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婚約パーティーで、婚約者は白月光のために僕の手を折り砕いた。

作者: 熾星
掲載日:2026/07/30



1.婚約発表の日


 俺と親友の高瀬航は、双子の姉妹とそれぞれ交際していた。


 姉の水城玲奈は全日本女子チェス選手権を制したチャンピオンで、妹の莉奈は数百万人のフォロワーを抱える人気配信者だ。年収は一億円を超えているとも言われていた。


 二人が二十六歳の誕生日を迎えたその日、水城家は凪原市にある会員制ホテルの宴会場を貸し切った。スポンサーや報道関係者、親族を招き、俺たち二組の婚約を正式に発表するためだった。


 誰もが、俺と航は水城家の娘婿になれる幸運な男たちだと言った。


 ところが、婚約発表が始まる直前、姉妹の幼なじみである桐生怜央が、宴会場中央の石柱へ向かって突然駆け出した。


 玲奈と莉奈は最も近い場所にいた。二人はほとんど同時にドレスの裾を持ち上げ、壇上から飛び下りると、左右から怜央の腕をつかんだ。勢いを受け止めきれず、莉奈は壁に肩を打ちつけたが、それでも腕の中の怜央を離さなかった。


「怜央、何をしてるの?」


 莉奈の目には、隠しきれない動揺が浮かんでいた。


「何かあるなら、どうして私たちに話してくれなかったの? こんなことをする必要なんてないでしょう」


 玲奈は怜央の肩を支えていた。いつも冷静な顔からも、血の気が引いている。


 怜央は力なく膝をついた。高価な絨毯に涙が落ち、俺たちをちらりと見たあと、怯えたように視線をそらした。


「僕なんて、いないほうがいいんだ。生きている意味なんて、どこにもない」


「もう放っておいて。直人さんと航さんに見られたら、きっと怒られる。二人を怒らせたら、僕は……」


 怜央はそこで口を閉ざし、自分の腕を抱きしめた。


 玲奈と莉奈が、そろってこちらを振り返った。


 その瞬間になって、俺はようやく理解した。


 俺は、あの日に戻ってきたのだ。


 前の人生でも、同じ誕生日パーティーが開かれていた。けれど玲奈と莉奈は怜央を止められず、彼は招待客の目の前で石柱に激突した。病院へ運ばれたものの、そのまま息を引き取った。


 姉妹は怜央の死を受け入れられず、怒りのすべてを俺と航に向けた。


 玲奈はチェス界から姿を消し、山寺にこもった。そして公式声明で、俺が生きているかぎり二度と大会には出ないと言い切った。一部の過激なファンは、俺こそが怜央を死に追いやった犯人だと決めつけ、住所を特定してSNSに晒した。


 真冬の夜、そいつらは俺のアパートに押し入り、俺を殴り殺した。


 遺体が廃棄物置き場に捨てられたあと、玲奈は自ら火を放った。雪の中で炎が俺の体を呑み込むのを見つめながら、こんな汚れた人間は魂まで腐り、安らぎを得る資格もないと吐き捨てた。


 航の最期も凄惨だった。


 莉奈は配信中、ボディーガードに命じて航を縛り上げ、身に覚えのない罪を次々となすりつけた。そしてコンクリートブロックを何度も頭へ振り下ろした。コメント欄には「もっとやれ」「制裁しろ」という書き込みが、途切れることなく流れ続けていた。


