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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。

敵は本能寺にあり。ただし武器はコンビニスイーツです ~臆病な軍師が反乱を起こすまで~

作者: 綾香真澄
掲載日:2026/02/11

『敵は本能寺にあり。ただし武器はコンビニスイーツです ~臆病な軍師が反乱を起こすまで~』


序章


 ガラス越しの夜景が、会議室の中にまでじわりと滲んでいた。十九時を少し回ったソレイユ本部ビル最上階。窓の外には、細かいネオンの粒が、暗い海に浮かぶ漂流物みたいに無数に散らばっている。ここだけが陸の孤島だ。厚い防音ガラスに隔てられた室内には、パソコンのファンの回転音と、空調の低い唸りだけが、重たい水のように満ちている。


 テーブルが中央にある会議室。上座には役員と営業本部長と商品本部長。向かい側に品質管理のトップ、開発部門の兵頭(ひょうどう) 課長(かちょう)と、新商品開発担当のわたし 立花(たちばな) 芽依(めい)が並んで座っている。上質なレザー張りの椅子は、座る者の体重だけでなく、その場に漂う焦燥感までも吸い込んでいるようだ。背中にじっとりと嫌な汗が溜まる感覚がある。


 マホガニー調のテーブルの上には、「拡散」「トレンド入り」という赤い文字が踊る資料の束が散乱している。壁一面の大型モニターには、見慣れた水色のSNS画面が映し出されていた。

 `#ソレイユロールケーキ`。そのハッシュタグがついた投稿が、滝のような勢いで、上から下へと流れていく。

 ――子どもが食べてたロールケーキから金属片出てきたんだけど

 ――これ、飲み込んでたらヤバかったよね?

 ――ソレイユ大丈夫? 公式が何も言わないの怖い


 昼過ぎには、すでにトレンドの上位に入っていた。ワイドショーのニュースサイトも「ネットで話題に」と煽り記事を出し始めている。会議が始まる前、自席でこのモニターを見上げながら、胃の奥が雑巾のように絞り上げられ、きゅっと冷たくなるのを感じていた。

「議題は一つだ」

営業本部長の低い声が、白い天井に跳ねて落ちる。その声に乗っている湿った不機嫌さが、テーブルの上にたちの悪い地雷原を作っていく。

「全国主力スイーツ・ロールケーキへの金属片混入疑惑。回収か、火消しか。どちらを取るか、だ」

隣の椅子がわずかに軋んだ。兵頭課長が脚を組み替え、手元の資料をぱらぱらとめくる。乾いた紙のこすれる音が、やけに大きく耳に残った。彼は、まるで他人事のように資料の角を指で弾いている。

「回収はダメだ」

営業本部長が、言葉をテーブルに叩きつけるように言った。

「コストもブランドも吹き飛ぶぞ。全国展開の主力だぞ? 売上インパクトは計算したか。億単位の損失になる」

品質管理のトップが、眉間の皺を指で揉みながら、眼鏡のブリッジを押し上げた。

「まずは原因究明を優先すべきです。該当ロットの出荷数からすると、クレーム件数は決して多くはありません。現時点では限定的ですし、工場ラインのチェックを――」


 その慎重論を切り裂くみたいに、兵頭課長が軽い調子で口を開いた。

「“問題なし”で押し通しましょう」

その一言で、会議室の気圧が一段低く沈んだ気がした。

彼は役員たちの顔色を伺うこともなく、当然の正解を述べるように続ける。

「ツイートは個別対応。お詫びクーポンでも送っておけば、だいたい落ち着きますよ。公式からのプレスリリースは出さない方向で。余計な燃料になりますから」

「君ねぇ」

品質管理が顔をしかめる。けれどその声には、売上数字を持たない人間の、決定的なためらいが滲んでいた。


 その瞬間だった。わたしの視界が、ぐにゃりと音を立てて歪んだ。

蛍光灯がチカッと瞬いて、窓の外のネオンが溶け出した絵の具のように滲む。空調の風が頬を撫でる。その人工的な冷たさが、なぜか肌を焼くような焚き火の熱風に変わる。

 ――あ、来る。

慣れてきた、けれど抗いようのない予感が、うなじの産毛を逆立てる。現実の輪郭と、いつもの「それ」が、ゆっくりと、しかし確実に混ざり合い始める。直線だった長机の縁が、陽炎のように揺らぐ。磨かれた木目調の天板が、ささくれた畳を敷きつめた広間の床几に変わっていく。壁一面のモニターは、そのまま敵兵の陣形図になり、青いアイコンの群れは、攻め寄せる槍と旗の林に姿を変える。


 会議室の白い壁が、黒く焦げ始める匂いがした。天井の吸音パネルが、炎に舐められる欄間に見える。役員たちのイタリア製のスーツは、いつの間にか直垂と重厚な大鎧に変わり、彼らは炎に包まれ燃え崩れゆく城の天守閣で、「どう退却すれば損失が少ないか」「いかにして金銀を持ち出すか」だけを必死に計算している武将になっていた。


 耳の端で、誰かのスマホのバイブレーションが震える。机の上で光る画面。その小さな振動音は、戦場に降り注ぐ無数の矢羽根の唸りに変わる。`通知`という名の火矢が、城の外から途切れなく飛び込んでくる。


 わたしの中で、ひとつの句が鮮やかに立ち上がる。

 ――時は今 あめが下しる 五月かな。

明智光秀が、あの本能寺に火をかける前夜に詠んだと伝わる連歌。

ずっと本で追いかけてきた人の声が、今だけは、はっきりと耳元で響いているように感じる。

ふと横を見ると、わたしのすぐ隣に、彼が立っていた。

古びた鎧を身につけ、静かな瞳で燃え盛る天井を見上げている。明智光秀だ。彼の肩当てに火の粉が落ちても、彼は顔色ひとつ変えない。桔梗の紋が入った水色の旗が、見えない熱風に煽られてバタバタと音を立てている。


 わたしは拳を、膝の上でぎゅっと握りしめた。爪が掌に食い込み、じわりと脂汗が滲む。わたしは、燃え始めた本能寺の広間の末席で、ただ縮こまっている一兵卒にすぎない。

 ここで何も言わなければ、炎はきれいに上へと伸びて、いずれはこの城も、城下町も、全部飲み込んでいく。


「これは、うちの会社全体の戦だ」

 自分の心の中で、そう言葉にしてみる。誇張でも比喩でもない。数字とブランドと信頼と安全が、一つのテーブルに押し込まれた、今夜だけの戦場だ。わたしが、どうしたいのか。何を守りたいのか。


 揺らめく炎の向こうで、その問いだけが、妙にくっきりと浮かび上がっていた。わたしは、自分の役割をまだ知らない。ただ、燃え落ちる天井を見上げながら、喉の奥で言葉にならない何かが熱く渦巻いているのを感じていた。それは恐怖なのか、それとも、ずっと腹の底に溜め込んでいた怒りなのか。光秀が、ゆっくりとこちらを振り向こうとしている気配がした。



 議論は「どう燃え広がるか」ではなく、「見える炎をどう隠すか」へと急速に偏っていく。

「ロット限定で回収なんてしたら、逆にニュースになるだろう」

営業本部長が、手元のプリントを指で叩く。白い紙に乗った赤い折れ線グラフが、一瞬、拍動する血管みたいに見えた。

「“安全性に問題なし”って検査結果を出せないのか」


「検査機にかからないサイズの微細な金属片かもしれません。現状の設備では断定が難しく……」

品質管理担当者の声は、会議室の冷気にあっさりと溶けて消えた。

「だからこそ、回収なんて言い出せば負けなんだよ」

営業本部長の言葉に、商品本部長も深く頷く。

「世の中、何でも“炎上”って言いたがるからね。こちらが慌てて動けば、“やっぱり黒だったんだ”と決めつけられる。最小限の文言で、“問題なし”を強調する方向でどうだろう」

「ロールケーキは主力だ。店から引き上げる損失は計り知れない。ここで腰が引けた対応をして、他チェーンに顧客を流すわけにはいかない」


誰もが、もっともらしい顔をして頷いている。それは、「隠せば、一時は逃れられる」という甘美な麻薬だ。誰かがぽつりと落とした本音の一行が、戦場視界の中で黒い矢となって床に突き刺さる。その先に広がる破滅には、誰も目を向けようとしない。喉の奥で、なにか硬いものがきしんだ。我慢の限界だった。


「このままでは、天も、お客様も、私たちを許しません」

 声が出た瞬間、自分でも驚いた。震えていると思ったのに、意外と落ち着いた響きだった。空気が、すうっと冷える。並んだ椅子すべてから、視線が末席へ向かう。蛍光灯の白が、まるで尋問室のスポットライトみたいに、わたしの席だけを照らしている気がした。

「立花さん」

左隣から、怒声が落ちてきた。

「君の開発製品じゃないだろう。黙っていなさい!」

兵頭課長の声は、部屋の空気を震わせるほど大きかった。

彼の顔は笑っているように見えるが、目は爬虫類のように冷たく、まったく笑っていない。「余計なことを言うな」という無言の圧力が、物理的な質量を持ってのしかかる。レザーの椅子が、ぎゅっと音を立てた。足が、反射的に竦む。


 戦場視界の炎が、一瞬だけ強くなる。本能寺の屋根に火が移り、巨大な梁がきしんで崩れ落ちる音が、頭の奥で鳴り響いた。武将たちはまだ、自分たちの足元が燃えていることに気づいていないふりをしている。彼らの足元に広がる畳には、すでに黒い焦げ跡がじわじわと伸び、出口を塞ごうとしているのに。

 ――天は見ている。

知っているはずの一句が、今夜はいつもよりも重く、鉄の塊となって胸に落ちる。

天道恐るべし。人の知る所にあらざるも、天の知る所なり。

 ――それでも、黙るのか。


 心臓が、早鐘みたいに打ち始める。鼓動が、耳のすぐそばでうるさい。掌はびっしょりと濡れていた。冷房の風が頬を撫でる。その冷たさが、なぜか顔を焼くような熱に感じられる。どこで、こんな戦場に迷い込んだんだろう。ふと、そんな考えが浮かぶ。気づけば、燃え盛る炎のカーテンの向こう側に、別の光景が滲み始めていた。


 初めてソレイユの試作品を前に、プレッシャーで手を震わせた日。

「大丈夫、あなたの味覚は正しい」と、会議室の隅でわたしを庇い、笑ってくれた先輩の横顔。

最初のプレゼンで、スライド一枚見せただけで「詰めが甘い」と軽く捻り潰してきた、モード系の帰国子女。

そして――「俺の菓子を安物にするな」と冷たくわたしを見おろした、あの職人気質のパティシエの目。


 過去の断片が、走馬灯のように、炎のスクリーンに映っては消える。そのどれもが、ここへ続く道だった。瓦礫の中に埋もれていた頃のわたし。何度も「事なかれ」でやり過ごした会議。見なかったふりをしてきた理不尽たち。


 それらを一つひとつ見つめるように、わたしはゆっくりと息を吸った。肺の奥まで、焦げ臭い幻臭と、冷たいオフィスの空気を入れる。掌を、膝の上でいったん開く。指先の震えを、そこに置いてくる。


「立花さん?」

兵頭課長の声が、もう一度呼びかける。今度は、明確な苛立ちと殺気を帯びていた。

わたしは、椅子から立ち上がった。

レザーが軋む音が、爆音のように大きく聞こえる。

脚は、さっきまで思っていたほどには震えていなかった。


 炎の中で、光秀がこちらを振り返る。燃え落ちる伽藍の下で、甲冑の肩越しに、一瞬だけ目が合う。戦場視界の中の彼は、わたしが本で読んできたどの肖像画よりも、はっきりとした輪郭を持っていた。

「天道恐るべし。人の知る所にあらざるも、天の知る所なり」

光秀が、広間の炎を見上げながら静かに呟く。その声は、会議室の空調の唸りとスマホの振動音のあいだを縫うようにして、わたしの耳に届いた。

「逆理に従い、一時の利を得ることは易し。

されど、その城は、いずれ天の雨に崩れ落ちる」


 彼はわたしを見ない。ただ、燃え続ける本能寺の天井を見上げている。それでも、その横顔だけで、十分だった。

 ――名を名乗れる者だけが、戦場に立てる。

 昨夜、自分のワンルームで聞いたばかりの言葉が、もう一度、耳の奥で反響する。


「開発担当としてではなく、一人の立花芽依として、申し上げます」

自分の声が、会議室の凍りついた空気を裂いた。

驚きの気配が、波紋のように広がる。役員たちの目が点になり、兵頭課長の口が半開きになる。誰かが小さく息を呑む音がした。炎の中で、光秀が静かに頷く。

「異物混入があった事実を認め、該当ロットを回収すると公表すべきです」


 誰のものでもない、わたしの一人称による反逆。その言葉が、この物語のすべての起点になる。なぜ、事なかれ主義だったわたしが、この言葉を言える女になれたのか。どうして、引き返せない場所まで来てしまったのか。答えは、少し前の時間の中にある。


 視界が、真っ白に弾けた。炎に包まれた広間の赤色が、強烈なホワイトアウトにかき消されていく。現実の蛍光灯の光が、モニターのブルーライトと混じり合い、世界を塗りつぶす。耳にまとわりついていた矢羽根の唸りが遠ざかり、空調の低い音に戻っていく。


 数か月前――。あのとき、わたしはまだ、自分のことを「瓦礫のごとく沈淪せし者」だと思っていた。コンビニのきらびやかなショーケースの向こうに、血の通った戦場が広がっていることを、本当の意味ではまだ知らなかった。


 時間は、静かに巻き戻る。甘いバニラの匂いと蛍光灯の白に満ちた、あの日の開発部のフロアへ。ここから、立花芽依の仕事と恋と友情の戦場が、ようやく幕を開ける。


第1章 瓦礫からの初陣



冬の朝の光は、どうしてこうも味気ないんだろう。


 十二月の都心。始業三十分前のソレイユ本部ビルのフロアは、まだ半分くらいしか灯りがついていない。窓際の自席だけ、ぽつんと蛍光灯の白に晒されている。外の空は、夜と朝の間でくすんだ青色。ビル風がガラスを叩く音が、かすかに耳に届いていた。


 いつも通り、私の一日は、同じ色合いで始まる。椅子に腰を下ろし、PCの電源ボタンを押す。ファンが回り出す低い音が、静かなフロアにぼんやりと広がっていく。島型に並んだデスクの海。その端っこ、窓際の席が私の陣地だ。ホワイトボードは少し離れた共用スペース。まだ誰もいないそこに、アイディアの断片が昨日のまま残っている。


 「目立たない・ミスしない・波風立てない」

もし自己紹介を三行でまとめろと言われたら、たぶんそう書くだろう。実際、私はそういう社員だ。五年目。スイーツ開発担当。ソレイユのスイーツ棚を、一ミリでも良くしたくて入った会社で、いつの間にか「空気を読むのが得意です」が特技になってしまった人間。


 ブラウスの襟を直しながら、ログイン画面を眺める。アイボリーの襟先に、小さなレースがひとつ。自分だけが知っている、ささやかな自己主張。上に羽織ったグレーのカーディガンが、それをきっちり隠しているのが、いかにも私らしいな、と苦笑する。


 今日は定例の新商品企画会議の日だ。プリンターから吐き出された企画書を揃えながら、資料の表紙を見つめる。《電子レンジで10秒のご褒美 ハイブリッド・シュー》。黒字のタイトルの下、私の名前が小さく印刷されている。


 電子レンジで温めると美味しいシュークリーム。外側の生地は、加熱することでバターの香りがふわっと立ち上がるように調整したパイシュー。中のクリームは二層構造だ。外側は、温めるととろける「温製カスタード」。中心部は、レンジ後も冷たさを保つ「アイスカスタード」。


 アツアツの香ばしい生地に、ひんやりした濃厚クリーム。その温度差が口の中で出会う瞬間を想像して、配合を詰めてきた。夜勤明けの看護師さん。塾帰りの中高生。残業の帰りに、ふらっと立ち寄る会社員。誰かの一日の終わりに、電子レンジの「チン」という音が小さな号砲になればいい。


 工場ラインに無理が出ないよう、原価と想定売価もきっちり詰めた。数字は地味だけど、堅実な線だ。それでも、会議室のスクリーンに並べられたとき、この案はきっと「地味枠」に分類される。わかってはいる。それでも、「これがいい」と思ってしまった自分をごまかしたくなかった。


 九時前。徐々に人が増え始め、キーボードの音がフロアに散り始める。空気がぬるくなったあたりで、内線が鳴った。

「立花さん、そろそろ会議室入って」

「はい」と答え、私は資料の束を抱えて立ち上がる。


 会議室は、いつも通り蛍光灯の白で満たされていた。二十人ほどのメンバーが席につく。前方にはスクリーン。最前列の中央は役員が陣取っている。


 先にプレゼンに立ったのは、部署のスター・早乙女 玲 (さおとめ れい)だった。立ち上がった瞬間、空気が変わる。暗めアッシュブラウンのロングヘアを片側だけ耳にかけ、モノトーンのジャケットスーツを完璧に着こなしたシルエット。切れ長のヘーゼルの瞳がスクリーンを見上げると、それだけで「今日の主役は私」と宣言しているようだ。


 スライドには、ネオンカラーのフォントで《韓国風×SNS映え》の文字。ポップなフォントが、会議室を一瞬で渋谷の夜に変えてしまう。

「今回は、Z世代をメインターゲットにしたコラボスイーツのご提案です」

玲の声は、よく通る。画面には、グリッターシュガーでキラキラに飾られたカラフルなクロッフルや、ハート型のドリンクゼリーが次々映し出される。インフルエンサーを起用したPR動画のモック。縦動画用の構図。バズりを見込んだハッシュタグの案。


「この場での一次拡散は、TikTokとInstagramリールを中心に設計しています。K-POPダンス動画と合わせて、UGCが自然発生する動線を……」

役員たちは笑い、頷き、楽しそうに質問を投げる。

「このインフルエンサー、うちの娘が好きなんだよ」

「この色づかいは、攻めてていいねぇ」

玲は、どんな質問にも淀みなく答える。完璧な笑顔と流暢な語りで、会議室の空気をみるみる自分の色に塗り替えていく。彼女の周りだけ、蛍光灯の光が少し暖色めいて見えるから不思議だ。


 私の資料は、その隣でひっそりと積まれていた。白い表紙の上に、小さく《ハイブリッド・シュー》の文字。薄い紙束は、玲のネオンカラーに挟まれて、一段と頼りなく見えた。

「次、立花さん」

名前を呼ばれて、心臓が一拍分だけ止まる。立ち上がると、椅子の脚がカーペットを擦る音がやけに大きく響いた。スクリーンの横に立ち、プロジェクターのリモコンを握り直す。自分の指が、少し汗ばんでいるのがわかる。


「開発部スイーツ担当、立花です。本日は、《電子レンジで10秒のご褒美 ハイブリッド・シュー》をご提案します」

一枚目のスライドを映す。シンプルな白地に、温め前・温め後のシュークリームの写真。二枚目で、断面のイラストを表示する。外側の温製カスタードと、中心のアイスカスタード。色を変えた二層の図に、「アツアツ」「ひんやり」という小さな吹き出しを添えてある。

「電子レンジで十秒温めると、外側の生地のバターが香り立ちます。外側のカスタードはとろっと温かく、中心部はひんやり冷たさを保つ二層構造です」


 三枚目で、「ターゲットの一日」のイラストを映す。夜勤明けの白衣の女性が、早朝のコンビニでスイーツ棚の前に立っている。塾帰りの制服の子が、友だちと笑いながら電子レンジの前に並んでいる。残業帰りのスーツ姿の男性が、レジの列に並びながらスマホを見ている。

