第四話 衝動
敗北を喫したオーク族の先鋒の生き残りは、背後から矢の雨を浴びながら、命からがら逃走した。完敗と言っていい結果である。
ハイオーク、ツェーザルの戦死。100名近くの戦死者……与えられた被害を知ったオーク族側の幹部達は言葉を失っていた。
彼等は楽観視していたのである。死の森最強の存在であるハイオークが戦闘に出れば相手は逃げ去り、絶対に負けることはないと。
「ま、半数生き残っただけでも儲けものだな」
フォルクマールの命令を受け、ツェーザルの部下の救援を行ったコンラートは幹部達の中でただ一人、笑みを浮かべている。彼にとってこの結果は当然のものであり、驚くに値しなかったからだ。
そして、彼に命令したフォルクマールもこうなることを予測していた。
「ツェーザルの部下はコンラートに預ける」
彼は静かに全員に告げる。会議室はざわめいたが、反対意見が出ることはなかった。
救援の時の手際を、彼等全員が見ていたからだ。
コンラートはツェーザルが誘い込まれるのを見るや、フォルクマール直属の護衛部隊を率いて川を渡り、敵ゴブリン隊の追撃を封じ、退却を助けていた。先鋒が全滅しなかったのは彼の功績であることは誰の目にも明らかだったのである。
「実に滑稽だったな」
「そう言うな。この敗北は必要だ。奴は役目を果たした」
「それなら、いい仕事をしたな。素晴らしい負けっぷりだった」
「ああ。アルトリートの迂回部隊の目晦ましになるだろう。ここからだ」
会議を終えるとフォルクマールは、バードスパインに用意された大きな建物で、護衛でもあるコンラートと次の作戦を相談していた。ここまでは彼等の予測通りである。
「敵を率いている奴はわかったか?」
「クレリア・フォーンベルグ。奴らの魔王候補の眷属だ。後はアードルフを殺した『剣聖』キジハタ。元魔王候補のハイケットシー、ブルー。そして……カロリーネを確認した」
「ツェーザルは死んで当然だな」
フォルクマールは淡々とした口調で呟き、コンラートは苦笑いして肩を竦めた。
「カロリーネはどうする?」
「殺す。生かしておく意味が無い。何故そんなことを聞く?」
意外にもあっさりとした答えにコンラートは困惑する。彼がカロリーネに執着しているというのは、オーク族では誰もが知っていることだったからだ。
しかし、フォルクマールは普段通りの冷めた目で、コンラートを訝しげに見詰めている。
「俺は人望が無い。あいつは人望があった。眷属にすれば便利だと思ったのだが……」
「利用価値が無い……か?」
「ああ。だが、この戦争のお陰で、人望など無くても問題は無くなる」
あんまりな理由にコンラートは失笑しそうになったが、ふと、彼がカロリーネに対して実際にして来た事を思い出す。
「フォルクマール。お前、もてない男が必死に付き纏っているみたいだったんだが。気のせいか?」
これまで誰も面と向かっては言えなかった質問を受け、わけがわからないと言った様子で、フォルクマールは理知的な表情を崩し、ぽかんと口を開ける。
「は? そんなことないだろう。無理に眷属にしなかったし、納得してもらおうと何度も丁寧に説得した。それ以外でやったことは、正面からの説得が無理ならと絡め手、と、贈り物を送ったくらいなんだが」
「参考までにどう説得したか教えてくれないか?」
「眷属として俺が死ぬまで支えて欲しい……と。普通だ」
大真面目に説明しているフォルクマールに、コンラートは何も言えず、頭を掻いた。
「馬鹿だろう。お前。どう聞いても求婚だろうが」
「そ、そうだったか? 通りで……ふむ……」
顎に手を当て、冷静に考えると思い当たることもあったのか、フォルクマールは少し呻いていたが「まあ、過ぎたことはいい」と、顔を上げる。
「ここからが本当の戦争だ。お前にも働いてもらうぞ」
真剣な表情のフォルクマールにコンラートは頷く。
フォルクマールはコボルト達との戦闘経験が豊富で、どんな役目も文句の一つ言うことなく、卒なくこなしていくコンラートを重用し始めていた。
老齢のアルトリートと違い、歳も近く、自分の立てた戦略を理解できる彼を頼りにし始めていたのである。しかし、コンラートの方はフォルクマールを認めながらも、満ち足りない気持ちを抱いていた。
