第十一話 ハリアー川撤退戦 始まりの乱戦
季節は既に春も半ばとなっているが、死の森の夜は肌寒い。
早めに目が覚めたクレリアは、鎧を身に着けると東の方角に視線を向け、太陽が昇らないことを静かに祈っていた。だが、それは叶わないことでもある。
「私達の楽園を守る為に……か」
三百対千二百。それがガベソンにおける戦力予測だった。
しかも、相手が率いるのは魔王候補、フォルクマールである。
その配下にはオーク族、ゴブリン族の上位種が揃っており、如何に地の利を確保し、帝国の戦士達が鍛えていようとも、この数の差を簡単に覆すことはできない。
主と同じ色合いの、上質な絹糸のような髪が風で揺れる。
こうなることは彼女には予測出来ていた。それでいて、他に方法がないことも。
クレリアの表情には後悔はない。
ただ、一度だけ彼女は死者を悼むように目を閉じた。
戦況は大きく動いていた。
モフモフ帝国で一番余力を持って敵に対峙していたのは、第一軍と第三軍の約半数、合わせて200を指揮する『剣聖』キジハタの部隊である。
彼の部隊にはモフモフ帝国でも最精鋭である古参の剣士隊も所属しており、ハリアー川を巧みに利用し、倍の戦力を擁するオーク族の老将、アルトリートと互角以上の戦いを繰り広げていた。
「ゴブラーは落ちたか」
「タマ様からは『一匹逃がした』と」
「ならばここも長くはないな」
夜半に灰色のケットシー族の副官、スフィンからタマからの伝令の報告を受けたキジハタは、窮地にも関わらず、普段通りに食事の肉を齧り続けていた。
「拙者達の戦闘は長くなる。お前達も食事を取っておけ」
「あ、いえ、キジハタ様。我らはどう動くのですか?」
スフィンが慌てて聞き返し、傍に控えている副官、コボルト族のグレーとオーク族のアロイスもその豪胆さに、声も出ず、呆然と立ち尽くしている。
第三軍から援軍として参加しているシルキーだけは、多少の緊張は見られるものの、動揺はしていない。
キジハタは残った骨を土を掘って埋め、副官の四名を見渡し、告げた。
「クレリア殿の作戦の通り時間を稼ぐ。拙者達の役割はそれだけだ」
「で、ですが、このままでは挟撃されます」
「まだ、挟撃されたわけではない」
なるほど、とキジハタの副官を長く続けた経験のあるシルキーは小さく呟き、彼女の役割を果たすべく、キジハタに敬礼する。
「急ぎ、移動の準備を行います」
「夜の間に出るぞ」
「え?」
呆気にとられている他の副官達にキジハタは、言葉少なく、淡々と命令した。
「ハリアー川を放棄し、側面を狙う敵を迎撃する」
「あ……はっ!」
慌てて移動の準備を整えるために走り出した副官達の背中を眺めながら、キジハタもまた、クレリアと同じように、今後の戦いに思いを巡らす。
北部が動き、ブルー達、情報を集める専門家が一時的に守備に就いている。
これは、これまでモフモフ帝国が優位を得ることに貢献してきた『情報』の収集能力が下がることを意味していた。
(これが反撃の最後の機会だな)
キジハタには気負いはない。
剣士として彼個人としては圧倒的強者との戦いに心を踊らされている。
しかし、指揮官としての彼は冷徹に状況を判断しており、先を見据えていた。
「強者とは何か」
人間の師から受け継いだ剣を抜き、一人呟く。
言葉の通じない師は、ただ剣だけで彼と会話を行っていた。
師は既に亡く、最早その意思を知る術はない。
「果たしてオーク族は強者か」
戦い続けて感じた一つの疑問。
「生き延びてから考えるべきことだな」
キジハタは思索を止める。移動の準備は既に整っていた。
敵はハイオークの中でも名高いアルトリートとベルンハルト。
相手にとって不足はない。
足の速いコボルトを斥候として使い、ハイオーク、ベルンハルトの位置を特定したキジハタは、真正面から、側面攻撃を狙っていたベルンハルトと激突した。キジハタも側面を突こうと考えていたが、ベルンハルトは斥候の動きから、それを読んでいたのである。
戦力はほぼ五分。ただ種族の内訳は異なる。
モフモフ帝国は守備向きであり、オーク族は攻撃向きであった。
ただし、戦争経験においては、キジハタ旗下の戦士に勝る者は死の森にはいない。
数々の死闘を潜り抜けた剣士達は、付け焼刃の相手を軽々と圧倒していた。
「なるほど、これが『剣聖』か。私が劣勢とは」
