第十話 北部の領主
死の森中央部の深い森の中を、栗色の長い髪の少女が鼻歌を歌いながら駆けている。
イノシシの耳を持つその人型の少女は、凡そ戦場には似つかわしくない、レースや装飾がたくさん付いたドレスに身を包んでおり、頭には真っ赤なリボンを付け、背中には服装に似合わない大きなカバンを背負っていた。
左右の腰に差した二本の剣がかろうじで彼女が戦士であることを示している。
“にゃぉぉぉぉぉん!”
“わぉぉぉぉぉぉぉぅ!”
森に響く遠吠えに彼女は足を止めた。
そして、耳を澄ませ方角を特定する。
「急がないとね」
北部のハイオーク、グレーティアはまだ幼さの残る顔を綻ばせ、バセット達がいる方向に視線を向けた。走る速度を上げ、足場の悪い森を身軽に進んでいく。
「まあ、これで言い訳出来るかな?」
彼女は微笑みながらそう呟いた。
コンラートの妹、そしてカロリーネの親友でもある彼女は、オーク族の間でも微妙な立場にある。馬鹿馬鹿しいと彼女自身は考えていたが。
今回の戦争からも外され、退屈していた彼女は暇潰しと物見遊山を兼ねて、バセットを追いかけていたのである。
「お、見っけ。やってるやってる」
音も無く囲んでいるコボルトに近付き、締め落として気絶させると背中の鞄にいそいそと仕舞い、掛け合いを続けるブルーとバセットの元へと近付いていく。
「あの娘、何やったのかなぁ」
囲むケットシー達とコボルト達の殺気を肌で感じ、グレーティアは思わず呟いた。
目の前ではブルーがバセットを殺そうと弓を構えている。
「いけないいけない……って、ぉぉ、こっち気付いてたっ! やりますなぁ」
バセットに駆け寄ろうとした瞬間、ブルーは標的を変え、グレーティアに向けて矢を放った。彼女は慌てて右手で剣を抜き、矢を切り払う。
「御機嫌よう、美少年君。事情は知らないけど短気はいかんね」
そのまま、バセットの前に立つと満面の笑みを浮かべると、過剰なほどに装飾が施されているレースのスカートの裾を摘まんで優雅に一礼した。
周囲の敵味方はあまりにも場違いの服装をした少女の登場に困惑し、動きを止める。
「グレーティア様、何故ここに。命令違反では」
「ちっちっち。命令は『不用意に北部の軍を動かすな』私が単独行動してはいけないとは、お兄様もフォルクマールも言ってない」
どうだっ! と腰に手を当て、グレーティアは自慢げにふんぞり返ったが、バセットは「それは屁理屈です」と呆れるような視線を向けていた。
「その服」
「お、気付いたかい。いい目の付け所だね! 美少年君。この服はうちの領土で働いている人間界を旅したコボルト職人、アフガンの新作で……」
「破れてる」
「え……」
淡々と落ち着いた口調でブルーは指摘し、スカートの裾を指す。
森の中を駆けたため、レースは所々破けて穴が空いていた。
「ああっ! 私のお気に入りの服がぁっ!」
「当たり前です」
大げさに大声を上げて嘆いているグレーティアに背後からヨークは矢を射たが、彼女は左手で剣を抜くと、楽々とそれを打ち落とし、不敵に笑う。
「チビだと思って侮ってもらっちゃ困るわね。背が低い方が着れる服は多いのよ?」
「服は関係ありません」
グレーティアはハイオークとしては小柄で身体つきも幼く、かろうじでブルーより背が高いくらいでしかない。だが、その動きのキレは彼女もまたハイオークであると認識させるのに十分だった。
突っ込みを忘れないバセットを、彼女は無視しながら敵を見回す。
「私って無駄な血を流すの好きじゃないんだよね。ここはお互い痛み分けにしない?」
「む……」
警戒し、距離を取っているブルーは少しだけ表情を動かし、唸った。
目の前のハイオークの剣の腕前を見る限り、戦えば死傷者が多数出るのは間違いがない。だが、彼女に自由に動かれるのはもっと困る。ブルーはそう判断していた。
次の矢を番えようとしたブルーに、グレーティアは続ける。
「見逃してくれるなら北部に帰ってもいい。駄目でも強引に突破するけど?」
「その言葉が真実であるという保証はない」
「嘘なんか吐かないわよ。服も破れたし、早く修理したいの。もうやだ」
不機嫌そうに口を尖らせる彼女を見つめながらブルーは逡巡していたが、時間を空けて、仕方なさそうに頷いた。
「川を渡るまで見張らせてもらう」
「いいわよ。しかし、美少年君は地味だし暗いわね。ケットシー族なら怪盗ロシアン様みたいな格好いい紳士を目指さないと」
「グレーティア様。あれはただの変態です」