 玲奈が頂点に立てたのは、俺が長年にわたって対戦相手の棋譜を分析し、序盤の傾向をまとめ、相手のスタイルを再現して練習相手を務めてきたからだ。


 莉奈の活動を実務面で支えていたのも航だった。企業案件の審査、コラボ商品の選定、配信台本、契約交渉、炎上対策まで、ほとんどすべてを引き受けていた。


 俺たちは彼女たちを頂点まで押し上げ、最後にはその手で地獄へ突き落とされた。


 そして今、俺と航は怜央が自殺を図った瞬間へ戻っていた。


 人垣の外で並んだ俺たちは、無言で視線を交わした。航の目に宿る衝撃と憎しみは、俺のものとまったく同じだった。


 玲奈が俺たちの前まで歩いてきた。


「怜央に何をしたの?」


「あなたたちを怖がって、自殺しようとするほどのことよ。何をしたのか答えて」


 胸の奥で荒れ狂う感情を押さえ込み、俺は床に膝をついた怜央を見下ろした。


「俺たちを責めるなら、本人に話させればいい」


 玲奈の表情が固まった。


 以前の俺は、彼女に逆らうことなどほとんどなかった。どんな要求であっても、できるかぎり応えようとしていた。


 玲奈を愛していたからだ。


 今、残っているのは憎しみだけだった。


 異変に気づいた招待客が、次第に集まってきた。事情を知らない者が多く、まだ誰も明確に味方を決めてはいない。


 怜央は莉奈に支えられたまま、困ったように眉を下げた。


「直人さん、長い付き合いだから、皆の前であのことを話したくはないんだ」


「二人が謝ってくれるなら、何もなかったことにするよ」


 怜央がうつむくと、乱れた襟元から鎖骨の周囲に広がる青紫色の痣がのぞいた。


 莉奈の顔色が変わった。


「その痣、誰にやられたの?」




2.存在しない暴行


 怜央は慌てて襟をかき合わせ、一歩後ろへ下がった。


「二人じゃないよ」


「これは僕が自分でぶつけただけだ。直人さんも航さんも、何もしていない」


 否定する言葉とは裏腹に、怜央は俺たちと目を合わせようとしなかった。その怯えた態度が、直接訴えるよりも強く疑いを植えつけていく。


 航の顔から表情が消えた。


 前の人生で、航は莉奈に嬲り殺された。今、同じ男が再び嘘を重ねているのを見て、二度分の怒りを抑えられるはずがなかった。


「役者にならなかったのが惜しいくらいだな」


「俺たちがいつ、お前に触った? 身に覚えのない濡れ衣を着せるのもいい加減にしろ」


 航が一歩踏み出しただけで、怜央は莉奈の背後へ逃げ込んだ。


 周囲から小声が上がり始める。


「反射的にあそこまで怯えるものか?」


「あの二人、見るからに気が強そうだしな」


「児童養護施設で育ったらしいぞ。まともな教育を受けてこなかったんじゃないか」


 怜央が流した数滴の涙だけで、彼らは簡単に俺たちを加害者だと決めつけた。


 莉奈が突然駆け寄り、航の頬を平手で打った。


 乾いた音が宴会場に響き、辺りは一瞬で静まり返った。


 航は頬を押さえ、信じられないものを見るように莉奈を見つめた。驚きはすぐに消え、瞳の奥で怒りが燃え上がっていく。


「どうして怜央を殴ったの?」


「怜央が身を引かなければ、あなたが私と婚約できると思っていた? あの子が私を譲ってくれたから、今のあなたがあるのよ。それなのに感謝するどころか、陰で傷つけるなんて!」


