第十六話 ハリアー川撤退戦 ガベソン放棄
ガベソンの攻防ではクレリアが指揮官であるハイオーク達を抑えている隙に、橋頭堡を確保していたオーク族軍に相当の打撃を与えていたが、完全に渡河地点を取り戻すまでには至っていなかった。
そのため、後続のフォルクマールは散発的な抵抗を受けただけで渡河することが出来ていた。そして、そのまま流れるように上陸し先鋒を救出することにも成功している。
モフモフ帝国軍の両翼は頑強に抵抗し、未だ敵本隊に渡河を許していなかったが、中央の渡河地点を完全に確保したフォルクマールが抵抗を続ける両翼に対し、後方を遮断して包囲する動きを見せたため、こちらも抗戦を諦め、撤退を始めていた。
ガベソンにおける戦いにおいて最も激しい戦いを繰り広げているのは第二防衛線から度々突出し、数倍の敵への牽制を続けている中央部である。
クレリアは両翼に狙いを定めたフォルクマールを牽制して中央部への攻撃を誘い、第二防衛線を死守することで味方の撤退を助けていた。
先鋒から延々と続く戦いで帝国の戦士達は疲労しており、元気な上に数も多い敵本隊からの攻撃ではクレリアの部隊も大きな被害を出している。
「力は使ってこないか」
カロリーネと指揮を交代し、自らも剣を振るいながらクレリアは呟いた。
フォルクマールの本隊はクレリアの守る第二防衛線を突破できないでいる。彼女としては、不確定な要素である『魔王候補の能力』はこの戦いで把握しておきたいところであった。
だが、フォルクマールはあくまで慎重であり、今この時最前線には出てきていない。
防衛線を構築している柵と土嚢の周囲が味方の亡きがらで埋まりつつある状況にあっても、冷静に後方で指揮を続けている。
「クレリア。貴女、ここを守り切れる?」
「どうした?」
「右翼のアベルが挟撃で崩れそうだから、私が行ってくるわ。ルーベンスが意外と粘り強く戦っているみたい」
「任せる」
「了解!」
クレリアは即座に許可を出す。右翼を任せているオークリーダーのアベルは元々カロリーネの部下だった男であった。槍の使い手であり、守勢に長けているが短気な面もあり、一度崩れると脆い面も持っている。
欠点を補えるほどには部下を掌握しているアベルだったが、第一線のキジハタやタマと比べると経験不足は否めない。
カロリーネの援護で一息つければ、上手く引くだろうとクレリアは判断したのである。
彼女としては戦略上、右翼が潰走しての全面撤退は避けたいところだった。
一方、左翼の指揮官、カナフグはキジハタの最も古い弟子であり、頭脳は明晰とは言えないながらも、命令を忠実に守る実直な剣士である。不確定要素のない左翼における戦闘で地味だが堅実に自らの仕事をこなしていた。
彼はパイルパーチ攻防戦時における首都ラルフエルドの防衛、中央部におけるクレリアの副官など派手ではないが重要な役目に数多く付いている古参の幹部でもある。
クレリアはカナフグに関しては完全に信頼しており、自らは中央部と右翼の戦線の維持に腐心していた。
「サイヌ。貴女の役目はわかっているわね?」
「はいっ! ですが、無茶はなさらぬよう」
クレリアの守る中央部で弓兵の指揮を担当している茶色のぶち模様のコボルトリーダー、サイヌは木製のヘルメットを深く被り直しながら控えめに告げる。
彼女の役割は先ほどまでのカロリーネと同じ、クレリアが指揮を取れない場合の代理であったが、彼女の場合は柔軟な判断ではなく、決められた行動を貫徹することを職務としていた。
彼女に声を掛けた理由は一つ。
未だ姿を見せないフォルクマール、そしてハイオーク達が現れた場合に指揮を代行することの確認である。
U字型を取らされていたモフモフ帝国は損害を出しつつも中央部の維持に成功し、容易に包囲させることなく後退。ガベソン最後の防衛線である第三防衛線まで全軍を退かせることに成功する。
戦況が大きく変わったのは戦闘が開始して三時間を経過し、右翼が無事に持ち直したことに、クレリアが安堵の息を吐いたその瞬間だった。
“あおおおおおおおおおおお……ん!”
