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離縁を申し出たのは私の方です〜夫は知らないでしょうが、あなたの親友を愛してしまいました〜  作者: 九葉(くずは)


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第3話 空白の部屋

 馬車に積む荷物は、六年間の暮らしにしては少なすぎた。


 衣装箱が三つ。嫁入り支度品の中から私物だけを選り分けたもの。書類箱が二つ。個人の覚書と、南方から取り寄せた薬草の栽培記録。それから小さな革鞄が一つ。中には、あの押し花を挟んだ手帳が入っている。


 それだけだった。


 六年かけて整えた調度品も、社交用の宝飾品も、侯爵家のものだ。持ち出す理由がない。引き継ぎ書はヘルマンの手に渡した。公的な帳簿は書庫に戻した。帳簿の行間にある──数字だけでは伝わらない、人と人との繋がりや、交渉の呼吸や、季節ごとの勘所は、持ち出すも何もない。私の頭の中にあるだけで、紙には写せなかった。


 三月の朝。空気はまだ冷たいが、陽射しには春の気配がある。


 玄関の前に馬車が停まっている。ランベルト伯爵家から迎えに来た馬車だ。父が手配してくれたのだろう。紋章を見て、少しだけ胸が緩んだ。


「奥様」


 ヘルマンが歩み寄ってきた。白髪の執事は背筋を伸ばしたまま、深く頭を下げた。


「六年間、お仕えできたことを光栄に存じます」


「ヘルマン、顔を上げてください。私の方こそ、あなたには何度助けられたかわかりません」


 ヘルマンが顔を上げた。その目が赤いことに気づいて、私は少し驚いた。この人が感情を見せるのは珍しい。六十年の人生で培った矜持が、滅多にそれを許さないはずだった。


「引き継ぎ書をお預かりいたしました。ですが──」


 言いかけて、ヘルマンは口を閉じた。


 引き継ぎ書では足りない。それを言おうとしたのだろう。私にもわかっている。けれど、それ以上のことは、もうできない。


「ヘルマン。南方商会の契約更新が今月です。番頭のグスタフ殿は気難しい方ですが、奥方の好む杏の砂糖漬けを手土産にすれば機嫌がよくなります。それだけは、覚えておいてください」


「……承知いたしました」


 ヘルマンがもう一度、頭を下げた。


 その後ろに、使用人たちが並んでいた。


 いつの間に集まったのだろう。侍女頭のリーゼ、料理長のオットー、庭師の老フリッツ、厩番の若い衆、洗濯場の女たち。二十人近い顔が、玄関前の石畳に揃っていた。


 リーゼが泣いていた。目元を手巾で押さえながら、それでも背筋だけは伸ばそうとしている。侍女頭としての意地だろう。


 料理長のオットーが、布に包んだ何かを差し出した。


「奥様のお好きだった焼き菓子です。道中、お召し上がりください」


 蜂蜜と胡桃の焼き菓子。私が冬の夜に好んで頼んだものだ。覚えていてくれたのか。


「ありがとう、オットー」


 受け取った包みは、まだ温かかった。


 庭師のフリッツが帽子を脱いで、口を開きかけた。何か言おうとして、言葉が出ない。しわだらけの唇が震えている。結局、何も言わずに深く頭を下げただけだった。


 ──フリッツ。あなたと一緒に、あの庭を作ったのに。


「皆様」


 私は使用人たちの顔を、一人ずつ見た。


「六年間、皆様のおかげでやってこられました。ありがとうございました」


 微笑んだ。


 六年間で一番上手に笑えた気がする。侯爵夫人としての最後の仕事だ。この人たちを泣かせたまま去るわけにはいかない。


 リーゼの隣にいた若い侍女が、とうとう声を上げた。


「奥様がいなくなったら、この屋敷はどうなるのですか」


 誰かがその子の肩を掴んで黙らせようとした。けれど遅かった。その言葉は春の朝の空気に、はっきりと響いた。


 私は答えなかった。答える立場にない。


 ただ、もう一度微笑んで、馬車に向かった。



 馬車が動き出した。


 車輪が石畳を離れ、砂利道に変わる。揺れが大きくなる。窓の外を、見慣れた並木が流れていく。


 マリアが隣に座っている。この子はランベルト家からついてきた侍女だから、私と一緒に実家へ戻る。


 マリアが泣いていた。声を殺して、膝の上で拳を握りしめて。


「マリア」


「……申し訳ございません、奥様。いえ、お嬢様……いえ」


 呼び方に迷って、マリアがまた泣いた。


(──そうか。私はもう「奥様」ではないのだ)