 航はゆっくりと手を下ろした。


「誰が、お前の婚約者になりたいと言った?」


「今日で終わりだ。そこまで怜央が大切なら、二人で好きにすればいい」


 莉奈は意味を理解できないかのように立ち尽くした。


 やがてもう一度手を上げたが、航はその手首をつかんだ。殴り返すことはせず、乱暴に手を振りほどく。その目には、以前のような甘さは残っていなかった。


「二度と俺に触るな」


 莉奈は逆上した。


「施設育ちのくせに、よくも私にそんな口が利けるわね!」


 航の拳が固く握られた。


 俺は腕を上げて前に立ち、ここで手を出すなと目で告げた。


 しばらく様子を見ていた玲奈が、怜央のそばへ歩み寄った。


「最初から全部話して」


「嘘でないのなら、私と莉奈があなたの味方になる」


 怜央は周囲を見回し、集まった人々から勇気を得たように宴会場の中央へ進んだ。そこで招待客に向かい、深く頭を下げる。


「皆さん、僕の話を信じてくださって、ありがとうございます」


「昨日、航さんにも言われました。誰かに話したところで、信じる人間なんていないって」


 莉奈が航をにらみつけた。


 怜央は一度息を整え、はっきりと声を響かせた。


「昨夜、部屋に戻った直後、直人さんと航さんが押し入ってきました。二人は僕をリビングのソファに押さえつけ、二時間近く殴り続けたんです」


「玲奈と莉奈が婚約を発表する日に、僕が姿を見せるなんて恥知らずだと言われました」


 怜央は姉妹を見つめた。その顔には、弱々しい悲しみが浮かんでいる。


「僕は、ただプレゼントを渡したかっただけなんだ」


「二人の婚約を邪魔するつもりなんてなかった。直接、おめでとうと言いたかっただけなのに」


 白い礼服をまとった怜央は、今にも倒れそうなほど青ざめていた。


 玲奈の視線が冷たく俺へ向けられる。


「直人、まだ言い分があるの?」




3.間違った証人


「当然だ」


 俺は怜央から目をそらさなかった。


「人を犯罪者扱いするなら、まず証拠を出せ」


「昨夜、俺と航はずっと一緒にいた。日付が変わる少し前までバーにいたんだ。お前の部屋へ行けるはずがない」


 怜央は目を伏せ、肩をわずかにすくめた。


「直人さん、人として最低限の良心くらい持ってよ」


「自分が何をしたのか、本当に分からないの?」


 玲奈はスマートフォンを取り出し、少し離れた場所で電話をかけた。


 しばらくしてスピーカーに切り替え、周囲にも聞こえるよう端末を掲げる。


「佐伯さん、昨日、神谷直人と高瀬航はお店に来ましたか?」


 電話の向こうで、数秒の沈黙が流れた。


「いや、来ていませんよ。昨日は客も少なかったから、はっきり覚えています」


 宴会場がどよめいた。


 誰かがグラスのシャンパンを俺に浴びせた。


「平然と嘘までつくのか」


「もう少しで騙されるところだった」


 玲奈が電話をかけたのは、俺たちが以前よく利用していた店だった。だが、昨夜行った店はそこではない。


 顎を伝う酒を拭い、俺は玲奈を見返した。


「凪原市にバーが一軒しかないとでも思っているのか」


「俺たちがいたのは、アパートの近くにある『月灯り』だ。佐伯さんの店じゃない。確かめたいなら、月灯りの店長に聞け」


 航が小さく悪態をついた。


 莉奈は再び飛びかかろうとしたが、ホテルの警備員に止められた。怒りで顔を歪め、水城家が連れてきたボディーガードに向かって叫ぶ。


「二人を押さえて!」


 四人の男がすぐに取り囲み、俺と航を床へねじ伏せた。


「お前たちに、こんなことをする権限はない」


 抜け出そうとしたが、肩を強く押さえ込まれる。


 莉奈が航を指差した。


「二度と減らず口を叩けないようにして!」


 ボディーガードたちは懐から特殊警棒を取り出し、手の中で伸ばしながら近づいてきた。


 その警棒を見た瞬間、航の顔から血の気が引いた。


 前の人生で配信されながら殺された記憶がよみがえったのだろう。航は俺の腕をつかみ、指先を震わせた。


「直人、ここから出ないとまずい」


 だが、すでに逃げ道は塞がれていた。


 最初の一撃が背中に落ちた。かつて玲奈を助けた際に負った古傷を正確に打ち抜かれ、視界が暗転する。俺はそのまま床へ崩れ落ちた。


 別の男たちは航の両腕を抱え、口元へ何度も警棒を振り下ろした。血が顎を伝い、折れた歯が一本、絨毯の上に落ちる。


 航は昔から、人一倍身だしなみを気にする男だった。


 血にまみれた歯を見た瞬間、胸を強く締めつけられた。航のもとへ這おうとした俺の前に、革靴が立ちはだかる。


 顔を上げると、怜央が莉奈の背後からこちらを見ていた。誰にも見えない角度で、その口元がわずかに緩んでいた。


 次の一撃が振り下ろされようとしたとき、人垣の向こうから鋭い声が飛んだ。


「やめて!」




4.遅すぎた確認


 藤崎栞が人垣をかき分けて飛び出してきた。


 栞は大学時代のチェスサークルの後輩で、現在は凪原工科大学情報工学部情報メディア学科に在籍している。チェス一本で生きる道は選ばなかったものの、今も定期的にクラブ大会へ出場していた。


 栞は航のそばに膝をつき、清潔なハンカチで止血しようとした。裂けた口元を見た瞬間、伸ばした手が止まり、顔色が変わる。


「警察にも連絡せず、事実確認もしないまま、どうして人を殴れるんですか?」


「これは明らかな傷害事件です。もう110番しました」


 玲奈の表情がわずかに揺れた。


 それでも莉奈は手を止める気がなかった。


「何を調べる必要があるの?」


「怜央の痣が勝手にできるわけないでしょう。あの二人以外に、誰がこんなことをするのよ」


 莉奈は姉のほうを向いた。


「二人を怜央の前に跪かせて謝らせよう。婚約はしばらく延期して、自分たちのしたことを本当に反省して、怜央に許してもらえたら、そのとき改めて考えればいい」


 なぜすぐに婚約を解消しないのか、俺には分かっていた。


 玲奈はまもなく重要な国際交流戦を控えており、海外選手の棋譜分析を俺に任せていた。莉奈にも大型のライブコマース案件がいくつも予定され、航が企業審査や商品選定、契約条件まで整えていた。


