第7話 部屋はありました。でも居場所はなかった
ヴァルトシュタイン侯爵の紋章が入った馬車が、子爵領の門前に停まっていた。
朝の執務室に向かう途中、窓からそれが見えた。
足が止まった。
あの紋章を、私は六年間、自分のものとして身につけていた。衣装の刺繍に、便箋の封蝋に、社交の名刺に。今はもう、他人の家の印だ。
クルトが廊下を走ってきた。息が切れている。
「ランベルト嬢。ヴァルトシュタイン侯爵が来訪されています。隣領の社交訪問という名目ですが──子爵様がお会いになるかと尋ねたところ、侯爵は貴女に用があると」
「……そう」
「子爵様は、貴女が望まないなら会わせないと仰っています。どうされますか」
一瞬、断ろうかと思った。
けれど、断って何になる。噂は広がっている。ここで会わなければ、あの人は別の手段を使うだろう。政治的な圧力か、社交を通じた根回しか。侯爵の権力はそれを可能にする。
ならば、今ここで、はっきりと終わらせた方がいい。
「お会いします」
◇
応接室に入ると、レオンハルトが窓際に立っていた。
二ヶ月ぶりに見る夫──元夫の姿は、変わっていなかった。背が高く、姿勢が良く、灰青の瞳が冷静な光を湛えている。社交用の上着を身につけ、手袋を外して片手に持っている。完璧な貴族の所作。
ただ、目の下にうっすらと隈があった。
「セシリア」
名前を呼ばれた。
二人きりの部屋で。
──六年間、一度もそう呼ばなかった人が。
(今さら、その名前を使うのか)
胸の奥に、冷たいものが落ちた。怒りではない。もっと乾いた何か。砂漠に水を撒いたときの音。吸い込まれて、跡も残らない。
「レオンハルト様。本日はどのようなご用件でしょうか」
声は平坦に保った。社交の場と同じ呼び方。それ以外の距離を、私は知らない。
「戻ってきてほしい」
短い言葉だった。飾りがない。この人はいつだってそうだ。不必要な修辞を使わない。軍略の報告と同じ簡潔さで、感情の込もらない声で。
──いや。
違う。今の声は、少しだけ違った。喉の奥が詰まるような、そんな響きがあった。六年間の結婚生活で、この人の声にこんな音が混じったのを、一度も聞いたことがない。
「侯爵家には……おまえが必要だ」
おまえ。
人前では使わなかった呼び方。二人きりでも使わなかった呼び方。そもそも二人きりの会話がなかったのだから、使う機会もなかった。
「お断りいたします」
「──聞いてくれ。居場所は用意する。部屋も、仕事も、必要なものは何でも」
「部屋はありました」
声が、自分でも驚くほど静かだった。
「六年間、あの屋敷に私の部屋はありました。立派な寝室と、書斎と、衣装部屋と。調度品も不足なく、使用人も十分で、何一つ不自由はございませんでした」
レオンハルトの目が、わずかに動いた。
「でも、居場所はなかったのです」
言葉を、一つずつ置くように話した。
「私が帳簿に向かう夜に、暖炉の火が落ちても、薪を足しに来る人はいませんでした。私が庭に植えた花の名前を、あなたは一度も聞きませんでした。私が淹れた茶の味を、あなたは知らないでしょう。──部屋は、ありました。けれど居場所は、なかったのです」
沈黙が落ちた。
レオンハルトの口元が、かすかに動いた。何か言おうとして──言えなかった。
この人には、その区別がわからないのだ。部屋と居場所の違いが。物を用意することと、人を迎え入れることの違いが。六年かけてもわからなかったことが、今この瞬間に言葉で伝わるはずがない。
「あなたにはその区別がおわかりにならない。だから──もう結構なのです」
一礼しようとした。
──扉が開いた。
◇
ディートリヒが入ってきた。
ノックはなかった。足音が速い。いつもの落ち着いた歩調ではない。
部屋に入るなり、ディートリヒは私とレオンハルトの間に立った。物理的に、私の前に。背中が見える。広い背中。上着の下の肩が強張っている。
「──侯爵」
ディートリヒの声が、低かった。
低いだけではない。硬い。鉄を叩いたときのような、芯のある硬さ。
「彼女は今、私の領地の仕事を担っている。侯爵が用があるなら、まず私に通してもらおう」
レオンハルトの目が細くなった。
「ディートリヒ。これは俺と妻の問題だ」
「元妻だ」
短い訂正。ディートリヒの声は揺れなかった。
──この人は、怒っている。
背中越しに、その怒りが伝わってきた。仕事上の不満や、礼儀を欠いた来訪への苛立ちではない。もっと深い場所から来ている何か。声が硬いだけではない。立ち方が違う。剣を構える前の、あの姿勢に似ている。
(この人は──私のために、怒っている?)
その考えが浮かんだ瞬間、胸の奥で何かが大きく揺れた。
(──違う。仕事仲間としての当然の対応だ。領地の顧問が、外部から圧力を受けているのだから。領主として守るのは当たり前で──)
打ち消そうとした。いつものように。けれど、今回は打ち消しきれなかった。
レオンハルトが一歩下がった。ディートリヒの視線から逃れるように。
「……わかった。今日は引く」
レオンハルトが踵を返し、扉に向かった。すれ違いざま、私をちらりと見た。灰青の瞳に、何かが──読み取れない何かが、浮かんでいた。
扉が閉まった。
◇
応接室に、二人だけが残った。
ディートリヒが振り返った。さっきまでの硬い表情が、少しだけ緩んでいる。けれど完全には戻っていない。眉間の皺が残っている。
「……すまない。出過ぎた真似をした」
「いいえ」
首を振った。
「ありがとうございます」
それだけ言った。それ以上、言葉が出なかった。
ディートリヒは頷いて、扉に向かった。
廊下に出る直前、足を止めた。振り返りはしなかった。ただ、横顔がわずかに見えた。
「──あの男は、何もわかっていない」
低い声で、そう呟いた。
それから出ていった。
一人になった応接室で、深く息を吐いた。
手が震えていた。レオンハルトとの対面の緊張か、それとも──ディートリヒの背中を見たときの、あの胸の揺れのせいか。
どちらとも決められないまま、窓の外を見た。門前に、侯爵家の馬車がまだ停まっている。
◇
門の前で、馬車に乗り込もうとするレオンハルトの背に、声がかかった。
「──おまえは何を見ていたんだ、六年間」
ディートリヒの声は低かった。
俺は足を止めた。振り返らなかった。振り返れなかった。
六年間。
庭を。茶を。帳簿を。あの女が──セシリアが、毎日何をしていたか。誰と話し、何を育て、何を整え、何を耐えていたか。
何も言えなかった。
馬車に乗り込んだ。扉が閉まる。車輪が回り始める。
窓の外に、子爵領の門が遠ざかっていく。
◇
侯爵家の居間は、薄暗かった。
帰還の報告をしに行く気力もなく、椅子に座ったまま動けないでいると、グレーテが入ってきた。
義母は隠居の身だが、この屋敷の中での存在感は衰えていない。白髪を結い上げ、背筋を伸ばし、いつもと変わらぬ厳格な顔で俺の前に立った。
ただ、いつもと違うものが、その目にあった。
「レオンハルト」
「……何だ」
「あの嫁がいないだけで、これほど回らないとは思わなかった」
グレーテの声が、かすかに震えていた。
──この人が動揺するのを、俺は初めて見た。