自軍の後方から、コボルトの遠吠えが響いたのである。
味方のコボルトではない。
クレリアはその異常に振り向かなかった。
彼女は歯を食いしばって一つの命令を出す。
「中央部は撤退する両翼を援護し、殿を務める。そう命令を出せ」
「え……あ、はい!」
彼女は退路を断たれ、包囲された周囲の戦士達の恐怖を手に取るように感じていた。
それが事実ではないにしても、関係はない。
クレリアに出来ることは動揺による損害を最小限に抑え、全力で撤退することだけであった。
膨大な兵力を誇るオーク族がそれを生かして退路を断ったという不安だけでも、モフモフ帝国の戦士達を揺るがすには十分だったのである。
そして、フォルクマールはその一瞬の隙を見逃すほど甘くはない。
彼は先鋒も含めた手持ちの全戦力をこのタイミングに全力で叩きつけ、戦闘開始からこれまでの戦いにおける最大の被害をモフモフ帝国側に与えていた。
先に撤退した両翼はこの『後方の敵』には遭遇しなかった。
これが意図的な作戦ではなかったことは後に明らかになる。しかし、切迫している戦場に置ける正常な判断は困難で、モフモフ帝国にとっても課題を残す結果となった。
その課題を解決するのも生き延びてこそである。
優位に立てる防衛線を失った両翼の戦士達は疲労と迫り来る死への恐怖と戦いながらも近接、弓兵が連携しながら後退し、態勢を立て直してかろうじで秩序を取り戻していた。
「潮時ね。我々も撤退する。味方の罠に掛からないように」
血と泥に塗れ、常に最前線で剣を振るいながらもクレリアは冷静に時間を計り、予め罠を設置している区域までの撤退を指示する。
「酷い戦い」
誰にも聞こえない小さな声で、クレリアはぽつりと呟いた。
一番彼女と時を過ごしているシバが今の彼女を見ていれば、その僅かな表情の変化にも気付いただろう。しかし、今ここにその変化に気付ける者はいない。
クレリアは全軍の指揮官として、そのことに感謝しつつ戦場に思いを馳せていた。
敵味方の戦士達の亡きがらがあらゆるところに散らばっている。
オーク族の戦士達も、そしてモフモフ帝国の戦士達もここまで凄惨な光景を作りあげることになるとは想像していなかっただろうと彼女は思う。
ただ一人、クレリアだけはこうなることを知っていた。
(だが、抗うことを止めるわけにはいかない)
最後の小隊と共に第三防衛線を後にしながら、彼女は決意を強める。
クレリアがコボルトのために戦い始めた理由は、元々それほど重いものではなかった。
しかし、様々な魔物達と共に必死で生き、国を作って発展させ、多くの戦友が理想を追い求めて散っていく中で、彼女自身も自ら作った国への想いが強まっていたのである。
「あ……み、見つけた! 見つけたぞ、敵の大将っ! こいつを倒せば!」
後退からオッターハウンド要塞への全面退却に移行して森の中を駆けているクレリアの前に現れたのは、茶色いさらさらの髪、クレリアよりは僅かに背が高いが小柄な……細身で幼さを残した勝気な雰囲気の少年のハイオークだった。
彼はクレリアの前に立ちはだかり、不意を打って槍を振るう。それを彼女は簡単に避けると、落ち着いて距離を取り、綺麗な眉を困惑するように寄せた。
「子供?」
「子供じゃないっ! 僕……俺はハイオーク、ルーベンス! クレリア。お前を倒す!」
周囲にルーベンスの部下らしい者は殆どおらず、クレリアの部下達は隙間を抜けるように駆け抜けていく。彼の部下も疲れ切っているのか、逃げ去る戦士達を追うことはなかった。
「この方向……先程の遠吠えは君の手の者の仕業か?」
「え? ああ、そうだ! 迷った……違う……俺は背後を取ったんだ! フォルクマール様に挟撃の合図を出すのは当然だろう!」
一瞬きょとんとし、直ぐに彼女を睨みながらルーベンスは叫ぶ。
彼の部下は最早二十名にも満たない。しかも、見ただけでわかるほど全員が満身創痍だ。ルーベンス自身も顔色が悪く、自らの槍を重そうに抱えている。
それでも本心から言っている彼にクレリアは呆気にとられ、間を空けてから微笑んだ。
「らしくない小細工だと思ったけれど、本気だったとはね」
「どういうことだ」
「貴方が私の思考の隙を突き、この戦場での勝利に大きく貢献したということよ」
ルーベンスはクレリアの賞賛を受けると、顔を羞恥で真っ赤にして睨み付ける。彼は実際には背後への攻撃を仕掛けることは出来なかった。
そのため、からかわれたと考えたのである。
「馬鹿にするか!」
「本当のことよ。さて……可愛いし命は助けてあげたいけれど時間は掛けられない」
「あ……」
無造作に剣を構えるクレリアに、ルーベンスは呻いた。