 二人は俺たちを軽蔑していても、その能力までは手放したくないのだ。


 玲奈が目の前に立ち、俺を見下ろした。


「聞こえたでしょう?」


「怜央に謝って」


 背中の痛みに耐えながら、俺はゆっくり立ち上がった。


「水城玲奈、お前は救いようのない馬鹿だ」


 玲奈の顔つきが変わり、傷ついた背中をヒールで蹴った。尖った踵が痛む場所に食い込み、体が折れそうになる。それでも歯を食いしばり、もう一度背筋を伸ばした。


「今すぐ月灯りの店長に電話しろ」


「俺と航が昨夜そこにいなかったと言われたら、怜央の前で土下座して謝ってやる」


「だが、俺たちが店にいたと証明されたら、婚約は正式に解消する。今後、水城家とは一切関わらない。怜央にも、嘘をついたことを謝ってもらう」


 玲奈は息を呑んだ。


 俺が自分から離れようとするなど、考えたこともなかったのだろう。


 周囲も静かになっていった。


 電話一本で確認できるのだから、かければいいという声が上がる。一方、莉奈は玲奈の袖をつかみ、俺があらかじめ店側と口裏を合わせたのだと言い張った。


 俺は鼻で笑った。


「俺が事前に店長を買収したのなら、今日、怜央が皆の前で自殺を図り、昨夜俺たちに殴られたと訴えることまで知っていたことになる」


「莉奈さん、本気で筋の通った話だと思っているのか?」


 莉奈は口を開いたものの、何も言い返せなかった。


 玲奈は長く黙り込んだ末、月灯りへ電話をかけた。


 女性店長は事情を聞くと、すぐに答えた。


「もちろん来ていましたよ」


「九時過ぎに入って、日付が変わる少し前までいました。明日、婚約発表なんだってすごく嬉しそうで、店にいたスタッフ全員に一杯ずつ奢ってくれたんです」


 広い宴会場から、すべての声が消えた。


 玲奈と莉奈はスマートフォンを見つめたまま、青ざめている。


 俺は栞と一緒に航を支え起こし、怜央へ視線を向けた。


「次は、お前が謝る番だ」




5.完璧な映像


 先ほどまで前列で俺たちを責めていた人々が、気まずそうに視線をそらした。


 それでも怜央は非を認めず、信じられないという顔で首を振った。


「そこまで用意していたんだね」


「僕を玲奈と莉奈から引き離すために、店長まで買収していたなんて」


 航は口元が血にまみれ、まともに話すこともできない。ただ憎しみのこもった目で怜央をにらんでいた。


 怜央は突然、声を張り上げた。


「人の証言は買えても、映像まで買えるの?」


 玲奈がすぐに反応した。


「ほかにも証拠があるの?」


 怜央はポケットからUSBメモリを取り出し、玲奈へ差し出した。


「昨日、部屋で起きたことが全部入っている」


「本当は皆の前で見せるつもりなんてなかった。でも、二人が最後まで認めないから仕方なかったんだ」


 会場スタッフがUSBメモリを受け取り、大型スクリーンに映像を映した。


 映っていたのは、怜央の部屋のリビングだった。室内用防犯カメラの映像はそれほど鮮明ではないが、俺と航にしか見えない二人の男が、怜央をソファに押さえつけて殴っている。


