第十五話 ハリアー川撤退戦 単騎突撃
「来るわね。クレリア」
朝靄で視界の悪い川を険しい表情で睨みながら背の高い女性、ハイオークのカロリーネは呟き、傍に立っているクレリアはそれに頷いた。吹き抜ける強い風で、彼女の髪が少し乱れる。
自然体で立つクレリアの瞳は澄みきっており、そこには一切の迷いはない。
モフモフ帝国軍は既に戦いに先立つ工作は終えている。
後は全力で迎え撃つことだけが、ガベソンでやり残していることであった。
「カロリーネ。私が自由に動けなくなった時は貴女に指揮を任せる」
「私は……」
「わかっている。貴女は全力で戦えない。だからこその役割」
「意地悪ね。自分だけ楽しもうなんて」
モフモフ帝国軍が守るガベソンの集落は、オーク族が様子見の攻撃を繰り返してきた間も補給部隊によって整えられ、堅固な陣地と化している。
前面は川であり、大軍が一度に渡河できる浅瀬はガベソンの正面にしかない。それもそれ程広い範囲ではなく、幾つかのポイントでしか対岸に上がることは不可能である。
モフモフ帝国側はその狭い地域を重点的に守れば良く、地の利は圧倒的に守備側にあった。だが、数が違う。こちらは300で相手は1000を優に超える。
戸惑っていたカロリーネだったが、息を吐いて頷き、微笑んだ。
「勝つことが目的ではない……か。そういう戦いもあるのね」
「我々は最後には勝利する。それでいい」
クレリアは会話を打ち切ると、目を閉じて耳を澄ます。
川を渡る音は未だ聞こえない。
それを確認するとクレリアは目を開き、ガベソンに残る全軍を見回した。数日続く戦闘の中でも彼等の気力は充実しており、士気は高い。
全ての者の視線がクレリアに集まる。
「敵の魔王候補、フォルクマールが動く」
天気は良く、僅かな木漏れ日がクレリアの整った顔を淡く照らしている。
周囲の魔物達は自分達の美しい女神を、崇拝するように見つめていた。
「相手は我々の思惑通りに動いている。気負う必要はない。与えられた職責を果たせ」
クレリアは自分の身長近くある巨大な剣を地面に突き刺し、川に視線を向ける。
彼女は昔から部下に対しては自らの行動をもって示してきた。それは口下手であることを自覚していたこともあるが、軍人として女である不利を補うための手段でもあった。
絶対の自信をもってその場に立つ。
例えそれが確実に敗北する戦いであったとしても。
「迎撃する! 全軍射撃用意っ!」
声を上げ、腕を振り上げるとコボルト弓兵隊はザッ! と揃って弓を構えた。ゴブリンやオーク達は武器を構え、息をひそめて敵に備える。
やがて視界の悪い朝靄の中、水が跳ねる音と鬨の声が響き始め、戦闘の始まりをモフモフ帝国の戦士達に教えていた。
音が近づき、微かに視認が可能になった瞬間、クレリアは腕を振り下ろす。
「撃てっ!」
真剣な表情のコボルト達は的確な射撃を敵に浴びせていく。
矢が楯を叩きつける音が楽器をかき鳴らすように戦場に木霊し、矢が刺さった者が上げる悲鳴が足音や怒号に掻き消されながらも僅かに射手達へと届いていた。
クレリアは軽々と剣を操り、構えると先頭を走ってきた勇気あるオークを一太刀で切り捨て、次の指示を飛ばす。
「コボルト弓兵隊は第二防衛線に下がれ! 近接部隊は第一防衛線を防げ!」
同時に柵の一部分を破壊し、侵入したオーク族との間に近接部隊同士の交戦が始まった。コボルト達は後続の者を射る者、接近戦の援護を行う者とに分担し、近接部隊は相手より少数ながらも連携を取りながら、不用意に動いた敵を倒す。
ガベソンの至るところで戦闘が始まり、攻撃側と守備側の間で命がやり取りされていた。だが、両者が退くことはなく、次々と命が戦場に散っていく。
優勢を取っているのはモフモフ帝国である。
防衛の柵は破壊され続けているが未だ第一防衛線の突破も許していない。
戦況が変わったのは戦闘開始から一時間が過ぎた時だった。
渡河ポイントの中央。最も広い場所が突破される。当然、モフモフ帝国としても最大戦力が集まっている場所であったため、即座に穴を埋めるべく攻撃を試みるが、二名のハイオークによってそれも阻止されていた。
中央はクレリアの指揮する場所でもある。
「来たわね。誰……コンラートか。もう一人は知らない」
橋頭堡を構築しようと守備体勢を取っているオーク達と交戦しながら、クレリアは近くで戦うカロリーネに声を掛けた。
「カロリーネ」
「任せなさい。あいつらと殺り合えないのは残念だけど」
カロリーネは大剣を大きく振って血を払うと、からっとした笑みを浮かべ、伝令の遠吠えコボルトをひょいっと片手で抱えて指示を伝える。そして、全体を見渡せる場所へと駆けて行った。
クレリアはカロリーネを横目で見送ると、剣を構え、真正面から走る。