「そんなことないわ。隠れる気のない無駄に派手な格好にはきっと深い意味があるのよ! あぁ、ロシアン様はなぜ敵なのかしら! きっと脳筋お兄様と、根暗フォルクマールのせいね」
「……」
剣を腰の鞘に戻したグレーティアは、敵味方のげんなりした視線を全く気にせず、両手の指を合わせてわざとらしく嘆く。ただ、ブルーだけは少しだけ、表情が引きつっていたが。
『隠密』ヨークは、優しくブルーの肩を叩いていた。
「さて、それじゃ。バセット、チャガラ。うちに帰るわよ」
「待て」
自分の仲間に声を掛け、立ち去ろうとしたグレーティアに、ブルーは声を掛ける。
「背中の鞄の中身は、置いていく」
「あ、ばれた? 駄目?」
「駄目」
可愛らしくグレーティアは小首を傾げたが、ブルーは首を横に振る。
彼女が背負った大きな鞄からは、ぐったりとしたコボルトの頭が突き出ていた。
グレーティアは素直に、バセット達と共に堂々と北部へ歩き始めた。
周囲を囲まれているにも関わらず、彼女は上機嫌である。
「何が楽しいのですか?」
「いやー、敵は実に優秀だと思ってね。面白そうじゃない?」
「やはりご兄妹ですね」
主であるコンラートも同じことを言っていたことを思いだし、バセットは溜息を吐いた。グレーティアは童顔で可愛らしく、容姿には似ているところはまるでなかったが。
「そういうあんたは暗いわね。そんなんじゃ女フォルクマールよ。帰ったら私が直々にお洒落を教えて上げる」
「いりません」
冷めた口調で返すバセットに、グレーティアは呆れながら頭の後ろで手を組む。
「そんなだから同族に恨まれるのよ。あんた、何したの?」
「大したことではありません」
バセットは淡々とした口調で続ける。
「ハイコボルトを謀って一つの集落に集め、オーク族に皆殺しにさせただけです。本命はあの猫野郎のせいで逃がしましたが」
あんまりな内容にグレーティアの歩みが止まった。
ハイオークであり、謀略とは無縁である彼女には理解出来ない事柄だったのである。
「なんでそんなことを?」
「戦争を終わらせるためです。戦争が長引けばそれだけ無駄な死者が増える。勝ち目がないならさっさと終わらせなくてはいけない。そうすれば、オーク族は領主ごっこを止めて次の敵を探し、私達コボルト族は安全に自由を得ることが出来るはずだった」
理由を聞くとグレーティアは苦笑してやれやれと肩を竦めた。
「なんとまぁ……本当につまらないわね。大体、今、五分で戦ってるじゃない」
「その後に疫病神が現れましたから。あの女……クレリア・フォーンベルグが。奴のせいで不幸にも、すべての種族が余計な血を流すことになる」
「さて、どうかなぁ。不幸かどうかは当人達じゃないとわかんないし」
それに、とグレーティアは続ける。
「あんたの理屈なら、もうどっちが勝つかわかんないし、オーク族の味方をする意味は無くない? お兄様も失脚しちゃったしね」
「コボルト族はシバを選びましたから、私は必要ありません。それに私はあいつが心底大嫌いなので、自分の手で殺してやりたいと思っています」
「ふーん。そっちのがわかりやすいかな。どこまで本当かは知らないけど」
からからとグレーティアは楽しそうに笑い、隣を歩くバセットの背中を軽く叩く。
直感的に他にも何かがあると感じていたが、それはそれで面白いと彼女は考えていた。
「ね、ね! それはそうと、モフモフ帝国には『剣聖』キジハタっているんだよね?」
「はぁ?」
唐突に話を変え、無邪気に目を輝かせているグレーティアに、バセットは驚いて生返事を返す。
「あの二つ名。あのゴブリンはただ者じゃあないね。素晴らしいセンスよ」
「そうですか?」
「ええ。強そうじゃない! 私も、『双子剣』のグレーティアとか名乗ろうかしら」
名案! とばかりにうんうんと大袈裟に頷いているグレーティアに、バセットは少しだけ呆けたが、彼女の意図を理解し、微笑むと首を横に振った。
「やめてください。凄く格好悪いです」
「ええー! 本当つまんないわね」
屈託なくグレーティアは笑う。
彼女にとっては遊興も情報集めも戯言もお洒落も戦いも、全てが等価であった。
「さ、これで良しっと。お仕事終了」
自然体でいて、しっかりと目的は果たしている。
彼女が『威力偵察』を終えて川岸に戻った時、彼女の部下達は、既に命令通りに川沿いに戦力を集めていた。戦力を彼らの諜報部隊に見せ付けるように。
準備は整い、オーク族の反撃が始まる。