第二十七話 憎悪の行き場
オーク族の中心集落であるエルバーベルグは閑散としていた。
住民の内、多くの者は復讐を恐れて集落を離れ、残った者達も無気力に項垂れている。
集落に残った数十名の戦士だけが胸を張って帝国軍を迎えていた。
とはいえ、帝国軍も各集落の混乱収拾にその殆どが当たっているため、エルバーベルグに向かったのはキジハタを始めとした主要幹部とルーベンス、そして百名前後の精鋭のみである。
他の集落の状況を考えれば、エルバーベルグの攻略に多くの戦士は必要ではなかった。
シバとクレリアの状態も万全であり、魔王候補としての力の差も覆せぬ程に開いている。
もしもオーク族が抵抗していれば、戦争とも言えぬ虐殺になったことは間違いない。
そしてそれを躊躇うクレリアではなかった。
だが、無益な殺生を好んでいるわけではない。
彼女も戦闘にならなかったことに、安堵の息は漏らしていた。
「シバ様。複雑ですか?」
クレリアはシバと並んで聖地に続く道を歩いている。
彼女は周囲を見廻していたシバを心配するように優しく問い掛ける。
「いや、良かったと思っている。これは本心だよ」
シバは僅かに顔を伏せ、口元を綻ばせた。
彼等のやり取りを表面から見ただけであれば、穏やかなコボルトの主とその眷属の微笑ましいやり取りに聞こえたかもしれない。
この場にいる者達の中にシバとクレリアの真意を知る者はいない。
優秀な帝国の幹部達でさえも気付いてはいない。
同じ絶望を潜り抜けた者でなければ、僅かにも察することは出来なかっただろう。
穏やかに微笑んでいるシバの心の奥底に、どれだけの苦悩と葛藤、そして決意が秘められているかなどは。
追撃の夜が明け、ハリアー川対岸のバードスパインを占拠すると帝国軍はようやく十分な休息を取る余裕が出来ていた。
その休息の間にはシルキーや政務官を中心に、諸集落への工作が行われている。
バードスパインは元々ゴブリン族の魔王候補、ガリバルディの集落だった。
しかし、その主たるガリバルディは既に亡く、集落の説得はハイゴブリンであるハクレンが行なっている……が、説得せずとも降伏しただろうというのが疲れた表情のハクレンの言葉だった。
集落には従軍したゴブリンも残っていたが、彼等も含めて多くの住人に、恐怖と諦めの雰囲気が漂っていたからである。オーク族から奇襲を受け、一番初めに大敗北を喫した彼等は敗北がどのような意味を持つかをよく知っていたからかもしれない。
住民達はハクレンから帝国の援助の説明を受けると、ようやく長い戦争が終わったと安堵して炊き出しの食事を食べ、負傷者の治療を受けている。
お蔭で戦争の緊張感も和らぎ、集落には徐々に穏やかな雰囲気が戻りつつあった。
帝国軍はそんな集落で交代で休息を取り、奔走する政務官達の護衛にあたっていたが、シバとクレリアは西部の諸集落を刺激しすぎるからとバードスパインに残されている。
「時間がありますね」
「そうだねー」
川辺の草むらに座り、ぼーっ遠い目をしているシバの隣に腰を掛け、クレリアは声を掛けた。朝食を取るとシバは政務官の活動を手伝おうとしたが、
「血塗れでそんなことしないでください!」
「怖がっちゃうじゃないですか! 大人しくしてください!」
と、怒られてしまい、集落が落ち着くまでクレリアと一緒に叩き出されてしまったのである。事実、彼等は戦った相手の血で真っ赤に染まっており、その姿は酷いものであった。
(戦争に出た後はいつもこう)
愁いを帯びたシバの横顔をクレリアは食い入るように眺める。
彼女にとってはシバの本心がちらりと覗く、貴重な瞬間だった。
余計なことをクレリアは言わない。
普段とは違い、ただ、シバに無言で寄り添うだけだ。
そうすれば、シバは自分の力で元気を取り戻す。
一回り成長して。
そして、その時間はクレリアにとっても大切な時間である。
(切ない感じが素晴らしい! ああ、もっと近くで見よう……ああ、やっぱりシバ様は至高! しっぽもふもふ可愛すぎる。耳舐めていいかなぁ。いえ、手を繋ぐとかなら……物語のデートっぽい?)
少し顔に熱が集まるのを感じながら、クレリアはじりじりと身体を密着させる。
心配そうな表情は忘れない。
さりげなく、シバの手に自分の手を重ねた。
ぴくっと彼の手は反応したが、受け入れるように力が抜ける。
(頬がちょっと朱色に染まってる!)