彼は右翼での戦いにおいて、モフモフ帝国側の名も無い戦士達を相手にしても苦戦している。だが目の前の相手から感じる圧力は、そんな者達とは格が違った
ルーベンスは剣を向けられて初めて、目の前の自分と同じ年頃にしか見えない少女が、自分に確実な死を与えられる存在であることに気付いたのである。
「ルーベンス、降伏か死か」
「う……く……降伏なんてしないっ! 僕は誇りあるハイオークだ!」
答えた瞬間、クレリアは距離を詰めて一撃で倒さんと剣を振るった。だが、ルーベンスはそれをかろうじで槍で防ぐ。
他のハイオークとは違い、軽い彼はクレリアの膂力には対抗できず、強引に吹き飛ばされて強かに木に身体を叩きつけられた。
「がはっ……あ、く……」
「死になさい」
剣を振り上げたクレリアに、ルーベンスの顔が恐怖に染まる。
しかし、それが振り下ろされることはなかった。背後から聞こえた声に、クレリアが振り向いたからだ。
「クレリア・フォーンベルグ。取引をしよう」
現れたハイオークは細身な身体、だが弱々しさはない。
長い髪を後ろでまとめた端正な顔立ちのその男からは、オーク族としては珍しく冷静で知的な印象を受けていた。
クレリアはルーベンスの喉元に剣を突きつけながら、男に顔を向けた。
「それ以上は近付けば少年の命は保証しない」
「わかった」
十歩ほどの距離を空けて男は立ち止まる。
二本の剣を腰に下げているがそれを抜こうとしている様子はない。後ろに手を組み、何かをひきずりながら自然体で立っている。周囲には無数の気配をクレリアは感じていたが、味方が逃げ去っている以上、一人であれば何とでもなると考えていた。
「取引には対価が必要なのだけど。そうね……」
クレリアは目の前のハイオークが誰であるかを理解している。
単純な消去法だ。この戦場で唯一顔を出していないハイオーク。
「貴方の命というのはどうかしら。フォルクマール」
「そこまでの価値はルーベンスにはないな」
初めて顔を合わせたオーク族の魔王候補にクレリアは好戦的な微笑みを向ける。
フォルクマールもまた、彼にしては珍しく楽しげに笑っていた。
「代わりにこれと交換しようではないか」
フォルクマールは引きずっていた何かをひょいっと片手で持ち上げる。
そこには襟首を掴まれたクレリアの副官、サイヌの姿があった。クレリアの表情が僅かに動く。
「あまり魅力的な提案ではないわね」
「そんな~クレリア様……」
「お前達のこの場での身の安全も保障しよう。俺も同じオーク族の同士であるルーベンスを見殺しには出来ない」
フォルクマールは緒戦でハイオークを捨て石にしている。ルーベンスを犠牲にし、自身の命を狙ってもおかしくはない。だが、彼はそれをしない。
クレリアは彼の言葉が本心のものではないことを見抜いていたが、彼の取引が何を意味しているかまでは理解できなかった。だが、彼女は悩んだ末に頷く。
「いいでしょう」
返事をするとフォルクマールがコボルトリーダーのサイヌを軽々とクレリアに投げつけ、彼女もルーベンスの首から剣を退け、手を貸して立ち上がらせた。
(予想以上に警戒されている)
そう、クレリアは判断する。人質を交換してもフォルクマールは一定の距離を空けたまま動かない。サイヌの腰を抱えるとクレリアは脱出の隙を伺う。
だが、フォルクマールは何もせず、笑うだけだった。
「そう警戒するな。ここで戦うつもりはない。それはお互いに愉快なことではないだろう」
「では何をしに最前線に?」
「お前に聞きたいことがあったのだ。こうして会えたのは運が良い」
クレリアのフォルクマールのイメージは、大を得るためなら小を容赦なく切り捨てる冷血な男というものだった。だが、目の前のハイオークはまるで少年のように感情のこもった邪気のない、好意的な笑みを浮かべている。
困惑し、クレリアは眉を寄せて悩んでいたが、しばらく考えて頷いた。
「わかった。答えられる内容であれば」
「何故、お前達はエルキー族の力を借りなかった?」
心底理解出来ないといった様子のフォルクマールに、クレリアは淡々と答える。
「困るから」
「困る?」
「エルキー族は魔王候補と関わりの無い中立の部族。恐らく援軍を出さない。そうなれば関係に傷が付く。それに援軍を出されれば私達はそれ以上に困ることになる」
「わからんな。どういうことだ?」
首を傾げるフォルクマールにクレリアは微笑んだ。
「自分達の力で独立を守れないような国を他の誰が認める?」
「ふむ……」
「理想も誇りも、私達自身の手によって勝ち取らねばならない」
フォルクマールの傍まで戻ったルーベンスが口を開けてクレリアの方を向き、フォルクマールも愉快そうに口の端を上げる。
「だが、今滅んではそれも意味があるまい」
