そのろく
「誰だい」
ピアノの前に座っていたそのひとは、投げやりな口調。まるで興味がない様子で、それでも一応義理として口にしたかのよう。
「ティアなの」
だけど少女は、物怖じせずにそのひとに近付いた。
「ティアかい」
「うん」
にこにこ笑う少女を、そのひとは見もしない。けれど、少女は気にしていなかった。部屋に入ってすぐ、気付いたから。
そのひとは少女を見ない。だけど、それは少女に限ったことではないのだ。
そのひとの目は、何も映してはいない。
「ねえ、もっと弾いて」
少女は、ぴっとりとピアノに頬を寄せた。泣いたせいで熱を持った頬に、ひんやりしたそれが心地よい。
「じゃ、とびきりゴキゲンなのでどうだ」
「ごきげん~」
ぱちぱちと、少女が小さな手を叩く。
そのひとは、はじめて笑った。
にぃ、と、白い歯を見せて。
ラーサティアの方に、何も映さない、濁った目を向けて。
* * *
呆然と、立ちすくむ。それしか、できない。
目の前には、不思議な光景が広がっていた。
窓は気持ちよく開け放たれていて、わざとらしいくらいに破けたカーテンがまるで生き物のように風に舞っている。
ひびが入った窓ガラスには光が反射して、ちかちかと虹色にきらめいていた。
部屋の真ん中に置いてあるグランドピアノは指紋一つ見当たらないほどにぴかぴかで、それを気にもしない様子でラーサティアがベタベタと触っている。だいぶ上機嫌で、その証拠に彼女はピアノから響くリズムに合わせて身体を揺らしていた。
そして、ピアノの前に座り鍵盤を叩いているその人。がっしりとした体躯と顎を覆うひげが何故だかワイルドな空気をまとわせて若く見えるが、けっこうな高齢だろう。泳いでいる視線に視力が感じられない。
「ティアの他におるのは誰じゃ」
「キリなの」
「キリかい」
「うん」
にこにこ笑うラーサティアが、そっけない老人の問いに答える。本人たちはいたって真面目な様子だが、傍で聞いていると力の抜けるやりとりだ。
キリはがっくりと肩を落とした。心配して走ってきたオチが、コレ、か。
「キリはなんで刃物なんて持っとるんだ」
「ゆうれいたおすんだって~」
信じらんないわよね、お友達になれなかったらどうしてくれるのよ、ぷりぷり怒りながらラーサティアが横目でキリを睨む。
それを睨み返す余裕もなく、キリは慌ててナイフを後ろに隠した。盲目のはずのこの老人が、どうしてキリの手に握られたナイフに気付いたのかわからずに混乱してくる頭を、どうにか鎮めようとあたふたしながら。
「ほう、この家には幽霊がおるのか」
「うん、ゆうれいやしきなのー」
「そりゃあ、知らんかったなぁ。ワシはずっとここに住んでおるがな」
ラーサティアが、きょとんと目を丸くする。
「ゆうれいのごかぞくさま? ティア、かしおり持ってくるべきだった?」
「いんや。そんな家族いた覚えはないな」
ピアノを弾くのをやめた老人の膝に不思議そうに触れた彼女を、老人はよっこいせと声をあげながら抱き上げた。
「それとも、一般的に幽霊とはワシのことか? だとしたら、そのナイフで倒されるのはワシか?」
悪戯っぽく笑う老人になんと言ったらいいかわからず、キリはぶんぶんと首を横に振る。
「ご、ごめんなさい……あ、おれ、べつに怪しいものじゃなくて」
謝ることはたくさんあったので、キリはとりあえずそう言った。
勝手に家に入り込んできたわけだし、しかも刃物片手なわけで、つまるところならず者はむしろ自分だ。強盗と指差されても否定できない怪しさである。自分で言うのもアレだが、かなりナンセンスなセリフだけれど。
「怪しくはないけど、あれ、勝手に入ってくるから怪しいのはわかるんだけど、そういうつもりじゃなくて、ほんと全然怪しくなくて……」
笑い声に、顔を上げる。老人もラーサティアも可笑しそうに笑っていた。こっちは真剣だというのに失礼な話である。
――失礼な話なはずなのだけれど、キリはつられて吹き出した。




