第9話 誘惑に勝てませんでした
一応体液注意。
梨々の日常は、基本的に食事と勉学でできている。
もっとも家庭教師がまだ見つかっていないため、蔵書を乱読するのがもっぱら勉学代わりである。
ちなみに文字はなぜか読める。梨々の感覚としては、アラビア文字を日本語レベルで読んでいるようなのだが、見知らぬ文字の意味がすらすらとわかるというのは、便利だが気まずさもある。
そもそも召喚時点で、梨々はこちらの言葉がわからなかった。
観客の言葉は旋律にしか聞こえなかったし、舞台の背後でぐるぐる回っていたのが数字であることも、後になって知った。
これらは全て、梨々が精霊の主となった副作用らしいのである。
「ねぇ主、まだ読むの~」
その青年は現在、図書室の机で本を広げる梨々の横隣で、机に突っ伏す姿勢をとっている。伸ばした長い腕が本の端から見える。
「……当主様のご指示なので」
「家庭教師もまだなんだし、急がなくていいじゃない。そんな一気に詰め込んでもこぼれちゃうよ」
「……」
梨々は目を伏せて本に戻る。
彼女には時間が足りない。シュヴァイエでの成人は十六歳、通常ならば十年以上かけて修得することを、梨々は一年未満で学びきらなくてはならないのだ。
まともな召喚陣が残っていないらしい現状、おそらくもう日本へは帰れない。ならば今のうちに知識をつけて、この世界で当主の期待に応えるしかない、と梨々は考えている。
義務教育を終えていない梨々に、現代知識は味方をしない。
むしろ、この世界での地理や歴史などを、新たに学び直さねばならないほどである。
幸いなのは、この図書館には入門書や平易な解説本がそろっていることだ。ベルーシャの教科書だったのかもしれない。
「ねー、主」
「……」
「あーるーじってば」
「……」
「――よし、」
起き上がった青年が立ち上がる。どこかに行くのだろうかと梨々の気がそれた瞬間、謎の浮遊感に包まれる。
「ん、ほいっと」
「ひっ」
小さな悲鳴が上がるときには、梨々は青年の腕の中にいる。
本を持つ梨々ごと、横抱きにして持ち上げたらしい。
「主が軽すぎるので、おやつの時間にしまーす」
にっこりと笑う顔が近い。足が退こうとぱたぱたする。
梨々は小柄だ。クラスの身長順では一番前だ。それでも簡単に持ち上がるはずはないのに。
混乱している間にも、図書室を出て中庭に運ばれていく。暴れようにも的確に押さえ込まれて動けない。使用人たちが見て見ぬ振りをするのが逆に痛い。
中庭の芝生に下ろされ、やっと解放されるかと思えば、そのままあぐらをかいた上にのせられる。
背中に胸板が当たり、腹に片腕を回されれば、もはや梨々には逃げられない。というか、おそらく、逃がす気がない。
――胸の内を、押しつぶす力が増していく。
「おやつだよー」
どこにしまっていたのか、取り出されたのは紙に包んだ干し果物だ。赤いのは苺に、黄色いのは林檎に、紫色のは葡萄に味が似ている。
勧めるように手を近づけられ、梨々はそっと一粒摘んだ。
口に含むと、青年がうれしそうにのどを鳴らす。
「これで本は読めないね」
その通り、汚れた指で高価な本はめくれない。
仕方なく本を閉じると、梨々はため息をついてうつむく。
日の光は穏やかに配管の影を落とし、微風が頬をなでている。
こんな時間を、知っている気がする。
遠い、遠い昔――
「無理をしないで」
ぎゅ、と腕に力がこもる。
砂と胡椒の入り交じるようなにおい。
「急いで大人にならなくていい。無理して早死には嫌だよ、俺」
すがるような響きに、困ったな、と梨々は思う。
名目がどうであれ、彼女を買ったのは青年だ。胸の内が押しつぶされようと、その期待には応える責務がある。
当主が梨々に期待する、誰かの役に立つこと。
青年が梨々に期待する、早く死なぬよう無理をしないこと。
それは矛盾の関係にある。
無理をしなければ、あと一年で全てを学べはしない。ゆっくり育つことなどできない。
それでも、無理を押すなと青年は言う。力づくで止めに入ってくる。
――生きるとは、死にたくなるほど難しい。
「私……」
ぽつりと口が動いた瞬間、梨々は地面に引き倒される。
草と土のにおい。干し果物の、ばらばらと落ちる音。
「んなろっ――!」
ヒュッ、と刃が空を切る。
〈食らうもの〉だ、とそこで気づく。
透明だという〈食らうもの〉は、精霊しか視認することはできない。
しかしなぜか、梨々にはその陽炎のような輪郭が見える気がする。
大きさは野球ボールほど、複数個が固まって、青年に――梨々に襲いかかってくる!
「チッ」
切り裂かんと刃をふるう。しかし〈食らうもの〉シャボン玉めいた動きでふわりと避け、あるいはくるりと跳ねて遊ぶかのようだ。
だが、これにやられればその部位を切るしかなくなる。本によると、全身食われれば骨一つ残らない、という。
その記述は――梨々にはひどく、魅力的に映ったのだ。
他人による遺体の処理が必要ない。
汚れや腐ることを恐れる必要もない。
誰にも負担はかからぬまま、完璧なまでに消え失せる。
なんて素晴らしいことだろう!
夢のように美しい死に様。
それは、梨々の密かな願いだった。
出来る限り迷惑を抑えて死ぬこと。
それは梨々の明確な夢だった。
早く邪魔者の自分が消え失せること。
――それこそが、親からの真の期待だったから。
思うより早く、梨々はゆらりと立ち上がる。
途端、ふよふよと浮いていた一体が、梨々に向かって加速する。
落下する死神に、梨々は微笑んだ。
ザシュッ
鳴るはずのない、肉を裂く音。
まき散らされる、赤い鉄のにおい。
「シェル!」
遠くで少年の声が響く。
強く打った背中が、遅れて痛みを訴え出す。
記述にはこうもあった。
精霊は〈食らうもの〉を実体化する力がある。それが武器による攻撃を有効にする。
しかしそれは、精霊自身も物理的に攻撃を受ける、諸刃の技なのだと。
向けられた背、だらりと垂れた腕の先、白い手にしとどに赤が流れる。
同じ色、と逃避する脳がつぶやく。
それは全て、瞬の間のこと。
「主、後で説教」
平板に告げると同時、青年は地を蹴った。