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離縁を申し出たのは私の方です〜夫は知らないでしょうが、あなたの親友を愛してしまいました〜  作者: 九葉(くずは)


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第4話 帳簿の向こう側

 「お帰り、セシリア」


 父のその一言で、六年分の何かが溶けた。


 ランベルト伯爵家の応接間は、記憶より少し狭かった。天井の漆喰に薄い染みがある。壁掛けの織物の端が擦り切れている。侯爵家に比べれば質素な屋敷だ。けれどここには暖炉に火が入っていて、父が立っていて、私の名前を呼ぶ声があった。


 父が歩み寄り、両腕を広げた。


 五十二歳のエルヴィン・ランベルト伯爵は、六年前より白髪が増えていた。頬が少し痩せている。けれど背筋は真っ直ぐで、腕の力は変わらなかった。


 抱きしめられた。


 六年ぶりだった。侯爵家に嫁いでから、父と会ったのは社交の席で数回きり。その場では「侯爵夫人」と「伯爵」として、作法通りの挨拶を交わすだけだった。


 ──セシリア。


 名前を呼ばれた。


 二人きりの部屋で。敬称もなく、肩書きもなく、ただ娘の名前として。


(……ああ、そうだ。私の名前は、こういうふうに呼ばれるものだった)


「お父様。ただいま戻りました」


「うん」


 それだけだった。父は多くを聞かなかった。なぜ離縁したのか、侯爵家で何があったのか。問い詰めるでもなく、腫れ物に触れるでもなく、ただ「うん」と頷いて、暖炉の前の椅子を勧めた。


 茶が出てきた。実家の使用人が淹れた、素朴な薬草茶。侯爵家のものより雑だが、温かい。


「……政略結婚を決めたのは、私だ」


 父が静かに言った。暖炉の火を見つめている。


「お前が不幸になったのなら、その責は私にある」


「お父様」


「だから──お前が自分で決めたことを、私は止めない。止める資格がない」


 父の横顔を見た。頬の筋肉が強張っている。穏やかな声の下に、六年分の自責が透けていた。


 ……私は、この人にまで心配をかけていたのか。


「お父様。私は不幸ではありませんでした」


 嘘だ、と思った。けれど全くの嘘でもない。侯爵家で学んだことは山ほどある。帳簿の設計、商会との交渉術、社交の立ち回り。それは確かに私の血肉になった。


「ただ──足りないものに、気づいてしまったのです」


 父は何も言わなかった。ただ頷いた。


 しばらく暖炉の火を二人で見ていた。薪が爆ぜる音だけが、応接間に響いていた。


「セシリア。一つ、頼みたいことがある」


 父が茶の杯を置いた。


「隣領のブルクハルト子爵から、交易交渉の打診が来ている。先方は軍人上がりで、経営の実務に明るい者がいない。お前の力を貸してやってくれないか」


 ブルクハルト子爵。


 ──ディートリヒ。


 心臓が跳ねた。跳ねたことを、顔には出さなかった。六年間の訓練が、こういうときだけは役に立つ。


「……私で、よろしいのですか」


「お前以上の適任を、私は知らない」


 父の目は真っ直ぐだった。お世辞ではない。伯爵として、娘の実務能力を正当に評価した上での判断だ。


 あの人と、また顔を合わせる。


 仕事として。交易交渉の実務者として。


(……大丈夫。仕事だ。仕事の話をしに行くだけだ)


「お引き受けします」



 ブルクハルト子爵領は、ヴァルトシュタイン侯爵領の東隣にある。ランベルト伯爵領からは馬車で半日。思ったより近い。


 馬車の窓から見える風景が変わった。侯爵領の整然とした農地とは違い、こちらは野が広く、柵が少ない。軍事拠点としては優れた地形なのだろうが、農業や商業には不向きに見える。


 子爵の居城は、城というより砦に近かった。石壁は厚いが装飾がない。実用一辺倒の造り。門番が二人、背筋を伸ばして立っている。軍の規律がそのまま領地に持ち込まれている空気だった。


 会議室に通された。


 長机の上に帳簿が広げられている。ディートリヒ・ブルクハルト子爵が上座に、その右手に側近らしい男が座っていた。三十歳ほどの、鋭い目をした文官だ。


 ディートリヒが立ち上がった。


「──よく来てくれた」


 短い声。飾りのない歓迎。あの三日間と同じ声だった。


 胸の奥で、あの軋みがまた鳴る。


(──仕事だ。集中しなさい)


「ランベルト伯爵令嬢セシリアと申します。本日は交易交渉の件でお伺いいたしました」


 名乗りながら、自分の肩書きの変化を噛みしめた。侯爵夫人ではなく、伯爵令嬢。侯爵家の看板はもうない。ここにいるのは、セシリア・ランベルトという個人だけだ。


「こちらは側近のクルトだ。領地の実務全般を任せている」


 クルトが軽く頭を下げた。品定めするような目でこちらを見ている。当然だろう。離縁した女が交易交渉にやってきた。実力を疑われて当たり前だ。


「では、帳簿を拝見してもよろしいですか」


 ディートリヒが頷き、帳簿を寄越した。


 開く。


 ──ひどい、とは思わなかった。軍人の記録らしく、数字そのものは正確だ。収支の計算に誤りはない。ただ、分類が粗い。商会ごとの取引履歴がまとめられておらず、税の項目が大雑把すぎる。交易路の情報に至っては、道の名前すら書かれていない。