自軍に多勢で当たるように指示を飛ばしながら、ベルンハルトは秀麗な顔に少しだけ緊張の色を浮かべ、大剣の柄を強く握り締める。
ベルンハルトはゴブリン族の戦士達の実力の高さに驚き、そして、それ以上に一個の生き物のように動く柔軟さに驚かされていた。
「フェルナン、お前はゴブリン二十名を率いて徹底的にコボルトを狙え。連携を断つ」
「はっ」
「私は奴を抑える。あれが噂の『剣聖』だろう」
傍のオークリーダーに指示を出し、目の前で造作もなくオークを切り殺した、見た目は普通のゴブリンにベルンハルトは大剣を向ける。
「私はハイオーク、ベルンハルト」
「拙者はキジハタ。お主の高名は聞き及んでいる」
「やはりか。私の弟子、アードルフが世話になったそうだな」
キジハタは目を細める。対峙するベルンハルトに憎悪の色はない。
二年前の苦戦を思い出し、キジハタは言葉を飾らずに言った。
「拙者だけでは勝てなかった」
「そうか」
「だが、今は違う」
オークの血を払いながら、キジハタは剣をベルンハルトに向ける。その大きさはベルンハルトの持つ大剣に比べれば、玩具のようなものだった。
しかし、その鋭さ、輝きは必殺の威力を持つ武器であることを示している。
ベルンハルトはそれを察すると、油断なく距離を取った。
「奴も本望だろう。真の強者と戦えたのだ」
「拙者は未だ弱者。足掻く者よ」
「貪欲だな。足りるを知らぬゴブリンよ。何故そこまで強さを求める」
キジハタは敵の問い掛けに答えず、無造作に距離を詰めて剣を振るう。
神速の剣はベルンハルトの大剣に阻まれ、火花を散らした。
数度の剣戟を経て、二人は距離を取り、キジハタは口を開く。
「拙者はただ一振りの剣。その価値は強さ以外に無い」
「なるほどな。だが、浅いな」
つまらなさそうにベルンハルトは鼻を鳴らしたが、キジハタは気にする風も無く静かに剣を向けただけであった。
「だが、魂を掛けるに値する」
「迷いはない……か。ゴブリンの身でよくぞここまで」
問答は終わりとばかりに、二名の剣士は切り結ぶ。
両者ともに速さと技量を重視する戦士である。速さは五分。だが、膂力は比べるまでもなくベルンハルトが上であり、技量はキジハタが勝っていた。
小さな体を生かして地形を利用するキジハタ、膂力に任せ、強引に攻めるベルンハルトの戦いは一進一退で推移している。
しかし、集団戦闘では徐々にモフモフ帝国側に優位が傾きつつあった。
「ベルンハルト様! 側面からルートヴィッヒが!」
突如悲鳴のように響き渡る報告。だが、ベルンハルトは隙を作らずにキジハタから距離を取ると冷静に命じる。
「オーバンに命令。オーク隊を指揮してルートヴィッヒを防げ。時間を稼げばいい」
「はっ!」
内心で舌打ちしつつ、ベルンハルトは用心しながらキジハタを睨む。
予想以上の不利にあることを彼も認めざるをえなかった。
「想像以上だな。だが一時のことだ」
「その一時で全滅させればいい」
「甘く見るな」
怒声と悲鳴、金属の音が響く戦場で、彼らは再び激突する。
結果的にその『一時』は、極短時間のものとなり、決定打とはならなかった。
“あぉぉぉぉぉぉぉん”
タマが攻撃している方角の遠吠えを聞き、キジハタは攻撃の手を止める。
予想外の変事を悟り、キジハタはベルンハルトから離れ、部下達の中に紛れた。
「キジハタ様。頃合いです」
「よし。予定通りに行くぞ。グレー! 合図を出せ!」
「はっ!」
キジハタの副官を務めるグレーの部隊が、キジハタを狙うベルンハルトに牽制の矢を放ち、同時に遠吠えで帝国の戦士達に合図を送る。
タマの側面攻撃はキジハタの予測にはないものだった。だが、彼はそれをおくびにも出さずに利用して打撃を与え、アルトリートが近くに迫る前に撤退を選んだのである。
それを容易に見逃すベルンハルトでもなかった。
彼は一瞬でキジハタの意図と戦況を読み取り、命令を下す。
「アルトリート殿に伝令を飛ばせ! オーバンはルートヴィッヒを追え! 残りはキジハタを追撃する! 全力で喰らい付けっ!」
ハリアー川の攻防はモフモフ帝国にとって敗北が確定している戦いであった。
彼我の戦力差は大きく、地形の利用にも制限がある。
先手を取った帝国側だったが、全戦線における長い撤退戦はまだ始まったばかりであった。