「夜勤明けの看護師さんや、塾帰りの中高生、残業帰りの会社員の方々に、“今日もよく頑張ったね”という小さなご褒美をイメージしました」


 そこまで言ったところで、隣の席から視線を感じる。兵頭課長が、あからさまに顔をしかめているのが見えた。太めのストライプのネクタイが、椅子の背でちょっとだらしなく揺れている。嫌な予感が、背中を冷たく撫でた。

「悪くない。悪くないけどさあ……」

 課長が、声を上げる。その「さあ」の伸ばし方に、すでに棘が仕込まれている。

「地味だよね」


 会議室の温度が、すっと一度下がったように感じた。

「今どきさあ、誰がこんなのSNSに上げるんだ? パンチがない」

笑いながら言っているのに、笑っていない目。私は、手の中のリモコンをきゅっと握りしめた。

言い返したい言葉はいくつもあった。「でも、夜勤明けの人って、そんなに映えを求めてないと思います」とか、「パンチじゃなくて、じわっと効く系も必要じゃないですか」とか。けれど、喉の奥で全部石みたいに固まってしまう。


 玲が、隣の席からさらりと口を開いた。

「現場目線は大事なんだけどさ」

フォローの予感に、つい期待してしまう。

「詰めが甘いと、“ただのいい子案”で終わっちゃうよ?」

語尾に、うっすら笑みを乗せた一言。観客を味方につける、見事な刃の振り下ろし方だった。


 スクリーンに映る「ターゲット像」のイラストたち――ぐったりした看護師さんや、疲れた顔でコンビニに立ち寄る会社員――が、急に心許なく見える。蛍光灯の光が、紙の白を余計に薄くしていく。

「有彩さんだったら、もっと面白くできてたのかな」

胸の奥で、そんな声がよぎる。


「この子のいいところは、“誰がいつ食べるか”を真剣に考えるところです」

新人時代。初めてのプレゼンでセリフを噛み倒したとき、会議室の空気が固まりかけた瞬間、姉川 有彩 (あねかわ ありさ)さんがさらりと笑ってくれた。

 

「商品は数字じゃなくて、“誰かの一日”をちょっと変えるんだよ」

有彩さんの言葉だけが、今も私の芯のどこかに残っている。


 でも、有彩さんは今、もうこのフロアにはいない。広報に異動して、別の戦場で戦っている。

「恩、まだ返せてないのに……」

そう思った瞬間、胸の中の自己像が、瓦礫みたいに音もなく崩れた。スクリーンの光が、その崩れた石片ひとつひとつを、容赦なく白く照らしている気がした。



 会議が終わると同時に、息が一気に抜けた。ロの字に並んだ椅子から、人がばらばらと立ち上がる。笑い声。安堵のため息。次の会議の予定を確認する声。会議室の空気は、もう「今日のプレゼン」から離れてしまっている。


 私の資料は、テーブルの端に置き去りにされていた。回収しながら、指先で紙の端をなぞる。さっきまで、ここには私の「誰かの一日」が詰まっていた。今はもう、ただの印刷物だ。


 廊下に出ると、冬の冷気が少しだけ漏れ込んできていた。フロアの暖房と、ドアの隙間から忍び込む冷たい空気が、妙な層を作っている。あったかいのに、どこか心細い温度。


 自席へ戻ろうとした時、視界の端でグレージュのジャケットが揺れた。

「お疲れ」

振り向くと、有彩さんがいた。赤みのあるブラウンのボブが、蛍光灯の下で柔らかく光っている。長めの前髪を指先で耳にかける仕草は、昔と変わらない。

「……有彩さん」

思わず背筋が伸びる。彼女は軽く笑って、「プレゼン、聞いてたよ」と言った。


「“誰がいつ食べるか”のとこ、相変わらず好きだな」

「ありがとうございます。でも……」

「でも、って顔してる」

先回りされて、苦笑いが漏れる。

「派手さは大事。今のソレイユは、特にね」

有彩さんは、少しだけ肩をすくめた。

「でも、“誰かの一日”は、そう簡単にバズらないからさ。時間かかるやつ」

「……時間、掛けてもいいんですか?」

自分でも驚くくらい、小さな声が出た。有彩さんは、一瞬だけ目線を泳がせる。

「掛けたいと思う人が、まだ何人か残ってるうちは、たぶん大丈夫」

そう言って、すぐに手元のタブレットに目を落とした。

「じゃ、広報フロア戻るね。また今度、ちゃんとお茶でもしよ」

「はい」

颯爽と歩き去る背中に、「戦場を移した人」の余裕と疲れが同時に滲んでいた。


 自席に戻ると、まだPCの画面は会議前のまま固まっていた。マウスを動かしてログインすると、メールの未読数が増えている。スケジュール表のマス目が、テトリスのように隙間なく埋まっていく。


「芽依さん!」

突然、視界いっぱいにピンクが飛び込んできた。顔を上げると、若月(わかつき) 直美(なおみ)ちゃんのブラウスがそこにあった。柔らかいピンク色。丸顔がにぱっと近づいてくる。

「あたし、さっきの“ハイブリッド・シュー”、めちゃくちゃ良かったと思います」

「……ありがと」

「だって、温めると美味しいとか、アツいじゃないですか」

両手で「アツい」を強調するのは、完全にギャグのノリだ。でも、その目は本気だった。

「夜勤明けの看護師さんのイラスト、あれ見たとき、ちょっと泣きそうになりましたもん。あー、こういうの食べて救われる人、絶対いるって」

「そう、かな」

「そうですよ。だって、芽依さんのホワイトボード、いつも“誰かの一日”の話してるじゃないですか」

彼女は、共用スペースのホワイトボードを見る。


「この前の『明智光秀的コンビニ戦略マップ』とか、最高でしたよ。“これは桶狭間と同じパターンです”とか言ってて」

「いや、あれは……」


 思い出して、耳が熱くなる。つい調子に乗って、社内会議で「このスイーツは小大名ポジションなんで、安易に天下取り狙うと桶狭間コースです」とか言った日のことだ。あのとき笑ってくれたのは、直美ちゃんと、あと数人だけだった気がする。

「もっと言っていいと思いますけどね、光秀ネタ」

「いや、あんまり言うと本気で引かれるから」

「引かないですよ。あたし、好きですもん。ああいうの」

その一言で、胸の中の瓦礫が少しだけ軽くなる。


 そこへ、フロアの奥からバタバタと走る足音がした。振り向くと、ネイビーのスーツに白Yシャツ姿の男性が、慣れない革靴で滑りそうになりながら近づいてくる。

「立花先輩!」

新田 悠治 (にった ゆうじ)。営業部の店舗SV。私より三つ年下の、犬系男子だ。

「さっきの会議、行けなかったんですけど……」

彼は息を切らしながらも、目だけキラキラさせている。

「この前の“ほうじ茶ラテプリン”、うちの担当エリアで一番売れてましたよ!」

「え?」

思わず聞き返す。あの、地味に企画して地味に出ていったプリン。


「POPで“仕事終わりのご褒美に”って書いたら、OLさんに刺さったみたいで。SNSとかは全然ですけど、POS見るとじわ~っと右肩上がり」

新田くんは、自分のタブレットを取り出し、グラフを見せてくれた。穏やかな傾きの線が、確かに上に伸びている。

「先輩のコンセプト、そのままっすよ。“誰かの一日をちょっと変える”ってやつ」

「そんなこと、言ったっけ」

「言ってましたよ。打ち合わせで。僕、そういうのけっこう覚えてますから」

にかっと笑う顔は、まるで褒められた犬が尻尾を振っているみたいだ。

「立花先輩のホワイトボード図解、マジでカッコいいっすからね。“こことここがボトルネックです”とか、一刀両断で」

「そんな大したもんじゃ……」

「いや、マジで。僕、店長さんたちにも説明するとき、先輩の図そのまま使ってますからね。みんな“わかりやすい”って言ってましたよ」


 現場の声。数字のグラフ。その二つが重なった瞬間、ハイブリッド・シューの紙束よりも、ずっと重い何かが胸の奥に積もる。それは、今にも折れそうな瓦礫の下から伸びてきた、小さな支柱みたいだった。

「……ありがと」

ようやく、それだけ言う。直美ちゃんが、横でにこにこしながら頷いている。

「ね? ちゃんと届いてるんですよ、芽依さんの“地味案”」

「地味案って言わないで」


 そんなやりとりをしていると、背後から影が落ちた。

「おい、立花さん」

振り向くと、兵頭課長が立っていた。細い目尻に、あからさまな不機嫌さが貼り付いている。

「会議の反省は済んだか?」

「はい。次回は――」

「次回とか考える前にさ」


 課長は、わざと声を少し張る。周囲のデスクから、ちらほらと視線が集まるのがわかった。

「お前、もう五年目だよな? あの程度の企画しか出せないって、正直ヤバいよ」

空気がぴん、と張り詰める。

「地味。センスがない。お前が担当だと売れないんだよ」

言葉が、ひとつずつ杭になって胸に打ち込まれていく。

「早乙女さんを見習えよ。ああいうのが“今のソレイユ”には必要なんだよ」

玲の名前を出されると、反論の余地が完全に塞がれる。彼女の企画が数字を叩き出しているのは事実だ。

「はい……」

 喉の奥で固まりそうな返事を、なんとか押し出す。それが一番波風が立たないと、体が覚えてしまっている。


「若月さん」

課長は、直美ちゃんにも矛先を向ける。

「お前もだよ。“あたし、これ好きです”じゃなくて、“これならバズります”って案を持ってこいよ」

「……はい」

直美ちゃんの笑顔が、一瞬だけしぼむ。その変化を、課長は見てもいない。


 「新田くんは、忙しいのにわざわざここ来なくていいから。店回りして、ちゃんと売ってこいよ。うちのスイーツ」

「はい、頑張ります」

新田くんは、相変わらず笑顔で返す。けれど、目の端にほんの少しだけ曇りが差したのを、私は見逃さなかった。


 課長が去っていくと、フロアに残ったのは気まずい沈黙だった。

「……すみません、新田くんまで巻き込んじゃって」

「いえいえ。僕なんか、犬扱い慣れてますから」

冗談めかして笑う彼に、直美ちゃんが「犬系男子?」とからかう。笑い声が、さっきまでの重さをほんの少しだけ薄めてくれた。


 その日の夜、部署全体の飲み会があった。忘年会という名目で集まった二十人ほどが、居酒屋チェーンの座敷にひしめいている。テーブルの上を、唐揚げの皿とピッチャーのビールが行き交う。


「かんぱーい!」

 乾杯の音頭とともに、ジョッキがぶつかり合う。店内のBGMは、どこかで聴いたことのあるJ-POP。天井のダクトから、焼き鳥の煙の匂いが降りてきていた。

最初の一時間くらいは、仕事の愚痴と笑い話で穏やかに進んだ。玲はいつものように、役員にウケた裏話をさらりと披露し、周りを笑わせている。直美ちゃんは、となりの女子たちと「推し俳優」の話で盛り上がっている。新田くんは、店長さんの面白エピソードを身振り手振りで再現していた。


 ビールのピッチャーが三つ目に突入したあたりで、空気が少し変わる。兵頭課長の頬が赤くなり、声のボリュームが一段階上がった。

「いやぁ、早乙女はさ、やっぱり“華”があるよなぁ」

玲は「また始まった」とでも言いたげに、ふっと笑ってグラスを口元に運ぶ。

「プレゼン見てるとさ、“ああ、これが今のソレイユだよな?”って思うわけ」

「ありがとうございます」

 玲は、謙遜とも受け取りづらいトーンで短く返す。

「お前らも、ちょっとは見習えよ?」

 課長の視線が、私と直美ちゃんのテーブルに滑ってくる。

「立花さんなんかさ、地味でさぁ。もっと派手にやれよ?。どうせ独身なんだから、仕事くらい頑張れよ」

周囲に聞こえるような声量。テーブルの上のグラスが、居心地悪そうに揺れる。


「女の子はさ、三十越えたら厳しいよ? 仕事ばっかりしててもしょうがないんだからさぁ。結婚とか、ちゃんと考えてる?」

笑いを誘うつもりの「冗談」。でも、その笑いに混じる空気は、あまりにも重かった。

「……はい、一応」

曖昧に笑ってグラスを傾ける。ビールが喉を通る前に苦く感じる。

「独身なんだからさ、今度の土曜出てよ。既婚組は家族サービスだからさぁ。ね?」

「……わかりました」

断れない。「協調性がない」と言われる未来が、あまりにもはっきり見えてしまうから。

「そういうとこだぞ、立花さん。“はい”しか言わないから、いつまで経っても三流なんだよ」

笑い声の中で、その一言だけが、やけにクリアに耳に残った。


 隣で、直美ちゃんが小さく拳を握りしめているのが見えた。新田くんは、遠くの席からこちらをちらりと見る。目が合うと、ものすごく困ったような顔で微妙に笑った。座敷の上を、笑いと煙がぐるぐると渦巻いている。天井の低さが、息をするスペースまで一緒に押し潰してくるみたいだ。


――ここで「おかしい」と言えたら、私の人生は違ったのかもしれない。

そんな考えが、一瞬だけ頭をよぎる。でも、口は「はい」としか動かない。手は、自動的にグラスを持ち上げる。泡を飲み込むたびに、胸の中の何かが少しずつ沈んでいく。カレンダーのマス目を思い浮かべる。休日の四角も、平日の四角も、全部同じ色で塗りつぶされて見えた。



午前中、開発フロアの一角が、いつもより少しざわついていた。

「ねえねえ、見た?」「本当にやるんだって」

プリンターの前や給湯室で、同じ単語が飛び交う。《 朝香 翔 (あさか しょう) 》。テレビでよく見る名前。ガトーショコラの名店。雑誌の特集で「夕方には売り切れ」と紹介されていたパティスリー。


「静かに」

兵頭課長が、手を叩いて簡易ミーティングを始めた。開発の会議室。ロの字に組んだテーブルに、開発メンバーがぐるりと集まる。二十人には満たないけれど、フロアの空気がそこにぎゅっと凝縮される。


「じゃあ、例の件、発表するぞ」

 課長は、机の端に腰をかける。濃紺のスーツが少し皺になっても気にしない仕草が、「俺は偉い側の人間だ」という無言の演出みたいに見えた。

「超有名パティシエ・朝香翔氏とのコラボ企画。会社として正式にGOが出た」

小さなどよめき。誰かが小声で「マジか」と呟く。


「それで、今回の担当は……立花だ」

自分の名前が出た瞬間、心臓が一瞬だけ止まった。

「え」

声にならない声が喉の奥で跳ねる。周りの視線が一斉に集まる。期待、驚き、同情。いろんな感情の色が、一瞬でこちらに流れ込んでくる。


 玲は、すぐに笑顔を整えた。

「良かったじゃない」

モード系のジャケットの袖を軽く払う仕草で、さっきまでのざわめきを払う。

「名誉挽回のチャンスね」

涼やかな声。その奥に、「あなたには荷が重いでしょうけど」という棘がしっかり仕込まれているのを、私はちゃんと聞き取ってしまう。

「早乙女もフォローに入るからな」

課長がさらりと言う。

「でも、メインは立花さんだ。しくじったら終わりだぞ。これが最後のチャンスだと思え」

「……はい」

それしか言えなかった。

「俺が上に話を通してやったんだからな。感謝しろよ」

そういう言い方をするときの課長の笑顔は、いつもより少しだけ目が細くなる。「成功したら俺の手柄。失敗したらお前一人の責任」。その構図が、言葉の背後でくっきりと輪郭を持って揺れていた。


 解散の声とともに、人の輪がばらけていく。直美ちゃんが、すぐさま駆け寄ってきた。

「芽依さん、すごいじゃないですか!」

目がきらきらしている。

「朝香翔ですよ? テレビの! パティシエ界のアベンジャーズみたいな人とコラボですよ?」

「例えが雑だよ、直美ちゃん」


 苦笑しながらも、心のどこかで、小さな火が灯るのを感じていた。

――有彩さんなら、どう受け止めただろう。

「“面白そうじゃん。戦場らしくなってきた”って笑うかな」

脳裏に、有彩さんの肩の力の抜けた笑顔がよぎる。その笑顔を思い浮かべるだけで、「捨て駒」という言葉で覆い尽くされかけた胸の中に、細い柱が一本通る気がした。


 自席に戻ると、私はすぐにブラウザを立ち上げた。《朝香翔 レシピ本》。検索結果に並んだタイトルを、片っ端からクリックする。Amazonのページで「カートに入れる」を何度も押す音が、冬の静かなフロアに小さく響いた。


 翌日の昼休み。届いたばかりのレシピ本のページを、食堂の片隅でめくる。ページいっぱいに載ったガトーショコラの断面図。濃いチョコレートの層、薄く挟まれたガナッシュ、土台のビスキュイ。写真の下には、シンプルなのに妥協のないレシピが並んでいる。


「……きれい」

思わず声が漏れた。断面が、建物の構造図みたいに見える。私はペンを取り出し、ノートにその断面を写し始める。層の厚み、比率、温度管理。


 午後、共用スペースのホワイトボードを陣取った。黒いマーカーで、ガトーショコラの断面を大きく描く。上層から順に、《グラサージュ》《ショコラ生地》《ガナッシュ》《土台》。それぞれに矢印を引き、「風味の核」「食感の核」「コストインパクト」と書き込んでいく。


 戦場視界が、じわりとにじむ。ホワイトボードの白が、戦況図の紙に変わる。ガトーショコラの断面は、城郭の構造だ。天守、二の丸、堀。どこを削ったら城が落ちるか。どこなら土塁を低くしても持つか。


 「ここを削ったら、城は落ちる」

ガナッシュの層に丸をつける。ここは、絶対にいじれない。

「ここは、少し薄くしても、“魂”は残る」

グラサージュの厚さに、△マークをつける。全国の工場ラインで再現するには、ここに一番制約が出るだろう。温度管理、コーティングの歩留まり、作業時間。


 「敵:原価/工場ライン制約」

 「味方:朝香翔のレシピ本/現場の知恵」

 「地形:コンビニのスイーツ棚」


 ホワイトボードの端に、小さくそう書き込む。自分の頭の中の軍議を、そのまま外の世界に転写していく作業だった。


 夕方、外はすっかり暗くなっていた。窓の外のネオンが、蛍光灯の白に溶けかけている。デスクに戻ると、直美ちゃんが心配そうに覗き込んだ。

「大丈夫ですか? 顔、ちょっと青いですよ」

「大丈夫、大丈夫」

笑顔を作ってみせる。自分でもわかるくらい、ぎこちない笑顔だった。

「なんか、“初陣”って感じがして」

「う・い・じ・ん?」

直美ちゃんに取っては聞き慣れない言葉のようだ。

 「うん。今までの会議って、なんだかんだで誰かの後ろに隠れてたから。今回は……前に出なきゃいけない戦、なのかもしれないなって」


 言いながら、自分でその言葉に少し驚く。私はいつから、こんなふうに自分の仕事を「戦」と呼ぶようになったんだろう。

多分、有彩さんのせいだ。

――商品開発ってさ、毎週が合戦みたいなもんだよ。油断したら、すぐ討ち死に。

新人時代に笑って言われた一言が、今さらながら骨に染みてきている。


 デスクの引き出しから、ライトベージュのトートバッグを引き寄せる。中には、エプロンと、買ったばかりの朝香レシピ本。明日の午後、私はそれを抱えて、敵陣――二子玉川のパティスリーへ向かうことになる。