無表情のまま彼女は心の中でだけ転げ回っていた。
クレリアの内心の騒がしさとは裏腹に、彼等の周囲は川のせせらぎと風が揺らす木々の枝が鳴る音だけが響いている。
普段であればシバは何も話すことはない。
「クレリア」
しかし、今日この時だけは違った。
妄想中に突然呼びかけられ、クレリアは飛び上がりそうになったが、かろうじて反応を耳と尻尾だけに止める。
「はい」
シバの表情は何時の間にか真剣なものに変わっていた。
その視線は何処かクレリアから逃げるように川に向けられている。
クレリアは心を見透かされたかなと冷や汗を掻いていたが、思った以上に真剣なその眼差しに、何か違う、大切なことを考えているのだと理解した。
だから、彼女は心を澄ませる。
シバの、彼の本心の言葉を聞いてあげられるのは自分だけの特権だから。
「僕は君に本当の話をしたい」
クレリアは黙って頷く。
すると少しだけほっとしたようにシバは一つ息を吐いた。
「僕はオーク族が憎かった」
そして、彼は心の中を語り始める。
「僕の故郷であるパイルパーチが陥ちたあの日、僕は本当に無力で……両親や兄弟、友達や長老が抵抗も出来ずに殺されているのに、臆病な僕は逃げることしか出来なかった」
事の顛末はクレリアもブルーから聞いていた。
その事件の最中に、人間だったクレリアはパイルパーチに迷い込んで大暴れし、窮地に陥ったシバを間接的に助けたらしいということも。
「コリーとポメラに手を引かれて惨めに怯えて逃げ惑いながら、僕は理不尽な力で虐殺して勝ち誇っていた彼らに憎悪していたんだ。生き延びて……どんなことをしてでも生き延びて、絶対に復讐してやるって……その時に君に出会った」
クレリアは相槌を打つ。ただ、彼女はこの時の状況を覚えていない。
魔物の巣に踏み込んだと思い、極限の疲労の中で無数のゴブリン、オークと戦っていたからだ。
「初めはハイオークかと思って逃げようかと思ったんだ。でも、綺麗な鎧を着ていたから、銀色の髪の美しい剣士が人間だとすぐに気付いた。クレリアは僕達にも気付いたけど、何故かすぐに背を向けて、その場に踏み止まり、追手だけを倒してくれたんだ。人間にとって魔物は皆敵のはずなのに」
「そうでしたか」
記憶には無いが本能に従ったのだろうとクレリアは思う。
咄嗟に可愛い方を助けたとしても彼女にとっては何もおかしいことではない。
「思わず見蕩れちゃったよ。あんなに綺麗に闘う戦士は初めてみたから。そして、思ってしまったんだ。僕は」
シバは寂しげに笑って小石を拾い、川に投げる。
石は川に波紋を作り、小さな音を立てた。
クレリアはじっとその光景を見詰めている。
「君を眷属にすれば、オーク達を同じ目にあわせられるかもしれないって」
「うん」
「そして、本当にここまで来てしまった。彼等みたいになりたくないから全ての種族を迎え入れるんだと口では偉そうに言っても、僕は自分勝手で今でもその憎しみが捨てられていないんだ……辛くて苦しくて、どす黒いものが心から湧いてくる」
戦争の中で生きてきた彼女には、シバの苦しみが理解出来ない。
シバの悩みはクレリアにとっては遥か彼方に過ぎ去ったものなのである。
クレリアは答えは出していた。
彼女がシバの立場ならば、迷いもなくエルバーベルグを根絶やしにしただろう。今でも命じられれば、強制されなくとも彼女は躊躇いはしない。
恩には恩を、仇には仇を。
それがフォーンベルグ傭兵団であり、彼女の根底にある生き方だから。
「消しますか? エルバーベルグを」
だけどシバは違う。
弱々しい少年だったこの小さな魔王は、悩み抜いた末に異なる答えを出したのかもしれない。クレリアはそう思う。
「バードスパインの住民の姿を見たとき、今の僕自身がそれを望んでいないことを確信したよ」
「そうですか」
「彼らの姿はあの日の僕達と同じだ。僕は……オーク族と同じことだけは絶対にしたくない。だから、僕はエルバーベルグを……オーク族を許す。僕の理想の国を作るためにも」
強い口調でシバは言い切る。
「タマが命を賭けて教えてくれたんだ。例え違う種族であっても、分かり合えるんだって。彼は憎いはずのオーク族なのに、僕との約束を守って絶対に助からない戦場に……僕が一番大切にしている者を助けに行ってくれた……彼は弟を助けるのが兄の仕事と笑ってたらしいね」
「はい。しかも、私の残るようにとの『命令』を、あいつは打ち破りました」
今のシバの横顔にかつての弱さはない。
