第1話 離縁を申し出ます
「離縁を申し出ます」──六年間の沈黙を破ったのは、私の方だった。
夫の執務室の扉は、樫の木でできている。
毎朝、侍女が蜜蝋で磨き上げるその扉を、私は六年間、自分から叩いたことがなかった。用があるときは執事のヘルマンを通す。それが侯爵家の作法であり、夫との距離の測り方だった。
今日、私は一人で廊下に立っている。
指先が冷たい。三月の陽光は窓硝子の向こう側で、廊下までは届かない。
呼吸を整えた。腹の底に溜めた言葉は、もう何日も前から決まっている。王都の婚姻管理局に問い合わせた書簡の返答も、部屋の文机の奥にしまってある。三年以上の実質的な別居は、離縁の正当事由になる。六年。十分すぎた。
扉を、叩いた。
二度、控えめに。侯爵夫人として叩き込まれた作法の通りに。
最後まで、作法通りの妻でいよう。それだけは決めていた。
「──入れ」
低く、落ち着いた声が返る。
取っ手を回す手が、少しだけ汗ばんでいた。
◇
執務室は整然としていた。
壁面の書架、分厚い革表紙の法典、窓際の机に広げられた地図。蝋燭の灯りではなく、春の陽が室内を白く照らしている。
レオンハルトは窓を背にして座っていた。
羽根ペンを置き、顔を上げる。灰青の瞳が私を捉えて──ほんの一瞬、わずかに見開かれたのは、おそらく驚いたのだろう。妻が一人で訪ねてくるなど、六年間で一度もなかったのだから。
けれどその驚きは一瞬だった。すぐにいつもの、凪いだ表情に戻る。
「珍しいな。何か用件か」
用件。
──ああ、そうだ。私が夫の部屋を訪ねるのは「用件」があるときだけだ。それ以外の理由で来ると思われてもいない。六年かけて、そういう関係をこの人は完成させた。
「レオンハルト様」
社交の場と同じ呼び方をした。二人きりの部屋でも、それ以外の呼び方を私は知らない。
「離縁を、申し出ます」
声は震えなかった。
自分でも不思議なほど、平坦な声だった。
レオンハルトの手が止まった。机の上に置いた羽根ペンが、わずかに転がる。
沈黙が落ちた。
この人の沈黙を、私はよく知っている。何かを考えているときの沈黙。怒っているわけでも、悲しんでいるわけでもない。ただ情報を処理している。戦場で状況を読むように、私の言葉を分析している。
──そんな顔をされるのだろうとは、思っていた。
「理由を伺ってもよいか」
丁寧な言葉遣い。社交の場で他家の当主と話すときと、同じ声の温度。
「あなたの親友を、愛してしまいました」
二度目の沈黙は、一度目より長かった。
レオンハルトの瞳がかすかに揺れた。灰青の水面に、小石が落ちたように。六年間、一度も見たことのない種類の揺れだった。
「……なぜ」
その一言は、問いの形をしていなかった。
なぜ──何を聞きたいのだろう。なぜ親友なのか。なぜ今なのか。なぜ離縁なのか。この人は「なぜ」としか言えないのだ。六年間、私の感情に踏み込んだことがないから、今さらどの扉を叩けばいいのかわからないのだ。
だから、私が答えを選んだ。
「六年間あなたに聞いてほしかった言葉を、あの方が三日で全部聞いてくれたからです」
◇
三週間前のことを、思い出す。
ディートリヒ・ブルクハルト子爵。夫の騎士団時代の同期であり、親友。剣の稽古で肩を痛め、療養のためにこの屋敷に逗留した。たった三日。
あの人は、私が淹れた茶を飲んで言った。
──美味い。
たった三文字。
(……それだけのことだ。それだけのことで、私の中の何かが、音を立てて壊れた)
あの人は、庭を歩いて言った。見事だ、と。誰が手入れをしているのかと聞かれ、私ですと答えたら、目を丸くして笑った。
夕食の席で、私が領地の薬草について話したとき──あの人は、ちゃんと笑った。愛想ではない笑い方で。面白い話を聞いた人の、あの無防備な顔で。
それだけ。
本当に、それだけだった。
六年間。私はこの屋敷で、名前を呼ばれなかった。
正確に言えば、社交の場では呼ばれた。「セシリア」と。他家の夫人の前で、王宮の広間で、私の名前を口にした。完璧な侯爵として。周囲が求める「良い夫」として。
けれど、二人きりの部屋で、あの人は私を名前で呼ばなかった。一度も。
寝室は最初の夜から別だった。一度だけ、共にしてほしいと願い出たことがある。夫は答えた。「別室の方が互いに休まる」。それきりだった。
会話は領地の報告。私が整えた帳簿を確認し「報告は確認した」と返す。私が三年かけて開拓した南方商会との交易路も、二年かけて立て直した領地の税収も、夫の口から出る言葉は同じだった。
報告は確認した。
──仕方がない、と思っていた。六年間ずっと。仕方がない、仕方がない。政略で嫁いだのは私だ。愛を求める方が間違っている。この人は義務を完璧に果たしている。暴力も、浮気もない。何も不足はないはずだ。
仕方がない。
仕方がなくなんか、なかった。
あの三日間が、教えてくれた。茶を美味いと言ってもらえること。庭を褒めてもらえること。自分の言葉に、誰かが笑ってくれること。──それは「ただそれだけ」ではなかった。私が六年間、一度も与えられなかったものの全部だった。
ディートリヒ子爵が屋敷を去る朝、私は自分の胸の中に、あってはならない感情を見つけた。
行かないでほしい。
そう思った瞬間、覚悟が決まった。
この感情を抱えたまま、この屋敷にいてはならない。不貞を犯す前に──この結婚を、終わらせなければならない。
◇
回想から、戻る。
レオンハルトは椅子に座ったまま、私を見ていた。あの凪いだ表情が、わずかに──本当にわずかに、崩れている。眉の間に、見たことのない皺が寄っていた。
「……考え直してくれないか」
その声を聞いて、私は少し驚いた。
考え直す。この人の口から、そんな言葉が出るとは思わなかった。政略結婚の解消を、契約の変更として処理すると思っていた。条件を確認し、手続きを進め、事務的に終わらせるのだと。
──けれど。
「考え続けて六年が過ぎました。もう十分です」
一礼した。深く、丁寧に。侯爵夫人として最後の礼を。
背を向け、扉に手をかける。
取っ手が冷たかった。入ってきたときと同じ温度。何も変わっていない。この部屋は六年前からずっとこの温度だ。
廊下に出て、静かに扉を閉めた。
足音を立てず、五歩。
壁に背を預けて、深く息を吐いた。
手が震えていた。両手を握りしめると、爪が掌に食い込んだ。
──終わった。
六年間、この廊下を何百回と歩いた。いつも背筋を伸ばして、侯爵夫人の顔をして。今日もそうしている。作法通りの足取りで、作法通りの姿勢で。
ただ、手だけが震えていた。
振り返らなかった。
あの扉の向こうで夫が何を考えているのか、私にはわからない。六年間わからなかったものが、今日わかるはずもない。
足を動かした。自分の部屋へ向かう。荷造りを始めなければ。帳簿の整理も。引き継ぐべきものと、持ち出すものの仕分けも。
やることは、山ほどある。
──それでいい。手を動かしていれば、震えは止まる。六年間、ずっとそうしてきた。