 マリアの肩に、そっと額を預けた。


 甘えるようで情けなかったけれど、今だけは許してほしい。馬車の中には、私たちしかいない。


 唇を、噛んだ。


 奥歯が軋むほど、強く。


 並木道が遠ざかる。屋敷の屋根が小さくなる。あの庭が──私が六年かけて育てた庭が、丘の向こうに消えていく。


 懐に手を入れた。手帳の間に挟んだ押し花に、指先が触れる。乾いた花弁の、かすかな感触。


 それだけを握って、私は前を向いた。


 実家まで、馬車で丸一日。長い道のりだ。


 焼き菓子の包みが膝の上にある。オットーの焼き菓子は、いつだって少し甘すぎる。それが今は、ちょうどいいと思った。



 馬車の轍が門の外へ消えた。


 砂利を踏む音が遠ざかり、やがて何も聞こえなくなった。


 使用人たちが持ち場に戻っていく足音を背中で聞きながら、俺は玄関に立っていた。


 見送りには出なかった。


 出る理由がわからなかった──というのは嘘だ。出れば何か言わなければならない。何を言えばいい。「達者でな」か。「世話になった」か。六年間、報告書の確認以外の言葉をろくにかけなかった男が、最後だけ気の利いたことを言うのは滑稽だろう。


 だから出なかった。


 屋敷の中に戻り、廊下を歩いた。


 自分でも、どこに向かっているのかわからなかった。足が勝手に動いている。執務室を通り過ぎ、東の棟に入り──妻の私室の前で、止まった。


 扉を開けた。


 空だった。


 調度品は残っている。寝台、書机、椅子、衣装棚。だが棚の中は空。書机の上は空。何もかもが、形だけ残って中身を抜かれている。


 窓辺に、花瓶が一つだけ残されていた。


 白い陶器の花瓶。中に花が一輪。紫と白の花弁が──もう萎れて、色を失いかけている。水が替えられていない。いつから放ったままだったのか。


 部屋の空気が冷たい。暖炉に火が入っていない。当然だ、住む人間がいないのだから。


 書机の引き出しを開けた。引き継ぎ書の写しがヘルマンから回されてきていた。目を通す。


 商会の名前。契約の期限。税の申告手順。


 文字は読める。だが、数字の意味がわからない。


「南方商会・契約更新:三月」。それがどの程度の規模の契約なのか。更新しなければ何が起きるのか。交渉の窓口は誰で、どういう手順で進めるのか。引き継ぎ書には名前と日付しか書かれていない。


 ──当然だ。俺は六年間、この帳簿を一度も自分で読んだことがない。「報告は確認した」と言い続けた。確認したのは数字だけだ。数字の裏にある人間の顔を、俺は一度も見ていなかった。


 ……なぜ、考え直さないのだ。


 苛立ちが喉の奥に溜まった。誰に対する苛立ちなのか、自分でもわからない。考え直せと言ったのに、あの女は──。


 窓の外に目を向けた。


 庭が見えた。


 妻が育てた庭。紫と白の花壇。丁寧に配置された色の組み合わせ。


 花壇の縁が、わずかに崩れ始めていた。雑草が一本、石の隙間から顔を出している。


 庭師の老フリッツはいるが、あの庭の設計を知っているのは妻だけだ。どの花をどこに植え、どの季節にどう手入れするか。フリッツは妻の指示に従って鋏を入れていただけだ。


 指示を出す人間が、もういない。


 花瓶の萎れた花を、もう一度見た。


 紫と白。名前は知らない。妻が何と呼んでいたか、聞いたことがない。

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