第二十八話 血塗られた決闘
全てが終わったオッターハウンド要塞では、死屍累々の地獄のような光景の中で、命令の完遂と共に全てのオーク族の戦士達が正気を取り戻していた。
殆どの者が限界以上の力を引き出したために力尽きて座り込み、周囲の凄惨さに青ざめている。
原型を留めている死体は両軍共に殆どない。
ある者は全身に矢を浴び、ある者は力任せに引きちぎられている。
モフモフ帝国とオーク族の全力を尽くした死闘の結末は、要塞戦での勝者であるオーク族にも三つの恐怖を与えていた。
一つ目は魔王候補の『命令』への恐怖。
二つ目はラルフエルドでこの光景が繰り返されるであろうことへの恐怖。
三つ目は同じことをモフモフ帝国もするのではないかという恐怖。
魔王候補の部下である者は『命令』に抗うことはできないのだ。
今回生き延びても次はどうか。全ての者がそう考えている。
「勝利は勝利か。無意味な勝利だが」
その中でもオーク族の重鎮であり、ハイオーク達の剣の師であるベルンハルトの表情は、無数の傷を負っているにも関わらず、変わっていなかった。ただ、周囲の部下の状況を確認しつつ、つまらなさそうに呟いただけである。
オーク族の中でもベルンハルトは特殊な男であった。
変わっているのは老齢であるにも関わらず保っている若い外観だけではない。その考え方、存在のあり方自体が普通のオークでは有り得無かった。
一族の中での地位にはまるで興味がなく、他の者達のように物欲も支配欲も持ち合わせていない。彼にとってはただ己の強さのみが全てであり、それだけが彼の楽しみであった。多くのオークはベルンハルトのように戦いを楽しんでいるが、彼ほどに極端な者はいない。
その強さへの貪欲な姿勢は他のオークには受け入れられない程であり、過去には人に近い容姿を利用し、剣技を磨くために人間世界を旅したこともある。
魔王候補の抗争が始まる数年前には族長となっていた親友でもあるアルトリートの招聘でオーク族の元へと戻り、見所のある者を鍛えていた。
その理由はただ一つ。
自らを超える者を育成し、剣の糧とするためであった。
彼の弟子に望みを叶える者は未だにいない。
だが、彼は落胆はしていなかった。
(『剣聖』は私と同じだ)
剣を一度交えた時に感じた悦楽。
ただひたすらに強さを追求する者。
彼の口元は微かに笑みを浮かべていた。
「おう、先生。無事だったか」
「クレメンス。お前も生きていたか」
「先生。嬉しそうだな。ここを落としたからか?」
「いや、違う。この戦いは喜べるものではあるまい」
苦虫を噛み潰しているかのように顔をしかめている荒っぽい雰囲気の隻眼のハイオーク、クレメンスに声を掛けられ、ベルンハルトは首を横に振る。
数多くの死体が転がる戦場だが、彼の見立てではこれでも少ない。
ベルンハルトは相手が被害を抑えて撤退したのだと、正確に判断していた。
「最早ラルフエルドは落とせん」
「攻めれば同じことをされる……か。あそこは戦士以外の奴も多い。この状況をみる限り、愉快なことにはならなさそうだな。ちっ……!」
肩を怒らせてガッ! と土を蹴り、クレメンスは憤る。
「フォルクマールにも考えはあるのだろう」
「ケッ! 隠し事ばかりであいつは本当に気に入らねえ」
どかりと座り込んだクレメンスをなだめ、肩を叩きながらもベルンハルトは、与えられた断片的な情報から様々な可能性を検討し始めていた。
(フォルクマールは犠牲を払ってでも勝利を得るために動く)
彼は剣技の弟子でもある魔王候補のことを、オーク族の中で最も理解している。
その行動には必ず意味があり、先を見据えている。
全軍の殆どを『命令』に従わせる意味は……。
「そういうことか。しかし……いや」
自らを囮にした罠。だが、成功させるには食いつかせねばならない。
この場にフォルクマールが来ないということは即ち。
「どうした。先生?」
ベルンハルトは自分でも意外なことに迷っていた。
理性では取るべき行動は理解している。
単純だ。ただ、動ける者を率いてフォルクマールを援護すればそれでいい。
