第十七話 ハリアー川撤退戦 焦土戦
オッターハウンド要塞の周囲の森は切り開かれ、身を隠す場所は存在しない。
オーク族は追撃を断念するとオッターハウンドから多少距離を空けた場所で全ての部隊が合流し、休息を取りながら軍議を執り行っていた。
戦争を始めた頃に比べ、軍議に集まる幹部も数名数を減らしている。
彼らの殆どにとっては予期せぬほどの苦戦であり、当初、勢い良く声を上げていた者達も疲れきったように重苦しく押し黙っていた。
彼らは一様に、苦戦の原因であると考えているフォルクマールに対して憎悪の視線を向けている。
ギルベルトと共に報告を終えて座っていたコンラートは内心それをおかしく思いつつも、口には出さず、中央に座るフォルクマールの判断を待っていた。
「ガベソン、ゴブラー共に物資は引き上げられていたか」
「ああ。元々捨てる気だったんだろうな。芋一つ転がっていなかった」
確認するように顔を向けたフォルクマールにコンラートは真剣な表情で返答する。
普段のふてぶてしさはそこにはない。彼は現在訪れている危機を正確に理解し、敵手の手段を選ばぬ非情の行動には寒気すら感じていたのである。
コンラートも相手の戦略を理解していなかったわけではない。
だが、彼はあくまで正面の戦いに価値を置いており、クレリアがここまで徹底することまでは見抜けなかったのである。それを先に見抜いていたのは暗い表情の彼の部下だった。
「何日持つ?」
「俺の部下の計算では食を細くして四日。今まで通りなら二日だそうだ」
コンラートの元には北部から予定より早くにコボルトリーダー、バセット達が合流している。
クレリアの手の内を見抜いていた彼女はコンラートの部下として着任するや、オーク族側の全コボルトをまとめ、早期の内に食料の供給を全力で行なっていた。それでも数を減らしたとはいえ1500名からなるオーク族の軍隊の食を完全に賄うことは出来ていない。
この働きに関してはフォルクマールも認めており、彼女をコンラートの副官として正式に任命している。
(退くべきだろうな)
フォルクマールは目を閉じ、心の中で呟く。
こうなることは彼には予測できていた。数字にも強い彼は、大軍で長期間戦う困難さを知っていたのである。
そして、敵にとってはこの作戦が唯一、勝機を見出せる作戦であることも。
彼の敵手であるクレリアもそれを知っており、事は彼女の思惑通りに進んでいる。
同胞たるオーク族を生かすためには現時点で退くことが最善の選択肢だった。
常の彼であれば悪評も気にせず、中央部を確保しつつ退却を選んでいたはずである。
「一日を休養に当て、残る二日でオッターハウンド要塞を陥落させる」
だが、彼が目を開いて厳しい口調で下した命令は、モフモフ帝国軍が篭るオッターハウンド要塞の攻略であった。
軍議を終え、再編成をアルトリート、ベルンハルトに任せるとフォルクマールは軍から離れ、オッターハウンド要塞を見渡せる場所まで歩いていく。
「どうすれば、このようなものを思いつくのだろうか」
深い堀、高い柵、積まれた土嚢……ガベソンの防御線など児戯に思えるほど強固なこの要塞は、通常の手段で落とすにはどれだけの犠牲が必要なのか。
フォルクマールはこれから生じる犠牲者を想い、溜息を漏らした。
「だが、俺はそれでも勝ちたい」
クレリアは変幻自在の指揮を得意としている。
彼女自身はこれまで常に攻め続けることで自らに有利な状況を構築しており、今回の戦いのように要塞に篭城するのは戦争が始まってから例がない。
フォルクマールは彼女の戦績を分析し、得意は野戦にあるのだろうと考えていた。
だからこそ、この要塞は容易に落ちないことが彼には理解できる。
「寧ろあの女は冷徹なようでいて、感情で動くオーク族に近い……だからこそ、コボルト達の為に戦っている。あの要塞はその象徴か」
「フォルクマール。お前がまさか、あれを攻める気になるとはな」
「コンラートか。何だ?」
フォルクマールは要塞に視線を向けながら振り向くことなく呟く。彼の背後には武装したコンラートと愛想のないコボルトが立っていた。
「俺の軍はガベソンで休ませてもらったからな。俺達はすぐに出るが、俺の部下が妹から伝言を預かったそうでな。それを伝えさせに来た」
「泣き虫なグレーティアか。元気にしているだろうか」
懐かしそうにフォルクマールは目を細め、口元には微笑が浮かんでいる。
身体の小さなコンラートの妹は、他の者と同じく彼を嫌う素振りは見せていたが、他のハイオーク達のように嫌悪だけではなく、彼の不甲斐なさにまっすぐに怒りをぶつけていた。
戦闘訓練において、負けても一向に気にしないフォルクマールは初めは本気で軽蔑されていたが、ある日を境に大きく関係は変わることになったのである。
グレーティアがフォルクマールと同じく、二刀流を選んでいるのは彼の影響であった。
「グレーティア様は、『悪い予感がするから、私が行くまで怪我をしないよう気をつけるように』と仰っておられました。ご自身も参加したがっていましたが……」
「そうか。しかし、北部を安心して任せられるのはあいつしかいない」
恭しく頭を下げてグレーティアからの伝言を伝えたバセットに、フォルクマールは小さな溜息を吐いて仕方なさそうに苦笑する。