 「これは、私の初陣だ」


 そう心の中で呟いた瞬間、背筋に一本、細い矢が通ったような感覚があった。恐怖と高揚が、一つの弦にかかった弓みたいに、ぴんと張り詰めている。



 翌日の午後。私はエメラルドグリーンの帯の電車に乗っていた。中央林間行きの電車は、平日の昼下がりでほどよく空いている。


 膝の上には、ライトベージュのトートバッグ。中には貸与された白いエプロンと、何度も読み込んだ朝香翔のレシピ本。表紙の角が、少しだけ丸くなっている。

「飛び込みで行くとか、正気じゃないよな」

小さくつぶやいてみる。上司には、「近くまで行く用事があるので、ついでにご挨拶してきます」とだけ伝えてある。「段取りは?」と聞かれて、「先方には事前にお電話します」と答えた。本当は、電話なんてかけてない。


頭の中で、薄い戦況図が広がる。ここで言う「敵」は、もちろん朝香翔本人じゃない。本当の敵がどこにいるのかは、まだうまく言語化できない。ただ、自分がこれから足を踏み入れる場所が、「甘い匂いのする戦場」であることだけはわかっていた。


河岸段丘の端で、電車は長いトンネルを抜け出す。冬の空は、薄い雲が一面に伸びた灰色。二子玉川駅で降りると、多摩川からの風が頬を刺した。玉川高島屋の西側にある柳小路。クールグレイ色のタイルを敷き詰めた路地に、小さな店が並んでいる。ガラス張りのブティック、カフェ、そして――目的のパティスリー。


 ショーケースの向こうで、宝石みたいなケーキたちが整列していた。鏡面仕上げのグラサージュ。光を受けて宝石のように艶めくナパージュ。マカロンが、色相環みたいに規則正しく並んでいる。

「すご……」

思わず息を呑む。レシピ本で見た断面たちが、「完成品」としてここに並んでいる。ガトーショコラの上に、薄くかかったグラサージュ。その艶と厚みを、何度も計算した。ここから、どこを削って、どこを守るか。


「いらっしゃいませ」

奥の厨房から現れた声に、心臓が跳ねた。


 現れたのは、テレビ画面より少しだけ細く見える男だった。真っ白なコックコート。胸元に店のロゴの刺繍。袖は肘までまくり上げられ、前腕に細い筋肉が浮いている。黒に近いダークブラウンの髪を、低い帽子の下で無造作に流している。切れ長の目が、こちらを一瞥した。


「……何かお探しのものはございますか?」

 低めの声。抑揚は少ないのに、音の端が鋭い。

「はい。あの、突然すみません。ソレイユ本部のスイーツ開発部で――」

 会社名を口にした瞬間、彼の眉が、ごくわずかに動いた。警戒というより、「ああ」という諦めに近い色。

 「コンビニさんね」

 「はい。立花芽依と申します」

名刺を差し出す手が、少し震える。彼はそれを受け取って、視線だけでざっと読み、すぐにカウンターの隅に置いた。


 「それで?」

「今回は、御社……じゃなくて、朝香さんのガトーショコラの世界観を、コンビニというインフラを通じて、より多くのお客様に届けられないかと……」

用意してきた言葉を、なんとか並べる。

「大量生産が前提ですので、こちらのような高価な素材は全ては使えないのですが、味の核は絶対に守る形で――」

そこまで言ったところで、彼の表情が露骨に曇った。


「……は?」

たった一音。なのに、空気が一気に冷えた。

「俺の菓子を、そんな安物と一緒にするな」

言葉が、ナイフみたいにまっすぐ飛んできた。

「コンビニ用に“劣化コピー”作れってことだろ。商業主義のビジネスウーマンには、菓子の魂は理解できないらしい」

胸の奥を、ざっくりと薙がれた感覚があった。


「商業主義」「わかってない」。

社内で何度も陰で言われてきた言葉が、今度は店のカウンター越しに、正面から突き付けられる。しかも、“本物”だと皆が認める職人の口から。

本来の私なら、ここで黙って引き下がる。

「不快にさせてしまって、すみません」

 そう言って頭を下げ、店を出て、上司に「やっぱりダメでした」と報告する。課長に「だから言っただろ」と笑われて、飲み会のネタにされる。そうやって、「失敗」はいつも誰かの笑いの種に変換されてきた。


 でも今日は、喉の奥で何かが引っかかった。

――ここで引いたら、全部“なかったこと”になる。

遅くまでレシピ本を読んだ夜。ガトーショコラの断面を何十枚も描いた自分の手の痛み。ホワイトボードの前で、「ここを削ったら城は落ちる」と自分に言い聞かせた時間。それら全部が、「ここで黙ったら裏切りだ」と背中を押してくる。

「魂を、万人に届く形にするのが、私の仕事です」

気づいたら、そう言っていた。

自分の声が、思ったより落ち着いていたことに、私自身が驚く。


 厨房の空気が、一瞬だけ止まった。グラサージュの艶も、ショーケースのライトも、その一瞬だけ色を失った気がする。

「ご立派な建前だな」

朝香翔は、鼻で小さく笑った。

「でも俺は、魂を薄めてまで広げるつもりはない」

交渉は、それきり進まなかった。


 具体的なレシピの話に入る前に、「今日はこれで」と言われてしまう。名刺だけがカウンターの隅に取り残される。店を出た瞬間、甘い香りがスッと背中から剥がれ落ちた。


 外は、もう夕暮れだった。柳小路の細い通りにオレンジ色の街灯が点き始める。空気は一段と冷えて、指先がじんと痛い。


 その瞬間、戦場視界が、容赦なく襲ってきた。街灯が、松明に変わる。通りの先から、煙と火花が上がる。スクランブル交差点の人波が、槍を構えた敵兵の突撃に見える。胸の中に、矢の雨が降り注ぐ。

「これは、“敵陣深くに少数で乗り込んだ愚策”だったか……」

自嘲が口をつく。

頭の中で戦況図を描こうとしても、味方の駒が自分一人しかいないことに気づいて、笑ってしまう。笑いはすぐに凍りつき、白い息になって消えた。


 二子玉川駅の改札口が近づいて、明智光秀の声がふいに降りてきた。

――敵は、本能寺にあり。

まだ、その言葉の指す「敵」がどこなのかは、わからない。目の前で私を切って捨てたパティシエなのか。彼をここまで尖らせた業界なのか。それとも、もっと別の何かなのか。


 準急の車内。吊革につかまりながら、スマホの画面に目を落とす。新着メールが一件。「新企画・進捗状況」。差出人は、兵頭課長。

開く前から、背筋に冷たいものが走る。

――どうせ、「やっぱりお前には無理だったな」って内容だ。

そう思った瞬間、胸の奥のどこかが、逆に静まった。戦場視界の炎が、じわじわと弱まっていく。電車の揺れが、馬の蹄の振動みたいに遠くで響いている。


 私は、メールを開かなかった。画面を閉じ、スマホをトートバッグの底に沈める。

「この初陣、始まる前から終わるかもしれない」

そう思う。だけど、同時に、別の声も聞こえていた。

「いや、まだ“初陣”にも立っていない。今日はただ、敵陣を見ただけだ」


 自嘲と、ほんの少しの意地。混ざり合ったそれを胸に抱えたまま、私は電車の窓に映る自分の顔を見つめる。蛍光灯に照らされたその顔は、相変わらず地味で、頼りなさそうだった。でも、目の奥だけは、ほんの少しだけ鋭くなっていた。


第2章 共闘の火種



翌日の朝、九時ちょうど。モニターの青白い光がまだ眠たげなオフィスで、内線の電話が短く震えた。

「立花さん、ちょっといい?」

兵頭課長の声だった。湿った不機嫌さが、デスクの上にじわじわと広がる。わたしはボールペンを置き、小さく息を吸って席を立った。


課長席の近くは、いつも空気が重い。天井の蛍光灯は同じ白さなのに、ここだけ光がくすんで見える。

「朝香さんとの打ち合わせ、どうだった?」

兵頭課長はPCから目を離さずに訊いた。PCの横には、玲さんのカラフルなプレゼン資料が置かれている。


「……大量生産への拒否反応が強くて。まだ、何も決まっていません」

できるだけ事実だけを並べる。余計な感情を混ぜると、そこを突かれるのはもう学んだ。

露骨な舌打ちが返ってきた。

「せっかくのビッグネームだぞ? 形だけでも企画まとめろよ。ダメなら担当変えるから」

乾いたキーボードの音が続く。

「あ、上には“順調です”って言っとくからさ」

その一言が、机の上の書類に薄い爆弾の影を落とす。

「順調です」が、いつでも「立花がトチった」に裏返ることを、わたしはもうよく知っている。

「……はい」

声が自分のものじゃないみたいに小さく出た。


自席に戻ると、モニターの右下でチャットの通知が点滅している。開くと、部署のグループに玲さんの華やかなコラボ写真が流れていた。黒とゴールドのシックなパッケージ。海外ブランドのロゴ。ラグジュアリーなポップアップ店舗の写真。

「#映え」「#神コラボ」

スタンプが次々と飛び、役員たちのアカウントが「さすが早乙女だ」とコメントしている。画面の中だけ、紙吹雪が舞っているみたいに賑やかだ。

わたしはタッチパッドを滑らせ、そのウィンドウをそっと閉じた。

目の前には、昨日まで開きっぱなしだった朝香翔のレシピ本。チョコレートの光沢が、紙の上で冷たく光っている。


「このままだと、“担当交代”で終わる。わたしじゃなくてもできた仕事になる」

喉の奥で、言葉にならないものが重く転がる。それは、姉川有彩さんから受け取ったバトンを、何もせず地面に落とすことを意味する。新人の頃、震えるわたしの隣で、するりと空気を変えてくれた有彩さん。まだ、一度も恩を返せていない。


窓の外は薄曇りで、ビル風がガラスをかすかに鳴らしている。デスクの上にコンビニおにぎりのビニールがすべる音がした。

「芽依さん、顔が“討ち死に寸前の足軽”ですよ」

直美ちゃんが微笑みを浮かべ昼休みにやってきた。ラベンダー色のブラウスが揺れる。

「そんなにひどい?」

「ひどい。鎧ボロボロ。槍も折れてる感じ」

「槍は、まだ折れてない……はず」

冗談で返してみると、直美ちゃんは目を丸くして、それから少しだけ真顔になる。

「芽依さんの案が通らないの、あたし、いつもモヤモヤしてます。

現場もお客さんも、ちゃんと見てるのに。なんで“映え”のほうだけ褒められるんだろうって」

誰かがそう思ってくれていることが、胸の奥のどこかをそっと撫でる。


PCの画面隅に、通知が出る。新田くんからの個別チャットだ。

「立花先輩のほうじ茶プリン、まだ売れてますよ!

 昨日も“これじゃなきゃ嫌だ”ってお客さんいました」

モニターの中から、現場の空気が一瞬だけ流れ込んでくる。冷たい社内の空気とぶつかって、小さな渦を作る。


本部の評価と現場の声。その落差が、蛍光灯の白さを二重に見せる。

「どこかが、間違ってる」

わたしは、心の中で小さく呟いた。ここで引いたら、きっとずっと「そういう人」のままだ。波風を立てず、バトンを落とすたびに笑ってごまかす人。


レシピ本のページをめくる。紙の匂いとカカオの写真が混じって、胸の奥が少しだけ熱くなる。

「……もう一回だけ、行こう」

怖さよりも、「自分で決めた戦」を投げ出したくない気持ちが、ほんの少しだけ勝った。

机の上でペンを握る手が、さっきより少しだけ強くなっているのを、自分で確かめた。


数日間、仕事終わりの時間が、まるごと一つの戦場になった。会社の近くのカフェ。夕方6時を過ぎると、店内は蛍光灯ではなくオレンジ色のペンダントライトに切り替わる。その下のテーブルを、一冊のノートとレシピ本と、飲みかけのカフェラテが占拠していた。


ノートに、ペンの跡が散っている。「ガナッシュ」「生クリーム」「焼成」「温度プロファイル」「ペルソナ」専門用語と、見慣れた社内用語が、同じインクでごちゃ混ぜになっていく。


レシピ本のページをめくるたびに、写真のチョコレートが違う表情を見せる。濃いビターの層、ツヤのある表面、断面に見える気泡の細かさ。

「菓子は“誰か一人の救い”になりうる」

その一節に、ペン先が止まった。

胸の内側を、細い糸で引かれたみたいに、そっと掴まれる。

わたしはそこに心の中で二重線を引く。「誰か一人」

それは、レポートの「ターゲット」とか「セグメント」なんて言葉じゃ追いつかない、顔のある“誰か”だ。


ノートには、図が増えていく。丸で囲んだ層を矢印でつなぎ、「ここで味が変わる」「ここで香りが抜ける」と書き込む。頭の中で、ガトーショコラが平面図から立体地図に変わっていく。

「この構成は、長篠の鉄砲三段撃ち……いや、違う」

思わず、心の中で戦国用語が顔を出す。

違う役割を与えられた層。先に香り、次に甘さ、最後にほろ苦さ。

「陣形」と「レシピ」が、脳内で妙な重なり方をする。


戦場視界の気配が、カップの縁あたりでちらちらと揺れる。

「層=陣形」「素材=兵種」「焼成温度=天候」。

頭の中のマップが色づきはじめる。


店の奥で店員が椅子を上げはじめる音がして、慌ててノートを閉じた。外に出ると、夜風が鼻先を撫でる。ビル風は冷たいのに、胸のあたりだけ熱が残っている。


数日後。彼の店が一番混まない時間をネットで調べて、閉店の少し前を狙って、わたしはパティスリーに向かった。夕方五時半。ガラス越しに見えるショーケースの中は、少し隙間が多くなっている。白い照明が、残り少ないケーキの上で金属みたいに光っていた。


ベルが鳴る音が小さく響く。店内の甘い香りが、外の冷たい空気と境界線を作っている。そこに、前回と同じ無愛想な顔があった。

「この前の人か」

朝香翔は、コックコートの袖を肘までまくり上げ、立っていた。

わたしは、鞄からクリアファイルを取り出した。

中に入っているのは、一枚のスケッチ。

彼の代表作ガトーショコラの断面図と、それをコンビニ仕様に落とし込んだ案。

「勝手に描いてすみません。でも、あなたのレシピ本を全部読んで、

 “ここを削ったら魂が死ぬ”ラインを、自分なりに考えてきました」

広げると白い蛍光灯が紙の上の線をくっきり浮かび上がらせる。

層の高さ、チョコと生クリームのバランス、焼いたあとに膨らむ余白を想定して、ところどころに小さなメモを書き込んである。

朝香さんはノートを覗き込んだ。空気が、一瞬だけ止まる。


「……この断面、正確だ」

低い声が落ちる。指先が、ほんの指一本分だけノートに近づく。

「君、菓子のこと、勉強してきたのか」

「あなたの店に通うお金も時間もない人に、“それでも一口、あなたの世界を届けたい”んです。それが、コンビニだと思ってます」

言いながら、自分でも少し驚いた。

いつもは「ターゲット層」だの「価格帯」だのとしか言わないのに、今、口から出たのは「世界」という言葉だった。


前回は即座に「商業主義」と切り捨てた人が、今回は言葉を飲み込んでいた。

ショーケースに反射する光だけが、じわじわと揺れる。

長い沈黙のあと、ぽつりと落ちた。

「……試しに、作ってみるか」


「試しに」

その3文字は、まだ敵軍の門がほんのわずかに開いただけかもしれない。

それでも、わたしには「初めて味方の駒が増えた」と感じられた。

胸の奥で、何かが小さく灯る。篝火ではなく、ろうそくの炎くらいの。それでも確かな、光。



街はすっかり夜。柳小路のインテリアショップのガラスに映る自分の顔が少しだけ戦に出る前の兵士みたいにこわばっている。Outlookのスケジュールには、将来への四角と過去のフォローの複雑な図形が落ちてくる。気づけばテトリスみたいに隙間なく埋まっていた。本社での会議を終え、工場との電話をこなし、資料をまとめる。空の茜色がすっかりプルシアンブルーに変わる頃、二子玉川の玉川通りを渡った。


厨房に入ると、空気が違った。静かで、機械の音がはっきり聞こえる。ステンレスの台に当たる金属のカチャリという音が、薄い水面に輪を広げる石みたいに、部屋全体に波紋を作っている。

「遅くなってすみません」

「時間通りだろ」

朝香さんは、相変わらずぶっきらぼうだ。

白いコックコートの袖を肘まで捲り上げ、チョコレートのボウルを混ぜている。腕の筋が、かすかな陰影を作っていた。


わたしは白いエプロンを身につけた。腰の紐を結ぶと、自分の輪郭が一段階くっきりする気がする。白さが、心の奥のどこかをシャキッとさせる。

「お前も手を動かせ。口だけの奴は信用しない」

「……はい」

ボウルを受け取ると、溶かしかけのチョコレートの香りがふっと立ちのぼる。

甘さより先に、カカオの苦みが鼻の奥に届いた。重たいけれど、嫌いじゃない重さだ。


そこから先は、「甘い共闘」なんて言葉からはほど遠かった。ぶつかり合いの連続だった。

「このバターじゃ香りが死ぬ」

「でも、このグレード以上は全国供給できません。物流と原価が……」

「ナッツはローストし直せ。香りが全然違う」

「工場のラインでは、そこまでの手間はかけられないんです。人も焼成も、時間が決まっていて」

言葉を交わすたびに、空気の温度が一度ずつ上下する。

わたしはできる限り代替案を並べるけれど、彼は一つずつ首を振る。

「妥協は、裏切りだ」

短く言われたその一言に、何も返せなかった。

数字やロットの話はできても、「妥協」と「裏切り」を同じ皿に乗せて語ったことなんて、今まで一度もなかったからだ。


オーブンの灯が、奥で橙色に揺れている。その光が、篝火みたいに見えはじめた。並べられたタルトの台が、火に照らされた兵士の列に見える。戦場視界が、じわじわと輪郭を持ちはじめる。

「兵糧を軽んずる者、戦に勝ることなし」

口が勝手に、光秀の言葉をなぞっていた。

しまった、と思ったときにはもう遅い。

「兵糧?」

朝香さんが怪訝そうに振り返る。

「いえ……菓子は兵糧みたいなものだなって。これを食べて、誰かが一日を戦い抜くんだと思うと」

言いながら、自分でも少し笑いそうになる。

会社では絶対言わない比喩だ。

けれど、ここではオーブンの熱と一緒に、なぜかすっと出てきてしまった。

ふっと、彼の表情が緩む。硬い金属の表面に、指でそっと触れたみたいに、小さな変化だった。

「……変な例えだな」

「ですよね」

「でも、わからなくはない」


休憩を挟もう、と彼が言った。厨房の隅の小さな丸椅子に腰かけると、足の裏に一日分の疲れが一気に戻ってくる。冷蔵庫の低い唸りが、遠い太鼓の音みたいに響いている。

「実家、洋菓子屋だったんだ」

突然、彼が口を開いた。

驚いて顔を上げると、彼は視線をチョコのボウルに落としたままだった。

「駅からちょっと離れた住宅街の、ちっちゃい店。いつも同じ曜日、同じ時間に来る女性がいてさ。毎週金曜に、“今週もこれで乗り切りました”とか言いながらショートケーキ買ってくの」

ステンレスの台に、薄く笑い声の残像が浮かんだ気がした。


「店を畳むとき、その人が“この味がなくなるの、寂しいです”って泣いてさ。その顔が、ずっと頭から離れなかった」

「だから、“安物”って言われるのが、一番嫌いなんだ」

彼の声が、少しだけ低くなった。

「俺にとって菓子は、そういう“最後の一口”なんだよ」


その言葉は、胸の奥で静かに共鳴した。夜勤明けの看護師。深夜の警備員。終電を逃した若者。ホワイトボードの端にいつも書いていた「誰か」が、一人ずつ顔を持って立ち上がる。

