第二十六話 追撃戦
真昼でも薄暗い死の森は木々や草が生い茂っているために視界が悪く、これが人間であれば相手の背中を追うということは難しい。
それでも魔物達は相手を見失うことは少ない。
視界に頼らず、漂う血の匂いを辿ることが出来るからだ。
「無理はするな。相手が反撃体制を取ったら後退だ」
タマはそう指示を出しながら、先頭で匂いを辿っているコボルトの後を追う。
コボルトは狼に近いという出自から、他の種族に比べて嗅覚に優れていた。
「匂いが近いです。休憩を取っているかと」
先頭で先導している特に鼻の効くコボルトが立ち止まって後続を待ち、敵の位置を全員に知らせる。
「よし。弓を射た後に遠吠えだ。全員で騒ぎたてろ」
「わかりました」
タマはこうして休憩の邪魔をし、昼夜を問わず不定期に攻撃を繰り返し、遠吠えで位置をいるかもしれないコボルトに伝え続けた。
コモンスヌークはウィペット要塞からはかなりの距離があり、その間に有力な集落も無く、逃げ切るまでにはかなりの余裕が存在する。
そのために追撃は執拗に続けられ、二日目の朝には目に見えてカロリーネの軍は離散していた。
タマは複雑な気分で、それでも脅すためだけの追撃を続ける。
そしてついに、それも終わりを迎えようとしていた。
「タマ様。キジハタ様の偵察隊と接触することに成功しました」
「終わりだな。旦那の方は俺達より元気だろう。背後に回ってもらえ」
「了解です」
タマは部下達と共に休憩を取り、どっかりと座りながらカロリーネの事を思う。
元々はコンラートの部下であり、北東部、東部で転戦を続けていた彼は彼女とも接することが多かった。彼女は横暴だ。だが、タマはそれほど嫌ってはいなかった。
美人だというのは勿論あるが、アードルフやコンラートに比べれば扱いはましであったし、性格が無邪気でからっとしている。個人としてはその強さを尊敬すらしていた。
もし、彼女の部下として配属されていたなら、こうしてオーク族の敵として、ハイオークの中では一番敬意を持っている相手と対峙することもなかったであろうと、タマは自分の運命の数奇さに苦笑いするしかなかったのである。
「よし、休憩終わり。見失わないように追うぞ」
すくっと立ち上がると彼の耳に、遠くからの吠え声が聞こえてきた。
これが間近から聞こえたとき、戦争は終わる。
タマは自分を鼓舞するように顔を両手で叩くと、疲労の色が濃い戦士達を率いて、カロリーネを追いかけていった。
追い掛けられている側のカロリーネには、要塞を落とすのには失敗したが、犠牲を抑えていたお陰で退却した時には半数以上の戦士は生き残っていた。
彼女は強く、これまで負けた経験はない。
そして彼女は負けても心が折れることなく、取るべき手を打っている。
だが、圧倒的に強いが故に彼女は知ることが出来なかった。
劣勢時の弱者の気持ちを。その恐怖心を。
「まさか、この私がコボルトの声に怯えることになるなんてね。甘かったわ」
要塞を落とすために戦闘をした後に、一昼夜逃げ続け、まともに食事を取ることも寝ることも出来なかったカロリーネは苦々しく呟いた。
無尽蔵な体力を持つハイオークと言えども、流石に疲労は隠しきれない。
そして、コボルトの遠吠えである。
他の種族以上に彼等は嗅覚に優れている。そして、その遠吠えは遠くまで届く上に、声を発している個人を特定することが出来るのだ。
彼女はそれを一緒に逃げているコボルトから説明され、自らの油断を悟ったのである。
コボルト族は単体としては確かに弱い。
彼等は元々群れで行動する者達であり、そのための能力に優れているのである。
「遠吠えが二種類……方角から考えて、これは捕捉されたかな。まさか、コモンスヌークまで逃げ切れないなんて……ここまで厄介とはね」
カロリーネは乱れた髪を手櫛で直しながら静かに微笑む。
立つことが出来ているのは彼女一人で、部下は立ち上がることもできず、座り込んでいる。
コモンスヌークまで逃げ切らねば、殺されると言う恐怖心。