 これは帳簿ではなく、戦闘の報告書だ。入ってきた金と出ていった金を、時系列に並べただけ。


 頭の中で、侯爵家で六年間やってきたことの全てが動き出した。


「子爵。いくつか確認させてください」


「ああ」


「南の街道沿いに市場がありますね。あの市場への出店料は、年額ですか、月額ですか」


「……年額、だったか。クルト」


「月額です。ただ、徴収が不定期で……」


「不定期では商人が嫌います。出店料は年額の前払いに変更し、代わりに市場の管理費——道路の補修と排水溝の清掃を領地側が負担する方が、長期的に商人が定着します」


 クルトの目が変わった。品定めの色が消えて、真剣な関心に変わっている。


「続けてもよろしいですか」


「……どうぞ」


「東の交易路は、現在どの商会が使っていますか」


「中規模の行商が数件。大手はまだ……」


「大手を引き込むには、中継地に倉庫と馬の替え場を設ける必要があります。初期費用はかかりますが、通行税の設定次第で二年以内に回収できます。帳簿のこの数字——」


 指で行を辿った。


「ここの支出を組み替えれば、新規の投資に回せる余剰があります。この軍需品の項目、平時にこの量は過剰ではありませんか」


 沈黙が落ちた。


 クルトが帳簿を覗き込み、私が指した数字を確認している。眉間の皺が深くなる。計算しているのだ。


「……合っている」


 クルトが呟いた。それから顔を上げ、ディートリヒを見た。


「子爵様。これは──侯爵家の実績ではなく、この方個人の力だったのですか」


 ディートリヒは答えなかった。ただ私を見ていた。灰色の目が、帳簿ではなく私の顔を見ている。


「見事だ」


 あの言葉だ。


 あの三日間の二日目に、庭の前で言ったのと同じ言葉。同じ声。同じ、飾りのない率直さ。


 胸が疼いた。一瞬だけ。


(──仕事への評価だ。それ以上の意味はない)


 打ち消した。打ち消すのは得意だ。六年間、ずっとそうしてきた。


「ありがとうございます。では、具体的な改革案を書面にまとめてお持ちします」


 会議が終わった。


 立ち上がろうとしたとき、椅子が後ろに引かれた。


 振り向くと、ディートリヒが私の椅子の背に手をかけていた。片手で、さりげなく。立ち上がりやすいように引いてくれたのだ。


「あ──ありがとうございます」


「ああ」


 それだけ。表情も変えず、当然のように手を離した。


 ……礼儀正しい方だ。軍人は意外とこういう気配りをするものなのかもしれない。


 ちらりとクルトの方を見た。


 目を丸くしていた。


 ──何をそんなに驚いているのだろう。上着の裾を直しながら不思議に思ったけれど、深く考えなかった。



 帰りの馬車に乗る前に、子爵の居城の裏手を通った。


 庭園があった。


 庭園、と呼ぶには荒れている。かつては何かが植えられていたのだろう、花壇の跡がある。けれど今は雑草が伸び放題で、石組みの小道は苔に覆われていた。


 足を止めた。


「……手入れをすれば、良い庭になりますね」


 独り言のつもりだった。けれど背後に気配があって、振り返ると、ディートリヒが立っていた。見送りに来たのだろうか。


 私の言葉を聞いていたらしい。その目がわずかに──本当にわずかに、動いた。驚きとも、別の何かともつかない表情の揺れ。


「……そうか」


 低い声でそれだけ言って、ディートリヒは庭園に目を向けた。雑草と苔の向こうに、何かを見ているような目だった。


 馬車に乗り込んだ。


 窓から子爵の居城が遠ざかっていく。あの荒れた庭が、丘の稜線に沈んでいく。


 帳簿の数字を思い出していた。あの領地には可能性がある。交易路を整え、市場を立て直し、商会を引き込めば──あの数字は、倍にできる。


(……私は、また帳簿のことを考えている)


 少しだけ、笑えた。


 六年間、侯爵家の帳簿に向き合い続けた。数字と人と、道と金の流れ。それが私にできることの全てだ。たいした力ではない。けれど今日、あの会議室で、その力を初めて自分の名前で評価された。


 侯爵家の看板ではなく。


 セシリア・ランベルトとして。


 馬車が揺れる。荒れた庭の残像が、まだ目の裏に残っていた。あの石組みの小道を掃除して、花壇の土を入れ替えて、春に咲く品種を植えたら──。


 ──何を考えているの。あの庭は私のものではない。


 頭を振って、膝の上の書類鞄に手を伸ばした。改革案の骨子を、帰りの馬車の中で書き始めなければ。


 やることは、山ほどある。


 それが今は、少しだけ嬉しかった。

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