「……わかります」

それしか言えなかった。

でも、その一言には、わたしのコンビニスイーツに救われた夜の全部を、ぎゅっと畳んで押し込んだ。


作業を再開しようとしたとき、指先に鋭い痛みが走った。作業台の角で、左手の人差し指を浅く切ってしまったらしい。赤い線がじんわり滲む。

「あっ……」

声を上げる前に、彼の手が伸びた。

無言で戸棚から救急箱を取り出し、消毒とバンドエイドを用意する。

「見せろ」

手を差し出すと、彼の指がわたしの指をそっと掴んだ。アルコールの冷たさと、彼の指の熱さ。心臓が、いつもより一拍早く打つ。

「気をつけろ。味より先に、血の匂いがしたら台無しだ」

ぶっきらぼうな言い方だけれど、バンドエイドを巻く手つきは驚くほど丁寧だった。

指先に巻かれたシャドーピンク色が、妙に眩しく見える。


けれど、肝心の試作品はなかなか形にならなかった。工場仕様に寄せれば寄せるほど、彼の眉間には深い皺が刻まれる。

「これは、俺の菓子じゃない」

「でも、ラインはこれが……」

言葉の続きを、わたし自身が飲み込む。

「限界」という言葉でごまかすのは簡単だ。でも、それは彼にとっての「妥協」になる。


二人の間に、また重たい沈黙が落ちた。時計の針は容赦なく回る。オーブンの熱はまだ残っているのに、背中に冷たい汗が伝う。


ここまで歩み寄ったのに、「根っこはやっぱり違うのかもしれない」という不安が、じわじわと足元から這い上がってくる。

彼が巻いてくれたバンドエイドだけが、小さな防波堤みたいに、かろうじてわたしを踏みとどまらせていた。



何度も配合と工程を調整して、ようやく、「これなら」という形が見えはじめた。

カカオの比率をぎりぎりまで落とさず、香りと食感の決め手になる真ん中の層だけは、工場でも可能な範囲で手作業に近い工程を残す。その代わり、土台と上の部分は、ラインで再現可能な工程に簡略化する。


「ここまでなら、ラインも回せるはずです」

わたしがノートに工程を書いて見せると、朝香さんは黙って聞いていた。


焼き上がったタルトが、ステンレスの台の上に並ぶ。表面は落ち着いたブラウンで、ところどころに艶が宿っている。さっきまで粉とバターとカカオ、卵の集合体だったものが、一気に「菓子」に変わる瞬間だ。

「……食べてみろ」

彼が一つ、わたしのほうへ滑らせた。

フォークの先でゆっくり切ると、中の層がきれいに顔を出す。濃いチョコの帯、その下に、少しだけ明るい色の柔らかい層。

ひと欠片、口に入れる。

舌にまず、濃厚なチョコの重みが乗る。すぐあとから、ほのかな甘味が追いかけてきて、最後にふわっと苦みが引いていく。

ずっと張り詰めていた糸が、そこでふっと緩んだ。


「……おいしいです」

思わず、声が震える。胸の奥から、何かがせり上がってきて、涙腺のすぐ手前で止まった。

「“戦のあと”に食べたい味です」

ぽろりと出たたとえに、自分で少し驚いた。焼け残った兵たちが、ようやく腰を下ろして、焚き火のそばで一口だけ分け合うような。そんな情景が、舌の上で広がる。

「戦?」

「はい。なんか、“生き残った兵士だけの夜明け”みたいな」

彼は呆れたように眉を上げた。

「変な例えだな」

「わたし、明智光秀オタクでして……」

いつもの癖で、つい口が滑る。

「本能寺の前夜に食べた最後の夜食が、こんな感じだったら……」とか、「兵糧担当の誰かが、このタルト作ってたら……」とか、心の中では全力で暴走しているけれど、さすがにそこまでは言わない。


「……オタクかよ」

小さく吐き捨てるように言いながら、口元の片側だけがほんの少しだけ上がった。笑った、というほど大げさではない。でも、無表情の仮面に細い亀裂が入ったのがわかる。わたしはもう一口、タルトを味わった。さっきまでの苦い戦いが、少しだけ報われた気がした。


店を出ると、外は土砂降りだった。アスファルトに打ちつける雨音が、薄暗い街路を白く煙らせている。街灯のオレンジが、水たまりの上でぐちゃぐちゃに揺れていた。

「傘、持ってないのか」

背後から声がして振り向くと、ドアのところに立つ彼が、黒い折りたたみ傘を片手に持っていた。

「……はい。天気予報、見てなくて」

「入るか?」

ぶっきらぼうな一言と一緒に、傘がこちら側にぐいっと押し出される。

わたしは慌てて駆け寄って、その小さな屋根の下に滑り込んだ。


二人で一本の傘に入ると、世界が急に狭くなる。濡れたアスファルトの匂いと、彼のコロンの微かな香り。肩と肩の間の、紙一枚あるかないかの距離。

「なんでコンビニなんかに入ったんだ?」

雨音に混じって、彼の声が聞こえた。

傘の内側は、街の音よりも自分の鼓動のほうが大きく響く空間だ。

「“どこにでもあるけど、誰かの最後の砦”だから、です」

自分でも、よくそんな言葉がすぐに出てきたなと思う。

でも、口にしてみると、そのフレーズは雨に濡れた街灯の光みたいに、すっと胸の中に灯りをともした。


「受験のときとか、失敗した日とか。 コンビニでスイーツ買って帰ると、“明日もなんとかなるかも”って思えたんです。だから、わたしも誰かの“一日”を、ちょっとだけ支えられるものを作りたくて」

「……ふうん」

短い返事。

けれど、横目で見た彼の表情は、いつもの冷たさよりも少しだけ柔らかかった。


「あなたは、なんでパティシエに?」

問い返すと、しばらくの沈黙があった。雨粒が傘の上で弾ける音が、会話の隙間を埋める。

「……ガキの頃、母親が病気で入院しててさ」

ぽつり、と言葉が落ちた。

「ほとんど何も食えなかったのに、ある日、看護師がプリン持ってきて。それだけは、“美味しい”って笑って食ったんだよ」


駅までの短い道が、ゆっくりと伸びていく。彼の話す声が、雨音と一緒に、灰色の夜を少しずつ色づかせる。

「そのとき思った。

“誰かを笑顔にする菓子を作りたい”って」


彼の横顔は、街灯の下で少しだけ幼く見えた。わたしは、何と言えばいいかわからなくて、ただ「……そうなんですね」と呟く。

「それでも、“安物”って言われるのは嫌だった。

しかし……コンビニに並ぶってことは、俺の手が届かない人にも届くってことか」


そう言って、ふっとこちらを見る。

雨粒が頬に一つ落ちて、そのまま顎のほうへ細い筋を描いていった。


「君は、なんでそんなに頑張るんだ?コンビニの商品開発なんて、誰も褒めてくれねえだろ」

駅の入り口が近づいてくる。

「……コンビニで買ったスイーツに、何度も救われたからです」

声に出すと、胸の中で長く眠っていた何かが、ようやく姿を現した気がした。

「学生のとき、辛い日も、帰り道にコンビニで好きなスイーツを買うと、“明日も頑張ろう”って思えたんです。だから、わたしも誰かの“明日”を支えるスイーツを作りたい」


彼は驚いたように、まっすぐこちらを見た。傘の中で、その視線に包まれる。雨音が遠くなる。

「……君は、面白いな」

小さく笑いながら言ったその一言が、胸の奥で長く響いた。


改札を通って、彼は左側の下りホームへの階段へ向かう。振り返って、短く手を振る。

「また明日な」

「……はい、また明日」


電車の中で窓に映る自分の顔が、ほんの少しだけ赤いのに気づいて、慌てて視線を逸らした。

「この人の菓子を、ちゃんと成功させたい」

さっきまで「仕事」として並べていた言葉が、少し形を変えて、胸の中で静かに燃えはじめている。


午後三時の会議室は、冷房の風と甘い匂いで満ちていた。白いテーブルクロスの上に、新作スイーツが整列している。プラスチックフォークが、小さな槍みたいに並んでいた。数日後の社内試食会。


わたしと朝香さんのチョコレートタルトは、端のほうに控えめに置かれている。一口サイズにカットされた断面が、静かにこちらを向いていた。

「これ、落ち着くね」「なんか、ほっとする味」

口にした人から、そんな声がぽつぽつと漏れる。派手な歓声ではないけれど、柔らかい拍手みたいな感想たち。


隣のテーブルでは、玲さんの「SNS映えスイーツ」が眩しいライトを浴びていた。

鮮やかな色合いのパフェ。カラーミンツ、カラフルなチョコレートの粒のトッピング。

「写真撮ろう!」「バズりそう」

笑い声とシャッター音が、そこだけ別のフェス会場みたいに弾けている。


「立花さんのは、地味だなあ」

背後から、兵頭課長の声が落ちた。その一言で、さっきまでの柔らかい空気が一気に冷える。

「味は悪くないけどさ。売り場で埋もれるだろ、これじゃ。

 そういうところ、早乙女を見習えよ」

「……はい」

返事をするとき、自分の声が少しだけ遠くから聞こえた。


人混みの向こうで、玲さんが自分のグラススイーツをプレゼンしている。完璧な笑顔。滑らかな言葉。役員たちが頷き、笑う。


ふと、その彼女がわたしのチョコレートタルトを見る。フォークを伸ばし、チョコタルトを口に運ぶ。ヘーゼル色の瞳が、わずかに見開かれた。けれど、その感想は口をついて出ることはない。ただ、次の瞬間には、いつものクールな表情に戻っていた。


試食会が終わって片付けが始まるころ、直美ちゃんがこっそり近づいてくる。

「芽依さん、戦場から帰ってきた顔してますね」

「そうかなぁ?」

「うん。命からがら逃げて帰ってきた感じ」

少し笑ってしまう。


そこに、新田くんが近づいてきた。

「立花先輩、コラボしているパティシエのこと……気になってるんですか?」

フォークの先で残りのケーキをつつきながら、ふと真顔で訊いてきた。

「えっ、な、なんで」

「いや、タルトの話してるときの先輩、目が違うから」

「そ、そんなことないよ。仕事だから」

即座に否定しながら、頬が熱くなるのを止められない。

「気になってる」という言葉の意味を、ちゃんと考えないように、慌てて心の中でかき消す。


そのとき、社内メールの通知音が一斉に鳴った。画面を開くと、件名が目に飛び込んでくる。

「早乙女企画・全国展開決定」

会議室の蛍光灯が、一瞬だけ篝火みたいに揺れた気がした。玲さんのテーブルの上だけ、紙吹雪が舞っているように見える。


わたしのタルトは、まだテスト販売止まり。

「この差は、一体何なんだろう」

天井を見上げると、白い光が目に刺さる。胸の奥で、小さなざわめきが生まれた。


第3章 栄光と炎上



「やっぱり、すごいですね。玲さん」

誰かのそんな声が、フロアのあちこちで跳ねていた。三月。曇り空の午前。開発フロアの空調の風が、どこか浮き足立っている。


全国の店頭に、玲さんの「ジュエルレイヤーパフェ」が一斉に並んだ日だった。虹色のクリーム。透明なカップに、これでもかと重ねられた色の層。一番上にカラーミンツ。社内チャットには、人気インフルエンサーと玲さんが笑顔でパフェを掲げている写真が流れてくる。


「#自分へのご褒美」「#映えスイーツ」

タグがいくつも並び、リアルタイムで数字が跳ね上がっていく。役員アカウントが「やっぱり時代は早乙女だな」「うちの看板だ」とコメントしているのが、タイムラインの上のほうで青く光っていた。


わたしは、その画面を一度だけ見て、そっと閉じた。自分のPCには、別のグラフが開いている。南関東エリア限定でテスト販売中の、コラボタルトのPOS推移。


右肩上がり、と言えばそうなんだろう。でも、その線は玲さんのパフェの山とは高さが違って、なだらかな丘みたいだった。

レビュー欄には、「味はいい」「落ち着く」「リピしたい」と、静かな褒め言葉が並んでいる。「映え」も、「エモい」も、ほとんど見当たらない。


立ち上がってコピーを取りに行ったとき、廊下の曲がり角でぶつかりそうになった。

「お、立花さん」

兵頭課長だった。手には、カラー刷りの売上速報の紙。紙の端が、ひらひらと楽しそうに踊っている。

「見たか? 早乙女さんの数字。初日からぶっちぎりだぞ」

「はい。見ました……」

「お前もさ、もう少し“映え”を勉強しろよ。地味な企画ばっかりやってても、評価されないぞ」

「時代はバズったもん勝ちだ。コンビニスイーツなんて“写真が命”だろ?」


返事をする前に、課長は鼻歌まじりで歩き去っていった。廊下の蛍光灯が、その背中だけやけに明るく照らしている。


自席に戻り、プリントアウトした自分のグラフをホワイトボードに貼った。青い線が玲さんのパフェ。急な山。その下に、わたしのコラボタルトの緑の線。穏やかな丘。


数字だけを見れば、評価の差は一目瞭然だ。

「わたしのやっていることは、もう時代遅れなんだろうか」

マーカーのキャップを指先で転がしながら、心の中で呟く。“誰か一人の一日”より、“バズる”ほうが価値があるの? そんな問いが、ホワイトボードの余白にじわじわと染みていく。


そのとき、PCの右下がぴこっと光った。新田くんからのメッセージだった。

「立花先輩。タルト、うちの常連さんが“なんか落ち着くからつい買っちゃう”って言ってました」


画面の向こうで、どこかの店の片隅にあるスイーツ棚が浮かぶ。蛍光灯の下、仕事帰りの誰かが、迷った末に手を伸ばす様子。その小さな一人分の声と、フロア中に鳴り響く「大ヒット!」の歓声。


「二つの戦場」が、頭の中に地図のように浮かんだ。バズと数字の戦場。静かな「また買いたい」が積もる戦場。


どちらか一つだけが正しいと言い切れないからこそ、自分がどこに立っているのか、足元の感覚だけが少しずつ揺らいでいった。



窓の外は満開のソメイヨシノ。三月下旬。ビル風が容赦なく枝を揺らしている。会議室の蛍光灯が、白く書類を照らしている。テーブルの上には、工場から届いた原価表。ところどころに、真っ赤な数字が並んでいた。


「ここ、数パーセントでも削れないですかね」

経理の担当者が、資料の一行を指で叩く。声は丁寧だけれど、そこにへばりついた焦りを、わたしは熟れた果実の皮を剥くように「翻訳」していた。


工場との打ち合わせ室。ホワイトボードの前に立ち、わたしはペンを走らせる。工程を一つずつ四角で描き、その横にコストと役割を書き込む。

「このチョコレート層は風味の要なので、ここを薄くすると一気に“別物”になります」

「ナッツのグレードを一段階下げるなら、焙煎時間と温度を工夫して香りを補いましょう」

工場長は腕を組んで、ボードと資料を行き来しながら頷いた。


「立花さんの案なら、ライン的にもギリいけるかな。

 うちは“ここまでならやれる”ってところまでちゃんと見てくれるから、助かるよ」

その言葉に、胸のどこかが少しだけ軽くなる。現場と数字の真ん中で、綱引きの綱を握っている感じ。指の皮が擦り切れそうでも、その感覚は嫌いじゃなかった。


会議は何本も続いた。午前と午後で顔ぶれが少しずつ変わり、資料だけが増えていく。


夕方。同じ会議室で、最後の調整をしているときだった。

「この案、上から“もっと削れ”って言われてるんだよね」

工場長が、何気ない調子で漏らした。ホワイトボードにマーカーを走らせていた手が、ほんの少し止まる。

「上、というと……?」

「ほら、あの“売上至上主義”の課長さん。

『味より数字』って、はっきり言ってたよ」

名指しされなくても、誰のことかはすぐわかった。兵頭課長の、「多少味が落ちても客はわからない」が、頭の中でくっきり再生される。


会議が終わり、人が引けたあと。誰もいなくなったフロアに、空調の低い唸りだけが残る。窓ガラスの向こうで、ビルの看板の光がちらちら瞬いていた。


わたしはホワイトボードの前に立つ。タルトの断面図と、サプライチェーンの矢印。 その横に、小さく「上:課長」と書き込む。


「わたしは、“現場とお客様の間”をつなごうとしているつもりだった」

ペン先が、ホワイトボードの表面をかすかに鳴らす。

「でも、そのさらに上で、何かが別のルールで決まっている」


戦場視界のノイズが、一瞬だけ走った。兵站線を無視して、「とにかく突撃しろ」と命じる司令官。その下で、食糧も弾も足りないまま前に出される兵たち。


「自分はどこに立っているんだろう」

問いだけが、白い板の中に残る。答えはまだ描けない。時計の針が時を刻む音を立てていた。



冷房の効いた会議室に、甘い匂いが漂っていた。長テーブルの中央に、銀色のトレーが並ぶ。その上に、冷えたコラボタルトが整然と並んでいた。


三月末の午後。外は薄曇りで、窓の向こうの街は少しだけぼやけて見える。蛍光灯の白さが、チョコレートの表面に平たく反射していた。


「緊張してます?」

隣で、朝香さんが低く言う。真っ白なシャツにジャケット姿。パティシエコートではない彼を見るのは、なんだか不思議な感じだった。


「少しだけ、です」

本当は「かなり」と言いたかったけれど、喉の奥で飲み込んだ。ここで出すのは、わたしたちが一緒に守ってきた“味”のはずだった。


役員二人と、品質管理、数名の関係者が席につく。紙皿にタルトが取り分けられ、プラスチックフォークが配られる。小さなカチャンという音が、静かな部屋に散った。南関東限定販売だったチョコレートタルトを全国発売するにあたっての試食会。わたしと朝香さんが作り上げたものが審判を受ける。


「では、いただきましょうか」

誰かの合図で、一斉にフォークが動く。わたしも一つ、手前のタルトを皿に取った。

断面を見て、違和感が胸を刺す。チョコの層が……薄い。


「気のせいかも」と自分に言い聞かせながら、一口食べる。舌の上に乗ったのは、たしかにチョコレートの味だった。けれど、最初の試作で感じた「芯」の重みがない。ナッツの香りも、どこか平板だ。


「……あれ?」

思わず声が漏れる。そのとき、隣から椅子の軋む音がした。


朝香さんの表情が、見る間に固まっていく。フォークを持つ手が止まり、視線がタルトの断面を射抜く。

「……なんだ、これ」


低い声が床に落ちた。その重みで、部屋の空気が一段階沈む。

「原価と歩留まりの問題から、現場判断でレシピを一部簡略化しまして……」

工場の担当者が、おそるおそる口を開いた。わたしは慌てて仕様書をめくる。そこに書かれている数値と、舌の上の感覚が噛み合わない。


「事前に相談は……」

自分の声が上擦る。その横で、兵頭課長が肩をすくめた。

「細かいとこまでは、いちいち共有しなくていいだろ。客はわからないよ、こんなの」


その一言で、朝香さんは静かにフォークを置いた。皿に当たる乾いた音が、部屋の真ん中で響く。

「こんなもの、俺の菓子じゃない」

椅子を引く音が、やけに大きく聞こえた。

「契約は終わりだ。俺の名前は外せ」

立ち上がった背中が、わたしの目の前を通り過ぎようとする。

「待ってください。わたしが、必ず元に――」

言い終わる前に、振り向きざまの視線が突き刺さった。

「お前も、結局は会社の犬か」

その言葉が、胸の奥深くを鋭く切り裂く。

「知らなかった」と叫びたいのに、声が喉で固まる。


彼は会議室を出ていった。ドアの閉まる音が、戦場で陣幕が裂ける音みたいに響いた。会議の続きがどう進んだのか、ほとんど覚えていない。形だけのコメントがいくつか飛び交って、紙皿が片付けられていく。