そうすれば戦いに間に合いさえすれば、優位に進められる。
フォルクマールに勝てる強さを持つ帝国の戦士はたった一名のみ。
その女を倒せば確かにオーク族は優位に立てる。後は戦闘が苦手なコボルト族の魔王候補にだけ狙いを絞り、打倒せばいいのだ。
戦争はそれでオーク族の勝利に終わる。
「クレメンス。コンラートとフォルクマールが魔王の力無しで戦えばどちらが勝つ?」
「はぁ? コンラートに決まってるだろ」
唐突なベルンハルトの問い掛けに、クレメンスは呆れながらも答える。
「十回戦えば九回まではそうだろうな…………よし、私達はコンラートを足止めした軍を捕まえるために網を張る。手伝え、クレメンス」
弟子の答えに頷くとハイオークの剣士は愛用の大剣を手に取り、命令を下した。
魔王候補と眷属の戦いは静かに始まっていた。
フォルクマールに樹木を貫く威力を持つ矢を軽々と弾かれたことを確認すると、クレリアは身を屈め、位置をくらませるために木や草に身を隠しながら素早く移動する。
(面倒な相手)
草むらで弓と空になった矢筒を捨てながら心中でクレリアは呟く。
以前に剣を合わせ、技量を知りながらも一対一での戦闘に持ち込む。
フォルクマールはオーク族には珍しい慎重な性格であり、勝算が無ければそんなことはしない。手の内を隠している。彼女はそう判断していた。
「余興はそろそろ終わりか?」
「そうね」
フォルクマールは自然体で二本の剣を構え、距離を空けているクレリアに問い掛ける。
(防御向きの剣術。荒さが全くない。やはり相当出来るな)
木々の間隔が狭い、小柄な自分に有利な地形をクレリアは選んでいるが、フォルクマールにはそれを気にしている様子はない。
ミスリル銀製の両手剣を正眼に構えながら、相手にとってはこの複雑な地形も殆ど障害が無いのと変わらないのだと彼女は思う。
クレリアの意識が研ぎ澄まされていく。
間合いは遠いが両者にとってそれは意味を無さない。
本当の間合いはどちらも巧妙に隠している。
土を蹴り、瞬時に距離を詰め、真っ向から剣を振り下ろす。
その剣はフォルクマールの左手の剣に防がれ、力任せに振り払われた。
だが、フォルクマールは隙を見せながら下がったクレリアへの追撃は避け、剣を構えなおす。
「無用の傷を負うこともあるまい。素直に俺のモノになれ。俺にはお前が必要なのだ」
「絶対に嫌」
「強情だな。お前の手の内は読めているぞ?」
「安い挑発ね」
からかうように口の端を上げるフォルクマールに、余裕を見せるように剣を下段に構えながらも、クレリアは内心で舌打ちする。
フォルクマールには誘いに乗る様子がまるでない。
「そうでもないさ。お前の戦い方は一見すれば華麗に見えるが、その実、勝つためには手段を選ばない汚さも含んでいる。理解していれば対処は容易だ」
「口の回る男ね」
クレリアの戦い方は正規の剣術に傭兵の戦い方を混ぜたもので、キジハタのように正道を行く剣ではなく、どのような手段を用いてでも優位を取って行く戦場の剣である。
他のハイオーク達との戦いを傍観し、直接剣を交えたことでフォルクマールは正確にクレリアの剣技の性質を見抜いていた。
「話すくらいは構わないだろう。俺は初めて戦いを楽しいと感じているんだ」
「すぐに後悔する」
「それはないな。残念だが」
子供のような邪気のない笑みを浮かべ、フォルクマールは右を前に半身に構える。そのまま動かずに静止し、自分から仕掛ける様子はない。
風が止み、無音になる。
読み合いになっていた。
クレリアもフォルクマールも全力を出しているわけではないことは明らかだった。
お互いに前回の激突が手抜きであることに気付いている。
オッターハウンド要塞攻防戦の結果で、帝国とオーク族の総人口は近付いているが、クレリアはそれでもなお、フォルクマールに身体能力では劣っていることは自覚していた。
問題はどの程度の差があるかであり、技量と経験でどれだけ差を詰められるかである。
(とはいえ時間は掛けられない)
