでしょうに」
「サトー殿のように?」
バドウの探りに、ベルーシャは微笑んで沈黙を保つ。
失礼、出過ぎたことを聞きましたな、とバドウは続ける。
「処罰をまぬがれる代わりに落札した者を渡すよう、警邏隊が貴族を中心に回ってもいるようです」
「オークションの摘発が厳しくなってきたのは、流れの一環なのかしら」
「可能性は高いでしょうな。それにしても、なぜ今になって集めるのやら……」
脱穀が終わったらしく、今度は唐箕が音を立てて羽を回し、籾殻と粒とを分けていく。青年と少年に囲まれ、ざらざらと出てくる粒を見つめる少女の顔は無邪気に見える。
「背後関係も含めて、状況を詳しく押さえておきたいわ」
「善処いたしましょう」
ベルーシャの指示に、バドウが胸に手を当て一礼する。
人を保護するとは、その人が安らかに過ごすために、労力をかけるということなのだ。
***
さて、地球に様々な米があるように、この世界にも様々な稲がある。
その中でもドゥーエの稲は、日本のうるち米に近い品種らしい。
シュヴァイエで食べられているのは、東南アジアで育つ細長い米の類で、それも扱いは野菜だ。スープやサラダの薬味として使うのが普通である。
「主ぃ、今度は鍋なの?」
「リリ様がここで待つとは、余程ですね」
シェルがあきれ、料理長のスヴェンが苦笑する。脱穀して持ち帰った稲を、試しに調理しているところなのだ。
梨々は食への関心が薄いが、それでもパンが続くと、ご飯が欲しいなと思う程度には米食がしみついている。シュヴァイエの主食は堅めに焼いた、皿にもなれそうな〈麦焼き〉が主流だ。ちなみに貴族であるベルーシャの家で出るのは、大きなフランスパンに似ている。
「この、炊くという調理法は面白いですね。水を多く使うのに、できあがりには水が消えているだなんて」
「だーいぶ昔に食べたっきりだから、あんま覚えてないんだけどね」
二人が会話する間にも、梨々は鍋に貼りついて動かない。
やがて、その時がやってくる。
「開けますよ」
スヴェンがふたを開けた途端、ふわりと漂う甘い匂い。稲の粒はどれも水分を吸ってつやつやとしている。
ただ――鍋にあるのはどう見てもご飯というより、お粥である。
「水を減らさなくてはならなかったのですね。半量くらいでしょうか」
「お粥は塩漬けを入れて、混ぜるとおいしいです……多分」
「主、落ち込んでる?」
おにぎりを食べたかった梨々は、気落ちが目に見えるほどのようだ。ふいにのぞき込まれ、梨々はスヴェンの後ろに隠れる。
「……」
「シェル様、泣きそうな顔で睨まないでください」
残りの稲や他の食材の試作はまた後日ということになり、梨々達は主従そろって厨房から追い出された。