第十四話 ハリアー川撤退戦 西方戦線
早朝、ガベソンの対岸では森全体を覆う朝靄の中、別働隊を除く全てのオーク族の戦士達が集結し、これから始まる戦いにその身を高揚させていた。
彼らの中心に立つのは三名の若いハイオーク。
北西部を治めているギルベルト。彼は短髪、無精髭を生やした巨漢で粗暴だが猛将といった印象を周囲に与えている。彼はフォルクマール嫌いの急先鋒で、魔王候補になった今でも彼を認めないと公言して憚らない。
親友のツェーザルが戦死したことで、その気持ちは更に強まっていた。
「これもフォルクマールの野郎が臆病なせいだ。一気に潰せばいいものを」
「そして、ツェーザルの二の舞になるか」
「黙れっ! 負け犬が!」
彼の隣に立つ、ツェーザルの部下を引き継いだコンラートが、腕を組みながら愉快そうに鼻を鳴らす。ギルベルトは激高し、コンラートの胸倉に掴みかかった。
だが、コンラートは自信に溢れる笑みを崩さず落ち着いている。
彼はギルベルトの性格を知り尽くしていた。勇猛なように見せて、強いものには逆らわない。現にコンラートが視線を合わせるとギルベルトは力を緩め、乱雑に手を放している。
「よ、よさないか!」
泣きそうな顔で必死に胸を張り、険悪な雰囲気の二名の間に入ったのはあどけなさの残る少年のハイオークだった。今年成人を迎えたばかりの彼はこの戦いが初陣である。
彼は西部のオーク族の代表として、今回の遠征に従軍していた。本来西部は魔王候補でもあるフォルクマールの領域だが、彼は全体の統治を考えているため、西部はこの少年、ルーベンスを領主として立てている。
「争う気はない。すまないな、ルーベンス」
コンラートは涙目になって震え、それでも睨みつけているルーベンスに苦笑いして謝罪した。幼くとも律儀に職責を果たそうとしているルーベンスには、どことなくフォルクマールを思わせる雰囲気があると彼は思う。
最もルーベンスにはフォルクマールのような暗さは無く、誰からも嫌われてはいなかったが。
「いえ、僕こそすみま……いや、すまない。敵は強いのか?」
「強い。軍も指揮官もな」
「負けた言い訳か?」
ルーベンスに答えたコンラートに、ギルベルトは嘲笑を浮かべる。だが、コンラートは気にした様子もなくその挑発を受け流し、鷹揚に腕を組んだ。
「普通に考えればわかることではないか? ギルベルト。敵を侮るのは、戦死したツェーザルを愚弄することと同じだ」
「……どういうことだ」
「例え油断していたとしても、奴がそれだけで完敗すると思うのか?」
しばらく大きな顔に苦悩の色を浮かべ、ギルベルトは考え込んでいたが、やがて息を吐いて頷いた。その様子にコンラートは内心で苦笑いをする。
昔の自分であれば、己への暴言は死を持ってあがなわせていただろう。だが、今は心にさざなみすら起こらない。
(俺は弱くなったのか)
ふと、そんなことも考える。だが、それはないなとも思う。
心の奥底では強敵であるクレリアと戦える喜びを以前以上の熱情で感じていた。だが、表面的には気持ちが凪いでいる。彼自身にも不思議なほどに。
「ツェーザルを殺した女は魔王候補の眷属だ。部下が増えれば増える程強くなる」
「そいつも借り物の……力かっ!」
「フォルクマールは良くわかっている。だから、『俺達』に抑えろと言ったのだ」
屈辱で怒りに顔を歪ませながらギルベルトは「わかっている!」と、吐き捨てる。フォルクマールへのギルベルトの最大の不満は一対一で戦うことを認めないことにあった。
「気に食わんっ……コンラート! お前は納得できるのか!」
「納得は出来ない。だが、ツェーザルの戦いを考えれば正しいのは奴だ」
「わかっている! ちっ……!」
ギルベルトは鋼鉄の棍棒を手近な木に全力でぶつける。
周囲の部下が「ひっ!」と短い悲鳴を上げ、轟音を上げて倒れる木から距離を空けた。
フォルクマールから彼らが命じられた内容は、先鋒としてコンラートとギルベルトが協力し、指揮官であるクレリアを一対二で打倒せというものである。
最大戦力を彼女に当てる理由は二つ。
一つは純粋に一戦力としてのクレリアをハイオーク二名で抑え、他への被害を抑えること。残った戦力の中で圧倒的な剣技を誇る彼女に対峙出来るのは、コンラートとギルベルトしかいなかった。
二つ目の理由は、クレリアに自由な裁量を与えないためだった。人間出身であるクレリアは軍の指揮に長けている。
それは、様子見の戦闘における指揮からも明らかであり、彼女に考える隙を与えずに乱戦に持ち込めば戦力に勝るオーク族が優位に立つと、フォルクマールは予測していた。
理屈ではフォルクマールが正しいことはギルベルトも理解している。コンラートはそう判断していたが、感情は別。対等な戦いとは言えない現状に彼自身もまた、複雑な心境であった。