(確かにこいつを補佐すれば、勝てるかもしれないが……)
コンラートは悩む。フォルクマールの立てた作戦は、彼も正しいと考えている。
恐らくこの戦争中に敵を打破することによって部下を完全に掌握し、モフモフ帝国を追い詰め、最悪でも中央部を奪回して五分には持ち込むだろうと。
(だが、それで俺があの女に勝利したと言えるのだろうか)
コンラートは魔王候補である彼を、帝国に勝たせるために我慢を重ねてきた。自由に生きてきた彼にとっては初めての忍耐。しかし、勝利を得るために必要と思えば耐えることも出来た。魔王候補に重用されることは、取りうる選択肢で最上のものだ。
現状、彼の思い通りに事は進んでいる。それなのに、何故悩むのか。
コンラート自身も答えは出すことが出来なかった。
「し、失礼します。フォルクマール様」
「どうした」
コンラートの思考を遮ったのは、茶色い毛並みのコボルトの伝令だった。
気の弱いコボルトは震えながらも伝令の内容を彼等に伝える。
「その……クレリア・フォーンベルグが水浴びしています」
「ふむ。案内しろ」
「え?」
即答したフォルクマールにコボルトは驚きの声を上げ、コクコクと何度も頷き、彼とコンラートをクレリアが良く見える場所へと案内した。
「あれが、クレリア・フォーンベルグか」
薄茶色の長い髪をメイドのコボルトに梳かせながら、裸体を隠すことなく、川に足を付け、堂々と真っ直ぐに立っている。
川岸では遠い。フォルクマールは自分も川に足を踏み入れ、少しだけ進む。
背は低く、身体付きにもハイコボルトの特徴が大きく出ているが、顔立ちは怜悧に整っており、眼光もコボルトのそれではない。
白い肌を、血の赤で染め上げている彼女は、川を照らす日の光を浴びて、輝いているように彼には見えていた。
「コンラート。クレリアは俺が部下に恵まれていないと言ったそうだ」
「くくっ……随分な言い様だが否定は出来ないな」
「一番理解してくれているのが敵とは皮肉なことだ」
布を受け取り、血を拭っていた彼女とフォルクマールの視線が、川を挟んで絡み合う。
「美しいな。彼女は」
フォルクマールは薄らと微笑んだ。そこには敵意も無く、憎悪も無い。
「あの小さい身体で、お前を打ち破り、滅亡寸前のコボルト族を立て直したのか。俺が逆の立場なら、到底為しえることではない」
あるのは羨望。力のないコボルトを率いて強力な敵を打ち破り、有能な部下を育て、産業を興し、排他的なエルキー族と盟を結ぶ。
その困難さを思えば、侮ることなど有り得ないはずである。なのに、自分の部下でそれを理解できる程度に有能であるのは、ほんの僅かしかいない。
クレリアの指摘は正しい。フォルクマールは心底からそう思う。
「欲しいものがあれば、戦って奪う。それがオーク族か」
「何を考えている?」
今までに見たこともない無邪気な笑みを見せた魔王候補に、コンラートは問い掛ける。
「俺はオーク族のこの性質を嫌っていた。魔王候補もお前がなればいいと思っていたんだ」
初めて聞くフォルクマールの心情にコンラートは眉をひそめる。
魔王候補は誰かが決めるものではない。『大いなる意思』によるものだ。
それをフォルクマールはどうでもいいことだと言っている。
「だが俺もオーク族だったらしい。生まれて初めて心の底から何かを奪いたいと思った。初めて魔王候補として、相手と全力で戦えることに感謝した」
身を翻し、バードスパインへと引き返しながら、フォルクマールは上機嫌でコンラートに告げる。
「あの女をこの戦争で打ち破り、俺の眷属にする」
「本気か?」
「ああ。彼女を手に入れれば、コボルト族は終わる。そうすれば、オーク族は死の森だけでなく、全土を治められるかもしれん。それに……」
彼女であればオーク族の魔王候補でありながら、オーク族に馴染めない自分を理解してくれるかもしれない。フォルクマールはそう考えていた。
楽しそうに笑い声を上げる彼の背中を、コンラートは不思議と沸き上がる苛立ちと焦燥、そして僅かな憎悪を押さえ付けながら見詰める。
これは彼自身にも理解できない衝動だった。