 怜央の悲鳴と、何度も許しを乞う声が室内に響いていた。


 一人は航の声で、莉奈を誘惑したと怜央を罵っている。もう一人は玄関近くに立ち、煙草に火をつけた。


「そのくらいにしておけ。本当に死なせるな」


「玲奈に恨まれたら面倒だ」


 声も、体つきも、顔も、すべてが俺たちそのものだった。


 大画面を見つめるうち、心臓が激しく鳴り始めた。


 昨夜、俺と航は怜央の部屋へ一度も行っていない。


 それなのに映像は、実際に起きた出来事としか思えないほど自然だった。


 隣に立つ栞は画面から目を離さず、黙ったまま眉を寄せていた。何か不自然な点に気づいているようにも見えた。


 玲奈が突然近づき、俺の腹を蹴った。


 よろめいたところで胸元をつかまれ、憎悪に満ちた目を向けられる。


「何もしていないと言ったわよね?」


「証拠がここにあるのに、まだ言い逃れをするつもり?」


 莉奈も航を指し、ボディーガードに再び押さえつけさせた。


「あの人がどれだけ卑劣か、皆に分からせてやる」


 航は青ざめ、その目に絶望を浮かべていた。


 二度目の人生でも、俺たちは同じ罠に落ちてしまったのか。


 怜央が莉奈の袖を引いた。


「もういいよ」


「二人は君たちのことが大切すぎただけなんだ。僕は少しくらい傷ついても平気だから」


 莉奈はますます怜央を哀れむ目で見た。


 玲奈の視線が、俺の手に落ちる。


「怜央を傷つけたのがその手なら、代償を払うべきよ」


 莉奈も航の脚を見た。


「その脚で怜央を蹴ったのなら、もう使えなくても困らないでしょう」


 数人の男が、俺たちを再び押さえ込んだ。


 玲奈は特殊警棒を受け取り、俺の前に立った。手は明らかに震えていたが、それでも高く振り上げる。


「私を恨まないで」


「これから怜央を傷つけないと約束するなら、あなたのことは私が一生面倒を見る」


 警棒が手の甲へ振り下ろされた。


 指の骨から腕全体へ激痛が走った。俺は奥歯を噛み締め、声を上げなかった。


 隣では、莉奈が航のすねを殴りつけた。航の苦痛に満ちた叫びが、宴会場に響き渡る。


 怜央は再び、止めたいふりをした。


「もう十分だよ、莉奈」


 その言葉を聞いた莉奈は、かえって警棒を強く握り直した。


 玲奈は目を赤くしながら、俺を見下ろした。


「直人、これでも謝らないの?」


 俺は首を横に振った。


 やっていないことを、認めるつもりはない。


 玲奈が目を閉じ、もう一度警棒を持ち上げた。


 そのとき、宴会場の扉が勢いよく開いた。


 一度会場の外へ出ていた栞が、数人の警察官を連れて戻ってきた。


「警察です!」


「全員、今すぐ手を止めてください!」




6.もう彼女のものではない


 水城家のボディーガードは、その場で警察官に取り押さえられた。


 直接暴行に加わった玲奈と莉奈も、傷害の疑いで事情を聴かれることになった。俺と航は救急搬送され、俺は手の手術を受け、航は歯科口腔外科での処置と脚の精密検査を受けた。


 意識を取り戻したとき、病床のそばには栞がいた。


 窓から差し込む光が、彼女の肩に落ちている。栞はうつむき、両手を強く握っていたが、俺が身じろぎするとすぐに顔を上げた。


「神谷先輩、気がついたんですね」


 固定具に包まれた手を少し動かすと、骨の奥から鋭い痛みが走った。


「航は?」


「脚は骨折していません。でも口の中の傷がひどくて、歯を二本失いました。これから補綴治療も必要になるそうです」


 数日後、玲奈は弁護士に付き添われて病院を訪れた。


 事件はまだ捜査中で、面会は事前に病院側の許可を得た短時間のものだった。


 病棟の面談スペースに現れた玲奈は、栞に敵意のこもった視線を向けた。


「あの日、やりすぎたことは認めるわ」


「でも映像にいたのはあなたでしょう。先に怜央を傷つけたのなら、責任をすべて私たちに押しつけるのはおかしい」


 俺は答えなかった。


 栞が差し出したリンゴを、フォークから口にする。


 玲奈の表情がみるみる険しくなった。


「直人、私があなたの婚約者でしょう」


「お前がボディーガードに俺を殴らせた時点で、もう違う」


「そのうえ、自分の手で俺の骨を折った」


 玲奈の指が強く握り込まれた。


「私たちが怜央を止めなければ、あの子は死んでいたかもしれないのよ」


「あなたたちは自分のしたことに対する罰を受けただけ。それなのに、どうしてすべてを壊そうとするの?」


 俺は玲奈をまっすぐ見返した。


「あの映像は偽物だ」


「お前は一度も俺を信じなかった。怜央の言葉だけを信じるなら、今さら心配しているふりをするな」


 玲奈は半歩後ろへ下がった。


 以前の俺は、彼女にこれほど強い言葉を向けたことがなかった。


 しばらく沈黙したあと、玲奈は無理に声を落ち着かせた。


「その話は、いったん置いておきましょう」


「藤崎さんには席を外してもらって。二人だけで話したいの」


 栞が立ち上がるより先に、俺は玲奈へ告げた。


「出ていく必要はない」


「栞は部外者じゃない」


 玲奈の顔から、完全に血の気が引いた。


 唇を噛み、感情を押し殺している。


「明日、国際交流戦があるの」


「相手はヨーロッパから来たグランドマスター、アンドレイ・ヴォルコフよ。彼の棋譜を整理して、何局か実戦形式で付き合ってほしい」


 前の人生では、玲奈はその大会に出場しなかった。


 怜央の死後、寺にこもることを理由にチェス界から去り、ヴォルコフは公開イベントで日本人選手を次々と破った。インタビューでは、日本には本当にチェスを理解する者がいないとまで言い放った。