トイレの個室に駆け込んで、鍵をかけた。蛍光灯の光が、やけに冷たく感じた。両手を見つめる。バンドエイドはもう取れている。あの夜、彼が巻いてくれた指先が、頭の中で鮮やかに残っていた。

「守ったつもりで、何も守れてない」


戦場視界の中で、自分が見えた。本陣と敵陣の間で挟まれて、どこにも逃げ場がない兵。どちらの旗にも、もう手が届かない場所に立っていた。



「見た目は最高。でも味は普通」

「一回食べれば十分かな」

「写真撮ったら、半分残しちゃった」

そんな言葉が、画面の中でじわじわ増えていった。


四月に入った頃。玲さんの「ジュエルレイヤーパフェ」が、別の意味で話題になりはじめた。発売当初は「神」「優勝」と持ち上げた人たちが、「正直、味は微妙」と言い出している。


あるフード系動画配信者が、レビュー動画を上げた。スマホ画面の向こうで、透明なカップがくるくる回される。

「うーん、見た目はすごいんですけどね。正直、クリームが軽いっていうか、コクがない。原材料、もうちょい頑張ってほしかったなあ」


その一言が、火種に風を送った。コメント欄には「わかる」「映えだけ」「中身スカスカ」という文字が次々に飛び込んでくる。社内チャットの空気が、目に見えないレベルで変わった。前は「さすが早乙女!」だったスタンプが、急に減る。代わりに、誰かが貼ったニュース記事へのリンクが、静かに上のほうに浮かんでいた。


内部調査が始まる。会議室。書類の山。素材の帳票と、製造指示の履歴。

「当初より、さらに安いホイップベースに変更されてますね」

品質管理の声が、紙の上で滑る。

「原価設定が厳しかったんで、工場側で“何とか”したんだろ」

兵頭課長は、ポケットに手を突っ込んだまま天井を見上げている。他人事みたいな口調。

「製造がちゃんとやってれば、こんなことにはならなかった」

その一言で、テーブルの上の空気が一気にざらつく。紙の端が、乾いた音を立ててめくれた。


会議室の端には、玲さんとわたしも座っていた。玲さんは鋭い目をして、資料を睨んでいる。

「現場が勝手に変えたってこと?」

唇の端が、かすかに歪んだ。でも、その声の奥にあるものが、純粋な怒りだけじゃないのは、わたしにも分かった。


「これは、“現場の暴走”じゃありません」

自分でも驚くほど、はっきりと声が出た。わたしはホワイトボードのペンを取る。


原価削減の指示メール。当初の企画書。その後の修正履歴。現場からの懸念が書かれた文面。


それらを、ただ時系列に沿って矢印でつないでいく。誰がどこで「ここを削れ」と言い、誰が「味が落ちる」と警告し、誰が「映えで何とかしろ」と返したのか。


「ここで原価を下げろと指示が出ています」

資料の一行にペン先を当てる。

「そのあと、味の劣化の懸念が現場から上がっている。でも、それに対して“インフルエンサーで何とかしろ”と返したのは……」


言葉を濁した先にある名前は、資料を見ている全員が知っている。兵頭課長と、その下にある決裁欄のサイン。玲さんの視線が、その箇所で止まる。早乙女という捺印が赤色でくっきりと残っていた。


表情は、いつものクールなままだった。けれど、長いまつげの影がほんの少しだけ震える。

「……だからって、現場が勝手に素材変えていい理由にはならないでしょ」

声は冷静を装っている。でも、その奥に、何かがきしむ音がした。


会議が終わったあと。夕方の廊下。窓の外は薄いオレンジに染まりかけていて、ビルの隙間を冷たい風が抜けていく。

「……あんた、なんで現場をかばうの?」

背中越しにかけられた声に、振り向く。玲さんが、腕を組んで立っていた。ハイヒールの音が、まだ床に余韻を残している。言葉にはトゲがある。でも、目だけが、どこか迷子みたいだった。

「兵は、与えられた条件でしか動けません」

自分の声が落ち着いているのが、少し不思議だった。

「“戦の形”を決めるのは、軍師と大将です」

その瞬間、玲さんの眉がぴくりと動く。

「軍師」と「大将」。

自分もその輪の中にいた、という事実が、言葉より先に胸に届いたみたいだった。

「……なにそれ。ゲームの話?」

笑い飛ばそうとした声が、途中でわずかに掠れる。彼女はすぐに視線を逸らし、髪を耳にかけた。

「別に、あたしだけが悪いわけじゃないし」

小さく呟いたその言葉は、誰に向けたものなのか、本人にも分かっていないように聞こえた。


自席に戻ると電話が震えた。工場の番号だった。

「もしもし、立花です」

「本当にこのまま出すんですか?」

受話器の向こうで、工場長のため息が混じった声がする。


「正直、味、落ちてますよ。立花さんと一緒に詰めたときの“あれ”とは、違う」

現場もまた、「何かおかしい」と感じている。でも、その「おかしい」をどこに向けていいのか、誰もわかっていない。


受話器を置くと、フロアの明かりが半分落ちていることに気付いた。冷たい空調の風が、髪の毛の先をかすかに揺らす。


どん底、という言葉が頭に浮かんで、すぐに首を振る。まだ落ちきってはいない。落ちる先がどこなのか、見えていないだけだ。


モニターの黒い画面に、自分の顔がぼんやり映る。その背後で、ホワイトボードの白だけが、まだ何かを書き込める余白を残していた。その余白にどんな線を引いたらいいのか。わたし自身も、まだわからなかった。


第4章 軍師の突撃



窓の外の街は、ネオンが少し滲んで見えた。オフィスに残る人影がまばらになってきた頃、わたしは空いた会議室に入った。蛍光灯の白が、誰もいない長机の上で広がっている。


ホワイトボードの前に立ち、ペンを握る。いつもはここに、工程図やコスト構造を書く。今日は、違うものを書くことにした。


「欲望」

一番上にそう書き、その下に箇条書きしていく。

「姉川有彩さんに恩返ししたい」

「お客様を守りたい」

「“自分の企画”で胸を張りたい」


次に、「致命的な欠点」。

「事なかれ主義」

「自己肯定感の低さ」

「“怒られない選択”を優先する癖」

書きながら、自分で少し笑ってしまう。ここまで赤裸々に、自分をホワイトボードにさらしたことなんてない。


「手に負えない課題」


「会社構造」

「兵頭課長の権限」

「発売スケジュール」


そして、「選択肢」


「1. 黙認」

「2. 内部で工場と調整」

「3. 発売延期を進言」

「4. 将来的な告発の布石」

マーカーの色を変え、矢印を引きながら、頭の中も少しずつ整理されていく。


戦場視界の気配が、じわじわ立ち上がる。蛍光灯の白い光が、篝火のような橙色に変わり、長机が、本陣の軍議台に変形していく。


隣に、鎧姿の明智光秀が立っている気がした。桔梗の家紋の入った旗が、背後で静かに揺れる。

「このまま進軍すれば、味方の士気は落ちる。

だが退けば、上意に背く」


声にならない声が、頭の中に響く。わたしは無意識に、光秀の連歌を口の中で転がした。

――順ならざる理に従えば、勝ちても心は敗軍なり。

ペン先が、そこでぴたりと止まる。


「逆理」と「順理」

本能寺に火を放った人の言葉を、わたしは何度も読んできた。

そのたびに、「順理こそ永遠なり」と呟いてきた。


ホワイトボードの「選択肢」の欄で、2.の「内部で工場と調整」に、ゆっくりと丸をつける。

3.と4.に伸びていた矢印も残したまま、そこから赤ペンで太い線を引き直した。


上を正式に動かす権限は、無い。それでも、「魂」を戻せる余地は、まだ現場に残っているかもしれない。


事なかれ主義の自分が、耳元でささやく。

「そこまでやる必要、ある?」

「また怒鳴られるよ」「評価、ますます下がるかもよ」


その声を、「それでも」と上書きするように、

ホワイトボードの片隅に、大きく文字を書いた。

「立花芽依 出陣」


自分の名前が、軍令状の署名みたいに見えた。ペンを置いたとき、会議室の空気が、ほんの少しだけ変わった気がした。



「立花さん」

翌朝。出社してすぐ、PCの電源ボタンに手をかけたタイミングで、声が飛んできた。

ネイビーのスーツに、太いストライプのネクタイ。兵頭課長だった。手で昨日の会議の資料をつかんでいる。


「今日中に工場に“このままでOK”って伝えておいて。先方もスケジュール組んでるんだからさ」

「……はい」

口ではそう答えながら、胸の奥では別の言葉が渦巻いている。

「OK」とは、とても言えない味。

「このまま出したら、きっと後悔する」と分かっている現実。


デスクに戻り、必要最低限の資料だけをプリントアウトした。レシピの比較表。テスト販売のPOS推移。SNSのコメントをまとめた紙。そして、くたびれかけた朝香さんのレシピ本。


出張稟議のフォームを開き、「先方との仕様最終確認」とだけ簡潔に書く。誰も目を止めないであろう言葉。けれど、わたしにとっては「単独行動」の宣言だった。


ミッドイエロー色の電車に揺られながら、膝の上でレシピ本を握る手に汗が滲む。窓の外を流れる景色は、いつもの通勤ルートとは違う。高層ビルが少なくなり、倉庫や低い建物が増えていく。ところどころに畑が混じる。


工場最寄りの駅に降り立つと、空気の匂いが変わった。少し甘いような、油と鉄の匂いが混じった空気。午前の光を受けて、整然と並ぶトラックが白く光っている。


戦場視界が、すっと前に出た。トラックは兵糧を運ぶ輜重隊。工場の高い煙突から立ちのぼる白い蒸気が、狼煙のように見える。駅前ロータリーを渡る横断歩道は、敵陣とこちらを繋ぐ狭間の橋。


「怖気づくな。お前の戦は、まだ先陣にも立っていない」

鎧をつけた光秀が、馬上からそう告げてくる。桔梗の家紋の入った水色の旗が、風に翻る。先導部隊が静かに整列し、こちらを振り返る。


「いざ、参るぞ」

その声に背中を押されるように、足が前に出た。鼓動が早まる一方で、妙な静けさも胸に落ちていく。恐怖と覚悟が、きっちり半分ずつ混ざったような感覚。


工場の受付を通され、会議室に案内される。会議室には、すでに三人が待っていた。工場長。品質管理責任者。経理担当。

「今日は、レシピの“違い”についてご相談させてください」

挨拶もそこそこに、わたしはホワイトボードに向かう。左側に「本来レシピ」、右側に「現行レシピ」と大きく書く。

その下に、材料の違いと工程の流れを、できるだけシンプルに図解していく。


「ここが、上から2番目のメインの層です。

 オリジナルでは、この厚みと配合で、口どけの良さを支える“柱”になっています」


メインの層を太めの線で描き、その上にデコレーションチョコレートのラインを重ねる。


「現行案では、ここが薄くなり、生クリームの比率も下がっています。味の重心が下にずれて、“カリカリやサクサク”だけが立ってしまう」

次に、テスト販売のPOSデータを簡単なグラフにして貼る。

「南関東エリアでの推移です。

 発売から二週間、“リピート”がじわじわ増えています」


「オリジナルの味を出したときの反応は、『落ち着く』『また買いたい』が多かったです」


戦場視界の中で、ホワイトボードは戦況図に見えた。

デコレーションチョコレートが「前線の弓隊」

メインの層が「兵糧庫」

フィアンティーヌの層が「伏見門」

タルト生地が「石垣」

「現行レシピは、兵糧をケチって出陣するようなものです」

ペンを止め、工場長をまっすぐ見る。

「一度は勝つかもしれません。でも、兵は疲弊します。

 城下の信頼は、二度と戻りません」


品質管理責任者が、資料とボードを見比べる。

「でもね、本部さん。原価は限界なんだ」

工場長が腕を組む。

「こっちの配合じゃないと、うちのラインが持たないんだよ。

人も機械も、今の条件でギリギリ回してる」

経理担当も続ける。

「メイン層を戻すと、単価が跳ね上がります」


言葉の端々に、「また現場だけにしわ寄せがくるのは勘弁してくれ」という本音がにじんでいる。

わたしの中で、調停者としての感覚が働き始めた。

彼らの「譲れない一線」は、「コスト」そのものじゃない。

「ラインを止めたくないこと」と、「現場に“また無茶だ”と思われたくないこと」だ。


「ラインを止めずに、原価のインパクトも最小で、“魂”だけ戻す方法を考えさせてください」


わたしは、あらかじめ紙の上でシミュレーションしてきた案を取り出す。


「生クリームの比率を下げたとして、層の厚みを元のままにして、柔らさも元のままに近づけたいんです」

メインの層を指で示す。

「ここなら、ラインの条件を大きく変えずにいけませんか。原価への影響も、単価で数%以内に収まるはずです」


品質管理責任者が、眉を上げる。

「工程追加も最小で済むかもしれませんね」

工場長も、顎に手を当てて考え込む。

「タルトの構成と材料まで分かってるんだな、本部さん」

その一言に、胸の奥にかすかな手応えが生まれた。


「これは、工場の名前と、朝香さんの名前を両方守るための作戦です」

深く頭を下げる。

「SNSでの反応を見ていても、“誰が作ったか”を気にするお客様が増えています。 もし、“朝香翔コラボ”の商品が、『味が落ちた』『前のほうが良かった』と言われれば、それは皆さんにとっても、朝香さんにとっても痛いはずです」


会議室の空気は、最初は冷笑と警戒で満ちていた。今は、少しだけ違う温度を帯びている。「本部 vs 工場」の縄引きから、「この戦をどう勝つか」を語る軍議へ。


戦場視界の中で、工場長は城主に見えた。品質管理は兵糧奉行。経理は兵站係。皆、「城を守りたい」だけなのだ。

工場長が、ゆっくりと息を吐いた。

「……わかった。やってみましょう」

「ありがとうございます」

頭を下げながら、膝の力が少し抜けそうになった。


会議室を出ると、廊下の空気が少し冷たかった。外の空は、朝よりも雲が厚くなっている。窓ガラスに、最初の雨粒が一つ、音もなく落ちた。背中のポケットでスマホが震える。画面には、兵頭課長からのメッセージ。

「工場とはスケジュール通り“OK”で話を通したか?」

指が、「はい、問題ありません」と打ちかけて止まる。数秒間、画面のカーソルだけが点滅する。


「仕様の細部について、先方とすり合わせ中です。詳細は戻り次第ご報告します」

打ち直して、送信ボタンを押す。どちらにしても、戻れば尋問は免れない。胸の奥で、小さな雷鳴が鳴り始めていた。


工場の敷地を出る頃には、雨は本格的になっていた。アスファルトに打ちつける雨が、さっきまで辿ってきた足跡をあっさりと消していく。

「順理こそ永遠なり」

小さく呟いてみる。言葉が、雨に混じってすぐにかき消される。それでも、その一瞬だけ、胸の奥の何かがほんの少しだけ軽くなった気がした。



雨は強くなっていた。改札を抜け、とにかく走る。ハイヒールのかかとがアスファルトを打つ音が、雨音と混ざる。スーツの裾に、泥水が跳ね上がる。最初の角を曲がる頃には、前髪からつーっと冷たい筋が頬を伝って落ちた。看板が見えてきた頃には、靴の中まで水が染み込んでいた。


「待ってください!」

声が勝手に出た。フォググレイ色の鉄板が、じりじりと音を立てて降りていた。動きが止まり、隙間から覗いた顔。朝香さんだ。


「……君?」

一瞬、驚いたように目を見開き、それから慌ててシャッターを押し上げる。ごお、と重い音がして、再び入口が開いた。


「お前……何やってんだ、この雨の中」

わたしは、息を整える間もなく言った。

「交渉、成立しました! 味は……元通りに、近づきます」

言葉が、途切れ途切れに出る。肺が火照って、酸素が足りない。


工場で話した内容を、簡潔にかいつまんで説明する。 味の「芯」は守れること。原価インパクトが最小限で済むこと。話しているうちに、彼の瞳の中の光が変わっていく。最初は「何事だ」という怒り混じりの色だったのが、次第に真剣な色に変わり、最後にはどこか困惑したような陰りを帯びる。


「バカか、お前は」

唐突にそう言って、彼は乱暴にタオルを掴んだ。ドアの横のフックに掛かっていた白いタオル。それを、わたしの頭にぐいっと被せる。


視界が、一気に真っ白になる。濡れた髪に、粗いタオルの感触。ごしごし、と頭皮まで届きそうな勢いで拭かれる。


「なんで、そこまでする」

耳元で、低い声が落ちた。さっきまでの怒気とは違う、どこか震えを含んだ音。タオルの下で、目を閉じる。息はまだ整っていない。でも、言葉ははっきりしていた。

「あなたの菓子を守りたかったからです」

タオルの暗闇の向こうで、自分の声だけがはっきり聞こえる。

「……それと、これを食べる人の“一日”も」

義理でも、義務でもない。ただ、自分がそうしたかったから。そう自分で思っていることに、ようやく気づく。


タオルが、少しだけ動きを止めた。わたしは、ゆっくりと口を開く。

「あなたの作るお菓子が、世界で一番素晴らしいと、わたしは知っているからです」

自分で口にしてみて、その言葉の重さに少し驚く。でも、嘘じゃない。


「最高傑作を、妥協で汚すわけにはいきません。……そう思ったから、来ました」

タオルの隙間から、息だけが白く漏れていく。心臓の鼓動が、耳の内側でやたらと大きく響いた。


タオルがゆっくりと外される。目の前に、朝香さんの顔があった。

無表情。でも、その無表情が、今はひどく不器用な仮面に見える。


「君は、その足はどうしたんだ」

視線が、わたしの足元に落ちる。ハイヒールの縁から、じわりと赤いものが滲み出ていた。靴擦れで皮が剥けたところに、雨水と泥が入り込んでいる。


「それに、会社での立場はどうなるんだ。俺のために、そこまでする義理はないだろ」

「義理ではありません」

間髪入れずに出たその言葉に、彼がわずかに目を見開いた。


ああ、わたし、今、ちゃんと自分の意思で言ってる。そう自覚した瞬間、胸の奥で何かが静かに鳴った。


店の奥から、オーブンが冷めていく金属の音がかすかに聞こえる。雨はまだ強い。

でも、店内の空気だけは、少し暖かかった。


朝香さんは、しばらく何も言わなかった。視線が、タオルで乱れたわたしの髪と、泥で汚れたスーツと、血の滲んだ足の間を行き来する。


その目の奥で、何かが大きく動いている。怒りでも、呆れでもない。もっと別の、名前のないもの。


「……これからは」

ぽつり、と言葉が落ちた。彼が自分の拳をぎゅっと握るのが見える。

「これからは、俺が絶対に君を守る」


低い声が、雨音よりもはっきりと耳に届いた。一瞬、意味がうまく理解できなかった。「協力者」というラベルでは収まらない熱が、その一言に乗っていた。


彼の中で、何かが「仕事仲間」から別のものに変わったのだと、その瞬間の表情が、教えてくれていた。


わたし自身は、まだその変化に名前をつけられない。ただ、タルトの焼ける香りよりも、彼の言葉が強く胸に残っていた。



セキュリティカードをかざしてドアを開けた。ひやりとしたそして乾いた空気が出迎えた。オフィスフロアの半分以上はすでに暗い。昼間の騒がしさはなく、コピー機の待機音だけが低く鳴っていた。


