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離縁を申し出たのは私の方です〜夫は知らないでしょうが、あなたの親友を愛してしまいました〜  作者: 九葉(くずは)


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第6話 手書きの付箋

 市場に並んだ果物の色が変わっていた。二週間前より鮮やかで、種類も増えている──私の改革が、形になり始めていた。


 朝の市場を歩く。


 出店料の体系を変えたのは十日前だ。年額前払いに切り替え、代わりに市場の排水溝と通路の補修を領地が負担する。商人たちは最初こそ渋い顔をしたが、通路の石畳が整い、雨の日でも荷が泥を被らなくなると、態度が変わった。新しい商人が二軒、先週から出店を始めている。


「ランベルト嬢様!」


 果物を並べていた商人の女が手を振った。四十がらみの、日に焼けた頬の女だ。先週、出店の手続きで話をした。


「おかげさまで、お客が増えましたよ。通りが綺麗になったから、王都の行商人まで寄ってくれるようになって」


「それは良かった。東街道の轍の補修が来週には終わりますから、大型の荷馬車も入れるようになります。もう少しの辛抱ですね」


「ありがたいことです。あの方のおかげだ、ってみんな言ってますよ」


 あの方。


 私のことだろう。名前ではなく、「あの方」。侯爵夫人でもなく、伯爵令嬢でもなく。ここでは肩書きより先に、仕事が見えている。


 不思議な気分だった。


 侯爵家では、私がどれだけ市場を整えても、交易路を開いても、それは「侯爵家の施策」だった。私の名前が領民の口に上ることはなかった。


 ここでは違う。


(……嬉しい、と思ってしまうのは、欲が深いだろうか)


 商人の女に礼を言い、市場を歩き続けた。魚売りの親父が会釈をくれた。布地を並べている娘が笑顔で手を振った。


 一ヶ月前、ここに初めて来たときの空気とは違う。あのときは「離縁した女が何をしに来た」という視線が少なからずあった。今は──まだ全員ではないが、仕事の成果が言葉より先に信頼を作っている。


 帳簿の数字が変わり、通りが綺麗になり、商人が増えた。それだけのことだ。けれど、それだけのことが、こんなに手応えとして返ってくるのは初めてだった。



 昼過ぎ、執務室に戻った。


 机の上に、昨日提出した報告書が返却されていた。ディートリヒに提出した、東街道の交易路整備の進捗報告。


 手に取って──小さな紙片が目に入った。


 付箋が一枚、報告書の表紙に貼られている。手書きの、短い文字。


 『素晴らしい』


 ディートリヒの筆跡だった。あの人の字は少し角張っていて、インクの太さが均一でない。ペンを強く握る癖があるのだろう。軍人の報告書に慣れた書き方だ。


(──仕事への評価だ)


 そう思った。当然だろう。報告書を読んで、内容が良ければ評価を返す。領主として当たり前のことだ。


 付箋を剥がして、報告書の中に挟んだ。


 ──ふと、隣の机に目が行った。クルトの席だ。クルトも今朝、別の報告書を提出していたはずだ。返却された書類が積んである。


 付箋は、ない。


 ……たまたまだろう。クルトの報告書は定例のもので、私の報告書は新規事業の進捗だ。内容が違えば、反応も違う。それだけのことだ。


(それだけのことだ)


 もう一度自分に言い聞かせて、次の書類に手を伸ばした。



 夕刻前、領民への聞き取りのために広場に出た。


 東街道沿いの農家の代表と、来月の収穫見込みについて話をしていた。今年は麦の出来がいい。交易路の整備で運搬が楽になれば、余剰分を隣の都市に卸せる。その段取りを詰めていた。


 ──視線を感じた。


 ちらりと広場の端に目をやると、建物の影にディートリヒの姿があった。クルトが隣にいる。二人とも、こちらを見ている──いや、ディートリヒがこちらを見ていて、クルトはディートリヒの横顔を見ている、という方が正確だった。


 クルトが何か言った。距離があって聞こえない。ただ口の動きと、少し呆れたような表情が見えた。


 ディートリヒが視線を逸らした。


 急に、横を向いた。不自然なほど素早く。クルトに何か短く返して、踵を返して去っていく。


(……何だったのだろう)


 首を傾げたが、農家の代表が帳面を差し出してきたので、考えるのをやめた。仕事の方が先だ。



 別邸に戻ったのは、夕日が沈みかけた頃だった。


 書斎の椅子に腰を下ろし、一息つく。窓から見える子爵領の町並みが、夕焼けに染まっている。一ヶ月前より、少しだけ活気があるように見えるのは、贔屓目だろうか。


(私は、ここに居場所を見つけ始めている)


 その実感が、温かくもあり、怖くもあった。


 ここは私の領地ではない。私は交易交渉の顧問として契約に基づいて滞在しているだけだ。仕事が終われば去る。それが筋だ。


(仕事だ。ここでの暮らしは仕事だ。終われば──)


 扉を叩く音がした。


「お嬢様。お手紙が届いております」


 マリアが入ってきた。表情が硬い。手紙ではなく、マリアの顔が先に何かを告げていた。


「王都のカタリーナ様からです。それと──お嬢様、少し、お話が」


「何」


 マリアが手紙を渡しながら、声を落とした。


「王都の社交界で、噂が広まっているそうです。ヴァルトシュタイン侯爵様が──離縁した奥様を、取り戻そうとしていると」


 手が止まった。


「……取り戻す」


「侯爵様が、あちこちに手を回しておいでだとか。お嬢様の行方を探しているとか。侯爵家の使用人が実家のランベルト家に何度も書簡を送っているとか。社交界では、お嬢様のことを……その、侯爵様に去られた妻、ではなく、侯爵様を捨てた妻として話す方と、侯爵様に同情する方と、両方いるそうで」


 カタリーナの手紙を開いた。王妃付き女官らしい丁寧な筆致で、社交界の空気が簡潔に記されている。噂の出所。広がり方。誰が何を言っているか。六年間の社交で築いた信頼が、手紙という形で私を守ろうとしてくれている。


 手紙を閉じた。


 窓の外を見た。夕焼けが終わりかけている。町の灯りが、一つずつ点き始めていた。


「……マリア」


「はい」


「ありがとう。今日はもう休みなさい」


 マリアが一礼して出ていった。


 一人になった書斎で、手紙をもう一度開いた。


 取り戻す。あの人が。


(──六年間、私の存在に一度も興味を持たなかった人が、今になって)


 表情が硬くなっているのが、自分でわかった。


 怒りではない。悲しみでもない。もっと冷たい、乾いた何かだ。


 六年間、あの屋敷で私は名前を呼ばれなかった。報告書を確認されるだけの存在だった。去ると言ったときに初めて「考え直してくれないか」と口にした人が、今度は社交界を巻き込んで「取り戻そう」としている。


(部屋がなくなったから探しているのか。それとも、帳簿を読める人間がいなくなったから?)


 ──意地の悪い考えだと思った。けれど、打ち消せなかった。


 机の上に、あの付箋を挟んだ報告書がある。


 『素晴らしい』。


 角張った、不器用な字。


 何の脈絡もなく、その三文字が目に入って──それだけで、少しだけ呼吸が楽になった自分に、気づかないふりをした。

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