第十三話 死の森中央部会戦 二つ目の頭 前編
死の森中央部会戦が始まる直前まで、そして始まってからも帝国軍参謀長ハウンドによる情報収集と分析は、執拗すぎるほどに行われていた。
『隠密』ヨークの諜報によって彼は戦士の種類や数まで正確に調べ上げている。その上でオーク族第一軍の敵将、隻眼のハイオーク、クレメンスだけは自らの手で仕留めると決めていた。
クレメンスの片目を潰したゴブリン、エツやハウンドを庇って死んだラウフォックス、ブリス……そして多くの仲間が彼には殺されている。
しかし、クレメンスの相手をすることを決意したのは、そのような私怨が理由ではない。
全ては勝利の為である。
ハウンドはこの戦争において全戦線で勝利することは不可能だと考えていた。
軍隊の質は勝っていても数で劣っており、種族的にも野戦がオーク族の優位にあることが間違いなかったからである。
だから、彼は鶴翼の形に布陣しながらも無理に攻撃し、包囲を狭めることをしなかった。
戦力で負けている以上、何処かで翼が食い破られる事が明らかであり、そうなれば戦線は崩壊してしまう。
そこでハウンドは基本的には帝国が得意な敵の攻撃を受ける態勢を取り、攻勢に出る軍と守勢を維持する軍とに分けた。
クレメンスの軍は近接部隊のみで編成された完全な斬込み隊である。
そして、クレメンス自身も勇猛かつ歴戦の指揮官であり、その破壊力は間違いなくハイオークの中でも抜きん出ている。
オークの割合も高く精鋭揃いであることをヨークから知らされたハウンドは、自らの手で敵の要の一つであるこの軍を叩き潰すことを決意したのである。
幸いにもハウンドはクレメンスの執念深い性格を熟知している。
自軍の中央に数名のコボルトと共に立っていたハウンドは己に迫ってくるハイオークを見て、小さな拳を握り締めた。
「やはり迷いなく、僕を殺しに来たか」
「確実にあんたしか見ていないわね。オーク族なのにコボルトを一瞬で見分けるなんて信じられないけれど」
「無駄話の時間はない。シルキー、後は頼む。僕が戻るまで持たせてくれよ」
「余裕よ。悠長に謳っているエーゴンが動いてくれるなら……ね」
「あいつは動くさ」
相手を絶対的に信じたその言葉を最後に、ハウンドはシルキー以外の周囲のコボルトと共に真後ろを向いて、全速力で駆け出していく。
「歌いながら突っ込んで行くなんて……何を考えているのかしら」
残されたシルキーはエーゴンが動いたことを確認すると一瞬だけ驚いたように口を開き、敵の為にハウンドまでの道を空け、性格の悪そうな笑みを浮かべて軍本隊に紛れていった。
オーク族はさっぱり理解できないと内心で思いながら。
戦場はクレメンスとエーゴン、両オークの動きによって大きく動いた。
クレメンスは足の速いゴブリンを前面に、オークを後方に置くことで中央突破した相手を確実に仕留める楔形の陣形を組んでいた。
これは速度を重視することで、相手に思考の時間を与える間もなく撃破することを狙った戦術である。
ただ猛将であるクレメンスだが単純な性格なわけではない。彼は敵の力量を正確に見抜いていたし、伏兵、罠の存在を予測し、不測の事態でも平静を保てるように訓練を施していた。
「慌てるな! 敵オークは少数だ!」
「クレメンス様は大丈夫だ。キュウセンの部隊と連携し、敵を囲め!」
唯一可能性として殆ど考えていなかったのは、正面から相手が受けて立つことであったが、オーク族第一軍の副将であるゴブリンリーダー、モンガラとキュウセンは不意の突撃にも冷静さを即座に取り戻し、十数名で先行するクレメンスは追わず、突出したエーゴンを包囲しようとしている。
守勢に回れば脆いゴブリンに対する攻撃は、クレメンスの楔に斜めから杭を打ち付ける形となり、モンガラとキュウセンも放置した場合の被害を考えれば、中央突破を諦めざるを得なかった。
もし、副将の彼等のどちらかがクレメンス程に豪胆であるか全くの考えなしであったならば、エーゴンを無視し、後衛のオークに任せてクレメンスと共に敵中央を突破しただろう。
しかし、ゴブリン族の指揮官である彼等は優秀な指揮官であるが故に、混乱を収拾し、態勢を立て直すという真っ当な選択肢を選ぶ結果になった。
「相手の動きは止まった。コボルト弓隊、援護射撃! ゴブリン隊は敵右翼を狙う!」
それはハウンド、そして指揮を代理しているシルキーにとっては望み通りの展開である。
しかし、彼等もここから先の流れは流動的過ぎて、事前には考えていない。
「スフィン! ゴブリン隊の前線指揮は任せる! 全体の指示は私が出す!」
後はシルキーの指揮次第。
彼女は実戦指揮の実力はハウンド程ではなかったが、視野は広い。
「動きが乱れている……歌のせいかな?」
ニィ……と昏い笑みを浮かべ、彼女は歌に反応した敵へと狙いを定める。
ハウンドに言わせれば彼女は指揮は並だが、『相手の弱みを見逃さない嫌な女』なのである。少なくとも搦め手の上手さでは帝国に並ぶ者はいなかった。