広報室の横を通るとガラス越しに、パソコンのモニターの光に照らされた横顔が見える。姉川有彩さん。彼女が、何かの資料に目を通している。顔を上げた有彩さんに会釈をして通り過ぎた。小さく何かを呟いているように見えた。


自分の席にバッグを置くと、モニターに貼られた一枚の付箋が目に留まった。

「本日分の報告書、明日午前までに提出のこと。兵頭」

丸っこい字と、最後の「兵頭」だけが妙に乱暴な署名。

そこにへばりついた苛立ちを、わたしはもう簡単に読み取れる。


「明日、何を言われるんだろう」

想像するだけで胃がきゅっと縮む。

「勝手なことをした」「出しゃばるな」「お前のせいで責任問題になる」といったセリフが、頭の中でリストアップされていく。


それでも今夜だけは、その不安を棚の上に置いた。デスクの引き出しから、小さなノートを取り出す。今日の工場での会話を、忘れないうちに箇条書きしていく。

工場長の表情。

品質管理責任者の安堵の息。

「本部さん、うちのラインのことまで分かってるんだな」という一言。

ペン先が紙を滑る音が、心のざわめきを少しだけ落ち着かせる。


社内ポータルサイトから報告書のフォーマットのリンクを辿る。

「工場との仕様最終確認」

その一行の下に、何をどう書くかで、明日の自分の立場が変わる。キーボードの上に両手を置き、深呼吸をする。


戦場視界の気配が、一瞬だけ前に出てきた。

「敵:兵頭課長/逆理の構造」

「味方:工場/朝香翔/有彩さん(たぶん)」

「天道:お客様の安全と信頼」

頭の中のホワイトボードに、その三つが同時に浮かぶ。


指が動きはじめる。

「工場側より、現行レシピの風味低下とブランド価値毀損の懸念が表明され……」

できるだけ個人攻撃にならないように。でも、事実は曲げないように。


文章を積み上げていくうちに、自分が「告発」に向けて、ゆっくりと布石を打っているのだと気づく。まだこれは、「戦端」ではない。でも、いつか本丸を揺らす可能性のある、一手目だ。保存を押し、PCをシャットダウンした。


第5章 時は今――告発の連歌



POSグラフは、いつもより少しだけなだらかに、でも確かに右肩に伸びていた。火曜から始まったチョコレートタルトの全国発売。


壁一面のモニターに映る数字の線が、青いインクで描いた山みたいに穏やかに連なっている。蛍光灯の光がグラフの上で反射して、ところどころ白く光った。週次の会議室。朝九時半。


「まぁ、やればできるじゃないか」

兵頭課長が、不遜な口元で笑った。腕を組んだスーツの袖口から、銀色の時計がちらりと顔を出す。

「“映え”は早乙女さんの担当、“味”は立花さんってわけだな」

誉め言葉なのかどうか、判別がつきにくい調子。けれど若月直美は、会議室の隅で小さくガッツポーズをしていた。

「あたし、言いましたよね、これ絶対じわ売れするって!」

茶色いポニーテールがぴょこっと跳ねる。対面側の席からは、新田の代わりに別の営業担当が売れ行きを報告していた。


「ソレイユ東北ブロック、初動好調です。追加発注出てます」

その言葉を聞きながら、わたしはグラフの隅に視線を落とした。青い線の下に、小さく書かれた商品コード。あの工場の会議室。ホワイトボードに描いたレシピの層。雨に濡れたパティスリーのシャッター。その全部が、この一本の線に収斂している気がした。


「守れた」

胸の奥で、小さく息を吐く。数字の山が、燃え残った城の上にようやく咲いた白い旗のように、かすかに誇らしく見えた。


 会議が終わり、人の波が流れ出す。資料を抱えたまま駆け寄ってきたピンクフラミンゴ色のブラウスは直美ちゃんだった。

「芽依さん、おめでとうございます! あの時ホワイトボードで“魂ライン”とか言ってたの、工場の人、めちゃくちゃ刺さってたみたいですよ」

「大げさだよ、直美ちゃん。みんなが動いてくれたからだよ」

そう答えながら、自分の胸に渦まいている安堵を、できるだけ小さく畳んだ。喜んでいい。でも、まだ戦いは終わっていない。そんな直感だけが、靴底のあたりで冷たく鳴っていた。


 ロールケーキのクレームに気づいたのは、その週の木曜日だった。午後三時過ぎ。部署フロアの一角。わたしは習慣みたいに、品質管理から共有されたクレーム一覧を印刷して、自分のデスクの端に並べていた。紙の白い余白に、ボールペンの黒が小さく点在している。

「ロールケーキ 金属片混入の疑いあり」

「子どもが食べていたら、銀色のものが出てきた」

「歯に当たってびっくりした」

 最初は、一件。翌日には、もう一件。その次の日には、似たような文面がもうひとつ。


 まだ「ヒヤリ」で済んでいる。怪我に至った報告はない。それでも、紙の上に並ぶ「金属片」「異物」という単語が、細い針山みたいに視界の端に引っかかる。


発生地域が限定的で、問題の発生している製造工場は一つだけのようだ。喉の奥が、少し乾いた。直美ちゃんがキーボードを叩く音がかすかに聞こえる。フロアの空調の風が、生ぬるく頬を撫でた。


 夕方。急きょ「品質案件に関する打ち合わせ」と題された会議招集メールが飛んできた。


 窓の外はまだ明るいが、会議室の中だけは妙に薄暗く感じる。長机を挟んで、品質管理の担当者が厳しい顔で資料をめくっている。営業本部長は椅子の背にもたれ、額に手を当てていた。役員の一人がスマホを伏せて置き、ため息をつく。


 わたしと直美ちゃんは、末席に並んで座っている。兵頭課長は、いつものようにテーブルの真ん中あたりで腕を組んでいた。


「現時点でのクレームは、ロット041番のロールケーキに集中しています」

品質管理の声が、乾いた会議室に響く。

「異物の現物は、まだ確認できてはいませんが、報告の内容からすると、小さな金属片の可能性が高いと」

「商品の回収は?」

営業本部長が短く問う。品質管理は一瞬だけ視線を泳がせてから、言葉を続けた。

「本来であれば、該当ロットについては自主回収を検討すべきレベルです。ただ、店舗数はまだ限られており――」


「回収は絶対ナシだ」

兵頭課長が、そこで割って入った。机の上に置かれた拳が、小さく音を立てる。

「まだ件数も少ないし、店舗個別に謝罪すれば済む話だろう。ここで回収なんかしたら、それこそニュースになる。ブランドが死ぬぞ」

「しかし、安全面を考えると――」

品質管理が食い下がろうとすると、役員の一人が軽く笑った。

「ネットが少し騒いでいるだけだろう? “お客様の不安には真摯に対応しています”とコメント出しておけばいい。大事にする必要はない」


 議題は、自然と「記者に聞かれたときのコメント」へとすり替わっていった。どう言えば“責任は取っているように見えつつ、コストは最小にできるか”。言葉の綱渡りばかりが議論される。


 戦場視界が、静かに起動する。会議室のテーブルが、崩れかけた城壁に変わる。紙資料は、石垣に刺さった矢。矢の数は、まだ少ない。

――しかし、ここで石垣を積み直さなければ、次は城そのものが落ちる。


 わたしの中の軍師がそう囁く。けれど、口は動かなかった。兵頭課長の横顔。営業本部長の腕組み。役員の冷たい視線。全部が、口元に重しを載せている。


 会議が終わり、廊下へ出たところで、直美ちゃんが小走りで追いかけてきた。

「芽依さん……本当に、回収しなくて大丈夫なんでしょうか」

声が、いつもの明るさから半歩だけトーンダウンしていた。

「品質さんも“本来なら”って言ってましたよね。もし、もっとひどい事故になったら」

「……調査を続けるって言ってたから」

自分でも、頼りない返事だと思う。直美ちゃんの不安をなだめるための言葉なのか、自分に向けた言い訳なのか、判別がつかない。


 その夜、デスクの引き出しから、小さなホワイトボードを引き出した。フロアの蛍光灯は半分ほど落ち、残った明かりが斑に床を照らしている。

ボードの上に、「ロット」「被害」「リスク」と書いた。クレーム数、対象ロット、推定される事故確率。ペン先が走るたびに、数字が整列していく。

整えれば整えるほど、「まだ大事じゃない」という額縁が出来上がっていく気がした。


 ――ここで声を上げなければ、誰が上げる? 心の中の問いと、

――また“空気が読めない”って言われる。

という恐怖が、同じ強さで胸を引っ張り合う。ペン先が空中で止まったまま、しばらく動かなかった。蛍光灯の唸り声だけが、静かな戦場に鳴り響いていた。



「あれっ、芽依?」

 ガラス扉を開けると、奥のデスクから姉川有彩さんが柔らかな笑顔を見せた。白いブラウスの袖を捲り上げている。翌日の午前、わたしは広報室の部屋に入った。


「お邪魔してもいいですか」

「もちろん。ちょうどコーヒー切らしたところだったんだよね、立花印の問題提起はカフェインより効くから歓迎」

その一言に、少しだけ肩の力が抜ける。わたしはプリントアウトしたクレームを差し出した。


「ロールケーキの異物混入の件で……有彩さんなら、どう判断しますか」

 彼女は資料に目を通しながら、片手でマウスを動かす。モニターのひとつに、ツイッターのタイムラインが映し出される。

「“#ソレイユ ロールケーキ なんか入ってた”……“これ金属じゃない?”」

 画面をスクロールする彼女の指先が、時折ぴたりと止まる。まだ「大炎上」には程遠い。それでも、小さな火の粉がじわじわと増えつつあるのがわかる。


「隠しても、絶対に出てくる」

 有彩さんは、マウスから手を離して言った。

「だったら、“最初に正直に言った会社”になったほうが、まだマシ」

「でも、兵頭課長は――」

言いかけると、彼女は小さくため息をついた。机の上のマグカップの縁を、指先で一周なぞる。


「あの人は、“今日の数字”しか見てない。炎上の二歩先を見ない人に、危機管理は任せられないよ」

口調は淡々としているのに、その奥には、かつて同じように意見を押しつぶされた誰かの悔しさが、薄くにじんでいるように感じた。

「だからこそ、証拠を残しなさい」


 有彩さんは視線を戻し、資料の端を指でトントンと叩く。

「何を、誰が、いつ、どう判断したか。あとで“言った言わない”にならないように。メール、会議メモ、チャット。できるだけ残す」

「……有彩さんも、そうしてきたんですか」

「昔は、してこなかった」

ふっと、笑うともため息ともつかない音がこぼれた。


「広報に来たばかりの頃、似たような案件があったんだよ。商品コピーの表現が、ちょっとグレーでね。現場から『やめたほうがいい』って声が上がってたのに、上から“攻めろ”って言われて」

モニターの光が、彼女の横顔を青白く縁取る。

「私、戦わずに飲み込んじゃった。そのままコピー出して、案の定ちょっと炎上した。今でも、そのコピー、ネットのどこかに残ってるよ。見るたびに胃が痛くなる」

それが彼女の“深層”なのだと、わたしは気づく。いつも笑っている先輩の胸にも、消えきらない後悔がひとつ刺さっている。


「だから、芽依」

名前を呼ばれて、背筋が伸びる。

「怖いなら、それでいい。怖いって自覚してる人のほうが、まだマシだから。でも、“怖いから何もしない”と、“怖いけど記録を残す”は違う。後者を選べるなら、選びなさい」


 有彩さんの視線は、やわらかいけれど真っ直ぐだった。わたしは小さく頷くことしかできなかった。喉の奥に、「ありがとう」がつかえて出てこない。


 ソレイユ本部のカフェスペースは、午後の光にゆるく満たされていた。エスプレッソマシンの低い唸りと、遠くで鳴るプリンターの音が、薄い膜のように空間を包んでいた。


 その片隅の二人掛けのテーブルで、早乙女玲は一人、スマホの画面を睨んでいた。彼女の指先には、完璧に整えられたネイル。ピンクベージュの光沢が、画面のガラスに反射している。画面には、自分の担当ブランドの新作スイーツが映っていた。華やかなトッピング。凝ったパッケージ。だが、コメント欄には冷ややかな文字列が並ぶ。

「見た目だけで味が追いついてない」

「インスタ用に一回買えばもういいかな」

「前のシリーズのほうがおいしかった」


 炎上、とまではいかない。けれど、「憧れ」と「羨望」だけで満たされていたはずのコメント欄に、初めて混じり込んだ棘。


 その裏で、「#ソレイユタルト」「#夜のご褒美」といったタグが、じわじわと伸びている。素朴な見た目のコラボタルトの写真が、「疲れた日にこれ買っちゃう」「コンビニで救われた」と少しずつ共有されていた。


 玲は、息を詰める。自分の企画は、いつだって話題の真ん中にあった。映える写真。インフルエンサー。数字。

 ――話題性だけじゃ、もう通用しない?


 胸のどこかが、ひやりとする。そのとき、スマホに新着メッセージの通知が走った。送信者名には、「兵頭」の二文字。

「ロールケーキ異物の件、余計なことは言うな。売上に傷がつけば、お前の評価にも響く」

シンプルな一文だけ。なのに、その一行は、親指一本で画面を割るみたいな重さを持って、玲の胸に落ちた。


 ――お気に入りの“天才”でいられたのは、都合の悪いものを見なかったからかもしれない。

ふと、そんな考えがよぎる。クレーム一覧の共有メール。品質会議の噂。工場との軋轢。自分はそれらを、「自分の仕事じゃない」と横目で流してきた。


 夕方。人の出入りが少なくなった時間帯に、玲からのチャットが来た。

「芽依さん、ちょっと、時間ある?」


 カフェスペースの奥、窓際の席。周囲にはほとんど人がいない。

「玲さん? 」

いつもの完璧な笑顔はない。代わりに、少しだけ迷子みたいな表情が張り付いている。

「座って」

玲さんの向かいに腰を下ろす。玲さんはカップのフタを外して、コーヒーを一口だけ飲んだ。苦味に眉を寄せ、それから切り出す。


「異物混入の件、知ってるよね」

「……はい。クレーム一覧、見ました」

「私は、兵頭さんに“黙ってろ”って言われた」


 玲さんは、テーブルの上のスマホを裏返した。

「『回収なんて言い出したら、せっかく積み上げたキャリアが台無しになるぞ』って。“お前は数字を出してればいい”ってさ」

 それは、「今までそうしてきただろう」という確認にも聞こえた。

「正直、怖い」


 玲さんは、真っ直ぐこちらを見た。瞳の奥に、いつもの自信の影がない。

「ここで『回収すべきです』なんて言ったら、たぶん真っ先に切られるのは私だと思う。派手な企画ばっかりやってきたから、スケープゴートにはちょうどいい」

紙コップを持つ手が、わずかに震えている。氷は入っていないのに、カップの中の液面が、かすかに波打った。


「……あんたはさ」

 玲さんが、小さく笑う。けれど、その笑いは自分を皮肉るみたいに歪んでいた。

「なんでそんな顔で“怖い”って言えるわけ? 工場に単独で乗り込んで、泥かぶって、それでもまだそういう顔でいられるの」


「そんな、かっこいいものじゃないです」

 思わず否定すると、玲さんは首を振った。

「かっこいいよ。ずるいくらい」

その言葉の裏側に、自分への苛立ちと、どこか羨望みたいなものが混じっているのがわかった。


「私はさ、“ワガママな天才”でいたかったの。泥は誰かが片付けてくれるって、どこかで本気で思ってた。でも、あんたが泥だらけになってるの、見ちゃったからさ」


 沈黙が落ちる。窓の外で、雲がゆっくりと流れていた。夕陽がビルのガラスに当たって、スカーレットレッド色の斜線をカフェスペースの床に描いている。

「……玲さんも、怖いんですね」

 わたしがそう言うと、玲さんは「当たり前でしょ」と小さく肩をすくめた。

「だから、聞きたかったの。あんた、どうするつもり?」

テーブルの上で、二人の影が重なる。


 有彩さんの、「怖いなら、それでいい」という言葉が頭をよぎる。玲の、「ずるいよね、あんた」という呟きが胸に残る。答えは、まだ言葉にならなかった。ただ、胸のどこかで、小さな石が音を立てて転がった気がした。



「キャリア相談をしたくて」

わたしは人事部の内線番号を押していた。できるだけ当たり障りのない言葉を告げた。有彩さんと玲さん、二人と話した後。自分の中の何かが、静かに形を変え始めていた。


窓の外に低い雲が見えた。白いテーブル、グレイの椅子、天井の蛍光灯。色彩を削ぎ落としたような空間の真ん中に、わたしと人事担当の男性が向かい合って座っていた。

「では、立花さん。今日はどういったご相談で?」

四十代半ばくらい。柔らかい口調で、ネクタイの色も淡い。悪人には見えない。ただ、「波風を立てない」ことだけを仕事にしてきたような、角の丸い表情をしていた。


 わたしは、用意してきたクリアファイルをテーブルの上に出した。印刷したメール。会議メモのコピー。チャットのスクリーンショットをまとめた紙。

「兵頭課長からの指導について、です。これまでの発言や、異物混入に関する指示が、どうしても“指導”の範囲を超えていると思えて」

声が途中で少しだけ震えた。でも、引き返したくなかった。


 人事担当は、「ふむ」と相槌を打ちながら資料に目を通す。

「お前が担当だと売れないんだよ」「女の幸せって仕事じゃないでしょ?」――ログに残した言葉が、白い紙の上で黒く乾いていた。

「なるほど……厳しいご指導を受けている、と感じているんですね」

その言い回しが、喉に小骨みたいに引っかかる。


「“感じている”……?」

「ええ。課長としては、“期待しているからこそ”強い言い方になってしまった、という認識のようです」


 わたしは、別の紙を指さした。異物混入の件で、「回収はするな」「工場のせいにして握りつぶせ」といった文言が書かれたメールのコピー。

「これは、どうでしょう。お客様の安全より、“今日の数字”を優先する指示に見えます。 『回収を検討すべきでは』と申し上げても、『余計なことは言うな』と」


 人事担当は、口元に薄い笑みを貼りつけたまま、言葉を選ぶようにして答える。

「立花さんとしては、そのように受け取られた、と。ただ、課長としては“ブランドを守るための最適解”だというお考えだったようです。ここも、“コミュニケーションのすれ違い”と言えるかもしれませんね」


 すれ違い。その一言で片づけるには、あまりにも多くの言葉が、わたしの中で積もってしまっている。


「すれ違い、でしょうか。『回収は絶対ナシだ』と、はっきり言われました。『異動させる』とも」


「ええ。そのあたりは、課長からもご相談を受けていまして」

人事担当は、別の紙束を取り出した。

「兵頭課長からは、最近、立花さんが少し精神的に不安定なんじゃないかと。

 “被害妄想が強くて困っている”と仰っていましてね」


 戦場視界が、一瞬、真っ白になった。矢の雨も、炎の赤も消える。音がすべて吸い込まれて、ただ白い霧だけがあたり一面に広がる。自分の足元さえ見えない、無音の戦場。

「被害……妄想」

自分の口から出た声が、妙に遠く聞こえた。これまで何度も言われてきた言葉が、一斉に甦る。「空気が読めない」「大げさ」「そんなつもりで言ったんじゃないのに」「被害者ぶるな」。


