第十話 死の森中央部会戦 戦場の決意
骨が軋む痛みで震える右腕を抑えながら、キジハタは敵魔王候補、コンラートが駆け去った方角を見詰めていた。剣は既に腰の鞘に収めている。
キジハタは剣技そのもので負けていたとは考えていない。
だが、僅かでも長引けば確実に敗北していたことも理解していた。コンラートの剣を完全に受け流して尚、身体へのダメージを避けられていない。風圧ですら体力を削っていく。
理不尽な力。それでも、彼は仕方がないとは思わなかった。
「拙者では敵わなかったか……だが、いつかは……」
キジハタの横顔にあるのは圧倒的な力に対抗出来なかった悔しさと、静かな決意。
「死ねぇぇぇぇ!」
魔王候補の敵味方への脅威が無くなれば、キジハタの立つ場所は最前線である。
丸腰のキジハタを狙い、一名のゴブリンが剣を振りかぶり、上段から切り下ろした。
だが、キジハタは慌てずに自然と相手へと一歩踏み出し、動く左手を相手の振り下ろす手に添わせるように力を受け流し、相手の身体を重力に逆らわせたかのように反転させる。
「ギャッ!」
無謀な挑戦をしたゴブリンは頭部を強打し、痛みに呻いて転がりまわった。キジハタは奪った相手の剣をそのまま無言で相手の身体へと埋め込んで返す。
「さすがです。キジハタ様!」
「こんな技は曲芸だ。それよりシバ様からの伝言は?」
キジハタに近付いた迷彩装束の若いコボルトが嬉しそうに声を上げたが、彼は首を横に振って己の技を否定した。そして、そのまま『隠密』ヨーク旗下の連絡員であるコボルトに確認を取る。
ある意味でこの戦争を左右する伝言を。
キジハタはシバの声を聞いた瞬間、現状を正確に理解していた。それは剣士としての勘、もしくは長年の同志としての感覚だったのかもしれない。
だから、連絡員からの伝言はあくまで確認である。
「はっ! 『足止めする』とのことです」
その答えを聞くとキジハタはわずかの間、感情を隠すように目を閉じた。
握り締めた彼の手は細かく震えている。
「シバ様とクレリア殿は拙者達に帝国の未来を託したか」
魔王の力を用いた激戦が繰り広げられている方角に一瞬だけ顔を向け、『剣聖』キジハタは強く歯を食いしばった。
「信には必ず応える」
魔王候補の戦いは、どれだけ多くの配下が従っているかで決まる。
そして、シバとクレリアは自身の力による強引な勝利ではなく、持久戦による優位の確保による確実な勝利に賭けた。
意味するところはただ一つ。
帝国の民の勝利を信じている。そういうことだ。
(大元帥の称号は重いな……友よ。だが、拙者も己の役割を果たして見せる)
クレリアから全軍の指揮を命ぜられながらも彼女を助け、命を落とした親友に、心の中だけで最後の弱音をキジハタは吐く。
「戦闘の状況を説明しろ!」
「はっ! この戦域はオーク族本隊、チャガラ率いる400とグレーティア率いる300が展開。グレーティアの軍が突出し、矛先はハクレン様率いる後衛にまで届いています」
「チャガラは?」
「オッターハウンド要塞を気にしていましたが、今は我が軍の前衛を攻撃しています」
「全軍に命令。前衛、右翼、左翼は後退する! チャガラにはわざとらしく隙を見せ、グレーティアに攻撃を集中させろ」
「了解!」
キジハタも命令を出しつつ、部下達の元へと駆け出していく。
彼はこの戦いで、最早まともに剣を振ることが出来ないことを悟っていた。しかし、そのことで落胆はしていない。
戦争によって失われた多くの戦友達の悲願を叶える機会を得て、『剣聖』は剣士としてではなく、ただ一名のゴブリン族の戦士として、帝国の戦士として、魂はこれまでにないほど熱く滾っていた。
オーク族の本隊を指揮するチャガラは混迷の度合いを深めていく戦場の中で、冷静ではあるものの自軍を纏めることには苦心していた。
これはチャガラの責任ではなく、オーク族の構造的な問題である。数年の間に培われたその構造はコンラートが権力を握った短い期間で解消することは不可能であった。
彼自身は指揮能力も高く、それをこの半年の間に他者にも認められている。
ただ、全ての者から全幅の信頼を受けているわけではない。
ゴブリン族であり、しかも、上位種でも無い彼が勝者であるオーク族を抑え、軍として動かすことは非常に困難であった。勝者と敗者の間には大きな溝が存在しているのである。
敵対するコボルト族の実力は認めても、敗者であるゴブリン族には優越している。それは自軍のゴブリン族の扱いだけではなく、敵ゴブリンを侮る傾向として顕われ、オーク族の戦意過多に繋がっていた。
そんなオーク族の軍の本隊を曲がりなりにも完全に掌握しているチャガラは、間違いなく非凡ではあったが、彼自身は現在の状況に歯痒さを感じている。
何故敵の優秀さを理解できてしまうのか。
チャガラは己の実力に自信を持っており、戦争に置いてそれを発揮することを心の底から望んでいたが、そのための準備の間には幾度となく自分の能力に後悔をさせられていた。
オーク族の根拠のない自信、ゴブリン族の低い士気、民の流出。
チャガラはバセットと共にそれらを改めることに全力を尽くしたが、十全とは言えない。