そして、間断なく続く嫌がらせのような攻撃……疲労は頂点に達している。
部下も今では数えるほどしか残っていなかった。
どれだけ逃げても付かず離れず聞こえる遠吠えに恐怖して、殆どのゴブリンは四方に逃げ去り、同族のオークも夜が明ける頃には半数が消えていた。
「貴方達は降伏しなさい。魔王候補と同族だから大事にされるでしょう」
力無く座り込んでいる十数名のコボルトに、カロリーネは優しく声を掛ける。
彼女と共にウィペット要塞まで付いてきたコボルト達も何名かは逃走していたが、その殆どが彼女に付き従っていた。
だが、彼等は声も出ないほど疲れているにも関わらず、首を横に振る。
「貴方達は臆病な癖に本当に律儀ね」
カロリーネは呆れるように苦笑し、諦めて敵の本隊が近付いている方向を向く。
声は彼女達を追い詰めるように、徐々に近付いている。
「流石の私もあのタマにアードルフを殺したゴブリン、100名以上のコボルトとゴブリンの相手はちょっと無茶ね。どれくらい道連れに出来るか……というところかしら」
カロリーネは眼を閉じて、静かに時を待つ。
部下達に現状を打破し、コモンスヌークまで逃げきる気力は残っていない。
絶望的な状況にありながら、彼女は落ち着いていた。
そして時間が流れ、やがて目の前の草むらが音を立てて揺れる。
現れたのはゴブリン。そして、その他の大勢のコボルト、ゴブリンが自分達が逃げられないよう、取り囲んでいることをカロリーネは理解していた。
「来たわね。ゴブリンということは、貴方はキジハタ?」
「如何にも。お主の前線の拠点は落とした。援軍は来ぬ。抵抗は無駄だ」
「ま、そうよね……他の者は降伏させるから命は助けてあげて欲しいのだけど」
カロリーネと対峙しているキジハタは頷く。
「抵抗せぬ者は斬らぬ。出来ればお主も降伏して欲しいのだが。戦いは無益」
「ふふ……心にも無いことを。貴方は私と同じ匂いがする。直ぐにわかった」
静かに剣を抜いたキジハタに、カロリーネは巨大な両手剣を向けて、疲労を感じさせない艶やかな笑みを浮かべる。
「貴方はタマとは違うわね。戦いに飢えたゴブリンさん」
「拙者は……いや、違わないな。拙者は真実の強さを追い求めている」
問答無用とばかりに、二人は斬り合いを始めた。
悩む時間もなく、唐突に戦いが始まる。
疲労で動きが鈍っているとはいえ、カロリーネの動きは野獣のようにしなやかで素早い。そんな彼女の攻撃を、キジハタは森という地形を利用して回避し、隙を作らない一撃離脱の攻撃でカロリーネに手傷を負わせていく。
「成る程。アードルフを倒しただけはあるわね。戦えば信じられる」
「修練を積めば力の差は覆せる」
「そういう考え方、嫌いじゃないわ」
キジハタの剣が何度も身体を掠っているが、彼女には余裕があった。
相手の剣がハイオークである彼女に致命傷を負わせるには、死を覚悟した踏み込みが必要であるのに対し、彼女はまぐれ当りさえすれば致命傷になるからだ。
一方のキジハタの方にも余裕がある。
深い森では長大な武器は不利であり、地の利があったのと、疲労困憊しているカロリーネと違い、彼は万全の状態で戦う事が出来ていた。
決着は容易には付かずに膠着し、それを打開するために同時に動こうとしたその時、両方の動きを野太い声が止めた。
「おい旦那! そいつは俺が先約だ。譲れ!」
キジハタもカロリーネも警戒しながら距離を取り、顔を見合わせる。
「ルートヴィッヒ……いえ、タマ。二人掛かりでもいいのよ?」
「馬鹿やろう。負け逃げしやがって。褒美貰ってないぞ」
「弓の援護をもらっても私が勝っていたじゃない。貴方ボロボロだし」
カロリーネはキジハタを警戒しながら、タマを見て微笑む。
だが、タマは気にした風も無く槍で肩を叩き、泥臭い笑みを浮かべた。
「クレリアの姐さんが言うには、戦場じゃ生き延びたやつが勝ちらしいぜ」
「本当に随分図太くなったのね。で、そっちのゴブリンはどうする?」