 また、私が“おかしい人”になるんだ。

人事担当は、「もちろん、すぐに誰かを処分するとか、そういう話ではありませんから」と続けた。

「必要であれば、産業医の面談もご案内できます。メンタルケアの一環として」

それは、「問題があるのは構造ではなく、あなたの心です」というメッセージにしか聞こえなかった。


 会議室のガラス越しに見えるオフィスの風景が、遠くの城下町のように霞んでいく。人々が小さな駒みたいに歩き回っているのに、その声はここまで届かない。

「……わかりました」

絞り出した声は、自分のものじゃないみたいに平坦だった。


 エレベーターの鏡に映った自分の顔は、知らない人みたいに疲れ切っていた。青白い頬。口角が少し下がって、目はどこも見ていない。


 トイレの個室に滑り込んで、鍵をかける。冷たいタイルの匂い。換気扇の低い唸り。蛍光灯の白が、陶器に跳ね返っている。ポケットからハンカチを取り出して、目頭を押さえた。涙は、思ったよりもあっさりあふれた。頬を伝うより先に、喉の奥が熱くなって痛い。


「私は本当に、間違っているのかな」

声にならない声で呟く。個室の壁が、思った以上に薄く感じられて、すぐ口をつぐんだ。


 戦場視界の中で、自分が見えた。崩れた石垣の下に埋もれた一兵卒。鎧も兜も剥がされて、土と瓦礫だけに覆われている。誰も近づいてこない。誰も名前を呼ばない。

「我、瓦礫のごとく沈淪せし者なり」

心のどこかで、光秀の連歌がひとりごとのように響いた。それは、誰の耳にも届かない。天にだけ、かろうじて届くかもしれない、かすかな声だった。


 タオルハンカチで涙を拭き、深呼吸をひとつ。鏡の前に立つと目は赤いままだった。それでも、足はまだ動いた。沈んだままでは、息ができない。どこかで、顔を出さなきゃいけない。出口のない迷路のような廊下に、一歩を踏み出した。



 ソレイユ本部から電車を乗り継いで帰ってきたワンルームは、いつも以上に狭く感じられた。受け取られず、押しつぶされた言葉。


 部屋は小さなテーブルと、小さな本棚、ちっちゃなデスク。それだけでほとんど埋まっている。天井の蛍光灯は心許ない光を落とし、壁紙のアイボリーホワイトにすすけた影を作っていた。


 窓の外では、細い雨が降っている。ガラス窓を、雨粒が縦に滑っていた。ときどき、遠くで車の走る音がして、水たまりを弾く音が混じる。


 バッグを置き、クローゼットの扉を開ける。ハンガーにかかったスーツの下、小さなホワイトボードが立てかけてあった。新人の頃に自腹で買った、手のひら二つぶんくらいのサイズ。


 それをテーブルの上に置く。マーカーのキャップを外した瞬間、インクの匂いが狭い部屋にふわりと広がった。

上半分に、線を引いて四つに区切る。

「敵」「味方」「中立」「天道」

 それぞれの枠の中に、ゆっくりと言葉を書き込んでいく。

「敵:兵頭課長/隠蔽の構造/“今日の数字が全て”という価値観」

ペン先が少しだけ震えた。


 次の枠に移る。

「味方:姉川有彩/若月直美/新田悠治/朝香翔/(揺れている)早乙女玲」

名前を書きながら、一人ひとりの顔が浮かぶ。

ホワイトボードの前で笑ってくれた直美ちゃん。

「立花先輩のタルトが一番売れてますよ」と報告してくれた新田くん。

雨で濡れた髪にタオルを被せてくれた朝香さん。

「ずるいよね、あんた」と言いながらも、同じ怖さを抱えている玲さん。


「中立:人事/役員」

彼らは、まだどちらにも傾いていない。ただ、揺れを嫌うだけの重し。


「天道:お客様の安全/コンビニというインフラ/“誰かの一日のご褒美”」

 最後の枠の字が、一番静かに書けた気がした。


 視界の端で、誰かが動く気配がした。顔を上げると、テーブルの向こう側に、鎧姿の男が胡座をかいて座っていた。錆びた鉄の匂いと、乾いた藁の匂い。桔梗の家紋の入った旗が、見えない風にかすかに揺れている。

「天道恐るべし。人の知る所にあらざるも、天の知る所なり」

明智光秀が、静かにそう告げた。わたしの読んだ史料の中の光秀ではなく、わたしの中で育った「光秀像」が、ここにいる。

「逆理に従い、一時の利を得ることは易し。されど、その城は、いずれ天の雨に崩れ落ちる」

彼の声は、蛍光灯の唸りと雨音のあいだを縫うようにして、狭い部屋を満たしていく。


 ホワイトボードの下半分に、もう一つの枠を書く。

「選択」

その下に、箇条書きで三つの道を書き出す。

「1.黙認:キャリアは守れるが、次の事故の可能性を放置」

「2.社内での働きかけのみ:構造に呑まれて、有耶無耶になるリスク」

「3.正式な告発:会社を敵に回す。キャリアの終わり。だが、天道には沿う」

書きながら、自分の心臓の音が、マーカーのカリカリという音よりも大きく聞こえた。


「逆理に従って楽をするか、順理のために傷つくか」

光秀が、少しだけ首をかしげる。その目は、戦の前夜に地図を見下ろす軍師の目だった。


 ペン先が、しばらく宙をさまよった。1の横に、薄く丸を書きかけて消す。2の横にも、同じように。

やがて、3の横に、小さな丸がひとつ、震えながら描かれた。


「……わたしは、告発する」

 声に出した瞬間、胸の奥で何かが音を立てて崩れた。積み上げてきた「安全な選択」のレンガの山が、一気に瓦礫になっていく。その隙間に、冷たい水が流れ込んでくるような感覚。


 怖さは、消えない。むしろ、はっきりと形を持った。でも、「怖いとわかっていて選ぶ」という経験を、わたしは初めてしている。


 光秀が、静かに頷いた。

「時は、いずれ来る。その時、名を名乗れる者だけが、戦場に立てる」


 蛍光灯が一瞬だけチカッと瞬き、次の瞬間には、彼の姿は消えていた。窓の外の雨音が、少しだけ強くなった気がした。


ガラス越しの夜景が、会議室の中にまでじわりと滲んでいた。ソレイユ本部ビルの最上階会議室。外はとっぷりと暮れて、窓の外の街の灯りが遠くに散っている。ガラスに映る自分たちの影が、二重の風景を作っていた。五月下旬の夜。

 

 大型モニターには、SNSの画面とニュースサイトの見出しが並んでいる。

「#ソレイユ ロールケーキ 金属片」

「ソレイユで異物混入の噂、真偽は?」

スマホの通知音が、あちこちから小さく鳴る。矢羽根の唸りのように、短く鋭い音が会議室に散った。


 テーブルには、役員の一部と営業本部長、品質管理の担当者。兵頭課長。その末席に、直美ちゃんと並んでわたしが座っている。

「火は大きくなりかけてはいますが、まだ“疑惑レベル”です」

品質管理がレポートを読み上げる。

兵頭課長が資料を指で弾きながら口にする。

「回収はダメだ」


品質管理のトップが、眼鏡を押し上げる。「まずは原因究明を優先すべきです。該当ロットの出荷数からすると、クレーム件数は決して多くはありません。現時点では限定的ですし、工場ラインのチェックを――」

 兵頭課長が遮った。

「“問題なし”で押し通しましょう」


わたしの視界が、ぐにゃりと音を立てて歪んだ。戦場視界が、ゆっくりと色を変え始める。会議室が、炎に包まれた堂内に変わる。長机は、燃えかけた柱に。役員たちは、金銀財宝を抱えて出口を探す武士に。スマホの光が、矢の雨となって降り注ぐ。


 わたしの隣に、光秀が立っていた。鎧の肩当てに火の粉が落ちても、彼は顔色ひとつ変えない。夜空を仰ぎ、静かに句を口ずさむ。

「時は今 あめが下しる 五月かな」

喉の奥が、ひどく乾いた。指先が汗ばむ。椅子の背もたれが、急に狭く感じられた。

――名を名乗れる者だけが、戦場に立てる。

昨夜の光秀の言葉が、耳の奥でを反芻する。


 わたしは、ゆっくりと椅子から立ち上がった。椅子の脚が床を擦る音が、妙に大きく響く。会議室のざわめきが、一瞬だけ止まる。蛍光灯の音さえ、小さくなった気がした。


「このままでは、天も、お客様も、私たちを許しません」

自分の声が、どこか遠くから聞こえてくる。兵頭課長が、露骨に眉をひそめた。

「立花さん。君の開発製品じゃないだろう。黙っていなさい!」

その言葉が、空中で切れる。わたしは、一度だけ深く息を吸った。会議室の空気が、じわじわとわたしの方へ集まってくる。紙の擦れる音も、キーボードの小さな打鍵も止まって、全員の視線が、矢のようにこちらに向いた。

 その「間」の中で、心臓の音だけがはっきりと聞こえる。言葉の端が、自分の舌の上で転がる。


「開発担当としてではなく、一人の立花芽依として、申し上げます」

誰かが小さく息を呑む音がした。


「異物混入があった事実を認め、

該当ロットを回収すると公表すべきです」


言い終えた瞬間、戦場視界の炎が、真っ白に弾けた。その白の中に、光秀の背中が見えた気がした。


 誰も動かない。紙一枚めくる音さえ、しない。


第6章 反逆者のチーズケーキ



 会議室の空気が、液体窒素をぶちまけたように凍りついていた。誰も口を開かない。役員たちは、まるで得体の知れない怪物を前にしたように、あるいは「見てはいけないもの」を見たように、視線を泳がせている。


 その静寂の隙間に、わたしはもう一度、言葉をねじ込んだ。

「……それに、『問題なし』と嘘をつけば」

震える膝を、机の下で両手で強く押さえつける。背筋を伝う汗が、ブラウスに冷たく張り付く。

「次に何かが起きたとき、私たちはもう、誰からも信じてもらえません」


 言い切った瞬間、視界の彩度が異常なほど跳ね上がった。蛍光灯の白い光が、紅蓮の炎に変わる。磨き上げられた会議テーブルの木目が、焼け焦げた床板に見える。壁際の観葉植物は、火の粉を浴びてしなびる庭木だ。


 ここは、本能寺の大広間。そして目の前に座るスーツの男たちは、崩れ落ちる天井の下で、なおも金銀財宝の詰まった桐箱を抱え込んでいる武士たちだった。「逃げる」ことよりも「損をしない」ことを優先し、焼死する寸前まで算盤を弾く亡者たち。


 沈黙を破ったのは、上座にいる役員の一人だった。

「立花さん。君の立場で、経営判断に関わる発言をする権限はないはずだが」

その言葉を合図に、兵頭課長がすかさず割って入った。

「申し訳ありません。彼女、最近少し情緒不安定でして」

 兵頭課長は、さも困り果てた上司という顔を作って、役員たちに頭を下げる。

「現場のストレスもあるんでしょう。時々、こうして感情的になることがありまして」

その言葉は、「彼女は壊れているから、まともに取り合う必要はない」というラベルを一瞬で貼り付けるナイフだった。今までのわたしなら、ここで下を向き、「すみません」と引き下がっていただろう。事なかれ主義の殻に閉じこもり、嵐が過ぎるのを待ったはずだ。


 でも、今日のわたしは、そのナイフを素手で掴んだ。

「私は、正常です」

はっきりと告げる。兵頭課長の目が、驚愕で見開かれる。

「ただ、天の道理と、お客様の安全を重んじているだけです」

 口をついて出たのは、心の中でなんども反芻してきた言葉だった。

「明智光秀はこう言いました。“天道恐るべし。人の知る所にあらざるも、天の知る所なり”と」


 会議室が、再び水を打ったように静まり返る。兵頭課長の顔が、みるみるうちに赤黒く変色していく。それは羞恥と激怒が混ざり合った、どす黒い色だった。

「お前、何様のつもりだ」

低い唸り声と共に、彼が立ち上がりかけた。

「会社の方針に逆らうなら、ここにいる資格は――」


 扉が開く音が、その言葉を途中で断ち切った。空気が動く。廊下から流れ込んだ風が、本能寺の熱気を一瞬だけ冷やした。

「失礼します」

よく通る、凛とした声。

「広報として、重要な情報があります」

広報の姉川有彩さんが立っていた。手には、タブレットとクリアファイル。彼女は兵頭課長の睨みつけを無視し、役員席へ向かって歩き出す。その足取りは、戦場を駆ける騎馬武者のように迷いがない。グレージュのジャケットに、淡いクリーム色のブラウス。肩までのボブが、蛍光灯の光を受けてつやりと光る。


「現在、SNS上での言及数が急増しています。この拡散スピードは、通常のクレームとは桁が違います」

彼女は手元のタブレットを操作し、モニターにグラフを映し出す。赤い線が、垂直に近い角度で跳ね上がっていた。

「過去の類似事例において、初期対応で隠蔽を図った企業がどうなったか。……その時のブランド毀損による代償は、正直に公表した場合の数百倍になります」

数字という名の武器。有彩さんは、役員たちが一番恐れる「損害」を突きつけたのだ。


 会議の流れが、強引に堰き止められる。役員たちは顔を見合わせ、やがて営業本部長が咳払いをした。

「……ふむ。これは、慎重に扱うべき案件だな」

 彼らはすぐに、「正義」ではなく「保身」のために論点をすり替え始めた。

「この件は、一旦人事案件として預かろう」

「社外への情報漏洩だけは避けなければ」

「まずはマスコミ対策だ。プレスリリースの文言を練り直せ」

 兵頭課長が、ねっとりとした視線をわたしに戻す。

「立花さんのメンタルケアは、私からも言っておきますので」

 あくまで“保護者”の顔を装いながら、その目は「後で覚えていろ」と語っていた。わたしの告発は、瞬く間に「若い女性社員の行き過ぎた正義感」という小さな箱に押し込められようとしていた。


 会議室を出たあと、廊下の冷たい空気が肌に張り付いた。足の震えが止まらない。壁に手をついて身体を支えていると、向こうから直美ちゃんが駆け寄ってきた。

「芽依さん、今の……」

彼女の顔は蒼白だった。何か言おうとして、彼女は唇を噛み、言葉を飲み込む。


 少し離れた場所には、新田くんが立っていた。いつもの人懐っこい笑顔はなく、ただ心配そうに、痛ましげな目でこちらを見ている。

「大丈夫」

わたしは、引きつった笑みを浮かべてみせた。

「私が、言いたくて言ったことだから」

嘘ではない。でも、その手は小刻みに震えている。戦場視界の中で、わたしは本陣の前に単騎で突っ立っているだけの足軽に見えた。味方の軍勢は、まだ背後の霧の中で足踏みしている。


 自席に戻り、PCを開く。社内チャットツールには、既に「さっきの会議」についての噂が飛び交っていた。

『開発の立花さんが爆弾落としたらしいよ』

『あの人、真面目すぎてたまに怖いよね』

『正義マン乙』

『無謀すぎ。自分の首絞めてどうすんの』

匿名という安全圏から放たれる言葉の矢が、わたしの背中に次々と突き刺さる。スタンプが乱れ飛び、わたしの行動を「見世物」として消費していく。


 画面を閉じ、深く息を吐く。オフィスの空調の音が、やけに大きく聞こえた。胸の中で、光秀の連歌を反芻する。

『時は今 あめが下しる 五月かな』


 謀反の決意を秘めた句。わたしはもう、元の位置には戻れない。「事なかれ主義」の平和な日常は、自らの手で焼き払ってしまった。その事実を、ようやく細胞レベルで理解する。


 それでも、「言ってしまった」ことは取り消せない。ならば、その言葉に責任を持つしかない。


 わたしは引き出しから、これまで集めてきた証拠の束を取り出した。メールのプリントアウト、会議の議事録、チャットログのスクリーンショット。手帳を開き、新しいページにペンを走らせる。

「危機:会社からの総反発、孤立」

「目的:隠蔽構造の可視化」

「手段:人事ヒアリングでの全面開示」


 文字にすることで、震えを無理やりねじ伏せる。これは、自分自身をも巻き込んで焼くことになる、捨て身の戦略地図だった。



「ハラスメントおよび業務上の不正に関するヒアリングについて」

数日後、人事部からの正式な呼び出しメールが届いた。件名の無機質な文字列を見て、心臓が小さく跳ねる。覚悟はしていたが、いざその時が来ると、胃の腑が冷たくなるのを感じた。


 扉を開けると、そこには前回よりも重い空気が澱んでいた。指定されたのは、普段あまり使われない奥まった会議室だった。長机の向こうには、人事担当の課長。その隣に、コンプライアンス室の男性。そして、外部の社労士だと名乗る眼鏡の女性。会社としても、表向きには「真面目に対処する姿勢」を見せざるをえなくなったのだ。


「それでは、立花さん。あなたが主張されている内容について、具体的にお話しいただけますか」

ICレコーダーの録音ボタンが押され、赤いランプが灯る。


 わたしは、持参した資料をテーブルに広げた。これまでの経緯を、時系列順に語り始める。感情を極力排し、事実だけを積み上げていくプレゼン。それは、わたしの得意な「問題の可視化」だ。


「×月×日、新商品企画会議にて。兵頭課長による人格否定発言。『お前が担当だと売れない』等の侮辱」

「×月×日、成果物の名義書き換え」

「休日出勤の暗黙の強要。評価シートにおける恣意的な低評価」

そして、異物混入に関する隠蔽指示のメールを提示する。

「『回収はするな。SNSで燃える前に握り潰せ』」

「『工場のせいにして、うちは知らなかったことにしろ』」


 読み上げるたび、言葉が持つ毒性が部屋に充満していく。社労士の女性が、眉をひそめてメモを取る。人事担当が気まずそうに視線を逸らす。これは、わたしの「戦場」の可視化だった。曖昧な「指導」という霧の中に隠されていた地雷を、一つずつ白日の下に晒していく作業。


 一通り話し終えると、コンプライアンス室の男性が眼鏡の位置を直し、慎重に口を開いた。

「確かに、言葉だけを見れば問題となりうる発言です。ですが……文脈によっては、熱心な“指導”の範疇と解釈される可能性もあります」

まただ、と一瞬、胃のあたりが冷たくなった。

「解釈」という、なんでも吸い込んでしまうスポンジのような言葉。

「隠蔽指示についても、課長なりの“危機管理判断”だったと言われれば、それまででして」

結局、会社は「個人間のトラブル」に矮小化したいのだ。絶望感が胸に広がりかけたとき、会議室の扉がノックされた。


「失礼します。同席を希望されている方がいます」

入り口に立っていた人事部員が告げると同時に、その背後から一人の女性が入ってきた。

「私からも、いくつか共有したい資料があります」

姉川有彩さんだ。彼女は有無を言わせぬ迫力で空いている席に座り、持参したノートPCを開いた。

「これは、過去の炎上案件において、兵頭課長から広報部に送られたメールです」


 画面には、見覚えのある文言が並んでいた。

『現場に押しつけて黙らせろ』

『広報の判断ということにしておけ』

『回収コストなんてかけるな』


 日付と件名こそ違うが、その構造は今回の異物混入案件と瓜二つだった。

「これは、今回に限った話ではありません。彼のマネジメントにおける、構造的な問題です」

有彩さんが静かに、しかし断定的に告げる。コンプライアンス室の男性が言葉を失う。


 更に、扉が開く。

「私も、証言します」

そこに立っていた人物を見て、わたしは息を呑んだ。完璧なメイク。きっちりとしたテーラードジャケットを着ているが、その指先はわずかに震えていた。早乙女玲さん。

彼女はわたしの隣の席に座った。ずっと背中を追いかけ、時に憎み、時に憧れたライバル。その彼女が、今は同じ方向を向いて座っている。その事実が、心強さと同時に、奇妙な居心地の悪さを連れてくる。


 玲さんは、深く息を吸って語り始めた。

「私が担当したインフルエンサーコラボ企画が炎上したときのことです。味が価格に見合っていないと批判されました。……原因は、工場の原価削減でした。でも、兵頭さんは私にこう言いました。『映えで押し切れ』と」