 世論に押され、玲奈は後に復帰した。


 俺は何日も眠らずにヴォルコフの序盤選択と中盤の癖を分析し、彼のスタイルを再現して練習相手を務めた。玲奈が勝ったとき、すべては彼女の才能によるものとされ、裏で何が行われたのかを知る者はいなかった。


 今回は、玲奈が前倒しで挑戦を受けたらしい。


 だが、もう俺には関係がない。


「二度と、お前のために相手を研究するつもりはない」


「帰ってくれ」




7.女王の転落


 玲奈は信じられないという顔で俺を見た。


「藤崎栞のせいなの?」


「知り合って間もない相手を、もう好きになったとでもいうの?」


 俺の中に残っていたわずかな温度も消えた。


「俺がお前から離れるのは、誰かのためじゃない」


「お前が俺を一度も信じず、ほかの男のために自分の手で傷つけたからだ」


 玲奈は何かを言いかけたが、結局言葉にはしなかった。


 誇りの高い彼女が栞の前でこれ以上取り乱すはずもなく、弁護士とともに病院を去った。


 莉奈も航の病室を訪れていた。


 少し弱みを見せれば、航が以前のように許すと考えていたのだろう。だが航は、食事もまともに取れないほど口の傷がひどく、面会を拒絶した。病院の職員に頼み、莉奈を病棟の外へ帰らせた。


 その夜、航は弁護士を通じ、莉奈の個人事務所へ業務委託契約の解除通知を送った。


 企業案件の審査、配信台本、商品選定、契約管理を含め、今後一切の業務に関与しないと正式に通告したのだ。


 前の人生では、航が死んだあと、莉奈の活動はたちまち行き詰まった。


 莉奈は商品を見る目がなく、配信では誇大な表現を繰り返していた。航がいなくなると、コラボ商品への苦情が相次ぎ、提携ブランドは次々と契約を打ち切った。申告漏れやPR表記の不備まで発覚し、所属事務所も彼女との契約を終了した。


