番外編 神剣と剣聖
クレリアは切り株に腰掛けながら、静かにキジハタが話し出すのを待っていた。
余計な口出しはしない。長い時を経た記憶を掘り起こすのには時間が掛かるものだ。正確に思い出しているのならば尚更に。
「ふむ……改めて話すとなると難しいものですな」
しばらくの間考え込んでいた様子だったが、キジハタは照れるように笑って、ぽつりぽつりと話し始めた。
「師と出会ったのは二十年以上前になる。拙者はまだ何も知らぬ童であった」
どこか過ぎ去った日々を懐かしむように。
キジハタが幼少であった魔王継承戦争が始まる十年近く前、先代の魔王はまだ存命であり、死の森は強者こそが法であるという弱肉強食の世界だった。
元々、キジハタの部族の集落は死の森西部にあったが、後にオーク族の重鎮となるアルトリート、ベルンハルトの両名がバラバラだったオーク族を一つにまとめ上げ、勢力を拡大させたことにより、多くのゴブリン族と共に東部へと追われることとなった。
この頃のゴブリン族には助け合いなどは一切なく、有力な勢力を所持していた中央部のゴブリン族も彼等を見捨てるだけでなく、なけなしの生活物資まで奪おうとしている。
キジハタは幼い記憶に、飢えや乾き、理不尽な扱いに対する怒りを叩き込まれることとなった。キジハタを始めとした移住したゴブリン達のこれらの事情は、彼等の強さへの渇望の根源となったのかもしれない。
東部にたどり着いても彼等の苦難は続いた。
狩りの縄張りの問題である。帝国が出来てからは話し合いで決まっているそれは、目に見えぬ暗黙の了解で定められた線引きしか存在していなかった。
縄張りは絶対であり、侵した者には制裁が加えられる。
それがコボルトなら良い。
彼等は温厚であり、やり過ぎない限りは見てみぬふりをしてくれた。
だが、東部で強い勢力を保っていたケットシー族の縄張りは違う。彼等は冷酷な狩猟者であり、それを侵すことは命の危険を意味していた。
そんな状況では集落すべての食料を満足に確保することは難しい。
ならば、どうすればいいか。
「拙者達は誰の縄張りでも無い場所から食料を奪うしかなかった」
「なるほど。それで人間領への侵入が増えていたのね」
クレリアも過去を思い出しながら相槌を打つ。
魔物の侵入が広範囲に渡ったため、結局は街の冒険者や傭兵達に仕事を任せる結果となったが、初期には当時新人騎士であったクレリアも討伐に参加していた。
その際、クレリアは祖父であるハーディング・アルドメイヤーを訪ねている。
しかし、彼女はキジハタには会っていない。
「うむ。人間の領域は食料が豊富であったし、夜目の効く者も少ない。その”狩猟”は危険ではあったが概ね上手く行っていた。あの日、師匠と出会うまでは」
「ふむ」
「今思えば拙者達は増長していたのだろうな。まだ童だった拙者は大人に連れられて愚かにも昼間に狩猟を行なった。そこに畑を耕していた師匠がいたのだ。大人達は老人一人、倒せると思ったのだろう。剣を振り上げ……そして、己の武器を奪われ瞬時に全員首を刎ねられた。拙者だけは老人を前に何故か足が止まり、生き延びることが出来たのだ。その時の師の不思議そうな表情と言葉は今でも覚えている。言葉の意味は分からぬが……」
「教えて。魔物の言葉に翻訳する」
「『獣の分際で儂が消した殺気に気付くか。馬鹿な孫共より筋が良いかもしれぬ』」
「あのくそ爺……」
キジハタが口にした辿たどしいリグルア帝国語を聞き、クレリアは眉を顰める。確かに彼女が知る祖父が口にしそうな言葉だった。
『神剣』ハーディング・アルドメイヤーはクレリアを赤子の手を捻るように打ち据えた上で、貴様に教える剣は無いと言い放っていたから。
彼女だけではない。リグリア帝国屈指の猛将として名を馳せることになる彼女の兄、ローウェルにも同じことを言っている。クレリアがそのまま翻訳すると、キジハタは苦笑いした。
「過分な評価を受けていたのか」
「正しい評価だったとは思う」
キジハタに対する言葉はそんな偏屈な祖父としては最大限の賛辞だろう。
結果としてキジハタはクレリアを超える技量の剣士となったのだから見当違いでも無い。
「結局、師は立ち尽くした拙者を殺さなかった。それどころか、拙者に畑の野菜を持たせ、森の方角に向けて顎を動かしたのだ」
魔物に施しを与えるなど人の常識では理解出来ない行動である。
クレリアにも彼が何を考えてそんなことをしたのかは理解出来ない。ただ、理解出来ないなりにキジハタには頷いて続きを促す。
彼はクレリアの複雑な心境とは裏腹に、懐かしそうに目を細めていた。
「拙者はあの時に剣に魅入られてしまったのだろうな。不思議と恨みは湧かなかった。拙者は木刀を作り、翌日から我が師の鍛錬を覗き、真似をし始めた。それが拙者の道の始まり」
「良く殺されなかったわね」
「それどころか数ヶ月間、拙者が見やすいようにしてくれていたな。拙者はそれを必死に覚え、師の鍛錬が終わった後も、思い出しながら振り続けていた」
滑稽だろうとキジハタは喉を鳴らす。
剣を振る年老いた剣士と、遠くでのぞき見て真似をするゴブリンの子ども。クレリアはその情景を想像し、「そうね」と笑った。