今は周囲に誰もいないが今いる場所は敵陣。横槍が入る可能性は高い。
クレリアは息を吸い込むと、短期決戦に持ち込む覚悟を決める。
「一つだけ聞きたい。フォルクマール。お前は他の手段も取ることが出来ただろう。何故、あのような真似をした?」
淡々とした口調であったが、クレリアの声には憎悪が満ちていた。
フォルクマールもそれは理解していたが、表情を変えるでもなく当たり前のように受け止めている。ただ、空気が変わったことを察し、警戒するように剣を握る手に力を込めていた。
「魔王にとって、全ての者は道具でしかない」
クレリアの問い掛けに、彼は静かな、だが、断固とした口調で答える。
「有効に使われるならそれは本望というものだろう」
「本気で言っているの?」
フォルクマールもまた、クレリアと同じように感情を抑えるようにゆっくりと言葉を続けていた。
そして、彼は最後に用意していた言葉を彼女に告げる。
「本気だ。シバも俺に同意するはずだ。道具は有効活用するべきだと。それが王だ」
その言葉が本当の戦闘の合図であった。
「死ね」
ハイコボルトと同じ三角の耳がピクッと少しだけ反応し、瞬きする間にクレリアはフォルクマールの懐に飛び込んで斬りつけていた。
先程の様子見とは違う、渾身の一撃。
あまりの速さの違いにフォルクマールの表情が一瞬歪み、二本の剣を身体の前に交差させて防ぐ。だが、次の瞬間にはクレリアの蹴りが腹部に入っていた。
「ぐっ……!」
小さな身体からは信じがたいほどの威力の蹴りが放たれ、木々をへし折りながらフォルクマールの身体が飛ぶ。
クレリアは手を緩めなかった。
吹き飛ぶフォルクマールに彼女は軽々と追い付き、剣を突き立てる。
だが、それをフォルクマールは身体を捻って回避し、転がりながらもクレリアを蹴り飛ばした。
不安定な体勢から放たれたその蹴りをクレリアは剣で受け止めていたが、あまりの重さに思わず距離を取っていた。まともに喰らえばただでは済まない。
クレリアの背中を冷たい汗が流れる。
「予想以上だな。だが、それでこそ手に入れる価値がある」
口の端の血を拭きながら呟くフォルクマールの表情には驚き以上に喜びがあった。そのことに疑問を抱きつつもクレリアは距離を詰め、剣を振るう。
(考える余裕は与えない。速度は同じ。技術はこちらが上)
クレリアが両手剣で攻め、フォルクマールが二本の剣で受ける。
互角の速度で連続で振るわれる剣を、フォルクマールは明らかに余裕が無い表情で受け、捌き、回避し、時には片手で受けて反撃する。
剣だけではない。拳や蹴り、体術もどちらにとっても恐るべき必殺の武器である。
次第にその戦いは剣士のものから獣のものへと姿を変えていく。二匹の猛獣は気が付けば武器を持つ余裕もなく、必死の形相で殴り合っていた。
どちらも致命打は無いがお互いの攻撃が掠り、細かい傷が増えていく。
彼らの圧倒的な身体能力と体力は長時間の戦いを可能にし、戦いは周囲の森を折れた木の転がる平地へと変えていった。
「くくっ……くくくくっ……」
「何が楽しい?」
髪を掴み膝で顎を砕こうとしたクレリアを捕まえて地面に叩きつけようとし、蹴られるところを放り投げて距離を取ったフォルクマールはボロボロの姿で指を指して笑う。
「いやあ、酷い戦いだと思ってな。だが、そんな姿でもお前の美しさは変わらない。それにその抜け目のなさ、無駄のなさ、素晴らしいとしか言いようがない。まさに命を掛けて手に入れるのにふさわしい女だ」
クレリアも汗で髪が顔に張り付き、服もあちこち破れ、顔にも青あざが出来ていた。それでも彼女は微塵も怯まずに、いつの間にか落としたはずの自分の剣を掴んでフォルクマールに向け、その顔を見上げている。
だが、彼女が優位に立ったわけではない。
「貴方もいつの間に拾ったの?」
「さて、どうかな」
フォルクマールもまた、二本の剣をクレリアに向けて不敵に笑っていた。
お互いに距離は詰めない。先ほどまでの攻防で、両者は共に真実の間合いを見切っている。
「しかし、コボルト族の魔王候補は血迷ったな。愚か者だ。全く何を考えているのか」