 今回、崩壊はさらに早く訪れるだろう。


 玲奈も同じように追い込まれていた。


 ヴォルコフの挑戦を公に受けた以上、スポンサーも報道陣もチェスファンも試合を待っている。前の人生のように、寺にこもるという理由で逃げることはできない。


 後に関係者から聞いた話では、試合前夜、怜央が玲奈と一晩中ヴォルコフの対局映像を見ていたらしい。


 怜央は自分なりに序盤を分析し、俺の代わりに作戦を組み立てようとした。


 翌日の午後、俺は栞とともに会場へ向かった。


 試合はまだ終わっていなかったが、玲奈はすでに完全に追い込まれていた。


 ヴォルコフはすぐにチェックメイトせず、少しずつ駒を奪っていった。玲奈は盤の前に座り、膝の上に置いた手を震わせている。


 最後の重要な駒が取られると、ヴォルコフは椅子の背にもたれた。


「これが日本の女子チャンピオンか?」


「その指し方は、寄せ集めた知識を並べただけだ。初心者よりひどい」


 玲奈の顔は赤く染まったが、反論できなかった。


 立ち上がり、アービターに投了を告げるしかない。


 観客席から、すぐに不満の声が上がった。


「昔はこんな指し方じゃなかった」


「これまでの大会は、どうやって勝っていたんだ?」


「チャンピオンという肩書も、事務所が作り上げたものだったのか?」


 以前のように玲奈を崇拝する者は、もういなかった。


 玲奈は会場の中央で立ち尽くし、周囲を見回した。立ち去ろうとしても、記者や失望したファンに進路を塞がれる。


 ヴォルコフはすでに駒を片づけ、席を立とうとしていた。


 俺はアービターのところへ歩み寄った。


「ヴォルコフさんと、一局指す機会をいただけませんか」


 ヴォルコフは振り返り、固定具に包まれた俺の両手へ目を向けた。


「その手で駒を動かせるのか?」


「無理です」


 俺は隣の栞を見た。


「アービターの許可を得たうえで、彼女に俺が告げた手だけを指してもらいます。自分で判断したり、助言したりはしません」


 主催者側は短い協議の末、レーティング対象外の特別エキシビションとして対局を認めた。


 栞が盤の前に座り、俺はその後ろに立った。


 ヴォルコフも、再び席へ戻る。


 チェスクロックが、もう一度動き始めた。




8.俺のチェス


 ヴォルコフが一手指すたび、俺はすぐに次の一手を棋譜記号で告げた。


 栞は余計な動きをせず、指示されたとおりに駒を進める。


 この連携は、俺たちにとって初めてではなかった。


 大学時代、俺は練習中に手首を痛めたことがある。そのときも栞が盤の前に座り、俺の代わりに一手ずつ駒を動かしてくれた。


 中盤に入ると、ヴォルコフの余裕は少しずつ消えていった。


 指先が駒の上で止まり、考慮時間も長くなる。会場は静まり返り、聞こえるのはチェスクロックの音と、俺が読み上げる着手だけだった。


 玲奈は少し離れた場所で床に座り込み、顔を青ざめさせていた。


 俺の指し回しは、彼女が最も輝いていた時期のチェスと、あまりにもよく似ていた。


 三十分後、ヴォルコフは取り返しのつかない局面へ追い込まれた。


 長いあいだ盤面を見つめた末、彼は立ち上がり、俺へ手を差し出した。


「私の負けだ」


 一瞬の沈黙のあと、観客席から驚きの声が上がった。


「玲奈が以前使っていた戦術は、全部あの人が考えていたのか?」


「対戦相手を分析していたのは、ずっと神谷直人だったんだ」


「でもネットでは、神谷と高瀬が桐生怜央を長期間いじめていたって……」


 それらの声に、足を止めるつもりはなかった。


 ステージを降りようとしたとき、玲奈が突然駆け寄り、俺の脚にすがりついた。


「直人、あなたならどうにかできるでしょう」


「ヴォルコフの指し方を教えて。あなたのチェスは私が教えたものだと、私から報道陣に話してあげる。あの映像のことも、あなたの味方をしてあげるから」


 俺は黙って玲奈を見下ろした。


 この状況になっても、彼女が考えているのは自分の名誉を守ることだけだった。


「俺のために、嘘の証言をするつもりか?」


「玲奈、お前はまだ、自分が何をしたのか分かっていない」


 すがる手を外し、玲奈の横を通り過ぎた。


 そのとき、観客席の後方から大きな声が上がった。


「速報が出てる! 青凪県警が、あの映像にディープフェイク加工の痕跡があると発表した!」


「顔も声も、生成AIで合成された可能性が高いって!」


 会場にいるほとんどの人が、同時にスマートフォンを取り出した。


 県警の初期鑑定では、映像の顔と音声には公開動画を素材にした合成痕跡が見つかっていた。ファイルの生成時刻も、怜央が主張した事件発生時刻より後で、鏡への映り込みや照明と影の向きにも矛盾があった。


 さらに警察は、裁判官の令状に基づいて怜央のパソコンを押収していた。そこから編集プロジェクトファイルと大量の音声素材が見つかり、偽造映像を使って虚偽の被害申告をした疑いで捜査が進められているという。


 玲奈は近くにいた記者のスマートフォンを取り上げ、何度も記事を読み返した。


「嘘よ……」


「怜央が、どうして私を騙すの?」


 玲奈は足をもつれさせながら、会場の外へ駆け出した。


 俺はステージのそばに立ち、最初はまばらだった拍手が、次第に会場全体へ広がっていくのを聞いていた。


 玲奈。


 今度こそ、すべてを終わらせる。




9.誤った愛の結末


 その後、警察から検察へ送致された事件記録と、裁判で明らかにされた事実によって、玲奈が会場を飛び出したあとの出来事を俺は知った。


 水城家の邸宅に戻ったとき、莉奈はすでに怜央を見つけていた。


 航から契約解除通知が届いた直後、莉奈の個人事務所には、所属事務所や提携ブランドから確認の連絡が相次いだ。航を失えば、自分の活動を支えてきた仕組みがすぐに崩れることを、莉奈にも理解できたのだろう。