苦悩の中にも決意に満ちた強さがある。
「タマを失って初めて、僕は本当に自分の意思で理想の帝国を作りたいと思ったんだ。たったの半年前にね。僕が巻き込んだクレリアは最前線で戦友を間近で失い続けて、ずっと悩んで、それでも本気で僕の理想を実現しようとしてくれていたのに……」
クレリアはしばらく黙っていた。
シバは本当にそう思っているのだと彼女は感じている。
(生真面目で不器用で、本当に疑うことを知らない……愛しい方。私は私自身のもふもふ理想郷の為に戦っているだけなのに……ね)
心の中でクレリアは微笑む。
シバは意識していないだけで、根本は変わっていないと彼女は思う。
だからこそ帝国を建国した時に、全ての種族を受け入れるという発想が出たのだ。
憎悪は彼の甘いと思えるほどの優しさを決して上回れない。
恐らく、クレリアに価値がなくとも、ただの瀕死のコボルトだったとしても、あの時のシバは彼女を助けたのではないかとすら思う。
愚かな選択だったとしても。
それがクレリアが大好きなコボルトの馬鹿さなのだ。
彼女は自己嫌悪で苦笑しているシバの頭を自分の胸に強引に引き寄せた。
そこにはいつもの邪心は無く、ただ彼を大切にしたいという想いだけがある。
「え、 クレリア! え?」
「苦労も喜びも悲しみも楽しみも、そして、悩みも半分ずつです。シバ様」
クレリアはシバの三角な獣耳に優しく囁く。
「二年前、東部を奪還した私が悩んでいた時にシバ様が仰られました。魂と同じように分かち合うのだと。私はその言葉で救われました。だから、今度は私が……シバ様」
彼女は目を閉じ、酷い血の臭いしかしないシバの頭を宝物のように大事に抱えた。
姉のように。母親のように。恋人のように……そして、妻のように。
「貴方の悲しみと憎しみは私に半分預けてください。お願いします」
戦いの中でしか生きることを許されてこなかった、冷酷で、無慈悲で、人して大きく欠けていたクレリアは、彼女に出来る精一杯の優しさで、生きる意味と護るべき大切な者をたくさん与えてくれた、愛する最弱の魔王を包み込んでいた。
感情が昂ったシバは半刻ほどクレリアの胸で静かに泣き続けた。
声を上げずに時折身体を震わせるだけ。
クレリアはその間、満たされた表情でシバの頭を撫でている。
彼女の欠けた心もあるいはこの時に埋まったのかもしれない。
「シバ様」
「何かな?」
シバが泣き止むとクレリアは企むような笑みを浮かべて声を掛ける。
少しだけその声色に嫌な予感がしたのか、彼は少しだけ身体を固くした。
「私達は血と汗で酷い匂いです」
「そうだね」
「近くに丁度、川があります」
くすくすと子供のようにクレリアは笑う。
ただ、その顔は興奮で真っ赤に染まっていたが。
「選択肢はありませんね」
「クレリア……ねえ、クレリア?」
シバは引きつった笑みを浮かべ、咄嗟にクレリアの腕から逃れようとしたが、腕力が違う。ピクリとも彼女の腕は動かなかった。
「私は我慢が出来ません。シバ様の身体を隅々まで洗います」
「クレリア? 自分で出来るから!」
「遠慮なさらず。シバ様がいけないんですよ……可愛いから……」
クレリアは楽しそうな明るい笑顔でうんうんと頷く。
既に彼女は色々と振り切っていた。
「何が! あ、ちょ……鎧! ズボンっ……!」
「ご心配なさらず。隅々まで、そう、どこまでも隅々まで私が……あ、いつ見ても意外な……これはこれで……ふふ……裸で洗いっこ……」
まるで襲っているかのようにクレリアはシバを押し倒し、強引に服を脱がしきる頃には彼も抵抗する気力を失っていた。
「たまには良いでしょう?」
恥ずかしそうに裸で座り込んで呆れているシバに微笑むと、クレリアも鎧を脱ぎ、一糸纏わぬ姿になる。
凹凸は殆ど無く細かい傷跡が無数に残っているが、白い肌は滑らかで、一切の無駄が無いしなやかな身体にはどこか神々しい雰囲気が漂っていた。
「本当にクレリアは……」
クレリアはきめ細かい長い髪を少しだけ整え、シバに右手を伸ばす。
「綺麗で可愛いよ」
「有難うございます」
心の底からの無邪気な笑顔をクレリアは見せる。
シバは他の誰にも見せていないであろう表情を見せてくれた彼女の手を取り、冷たい秋のハリアー川へと飛び込んでいった。
しばらく時間が経ってから新しい服を持ってきたメイドコボルトは、見たこともないくらいに疲れきったシバと満足げなクレリアの姿に首を傾げたという……。