間にいるゴブリンを切り、オークを踏み台にし、木を足場に高速で飛び回り、敵を翻弄する。そんな彼女に続いてモフモフ帝国の戦士達も混乱する敵中に切り込んだ。
そして、クレリアは二名のハイオークに自ら先手を打って切りかかる。
「ギルベルト! 上だっ!」
「え……なっ! 突っ込んで来るだとっ! 速いっ!」
木々を利用して飛び込んだクレリアの神速の斬撃をギルベルトは鉄棍で防いだ。
だが、小柄な身体に見合わぬ剣の衝撃で巨体のギルベルトが顔を歪めて体勢を崩す。
その隙にクレリアは追撃しギルベルトを仕留めようとしたが、コンラートが側面から大剣を袈裟切りに振るったため、空中で身体を斜めに捻ってそれを避け、勢いのままギルベルトの顔面を蹴り飛ばし、足場にしながら枝を掴み、木の上へと身をひそめる。
「以前と動きが予想以上に違うな。侮っていたかもしれん」
「助かったぜ。コンラート! 確かにこいつは別物……バケモノだ……」
コンラートは奥で指揮を執っているであろうクレリアを見つけ、自分達から持久戦に持ち込んで倒す計画を立てていた。しかし、クレリアは小細工なしに真っ向から単騎突撃を敢行してきたのである。
「久しぶりだな。クレリア・フォーンベルグ! それでこそ倒す意味がある!」
思惑を遥かに超える予想外の行動に、コンラートは子供のように胸を高鳴らせ、笑い声を上げた。意味がわからない。理解も出来ない。だからこそとコンラートは笑い続ける。
「なんにせよこの女を殺せば勝ち……ってわけか。わかりやすい」
「そうだ。だが、簡単ではない」
お互いの背中を庇うように立ち、コンラートは心地よい緊張感に口の端を上げ、ギルベルトは苛立たしげに鼻血を拭きつつ周囲を警戒する。
「コソコソしたコボルト共の大将がこんな女だったとは。信じられんな」
クレリアは距離を空けて地に下り、剣を構えていた。一寸の隙もない構えに、ギルベルトは唸りつつも強敵と認め、油断なく対峙する。
「女! 俺はギルベルト。北西部の首領だ。降伏するなら命は助けてやるぞ」
「初めまして。死ね」
言葉少なにクレリアは戯れるように軽やかに剣を振るう。
初めこそ戸惑っていたコンラートとギルベルトだったが、二名ともハイオークとして元来優れた身体能力を持っている。すぐにその高速の動きにも慣れ、クレリアを押していた。
戦いは膠着し、お互いに決めてが無く、持久戦へと移ろっていく。
外観的に不利に見えるのはクレリアだった。彼女は徐々に後方へと移動していく。
(おかしい。遊んでやがる。俺達にとっては最善の結果なはずなのに)
直感だった。コンラートがその異常に気付いたのは。
クレリアの表情に焦りの色が一切なかったせいかもしれない。
「思い出したぜ。パイルパーチの戦いを。てめえ……やりやがったな」
ギルベルトと連携し、剣を振るコンラートがクレリアと鍔迫り合いをしながら呻く。彼の膂力でもクレリアを押し切れない。だが、彼が冷や汗を感じているのはその力にではない。
自身が敗北した戦いの顛末を思い出してのことである。
(あの時はキジハタが側面を襲ってきやがった。あいつはいないが、代わりがいないとは限らねえ)
「顔に似合わず戦い方が下品だな」
僅かな時間でクレリアは剣を弾き飛ばし、距離を空けて悪態を吐くコンラートに向けて僅かに微笑む。
彼女にとって『下品』という形容で罵られるのは、人間の頃の傭兵隊以来で懐かしさを感じさせるものであった。そして、その経験は局地戦における彼女の強さの根幹を為すものでもある。
「生まれが卑しいものでね。顔のお蔭で皆が騙されてくれる」
「言ってくれるぜ……まずいな」
難しいことをクレリアがやったわけではない。
なのに、コンラートには絶望的な程に高い壁が存在しているように思えていた。
「どういうことだ!」
意味が分からず、ギルベルトが叫ぶ。
戦士としてはギルベルトは誰もが認める程に優秀であった。だが、指揮官としてはどうか、コンラートはそう考えざるを得ない。この異常に気付かないようでは。
「ギルベルト、戦場を見ろ。乱戦になっていない」
「……?」
「奴らは的確な指揮で動き、近接部隊だけなら倍近くいる俺達を封殺している」
「何故だ。この女が軍を動かしているのではないのか」
「ははっ! フォルクマールの予測を超えていたってことだ!」
「ちっ……役立たずが」
「責めるな。誰にもわからん」
コンラートは背中に汗を感じていた。つまりクレリアがやったのは自分達がやろうとしていたのと同じ目的。指揮官を足止めし、部下への指示を出させないためだと気付いたのである。
そして、クレリア自身は指揮を執っていない。
彼女がいなくとも、モフモフ帝国軍は軍隊として行動できるのだ。
クレリアが単騎で突撃してきた理由を知り、コンラートはその無謀に見える行動が考えられた結果であることに喜びを感じていた。全てが戦争の技術、駆け引き。