 怜央はリビングの床に倒れており、腕にはすでにいくつもの打撲痕があった。


 玲奈が戻ったのを見ると、助けを求めるように手を伸ばした。


「玲奈、莉奈がおかしくなったんだ」


「頼むから、助けて」


 玲奈は近づかなかった。


 スマートフォンの画面を怜央に向ける。そこには、県警が発表した映像鑑定の速報が表示されていた。


「あの映像は、どういうことなの?」


 怜央は答えなかった。


 逃げるように揺れた視線が、すべてを物語っていた。


 莉奈が再び金属製の棒を振り下ろした。


「航が私にとって、どれだけ必要な人だったか分かってる?」


「あの人がいなければ、これからの配信も企業案件も、事務所の運営もどうすればいいのよ!」


 怜央は痛めた腕を押さえながら、ついに弱々しい仮面を捨てた。


「航さんを殴らせたときに、どうして考えなかったんだ?」


 莉奈の動きが止まった。


 航は自分を愛しているから、何をしても最後には許す。莉奈はそう信じていた。長年そばにいて、あらゆる問題を処理してきた男が、本当に離れていく可能性など考えもしなかったのだ。


 玲奈も同じだった。


 俺が彼女を愛しているかぎり、何をされても最後には戻ってくると思っていた。


 試合で惨敗し、真実が明らかになって初めて、二人はこれまで与えられてきたものが当然ではなかったと知った。


 怜央は壁に背を預けたまま、突然笑い出した。


「映像が偽物だったから何だっていうの?」


「二人を本当に傷つけたのは、君たちだ。ボディーガードに命令したのも、棒を振り下ろしたのも君たち自身だろう」


「僕を信じると決めたのも、君たちだ」


 その言葉が、姉妹に残っていた最後の理性を打ち砕いた。


 莉奈は怜央の歯を折り、玲奈は試合の敗北も、婚約の破綻も、名誉を失ったことも、すべて彼のせいだと決めつけた。怜央は邸宅内に監禁され、長時間にわたって暴行を受けた。


 その間、怜央は何度も玲奈へ助けを求めた。


 玲奈は一度も手を止めなかった。


 翌日の未明、怜央は大量出血と全身の損傷によって死亡した。


 姉妹は遺体の写真を撮り、それぞれ俺と航へ送ってきた。


 莉奈の音声メッセージは、取り乱した声で録音されていた。


「航、怜央はもう死んだよ」


「あなたのために罰を与えたの。だから戻ってきて。これからは何でも言うことを聞くから」


 玲奈からも、何通ものメッセージが届いた。


「直人、本当に悪かったと思ってる」


「怜央はもういない。私たちはやり直せる。日本を離れてもいい。あなたが望む場所なら、どこへでも行くから」


 俺も航も返信しなかった。


 写真とメッセージを保存し、すぐに警察へ提出した。


 警察官が水城家の邸宅へ踏み込んだとき、玲奈と莉奈は怜央の遺体のそばに座っていた。二人は取り押さえられながら、同じ言葉を繰り返していたという。


「きっと許してくれる」


「もう少しだけ待って。あの人は必ず戻ってくるから」


 検察は姉妹を、殺人、逮捕監禁、傷害などの罪で起訴した。怜央による偽造映像と虚偽申告についても、被疑者死亡のまま書類送検された。


 裁判は長期にわたった。


 裁判所は犯行への関与と悪質性を踏まえ、主導した一人に無期拘禁刑、もう一人に拘禁刑二十年を言い渡した。水城家の企業は取引先を失い、玲奈は日本チェス連盟から除名されて公式戦への出場資格を失った。莉奈のアカウントとブランドも、すべて消えた。


 航は歯の補綴治療と形成外科での傷痕治療を何度も受け、ようやく以前の姿を取り戻した。


 その後、配信業界へ戻ったが、二度と誰かの陰に隠れることはなかった。仲間とともに、SNS運用と配信支援を行う会社を立ち上げた。


 俺の手も、長いリハビリを経て、少しずつ動くようになった。


 一年後、俺は選手兼アナリストとして公開大会へ復帰した。観客席の最前列には、以前と変わらず静かに俺を見つめる栞がいた。


 対局が終わると、俺は栞のもとへ向かい、初めて自分からその手を握った。


 少し離れた場所で、航が笑いながらスマートフォンを振っている。


 復帰祝いの店を予約してあるらしい。


 前の人生で、俺たちは自分の人生を、愛する価値のない者たちへ差し出してしまった。


 今度こそ、俺たちは自分自身の道を歩いていく。


——完——



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作者様の裏切りヒロインって過去に恋や欲望と名誉を天秤にかけて名誉を選んだのに、安定した途端現在の恋人や夫に我慢させて両方手に入れようとしますね。 で、不安定になると切り捨てて夫や恋人を取り戻そうとする…
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