「どうした? ルーベンス。お前も不服そうだな」
話を黙って聞いていた少年が、いつの間にか不機嫌な表情になっていることに気付き、コンラートは口の端を上げる。理由に思い当たるものがあったからだ。
「それほどの強敵との戦いに、何故僕が外されるんだ!」
オーク族にとって、戦いから逃げることは恥である。
勇者たるべき者は強者を打倒すべし。そう教え込まれるのだ。
ルーベンスに関しては決して幼いが故に強敵から外している訳ではなく、勝利への道筋を考えた結論だったが、フォルクマールはその役割の意味合いは説明をしていない。
それは、フォルクマールがオーク族の中でも異端の存在であるが故に、オーク族としての在り方への理解を示さず、『誇り』への価値を認めていなかったからである。
コンラートはその弊害に思い至ったが、フォルクマールに告げる気はなかった。
「アルトリート、ベルンハルト」
「……?」
オーク族の中心人物の名前を唐突に挙げたコンラートを、ルーベンスは怪訝な顔で見る。
「フォルクマールは別働隊に信用できる者を当てる」
「え……」
「お前は奴の期待に応えればそれでいい」
「あ……はいっ!」
自らの任務の重さに気付いたルーベンスが緊張した面持ちで返事をした。
ルーベンスに与えられた役割は、攻撃に備え事前に用意していた筏を利用して深みを渡り、少数精鋭で側面から攻撃を行うものである。
決まれば決定打になる役割だったが、
(そこまで期待はしていまい)
と、コンラートは生真面目にやる気を出しているルーベンスを目を細めて見つめながら思う。任せる者が他にいない……というところだと彼は考えていた。
結局のところはオークらしい戦いになる。つまりは……。
「コンラート、何か気になることでも?」
「いや。何でもない」
正面突破を行うということだ。全てはそのための布石。
フォルクマールは乱戦を創り出して疲労を誘い、自らの手で勝利をもぎとろうとしている。そのことにコンラートは気付き、内心で舌打ちした。
(いや。俺にも機会はある。奴を倒すのは俺だ)
そう思い直し、コンラートは口の端を上げて目を閉じる。
そんな彼をルーベンスは心配そうに見上げていた。
「本当にどうしたんだ?」
「ああ。お前、クレリアに戦場で出会ったら逃げろよ。お前じゃ勝負にならん」
「馬鹿にするな! 僕もハイオークだ! 正々堂々戦う!」
頬を紅潮させながらルーベンスは大声を上げる。「怖い怖い」とコンラートは肩を竦めて笑い、もう一度ギルベルトの方に視線を向けた。
「ギルベルト。戦争の本番はここからだ」
「何?」
「フォルクマールのお手並みを拝見しようじゃないか」
コンラートが顎をしゃくった方向からは、準備を終えたフォルクマールが幹部達の集まっている場所へと歩いて来ていた。深い森の中を静かに歩いてくる彼をオーク族側の戦士達全員が直立不動の体勢で迎える。
普段であれば無駄口の一つや二つはあっただろう。だが、この時、声を上げるものは誰一人いなかった。それ程にフォルクマールの冷徹な瞳には力があり、氷のような容貌の中に情熱が篭っているように全ての者が感じていたのである。
渇望。
生まれて初めて得たそれは、フォルクマールをオーク族らしい男へと変貌させていた。
フォルクマールは幹部達の集団の中央に立ち、落ち着いた様子で一名一名に視線を向けていく。そして最後に彼は川の方に身体を向け、宣言した。
「ハリアー川を渡る」
普段と変わらぬ静かな声。だが、次の一言が居並ぶ諸将の顔色が変える。
「撤退は許さん。敵前逃亡を図る者は誰であろうと殺せ」
淡々と。だが、それが本気であることは誰の目にも明らかだった。
フォルクマールは秀麗な顔を微かにも動かさず、魔王候補として『命令』する。強制に込められた力は僅かなもの。逆らうことも可能な程度だった。
だが、逃げれば確実に殺される。そう思わせるだけの迫力がその言葉には宿っている。
これまで殆どのオーク族側の者達は苦境に陥ったことがない。
故にこのような指示は出されなかった。それを殆どの戦士達は弱腰であると断じ、己の魔王候補を罵っていた。
しかし、居並ぶ者達はこの時ようやく理解したのである。それは必要が無かっただけであり、死を命じることに対するためらいなど、元より欠片もないのだということに。
「コンラート! ギルベルト!」
「はっ!」
「わかっているな」
コンラートとフォルクマールの視線が一瞬だけ重なる。
だが、コンラートは不敵な笑みを浮かべるとすぐ川へ向かって歩き出した。そして、すれ違いざまに耳打ちする。
「お前が来る前に倒してもいいんだろう?」
「倒せればな。奴は俺の物だ。お前には絶対に渡さん」
コンラートとギルベルトが部下を率いて川を渡り始める。
戦いの開始の合図となったのは、偽装の戦いの時とは明らかに異なる矢の豪雨であった。