(この俺が敵から学ぶことになるとはな。にしても、なんて『喧嘩』の強い女だ)
一流の細工師が全霊を尽くして創作した美術品のように静謐な美しさを持ち、氷のように冷徹に見えるがその内情は生命力に溢れ、情熱を抱いているのだろう……コンラートは息一つ乱さずに佇んでいるクレリアに剣を向けながらそう思った。
「来たか。フォルクマール……気付いたな。やはり……やる」
クレリアはコンラートを最早見ていない。
警戒していることを思わせる堅い口調で呟かれた名前は別の名前であった。
「フォルクマール……」
思わずコンラートは歯軋りし、呟く。
クレリアが最も警戒する者、それは他の誰でもないフォルクマールであることは、その短い言葉からでも明らかであった。
オーク族に敵対する彼女が、誰よりもフォルクマールを正当に評価している。
それは間違いではない。
なのにパイルパーチでの敗北以上に深刻な敗北感がコンラートを支配する。
この二年、彼は更に剣を磨き、軍を訓練し、中堅幹部を育て、オーク族を発展させるために動いてきた。それを全て否定されたような感情を抱いていたのである。
予定の時間より早い本隊の投入。
これによりコンラートとギルベルトはフォルクマールに部下共々助けられることになる。
コンラートはそれを理解していたが、心を焼き尽くす激しい憎悪を容易に取り去ることは出来そうにもなかった。それでもコンラートは胸を張って堂々と笑う。
「戦争は始まったばかり。まだまだこれからだ。お前は必ず俺が倒す」
「狭い了見ね」
「なんとでも言え。どんな手を用いても最後に勝てばそれでいい」
微かにクレリアは口の端を上げ、後方へと引いていく。
ギルベルトに追いかける気力は既に無く、コンラートも追わなかった。
ハイオークであるカロリーネは細かい指揮は得意ではなかったが、明るくて覇気があり、自然と軍を惹きつける魅力を持っていた。
クレリアは自分が指揮出来ない事態が発生した場合、指揮の権能を大局と細則に分け、大きな視野からの指揮を任せられる者と、細かい指揮を任せられる者とに分け、訓練を積んでいたのである。
それ故、クレリアがハイオーク達と戦っている間も、軍としての機能を失わずに戦闘を続けることが出来ていた。
「敵に渡河地点を確保されましたっ!」
「アベルとカナフグに伝達。敵が伸びきった瞬間に挟撃。合図は私が送るわ」
クレリアがハイオークを引き連れて徐々に下がっている。
それに退きつけられるようにオーク族の軍は進み、橋頭堡を護る壁が薄くなっていった。
カロリーネは悠然と立ち、我慢する。深い森であるために、視界は悪い。
僅かな視界からの情報、それを元に彼女は判断する。最後は勘だった。
「反撃! 敵先鋒を包囲殲滅しなさい!」
命令の効果は絶大だった。カナフグ、アベルの軍は左右から首を狩るように敵の退路を断ち、倍近くいるはずの敵近接部隊を全方向から囲むことに成功する。
戦闘がそのまま推移すれば、ツェーザルとの戦いと同じ結果をモフモフ帝国にもたらしていただろう。だが、それを予測していたかのように報告は続く。
「右翼、アベル様の側面からハイオークが筏で渡ってきました! 少数です」
「中央から軍を割いて防ぎなさい。相手は恐らく子供のルーベンス。私は必要ないわ」
慌てずにカロリーネは指示を出し続ける。
側面攻撃によって体勢を崩しつつも、それもかろうじで防ぎきると包囲戦により混乱する敵先鋒は消耗し、その数を急激に減らしていた。
「止めを刺す……駄目ね。川岸は放棄。包囲を解きなさい。フォルクマール……」
このタイミングが偶然とはカロリーネは思わなかった。
苦境を察知し、こちらを休ませることなく戦闘を継続させるべく戦力を投入しただろうと彼女は判断し、防衛体勢を再構築する。
「全軍に伝達。無理はするなと」
「はっ!」
カロリーネはクレリアの作戦を全て理解しているわけではない。
彼女にとっては単純な勝ち負けが戦場の全てであり、クレリアのような長期的な戦略は理解できないものであった。それでもカロリーネはクレリアの作戦を迷わずに遂行している。
彼女は柔軟な変更も即座に決断していた。
クレリアの作戦の『軸』だけを彼女は理解しており、それに沿って指揮を執っている。
これは同じオーク族であるタマのアドバイスによるものであり、乱暴ではあったが、『決断し、責任を取るだけ』という覚悟だけが必要な役割は、常に集落の戦士達の先頭に立ってきたカロリーネにとってはわかりやすい考え方であった。
後続のフォルクマールに渡河地点を完全に確保されたモフモフ帝国は第一防衛線を放棄し、第二防衛線へとその防御線を後退させる。
戦いは容易に終わることなく、その激しさを増していた。