帝国の体制はあらゆる面でオーク族に勝っている。彼等は自らが改革を断行する上で嫌でもそれを思い知らされていた。それでも、時間さえあれば彼等は同等とは言えなくとも、負けない体制は作れたかもしれない。
彼にはその時間が与えられなかった。
モフモフ帝国は既に軍政両面において続々と優秀な人材が育っており、どれだけの改革をオーク族が行おうとも既に手遅れである。時間は帝国の味方であるのが現実だった。
上層部しか気付いていないがオーク族は滅びの瀬戸際にある。
この会戦はチャガラやバセット、オーク族の長老たるアルトリートが考える限り、優位を取れる最後の機会、最後のタイミングの戦争だった。
戦争の傷跡は完治しておらず、準備も完全ではない。
その限られた時間の中で、チャガラはかろうじて軍隊の強化、組織化には成功した。だが、手足のように動かせる程には出来なかったのである。
(相手はキジハタか。煽っているな……俺を)
それでもチャガラは勝利を疑わず、不敵に構えている。
元々チャガラも東部の出身であり、キジハタとは面識があった。
お互いに小さな村の族長を務めており、年も近い。
(いつかはこうなるとは思っていたが、こんな形とは)
チャガラは敵前衛の動きを観察しながら苦笑する。
彼の知るキジハタは責任感は強いがこちらが心配になるほどの『剣狂い』で、戦士としては圧倒的だが、村の長としては極めて微妙という不器用な男であった。
しかし、この場で対峙しているキジハタは、モフモフ帝国の大元帥として全軍を指揮し、チャガラが置かれている状況を把握し、視界の悪い森の中でも自らの部下達を一糸乱れさせぬ統率を見せている。
その上で不利な状況にも関わらず、チャガラをからかう余裕すらキジハタは持っていた。
違う道を歩んだ不器用だった男は優秀な元人間の軍人であるクレリアから指導を受け、苛烈な戦場を幾つもくぐり抜けたことで死の森で最も実戦経験を積んだ指揮官となり、チャガラの前に立ちはだかっている。
「罠がある。一度態勢を立て直せ。グレーティアなら耐え切れる」
内心で苦虫を噛みながら、チャガラは命令を下した。
本当はキジハタを猛追するべきだとチャガラは理解している。だが、勢いに任せてそれをすれば収拾は最早つかなくなり、泥沼の消耗戦になることは明らかだった。
下手をすれば相手だけが組織的に戦い続け、不利に陥ることも高い可能性でありえる。
そう考えればチャガラの判断は慎重にならざるを得なかった。
(グレーティアは恨みで全体が見えていないな)
チャガラにとってもグレーティアの突出は予想外の動きである。
普段の彼女であればもう少しチャガラと連携を取ろうとしたかもしれない。
恨みは自軍の被害を考える力を失わせ、突破力は増したかもしれないが本隊を預かるチャガラとしてはやりにくさも感じていた。
チャガラとしては彼女を囮に利用するしかなかったのである。
当然ただ見捨てるわけではない。軍を纏めるとチャガラは半包囲されたグレーティアと挟撃の態勢を作るために前進した。
成功すれば態勢は整っており、戦力的にも勝るオーク族は優位となる。
しかし、チャガラは油断をしていない。彼はキジハタだけを見ていたわけではなかった。
同郷の敵将はもう一名いる。
キジハタの影に徹し、目立たず、それでいて多くの経験を積んだ敵将が。
どんな性格かを理解出来なかった為に排除しなかったことを後悔させられた男。
恐らくは実力的にもキジハタの分身というべき敵の居場所をまだ掴めていない。
だが、チャガラにはわかっていた。
自分なら今を狙う。ならば、敵も。
「側面からゴブリン族の集団! 敵です!」
「慌てるな。オッターハウンド要塞のカナフグだ。予定通り、オーク部隊とコボルト弓隊を当てて食い止めろ。残りはグレーティアと共に敵本隊を挟撃する。足を止めるな!」
キジハタの考えはチャガラには読めていた。
戦線を後退させることで乱戦を誘い、それを果たせなくとも本隊とグレーティアとの間に空隙を作る。それを埋めるために進んだところで、側面に展開していたカナフグに強襲させ、時間を稼ぐ。
(まだまだだな。キジハタ。だが、これで終わりじゃないんだろう?)
年来の旧友に再会したような嬉しさを感じ、チャガラは笑みを浮かべた。
このままの状況で戦いが続けば圧倒的に戦力に勝る此方が勝つ。それを容易にさせるはずのないことをチャガラは理解していた。
元々集団戦を好み、戦争をするために志願してコンラートに従っていた彼は数年という長い雌伏の時を経て、ようやくそれが出来る環境と好敵手を得たのである。
モフモフ帝国とオーク族の主力という両者にとって最大の戦力が投入されたこの戦場は、局地的には大きな動きを見せながらも乱戦とはならず、膠着の様相を示していた。
お互いに隙を作り出すために小競り合いを続ける。
同等の被害を出しながらも主力を従える両雄は、何かがあれば天秤が一気に傾く戦場で、凌ぎを削り続けていた。この間、両者の間には大きな犠牲が出たがどちらも上手くその穴を繕っている。
期せずして主力を預かった同郷のゴブリン達は、剣ではなく、軍という形で正面から立ち会っていた。