「歌に身構えた者を狙いなさい」
歌で怯えた敵こそが強敵である。
新兵であれば頭がおかしいくらいにしか思わないだろうから。
(あの歌はオーク族側の戦士達にも拭いがたい記憶を植えつけていたのね)
小馬鹿にするようにシルキーは鼻を鳴らす。
要塞の攻防なんて、コボルト族にとっては地獄の内の一つに過ぎないのにと。歌っているのがオークというのも彼女にとっては馬鹿馬鹿しいと思う。
(利用しがいがある)
コボルト弓兵隊が敵を選んで矢を放つ。狙われたゴブリン達は数本の矢を同時に食らい、バタバタと倒れていった。
シルキーはそんな中、最前線に移動して彼女が本当に狙う相手の隙を探す。
「一匹、見つけた」
これで楽に勝てるとシルキーは嗤う。
彼女の戦争における理念は相手に楽に勝利すること。
スフィンの一撃離脱攻撃も、シルキーのコボルト弓兵隊の攻撃もただの布石。
「スフィンに命令。速やかに敵指揮官を排除しなさい」
彼女は自らケットシーリーダー、スフィン付きのコボルトに指揮官のいる方角を添えて命令を下す。
(中途半端に優秀なのも考えものね)
敵の指揮官の選別は容易だった。
混乱を収拾しようとするゴブリンを探せば良かったからである。
彼等は優秀であるが故にその存在を隠すことが出来ていない。
「敵のオークは後衛のオークに任せろ! ゴブリンは前面の敵に対応するんだ!」
オーク族の副将、キュウセンは手早く判断を下し、エーゴンの圧力を受け流す。
「うぜぇ……くそが……忌々しい歌だ!」
苛立ちは隠せない。
彼も切り込み隊の副将となっただけあって、元より性格は荒く攻勢を得意としていた。
それなのに、思わぬ防戦を強いられている。
極めつけにオッターハウンド要塞の悪夢を思い出させる歌だ。
歌いながら突撃してくるなど誰が想像するだろうか。
狂っているとしか彼には思えない。
聞くだけで頭が痛むその歌声は今も重く響きながら、自軍の中を進んでいる。
「被害の報告は!」
「弓の攻撃では十名程ですが……恐らく実戦経験者を狙い撃ちしています」
「畜生っ……どうやって……犬がぁ! 反撃するぞ!」
悔しそうに顔を歪め、キュウセンは吠えた。
今の彼の顔をもし、シルキーが見れいればこう言っただろう。
『貴方にはお似合いの顔ね』
と。からかうように薄く嗤いながら。
しかし、彼女がキュウセンの顔を見ることはない。
「キュウセン様っ! ギャッ!」
「何だっ……なっ!」
虎柄のケットシーの剣士がキュウセンの傍らにいたゴブリンを斬り、灰色のケットシーが音も無くキュウセンの懐に忍び込んで体ごとぶつかり、ゴブリンとしては大柄な身体に剣を突き入れる。
「やったー大手柄にゃーにゃー。誰か知らんけどボス討ち取ったりー!」
「スフィン様、普通に喋って下さい。きもいです」
「うっさいなー。必殺。私は仕事をした。いぇぃ」
片目を瞑り、親指を立てている女性のスマートなケットシーリーダー、スフィンのテンションに付いて行けず、腹心のケットシー族の青年は溜息を吐く。
猫らしく指揮官としては気まぐれで、指揮される側としてはやりにくい相手だが、彼女はタイミングを掴むのが非常に上手い。
「乱戦するのは馬鹿だから、敵が混乱するまで退くよ」
ふざけていたかと思うと一転、真面目に戻る。
この落差が生真面目なケットシー族の青年には非常に辛かった。
部下のゴブリン達は諦めの境地に入っており、何も言うことはなかったが、彼だけは彼女への苦言を止めていない。それが彼女とゴブリン達とのある種の緩衝材となっている。
それだけに、戦場における虎柄ケットシーの苦悩は深そうであった。
一方、突撃したエーゴンは歌いながら敵の配置を観察し、後方にオーク族が固まっているのを見るや、ゴブリン族が固まる場所を横断するように、緩やかに針路を変更していた。
突撃の時には53名を数えたオーク達だったが、半ばまで達した時点で42名にまで数を減らしている。これが多いか少ないかは指揮するエーゴンには判断できない。
ただ、倍以上のゴブリンは倒しているはずであった。
一部の敵が何故か浮き足立って足並みを乱しており、エーゴンの部下達は敵の海の中で乱戦になっても、纏まった軍として動くことが出来ている。
数で遥かに勝る相手の動きを止め、周囲が敵だらけになっても即座に殲滅されることなく戦い続けていられるのは、これらの要因が大きい。
(案外と集団戦も行けるもんだな。オーク族も)
エーゴンは上機嫌で歌いながら槍を振るい、目の前のゴブリンの頭を潰す。
彼は部下達が自分の歌を目印に固まっているとは想像もしていない。
ハウンドやシルキーに比べれば遥かに拙い指揮しか出来ないエーゴンの下でも、オーク族は彼の歌を追い掛けるだけで集団行動することが出来ていたのである。
そして、単純な突撃であればそれで十分に効果を発揮出来ていた。
(ん?)