「仕方あるまい」
キジハタは暫く考える素振りを見せた後、カロリーネから離れて剣を収める。
「馬鹿ね。勝ち目も薄いのに」
「口の悪い同僚にも良く言われるぜ。続きだ。カロリーネ」
鋼鉄の槍と両手剣が今度は真っ向からぶつけられ、高い金属の音が森に響く。
タマはキジハタと同じように木を利用して場所を取り、槍を大振りせず、狭い場所を利用して突きを多用する。
「速さじゃ適わねえが純粋な腕力ならそう大差はねぇ。ここなら動き回れんしな」
「なるほど、あのゴブリンと一緒に腕を上げたのね。戦い方が似ている」
それでも分が悪い勝負だった。タマにとっては。
普段であれば一騎打ちなどせず、キジハタと組んで仕留めようと考えただろうと彼自身思っていたし、実際そうするつもりだった。だが、キジハタと戦う姿を見て、思わず叫んでしまったのだ。
(らしくねぇな……だが、これでいい)
必死に相手の攻撃を防ぎ、反撃をしながら彼は不思議と後悔していなかった。
死ぬ可能性が高いにも関わらず。
「やるわね。大したものだわ」
「存分に満足させてやるぜ。お前を倒すのは俺だ。他の奴にはやらん」
「情熱的ねっ!」
カロリーネが大きく踏む込み、槍の懐へと入り上段から振り下ろす。
タマは更に内に入って槍を両手で持ち、大剣の根元で受け止め、体当りで吹き飛ばした。
「止めだ!」
体勢を崩したカロリーネに突き掛かろうとするが、タマは疲労と怪我で足が上手く動かずに前のめりになり、直ぐに体勢を戻したカロリーネに槍を跳ね飛ばされる。
「肝心な所で運が無かったわね……なっ!」
トス……。
武器を失ったタマに止めを刺そうとしたカロリーネの肩に矢が突き刺さる。
タマはカロリーネより先に矢が飛んできた方向に怒声を飛ばす。
「何やがる! シルキー! 撃つんじゃねぇ!」
「これは戦争です。タマさんを死なせるのは帝国の損失。絶対に私は仲間を無駄に死なせはしません。全員、カロリーネを囲みなさい。近付き過ぎないよう。射撃で仕留めます」
冷たくシルキーは言い切り、自らの手勢に指示を出した。
「中々無粋な……だけど、度胸のあるお嬢さんね」
カロリーネは状況を把握すると苦笑いしつつ、両手剣を地面に突き刺し、諦めて眼を瞑る。
彼女もタマと同じく腕も足も既に限界だった。
どうしようもないのであれば、みっともなく足掻くよりは。
そんな思いが彼女の心を支配していた。
「グルゥぅぅぅぅっ!」
だが、そんな彼女の周りを立ち上がり、仲間のゴブリンから武器を奪ったコボルト達が庇うように囲み、弓を構えるシルキー達を睨みつけ、殺気を放ちながら唸っていた。
「馬鹿っ! 座ってなさい!」
カロリーネが初めて慌てて声を張り上げる。
だが、コボルト達は動かず、相手に飛び掛らんと武器を構えていた。
「武器を捨てなさい。敵対するなら同族であろうと容赦はしません」
シルキーもまた、醒めた口調でカロリーネを取り囲むコボルト達に告げる。
「おい、シルキー。馬鹿言うんじゃねえ!」
「タマさんこそ……甘すぎますよ。そんなんじゃ生きていけないんです」
弓の弦を引き絞りながらシルキーは、タマに反論する。
帝国のコボルト達もまた、躊躇することなく弦を引き絞っている。
カロリーネは大きく息を吐く。
シルキーの行動は冷酷にも思えるが、カロリーネはコボルト達が形は違えど仲間の『オーク族』を護っている事に気付いていた。
自らの部下は自分を。一騎打ちを邪魔したシルキーという少女はタマを。
憎んでいてもおかしくないはずの仲間を。
目の前のコボルトは言葉通り、自身を殺すために抵抗する同族を皆殺しにするだろう。
それは彼女にとっては受け入れ難いことであった。
「恐ろしい種族ね。貴方達、ありがとう……武器を捨てなさい。私も降伏する。私はどうなってもいいけど、この子達を含めて私の部下の命は保証して欲しい」
「承知した」
様子を見守っていたキジハタは頷く。
この瞬間、北東部の戦いは事実上終了し、帝国の勝利が確実なものとなった。