「ある日、それまでは拙者を無視していた我が師は剣を振る拙者に近付いてきた。いよいよ殺されるかと拙者は身を固くしたものだ。しかし、我が師は拙者の剣の握り方と姿勢を正し、自分も隣で見本を見せるように剣を一度振っただけだった。拙者は歓喜した。あの素晴らしい剣を学べるのだと」
「意思疎通は出来ていたの?」
「言葉はわからぬ。だが、剣の教えならば不思議と理解出来た。拙者は我が師の居宅に住み込むことを許され、師の一挙一動を学んだ。師の動きは全てが剣であった。例えばこういうこともあった。珍しく、師が大量の食事を作ったのだが、師は普段と同じだけしか食事を取らなかった。拙者は貪欲に食べた。師の意図はすぐ後の訓練で明らかになった」
「身体で教えたのね」
「言葉は通じぬが、師は愚物である拙者に身体と心で伝えてくれていた。『礼儀』『正道』『誇り』『克己』『忍耐』……ゴブリンにはまるで縁の無いものを、師は剣と共に繰り返し拙者に教えた。そして、拙者はそれこそが剣なのだと素直に受け取り、全て師の言葉に従った」
短い言葉だがキジハタはリグルア帝国の正確な発音で、剣の徳目を口にした。そして、それをキジハタが真にその身に修めていることをクレリアは知っている。
貴族の弟子に裏切られ、隠棲していた祖父はどんな想いを持って、下級の魔物として蔑まれているはずのゴブリンにそれを教えたのだろう。孫であるクレリア達には『野獣の剣』であると何も教えようとしなかったのに。
何が違ったのだろうとクレリアは複雑な心境で思う。
「数年間、拙者は師の指導を受けることが出来た。だが……師の身体は死病を得……最期の数ヶ月は起き上がることすら難しくなっていた。歳もあったのだろうな……拙者は師に代わって畑を耕し、森に入って食料を得て、伏せている師の隣で剣を振り続けた。そんな状況でも師の指摘は的確であり、拙者の剣技は鋭さを増していった。だが、そんな状態では長く持つ訳もない。別れの日はやってきた。今でも忘れられぬ」
寂しさと暖かさ。
キジハタの表情には相反する二つが同居しているようにクレリアには思えた。
「いよいよ師の病が進んだ秋のことだった。師は拙者に白い服を着せるように命じると、自由の効かぬはずの身体で立ち上がり、ずっと大切に箱にしまわれていた剣を取り出した。拙者は泣いた。ただそれだけの動きをする為に、師が残り少ない魂を燃やし尽くそうとしていることを理解したからだ。そして、師は『ゴブリンが涙を流すか』と仰って初めて笑い声を上げ、剣を拙者に渡し、真っ直ぐに拙者を見詰め、こう口にした。『お前を儂の唯一の正統な弟子として認める』と」
クレリアは声を失っていた。
リグルア帝国でも最強を謳われた『神剣』ハーディング・アルドメイヤーの剣は奇を衒わない。彼の剣は極限まで虚飾を廃しており、それ故に帝国の正規の剣術としてその剣は取り入れられている。
だが、彼自身が正式に認めた弟子はリグルア帝国に存在しない。
剣技としての有用性を認められ、それを積極的に広めながらも彼は後継者を作らなかった。誰よりも剣を熱心に伝えながら、弟子を作らないという矛盾を彼は抱え続けた。それ故にその席を欲した貴族の申し出を拒否し、国を追われたのだ。
キジハタは人間の言葉を理解していない。
だから、その言葉に偽りが混じることはない。その価値も彼が知ることはない。
正統な剣術として受け入れている帝国にはいない、真のアルドメイヤーの剣士。
『神剣』を継ぐもの。キジハタは正しく『剣聖』なのだ。
「キジハタ……そんな大切な剣を返してもいいの?」
「剣はあくまで剣。我が剣技と心は既に弟子達に受け継がれている。言葉すら通じなかった我が師の剣技と心と共に。それが我が師への拙者の解答だ。恐らく拙者に課してくれた最後の試練への」
それが彼が修行の果てに得た答えだった。
剣に魅せられた、無力であったただのゴブリンは、地と一体と化したような自然体のまま、無邪気とも思えるような明るい笑い声を上げた。
”拙者は近々死ぬ。最早二度とお会いすることはありますまい”
そう朗らかに笑ったキジハタと、クレリアは今生の別れを済ませると、彼の剣を持ち、祖父が隠棲していたあばら家を訪れた。
長い年月が経ち、家は風化して殆ど原型を留めていない。
かろうじて、ボロボロの机や壁が残っている程度だった。
キジハタが作った祖父の墓は、彼の深い想いが込められたかのように、数十年の時が流れた今でもそれと一目でわかるくらいの山になっている。
クレリアは祖父を嫌っていた。
だが、祖父は己を嫌っていたのだろうかとふと、机の残骸から見つけた彼の日記に目を通した彼女は考えた。
思えば不器用な男だった。国を追われた自分と同じように。
ただ、剣を極めるには向いていないと彼は言いたかっただけなのかもしれない。
日記には自身の剣のことや、言葉の通じないキジハタに剣技や剣士としての道をどう教えるかの考察しか書かれていなかった。
全ては剣。
こんな生き方は間違いなく自分や兄達には出来なかっただろう。
それが出来たのは彼女が知る限り、キジハタだけだ。
クレリアは「似たもの同士だったのかもね」とクスリと一瞬だけ笑い声を洩らし、祖父の墓を見下ろす。
「貴方には勿体無いぐらい良く出来た弟子の答えよ。正しいかどうかはあの世で教えてあげなさい」
クレリアはキジハタの剣を勢い良く引き抜き、キジハタの師、『神剣』ハーディング・アルドメイヤーの墓に突き刺した。