戯れるように戦い続けるエーゴンの視界に、煩く騒いでいるゴブリンの姿が映る。
敵味方関わらず自分の歌を聞いている中で、そのゴブリンだけが彼の歌を聞いていない。
(歌を楽しまんとは無粋な奴だ)
エーゴンはそのゴブリンを物理的に黙らせるために、針路をそちらに向ける。
必死に混乱を収拾しようとしていたオーク族第一軍副将、モンガラはこうして名乗ることもなく、暴走する帝国のオーク達に挽き潰されていった。
コボルト弓兵を率いながら戦況を見守っていたシルキーは、予想以上の敵の混乱の度合いが深まったことを確認すると、「ふむ」と小さく呟いた。
本来は五分で分ければ問題はない。
だが、現時点でキュウセンは確実に討っており、エーゴンは敵を突き抜けて挟み込むように展開している。期せずして半包囲の形が出来上がっていた。
勝てるのであればそれに越したことはないし、敵の傷跡を拡げておけば後々に楽になってくる。
シルキーは眼を細め、僅かの間だけ思考を巡らせて決断する。
「全軍に伝達。敵を殲滅する」
三方向から帝国の戦士達が効率的に攻撃を加えていく。指揮官を失った第一軍はそれに対して有効な対策を打てず、右往左往しながら戦力を磨り減らしていった。
「敵は背を向けた。追撃しなさい!」
少なくない被害を出しながらも後退を始める第一軍に、シルキーは止めを刺すべく、続けて命を下す。しかし、戦況は次の瞬間に大きく動いた。
「シルキー様っ! 敵援軍ですっ! 突撃してきます!」
「え……何処から……エーゴンを呼び戻せ! 全軍後退! 急ぎなさい! ゴブリン弓兵隊。後退する味方を援護する!」
シルキーは歯噛みしながら次々と指示を飛ばす。
勝利寸前だったモフモフ帝国軍は、そのために予想外の攻撃に即応出来る体制では無くなっており、大きく戦列を乱され、逆に全軍崩壊の窮地に立たされることになった。
「突撃だ! 友軍を助けるぞ! 全員きばれ!」
第一軍への援軍は、全力で駆けてきたオーク族第五軍、ルーベンス旗下のオークリーダー、ディートルとコボルトリーダー、ビジョンであった。
彼等は戦場を見るや休むことなく、即座に救出に動いたのである。
包囲する敵を蹴散らし、ディートルが一息を吐くとビジョンが彼の傍に寄って状況を伝える。
「ディートル。モンガラもキュウセンも死んでいる」
「ちっ……クレメンスは何やってやがる!」
傷だらけの顔の周りの毛を汗で湿らせ、ディートルは呻いた。
彼は第一軍の潰走という現実を受け入れることに抵抗を覚えている。戦力差を考えれば有り得ないことであった。
「これがハウンドって奴の実力か……」
「違う。この遠吠えはシルキー。クレメンスはハウンドを追っている」
「おまけみたいな奴にここまでやられたってわけか」
ディートルは部下には指示を出しながら、自分は足を止め、困ったように頭を掻く。
ビジョンはその間、考え込んでいる様子でじっと地面を見ていたが、考えがまとまったのか僅かに口を開く。
「ルーベンスは正しかった」
「そうだな。あの若造は見込みがある。さて、ビジョン……どうする?」
「決まっている。敵がシルキーならディートルの方が上。状況も優位」
いつもの無感情さで淡々と告げた戦友を、ディートルはぽかんとしてまじまじと見た。
「へっ! 煽てが上手くなったな。ビジョン、第一軍の再編はお前に任せるぞ」
「任せておく。コボルト弓兵、ディートルの援護」
ビジョンはコクリと頷くと直ぐに敗残の戦士を纏める作業へと移る。
「全く好き放題やりやがって……行くぞぉぉぉぉおらぁぁぁぁっ! ディートル軍の恐ろしさを小煩い狼共に思い知らせてやれ!」
ディートルは唾を吐き捨てると腹の底から吠え、態勢を立て直そうと退こうとしている帝国軍に全力で食いついた。
主戦場南東部は戦況の動きが激しい戦場となった。
帝国軍は第一軍司令官、クレメンスと第一軍の分離、エーゴンの突撃により序盤戦を優位に戦い、副将であるモンガラ、キュウセンを討ち取ったが第一軍の戦力を完全に崩壊させるまでには至らなかった。
その寸前にオーク族第五軍のディートル、ビジョンが到着し、彼等を苦境に喘いでいた第一軍を救出したのである。
帝国軍を指揮するシルキーは思わぬ援軍に大きな被害を出し、崩壊しそうになる前線を必死で維持しながら大きく後退することになった。
その間にビジョンは第一軍の立て直しに成功。
シルキーは更に不利となった戦場で焦りながらも全力で時間を稼いでいた。