「この程度の苦境を乗り切れぬようでは、どちらにしろ未来はない。しかし……」
クレリアは一度言葉を切り、フォルクマールに微笑みかける。
「帝国の仲間達を私は信じている。簡単に倒せるとは思わないことだ」
「覚えておこう。もう一つだけ聞きたいことがあるのだが」
「何?」
サイヌを抱えて立ち去ろうとしたクレリアをフォルクマールは呼び止めた。
「俺のものになる気はないか?」
思わずクレリアは足を止める。
「は?」
「俺の眷属にならないかと言った。シバも降伏するなら殺さない。お前の力が俺には必要だ。全ての魔王候補を倒し、魔王となるには」
あまりにも真剣なフォルクマールの表情に彼が冗談で言っているわけではなさそうだとクレリアは判断し、呆れを含んだ溜息を吐いた。
「私は帝国と共に生き、帝国の為に死ぬ。それが私の責任」
それはあり得ない選択肢である。
自らが作った国が失われてなお生きようとするほど彼女は生に執着してはいなかった。
しかし、こう答えることをわかっていたフォルクマールは言葉を続ける。
「ならばオーク族の者として、力尽くで奪わせてもらうことにしよう」
その言葉がクレリアを最も忌み嫌う言葉であることを知らずに。
言葉の意味を理解したクレリアの表情の変化は劇的であった。普段の無表情とも、不敵な微笑みとも異なる、個人的な憎悪を含んだ笑みへと変わる。
「ふふ……ははは……」
思い出すのは己を人間の世界から追い立てた大貴族。
圧倒的な権威を盾に自らに迫った青年。
かつての仲間、かつての部下を刺客として送った男。
シバに命を助けられ、現在の生に満足しているとはいえ、その憎しみまでは数年の時が流れた今でも完全に消えたわけではない。
「何がおかしい。力ある者は奪う。それは当たり前のことだ」
「人間も魔物も……本当に変わらないわね」
激情をその身に収め、クレリアは表情を消した。
「フォルクマール。お前の能力は認めよう。だが、はっきりと言っておく。私は貴方のような男を最も軽蔑している」
今度こそクレリアは身を翻す。
「お前のような男のものになるくらいなら、それこそ死を選ぶ」
そして、サイヌを脇に抱え、飛ぶように森の中を駆けていく。
不愉快な会話をこれ以上続ける気は彼女にはなかった。
ハリアー川攻防戦においてオーク族はモフモフ帝国軍を追撃し大きな損害を与えたが、決定打を与えることには失敗する。帝国軍は戦力を保持して撤退に成功したのである。
これには大きく三つの理由が存在していた。
まず、帝国側がハリアー川での防衛を不可能であると当初から考えており、予め撤退の準備を整えていたことがあげられる。
ガベソン、ゴブラーは陥落を前提としていたため、退路以外の場所には狩猟用の罠を広範囲に張り巡らされており、容易に追撃をさせなかったのである。
また、帝国軍は撤退しながらも食料や武器、矢を補給できるよう、カムフラージュを施した小規模な補給地点を作っており、最後まで力尽きることなく撤退戦を戦い抜いていた。
逆に追撃を行う側は徐々に疲労が蓄積され、追撃を継続することが困難になっている。
二つ目の理由はオーク族の有力な者が追撃に参加できなかったことにあった。
このような戦いを最も得意とする南部のクレメンスは甚大な被害で身動きが取れず、残るハイオーク、アルトリート、ベルンハルトの両名は元より慎重な性格であり、自軍に被害を出さない安全策を選んでいる。
西部戦線の方も同様にコンラート、ギルベルトはガベソンで再編成、鹵獲物資の収集にあたっており、追撃しているのはフォルクマールとルーベンスのみであった。
また、追撃により戦列はバラバラになり、軍としての行動が困難なものになっている。
それを纏める幹部も不足しており、この点、数が少なく、常に軍として行動しているモフモフ帝国側は、退却の不利があっても統制が取れており、撤退戦を優位に運ぶことが出来ていた。
三つ目の理由は残存の軍による援護の成功である。
フォルクマールはクレリアと話した後、罠に手間取りつつも苛烈に追撃を加え、右翼の指揮を取っていた帝国のオークリーダー、アベルを乱戦の中で敗死させていた。
だが、壊滅に追い込もうとしたところで、ブルーの指揮する諜報隊の待ち伏せを受けて時間を稼がれ、さらに追撃軍の先頭にも北部の牽制を放置したシバの横撃が加えられ、フォルクマールは追撃を諦めざるを得なくなってしまったのである。
追うオーク族側の疲労も限界にあった。
そして、全てのモフモフ帝国軍が逃げ込んだオッターハウンド要塞を前にして、一部の者を除くオーク族も帝国側の戦略、戦いの意図に気付くことになる。
オーク族側の幹部達にそれを知らしめたのは陥落したガベソン、ゴブラーからの報告であった。