「バセットとか言ったな。コンラートから報告を聞いている。お前はクレリアの狙いを理解しているそうだが、答えてみろ」
「ガベソン、ゴブラーからの物資の引き上げ、ゴブリンの東部強制移住、広範囲に配置された罠。全てが食料の補充を困難にさせるためのもの。彼女の狙いは我々の食料の枯渇です」
フォルクマールは黙って冷めた雰囲気のコボルトリーダーを見下ろした。
ここまでは現時点では愚かなものを除いて全てが理解している。
「退くべきだと思うか?」
「生きることだけを考えるならば退くべきでしょう。ですが退けば勝利の機会は二度とありません」
「理由は?」
「ゴブリン族、コボルト族、ケットシー族はオーク族に不満を抱えています。ここで退けば多くの者が帝国側に走るでしょう。そうなれば、帝国の力は増し、オーク族の力は減衰します。帝国はクレリアの指導の元、数年で恐るべき発展を遂げておりますし、部下の数が拮抗すれば、最早勝ち目はありません」
「それだけか?」
「帝国は東部が人間領、南部はエルキー族と同盟を組み、北部とは良好な関係を築いています。しかし、オーク族は……」
「十分だ」
最後まで言わせず、バセットの言葉を遮りフォルクマールは笑った。
コボルトには優秀な者が多数いるのに、オーク族には数える程しかいない。そんな自嘲を込めた、乾いた笑い声だった。
「我々が勝利するにはあの要塞を落とす以外、方法はない」
「戦士達は全方面で勝利していると思っています。それにゴブリン族は中央部を狩猟も気軽に出来ない罠だらけの森にされたことに怒りを覚えており、士気の点では問題ありません」
しかし、とバセットは続ける。
「それでも二日で倒すのは困難です」
「俺が最前線に出て力を使う。後はお前がコンラートに提案したラルフエルドとの分断、包囲を行い、あの要塞を帝国の墓標にしてやる。コンラート!」
フォルクマールは拳を握り締め、コンラートの方に決意の込もった表情を向けた。
「何だ?」
「この戦いを奴らとの最後の戦いにする。そして、俺はあの女を超え……手に入れてみせる。どれだけの同胞を失おうとも……必ず。お前には期待している」
「……出来うる限りは力を尽くそう」
僅かな沈黙を置き、コンラートは頷く。
そんな彼の顔をバセットは心配そうに見上げていた。
翌朝、モフモフ帝国皇帝シバ・フォンベルグとオーク族族長フォルクマールは要塞越しに初めて顔を合わせた。建国より数年。シバはようやく対等の敵手として、相手の魔王候補と相まみえたのである。
オーク族はハリアー川撤退戦において六百名近い死傷者を出した。
モフモフ帝国側も二百名以上が戦死し、さらに多くの者が負傷している。
それでもオーク族は苦戦を認めながらも自軍の全面勝利を信じており、モフモフ帝国は当初よりの戦略に従った戦術の遂行に成功したことから戦意は両者共に豊富であった。
中央から東部に向かう道の中で最も安全、容易な道の中心に作られたオッターハウンド要塞は両者にとって共通して勝敗を分ける重要拠点であり、これまでで最大の攻防戦となることは誰にとっても明らかである。
全ての者が緊張に震え、意識を集中させる中、敵味方含め僅か数名の者だけが自然体で相手と向かい合っている。その者たちは己が主の傍に付いていた。
シバの傍にはクレリアとタマ。フォルクマールの傍にはアルトリートとベルンハルトが。
「弱き者共よ! 我らが同胞の敵、クレリア・フォーンベルグを差し出し、降伏するなら命は助ける。貴様らに勝機はなく、敗北の後に待つのは悲惨な運命でしかない。誇りを保ち、無駄な血を流さぬためにも降るがいい!」
フォルクマールは軍の先頭に立ち、要塞に轟く怒号を浴びせる。
「姐さん、もてますねぇ」
「煩い馬鹿」
「これは僕も何か言った方がいいかな?」
その様子を見下ろしながらタマがニヤリと笑って呟き、シバは微笑んで彼に問う。
それが可笑しかったのかタマは小さく笑うとシバをひょいっと肩に乗せた。
「ガツンと一発、格好いいの頼みますぜ」
「わかったよ。タマ流で行こう」
「お、じゃ、弟子の出来栄えを拝見しやしょう」
必死の状況でも楽しそうな二名にクレリアはやれやれと首を横に振る。
シバは頷くとフォルクマールを悠々とした不敵な笑みを浮かべながら見下ろし、全軍に響き渡るように叫んだ。
「御託は聞き飽きた! 弱き者としか戦えぬ臆病者共よ! どっからでも掛かってこいっ!」
一瞬戦場を沈黙が支配する。そして、間を空けず、顔を真っ赤に染めながらシバは続ける。
「クレリアはお前なんかには……いや、誰にも渡さない! 彼女は僕のだっ!」
シバがそう言い切ると、タマは口笛を鳴らし、それを合図に要塞から大歓声と拍手、口笛の音が響き渡った。クレリアは珍しく頬を染めて居心地わるそうにしており、タマはシバを下ろして背中をバシバシ叩いている。
フォルクマールはその光景に内心を読ませない、一見冷めた視線を向けていた。
そして彼は両軍を死闘に駆り出す為の命令を下す。
長い前哨戦、ハリアー川の撤退戦を終え、後世『オッターハウンド戦役』と呼ばれる一連の戦争で最も熾烈な戦いとなる『第一次オッターハウンド要塞攻防戦』が始まろうとしていた。
最早モフモフ帝国を侮る者は誰もいない。