「……?」
剣を構えながら唐突にフォルクマールはそう言葉を零す。
その言葉には愚弄している色は無い。からかうような笑みに反して、どこか哀愁と羨望の混じった口調だった。
「俺は魔王候補。お前は眷属。だが、認めよう。お前は俺の予想を遥かに超え、互角に戦うことが出来ている。無傷でお前を奪うはずだった俺の当初の計算は狂った。まあ、お蔭で楽しめているが」
「何が言いたい?」
「おかしいとは思わないか? 眷属の契約は魔王候補の魂の一部を分けるものだ。ほんの一部をな。なのにお前はオークとゴブリンの二部族を率いる俺と互角の強さを持って戦っている」
フォルクマールは笑みを消すと唇を引き締める。疲労などまるでないかのように瞳は澄み渡り、構えには一分の隙もない。
「元来眷属が魔王候補に打ち勝つには魔王候補の力に大きな差が必要なはずだ。だが、シバが持つのはコボルト族とケットシー族の二部族でしかない。ならば、お前の持つ力の答えは一つ。戦闘の苦手なシバは勝利のためにその魂の殆どをお前に与えたのではないか?」
「!」
内心で驚きつつも、クレリアはかろうじでそれを表には出さなかった。
本当であれば間違いなく命を落としていたはずの自分をどのような手段で助けたのか。シバは嘘を付いていないが全てを話したわけでもなかった。
見ず知らずの自分を助けるためにシバがどれだけの代償を支払っていたのか、クレリアはようやく気が付いたのである。
(私がハイコボルトの身体になっているのもその影響か。全く……本当に困ったものね)
「愚かだが、羨ましくもあるな。そこまで信頼出来る部下というのは」
勘違いをしているフォルクマールにクレリアは僅かに微笑む。
それは間違った推測だったが訂正をするつもりはない。
言葉にすることで大切な思い出を汚したくはなかった。
「だが、それは同時にお前を降せばコボルト族も終わることを意味している」
クレリアは自らの犯した過ちを少しだけ後悔していた。全てを自らの手で終わらせようとしたことへの自嘲。みすみすフォルクマールの挑発に乗ってしまった己への呆れ。
だが、仲間に対するオーク族の非道への怒りはそれ以上に強い。
苦楽を共にした者に対する想いは簡単には割り切れない。
それでも。
「私がお前を倒してもオーク族は終わらない。帝国の民として受け入れるだろう」
淡々としたフォルクマールの言葉に、クレリアは力強く返していた。誇らしさや愛おしさ、数年に渡る喜びと苦難の日々に培った様々な想いを込めて。
フォルクマールを大きく超える器を持つシバを完全に信じきることが出来ていなかった自分に内心で苦いものを感じつつも、彼女は自信に満ちた視線をフォルクマールに向けていた。
「何?」
「それが私の皇帝が望むことだから」
「……どちらにしても、無意味な死者が出ることはなくなるわけだ。悪くない」
クレリアは頷く。フォルクマールの草臥れた老人のような、全てに疲れたような乾いた言葉が本音であることは理解していた。
伏兵を配置してもクレリアに一方的に殺される。だからこそ彼は無駄なことをせずに独りで待っていたのだろうとも。
激情は去り、静かな心でクレリアはフォルクマールと対峙していた。
そして、その時、彼女は五分の条件で戦えた自分の時間が尽きたことを察する。
「やはりコンラートが一番か。お前達は手を出すな! 俺の戦いだ!」
だが、周囲の気配に気付いたフォルクマールは大声を上げ、動きを制止した。
「大した自信ね」
「そうではない。一対一でお前を超えることに意味があるのだ」
フォルクマールは首を横に振ると小さく深呼吸をし、クレリアを真っ直ぐに視線を向ける。彼の眼は全てを振り切った、ただの戦士のそれであった。
「決着を付けよう。クレリア・フォーンベルグ。勝利し、俺は全てを手に入れてみせる。お前も死の森も。そして魔王の座も。自分の手で手に入れぬものには何の価値も無い。俺はオーク族として全てを奪ってみせる」
クレリアは何も答えず、ただ、正眼に剣を構えた。