 彼女の声が、微かに揺れる。

「謝罪文の矢面に立ったのは、インフルエンサーの方と、現場だけでした。私は……私は、怖くて何も言えなかった。兵頭さんには『次のバズり企画を出せば忘れられる』としか言われなくて」

それは、彼女自身のプライドを切り裂く告白だった。「完璧なエリート」という仮面を、自ら剥ぎ取る行為。


「あたしも、いいですか」

顔を覗かせたのは、若月直美ちゃんだった。資料をぎゅっと抱きしめている。

「あたし、何度も見ました。会議で立花さんが吊し上げられてるところ。『新人以下だ』とか『女の幸せは仕事じゃない』とか……あれは、指導なんかじゃありません。ただのいじめです」

直美ちゃんが涙目で訴える。


最後に、新田くんが呼ばれた。真剣な眼差しで、少し汗ばんだ手でレポートを握りしめながら話す。

「僕の担当店舗からのクレーム情報も、何度も握りつぶされかけました。立花先輩がまとめた報告書を、課長が『俺が見る必要はない』って突き返して……現場の声が、本部に届かないんです」


次々と積み上げられる証言。それはもう、一人の女性社員の「被害妄想」として処理できるレベルを遥かに超えていた。


 わたしの戦場視界の中で、マップが書き換わっていく。本陣の前に単騎で立っていたわたしの横に、一つ、また一つと、味方の旗印が立っていく。有彩さんの旗、玲さんの旗、直美ちゃん、新田くんの旗。孤独な戦場が、一気に熱を帯びる。


 人事担当の課長は、額の汗をハンカチで拭った。もはや「誤解」で済ませることは不可能だった。彼は咳払いをし、努めて冷静な声を作る。

「……非常に重く受け止めています。ただちに調査委員会を立ち上げ、事実関係を確認します」

しかし、その瞳の奥にある光は、まだ完全にはこちらを向いていない。

「ただし、調査には時間がかかります。社外への情報発信は、当面差し控えていただきたい。……会社としての対応が決まるまでは」


 そこに見え隠れするのは、やはり「保身」だった。是正はするが、傷口は最小限にしたい。ブランドイメージを守りたい。会社という巨大な生き物が、必死に自己防衛本能を働かせているのがありありと分かる。わたしの中で、「このまま社内だけに任せていいのか」という、新たな不安の種が芽吹き始めていた。



 会議室を出たあと、わたしは廊下の隅に寄りかかるようにして息を整えた。午後四時過ぎ。窓の外の光は薄くなり始めていて、ビルの谷間を抜ける風がガラスをかすかに震わせている。さっきまで座っていた椅子の硬さが、まだ背中に残っていた。


「……喉、渇いてるでしょ」

不意に、冷たいものが視界に差し出された。水のペットボトル。差し出しているのは、早乙女玲さんだった。


 驚いて顔を上げると、彼女は少しだけ視線を逸らす。

「ありがとう……ございます」

受け取った指先が、彼女の指と一瞬触れた。その感触に、妙な気まずさと、じんわりしたあたたかさが同時に広がる。


「さっきは……証言してくれて、ありがとう」

どう言葉を選べばいいのか分からず、そのまま口に出す。玲さんは、ふっと片側だけ口角を上げた。

「勘違いしないで。自分のためでもあるから」

テンプレみたいなツンとした一言。でも、その目の奥には、「やっと言えた」という安堵の色がうっすらにじんでいた。


「……悔しいけどさ」

玲さんが、廊下の端の窓のほうを見ながら呟く。

「今日の話で、わたし、仕事の考え方を変えなきゃいけないって、やっと分かったわ。“映え”だけじゃ、守れないものがあるって」

その横顔は、いつもの完璧なプレゼンのときより、少しだけ年相応に見えた。

「また、バチバチやりますよね」

気づいたら、そう言っていた。玲さんは、少しだけ驚いたように目を瞬かせてから、肩をすくめる。

「当たり前でしょ。……ただ、次は、わたしもちゃんと“誰かの一日”を考える」

それだけ言うと、彼女はヒールの音を立てて歩き去っていった。


 テーブルの上には、厚めの封筒と数枚の紙。その存在だけで、結論の輪郭が見える気がした。会議室の空気は、前回よりもさらに重たかった。数日後。人事から再び呼び出しがかかった。


「慎重に検討した結果……」

人事部長の口から出てきた言葉は、予想していたものとほぼ同じだった。

「兵頭課長については、地方拠点への異動といたします。表向きには“人材活用の一環”ですが、実質的には降格に近い配置です」

淡々とした声。ペンで印刷物を指し示す手元だけが、妙に鮮明に見えた。


「それと、立花さんについてですが……」

少し言い淀んでから、人事担当がこちらを見る。

「今回の件で、かなりお疲れもあるでしょうし、“休職”という選択肢もあります。しばらく仕事から離れて、心身を整えるのも、一つの手かと」


 それは、柔らかいクッションの形をしたナイフだった。

「それは……わたしが“問題社員”として扱われる、ということですか」

 自分でも驚くほど、声は静かだった。

「いえいえ、決してそういうわけでは」

人事担当は慌てて首を振る。

「ただ、社外への情報発信などがあれば、会社としても対応せざるをえませんので。お互いにとって、一番穏便な形を模索したいと」

「おとなしくしていれば守ってやる。騒げば切る」。

 そう書かれた契約書が、見えないインクで目の前に差し出されたようだった。


 戦場視界が、じわじわと広がる。天幕の下で交わされる密約。表には「和睦」と書かれているけれど、裏には小さな文字で「沈黙」を条件とする条文が並んでいる。

「検討させてください」

そう答えるのが精いっぱいだった。


 会議室を出て、非常階段の踊り場まで来たところで、スマホが震えた。通知バーに表示された見出しを見て、足が止まる。


「コンビニ ソレイユ、“異物混入の噂”を正式否定 『安全性に問題なし』と発表」

自分の知らないところで、「問題なし」が宣言されていた。さっきの「慎重な検討」は、一体なんだったんだろう。膝から力が抜け、その場にしゃがみ込む。コンクリートの冷たさがスカート越しに伝わる。


 戦場視界の中で、さっきまでかき集めていた瓦礫が、また一気に崩れた。城壁に開いた穴に、黒い水が押し寄せてくる。


「立花先輩?」

階段の上から声がした。

「大丈夫ですか」

見上げると、新田くんが、心配そうに見下ろしていた。彼は急いで降りてきた。階段の下の自販機で缶を二つ買い、戻ってきた。ホットココアを手渡される。缶の温かさが、かじかんだ指に移る。


「うちの担当店、あのロールケーキ……ちょっと売りづらくなってて」

新田くんは、狭い踊り場の壁にもたれかかりながら言う。

「お客さん、ネット見てるから。『本当に大丈夫?』って聞かれても、僕らもはっきり言えなくて」

その言葉が、胸に重く沈んでいく。現場の葛藤が、そのまま体の内側に流れ込んでくる感じがした。

「俺、立花先輩には笑っててほしいっす」

不意に、新田くんが真っ直ぐこちらを見る。


「ひとりでボロボロになってくのは見たくない」

犬系の顔に、今まで見たことのない真剣さが浮かんでいた。

「僕なんかじゃ、守れないのかもしれないですけど」

 少し視線を落としながら、ぽつりと続ける。

「先輩には守ってくれる人がいますね。……あの、パティシエさんとか」

胸の奥で、何かが小さく鳴った。でも、その音の意味を、わたしはうまく掴めなかった。


「新田くんが、いつも現場の声を持ってきてくれるから、わたし頑張れてるんだよ」

そう言うと、新田くんは一瞬だけ苦い顔をして、それからいつもの笑顔を作った。

「じゃあ、これからも、現場代表として全力でエール送ります」

缶ココアを持ち上げて、乾杯の真似をする。


「ここで引けば、楽にはなれる」。

でも、そのたびにコンビニの棚を見るのが怖くなるだろう。


 デスクに戻ると、社内チャットがざわついていた。

「会見やるらしいよ」「うちの会社、マジか」

「“問題なし”って言っちゃったから、火消しだね」

情報は、人事や広報をすっ飛ばして、勝手にフロアに流れていく。わたしの知らないところで、物語の筋書きが勝手に書き換えられていくような感覚。

わたしはココアを一口飲んだ。甘くて、少しだけ苦い味がした。


 そのとき、通知がひとつだけ静かに光った。

「姉川有彩」

 ショートメッセージには、一行だけ書かれていた。

『芽依さん。まだ終わってないから』

その言葉が、薄暗いフロアの空気を少しだけ動かした気がした。


 どこかで誰かが、まだ矢を放とうとしている。そんな予感が、戦場視界の端に小さな光をともした。



膠着状態が続く中、事態は最悪の形で動こうとしていた。翌日、わたしは再び役員会議室に呼び出された。若月直美ちゃんも一緒だ。


 部屋には、営業本部長、品質管理部長、そして数名の役員が待ち構えていた。兵頭課長の姿はない。テーブルの上には、刷り上がったばかりの「お客様対応マニュアル」と「プレスリリース」が置かれている。


「君たちには、この方針に則って現場への周知徹底をお願いしたい」

本部長が、事務的に告げた。それは、異物混入を「無かったこと」にするための、偽りの上に、嘘を塗りたくる台本だった。わたしたち現場担当者に、この欺瞞を呑ませ、共犯者に仕立て上げるための「儀式」


 戦場視界が発動する。会議室は、包囲された城の本丸。敵の大将が突きつけてくるのは、降伏勧告状だ。これを飲めば命は助かる。だが、誇りは死ぬ。

「……できません」

わたしは声を絞り出した。

「これは、お客様への裏切りです」

「会社決定だ」

役員の一人が、冷ややかに言い放つ。

「君がどう思おうと、組織としてはもう決まったことなんだよ。嫌なら、辞めてもらうしかない」

直美ちゃんが、恐怖で肩を震わせている。わたしも、言葉が続かない。巨大な組織の論理に、個人の良心は押しつぶされるしかないのか。


 その時だった。固定電話が鳴り響いた。進行役の女性が受話器を取る。

「あの、アポイントなしなんですが、どうしてもお会いしたいという方が……」

会議室の重い扉が開かれた。そこに立っていたのは、朝香翔だった。いつもの白いコックコートではない。チャコールグレーの細身のスーツに、深いボルドーのネクタイ。少し窮屈そうだが、その立ち姿は厨房にいるときと同じく、研ぎ澄まされた刃物のような空気を纏っていた。

「……朝香さん?」

なぜ、ここに? 彼はわたしを一瞥もしない。鋭い視線を、一直線に役員たちに向けていた。

「姉川さんから聞いた」

彼は静かに、しかしよく通る声で言った。

「俺の名前を使ってる会社が、何を守って、何を捨てるのか。……確かめに来た」


 役員たちがざわめく。今やソレイユの看板商品となったコラボスイーツ。その生みの親である彼が、直接乗り込んできたのだ。

朝香さんは、テーブルに置かれた「嘘のマニュアル」に視線を落とし、軽蔑を含んだ笑みを浮かべた。

 そして、役員たちを見据えて言い放つ。

「俺は、立花さんが命懸けで守ろうとしたこの会社を、信じたいと思ってる。けど」


 一瞬の間。空気が張り詰める。

「もし、“問題なし”と嘘をつくなら、二度とここには菓子を出さない。契約は今すぐ破棄させてもらう」

それは、味覚ではなく「信頼」で繋がっている全ての職人、そして顧客へのメッセージだった。

もし人気パティシエが「企業の不誠実さ」を理由に契約を切ったと知れれば、その炎上は異物混入の比ではない。ブランドイメージは地に落ちる。


 営業本部長の顔色が変わった。天秤が、音を立てて傾く。「回収コスト」と「ブランドの崩壊」。どちらが重いかは、明白だった。

「……そこまで、おっしゃるなら」

本部長が、苦渋の表情で唸った。彼らは改心したわけではなく、損得勘定で負けを認めただけだ。それでも、「逆理」が初めて、明確な形で押し返された瞬間だった。


 会議室の隅で、わたしの戦場視界がふっと薄れていく。炎に包まれていた堂内に、静かな雨が降り始め、熱を冷ましていく光景が見えた。


 決定事項は覆った。「限定ロットの自主回収」と「事実の公表」、そして「第三者調査委員会の設置」

会議が終わった。会社は公式謝罪会見を開くことになるだろう。


 廊下に出た瞬間、張り詰めていた糸が切れ、わたしはその場にへたり込んだ。足に力が入らない。

視界に、革靴が入ってきた。朝香さんが、しゃがみ込んで目線を合わせてくれる。

「巻き込んで……すみません」

消え入りそうな声で謝ると、彼は呆れたように、けれどどこか優しげに鼻を鳴らした。

「巻き込んでんのはお前だろ。……俺を、ここまで本気にさせた責任、取ってくれよ」

心臓が、大きく跳ねた。その言葉は、告白のようであり、戦友への宣言のようでもあった。頬が熱くなるのを感じながら、わたしは小さく頷いた。

「……はい。じゃあ、次の新作も……一緒に、作ってくれますか」

彼はふっと笑い、わたしの頭に手を置いた。ポン、と不器用なリズムで。


「当たり前だろ」

二人の間に、甘くてほろ苦い、新しい約束が生まれた。


 少し離れた場所で、有彩さんが腕を組んでこちらを見ていた。目が合うと、彼女は柔らかく微笑み、口元だけで言った。

『よく戦ったわね、軍師殿』

その言葉が、一番の勲章だった。


 帰り際、エレベーターホールで新田くんとすれ違った。彼は、朝香さんと並んで歩くわたしを見て、一瞬だけ足を止めた。そして、何かを悟ったように、寂しげに、でも清々しく笑った。

「先輩には、一緒に戦ってくれる人がいますね。それがわかってちょっと安心しました」

その言葉の意味を深く考える余裕は、今のわたしにはなかったけれど、彼の声色がやけに優しかったことだけは耳に残った。


その後の展開は、速かった。会社は公式に謝罪会見を開き、限定ロットの自主回収を発表した。SNS上では一定の批判もあったが、「誠実な対応をした企業」として評価する声も多く、炎上は小規模で収束した。


 数日後。兵頭課長が荷物をまとめて出ていく姿を、わたしは遠くから見送った。背中は小さく見えた。かつて巨大な城壁のように思えたその背中は、ただの疲れた中年男性のものだった。

「天道恐るべし」

わたしは小さく呟いた。それは復讐の言葉ではない。「やっと、一歩進んだ」という、静かな安堵の吐息だった。


 玲さんが、わたしのデスクの横を通り過ぎざまに立ち止まった。彼女は新しい企画書を小脇に抱えている。地方の小さなカフェとのコラボを始めたらしい。

「……悔しいけど、わたしは仕事の考え方を変えなきゃいけないことがわかったわ」そう言ってから、ふっと笑う。

「次は、“派手で誠実”ってやつ、やってみるわ」

彼女はそれだけ言い捨てて、カツカツとヒールを鳴らして歩き去った。その背筋は、以前よりもずっと伸びやかで美しかった。

後ろ姿を見送りながら、「またバチバチやる日が来るんだろうな」と、少し楽しみになっている自分に気づいた。


 自分のデスクでPOSデータのグラフを見つめている。季節は巡り、夏が近づいていた。相変わらず忙しい日々だ。新しい課長は厳格だが話の通じる人で、わたしの図解による提案を面白がってくれる。


 手元のスケッチブックには、二つの新作スイーツの構想が描かれている。一つは、朝香さんと作る「フランボワーズソース煮リンゴを活かすスイーツ」もう一つは、玲さんと企画している素朴な焼き菓子。


 仕事帰りに、朝香さんのパティスリー以外の店にも足を運ぶようになった。海外から上陸したばかりの話題店で、ライバル視察も兼ねてケーキを食べる。「おいしい」と素直に感動し、「くやしい」とメモを取る。香り、舌触り、余韻。それを心の中で分解し、「コンビニスイーツに落とし込んだらどうなるか」を考える。そんな日常が、愛おしい。


「芽依さん、相変わらず“戦場偵察”してるのね」

ある日、社内のカフェスペース。ばったり会った有彩さんが笑った。

「有彩さんこそ、相変わらず“火消し”で忙しいそうですね」

「火を見に行ってるうちに、火種がどこにあるか分かるようになってきたわ」

冗談めかして言ってから、有彩さんは少し真面目な顔になる。

「芽依さん。あのとき、声を上げてくれてありがとう。あなたが最初の一言を言わなかったら、私は朝香さんに連絡をしなかった。会社も、ここまで動かなかったと思う」

その言葉は、あの日の会議室の蛍光灯の光とは違う、柔らかい光を帯びていた。

「順理を選ぶ人は、いつも少数派よ」

有彩さんが、少しだけ目を細める。

「でも、少数派でもいいの。ちゃんと言葉にしてくれる人が一人いれば、あとはついてくるから」

そして、わたしをまっすぐに見て付け加えた。

「芽依さん。私が渡したかったバトンを、ちゃんと繋いでくれた。これからは、もっと自由に走っていいのよ」


 甘い香りが満ちている。閉店後の厨房。夕暮れのパティスリー・アサカ。

「フランボワーズソースで煮たリンゴを活かすスイーツというのを考えていて……」

わたしは浮かんだアイデアを口にする。

「ベイクしたチーズケーキにそれを載せるのはどうかなぁ?」

朝香が頷き、二人で試作に取り掛かる。


「名前、どうする」

オーブンの中を覗き込みながら、朝香さんが尋ねる。チーズケーキを見つめながら、わたしは少し照れくさそうに提案した。


「“反逆者のチーズケーキ”なんて、どうでしょう」

彼は吹き出した。

「物騒だな。……でも、俺たちらしい」

二人の笑い声が、狭いキッチンに響く。もう、戦場視界は発動しない。ここにあるのは、温かなオレンジ色の光と、確かな未来の予感だけだ。


本社の廊下で、新田くんが走ってきた。

「立花先輩!」

手にはタブレット。POSデータのグラフが表示されている。

「先輩のタルト、今でもうちの担当店で一番の売れ筋ですよ」

あの騒動の後も、コラボタルトは売れ続けているらしい。

「バズってるわけじゃないけど、『なんか疲れたときに買っちゃう』って」

その言葉が、ゆっくりと胸に沁みていく。

「先輩が戦った結果、ちゃんと“誰かの一日”が変わってますよ」

新田くんは、少しだけ照れくさそうに笑った。

「僕は……まあ、その、“戦う先輩”を、これからも後ろから全力で推しますんで」

何か言いかけて、飲み込んだ言葉の形だけが、空気の中に残った気がした。


 コンビニ、ソレイユのスイーツ棚。まばゆい照明の下に、新作のケーキが並んでいる。

「フランボワーズソース煮リンゴのチーズケーキ」。POPには、わたしの手書き文字が踊っている。ニューヨークチーズケーキの上に、フランボワーズのソースで煮たアップルが載っている。


 制服姿の女子高生二人組が、棚の前で立ち止まった。

「あ、これ新作だ」

「中間試験終わったし、ご褒美スイーツ食べよっか」

「いいね。これ、イートインで食べよ」

彼女たちがケーキを手に取り、レジへと向かう。その横顔には、ささやかな幸福が浮かんでいた。


 わたしは、少し離れた通路からその光景を見つめていた。胸の奥が、じんわりと温かくなる。


 スマホが震えた。朝香さんからのメッセージだ。

『今日も、新作の試作に来い』

ぶっきらぼうな文面に、思わず頬が緩む。その向こう側には、あの厨房の灯りと、まだ見ぬスイーツの断面図が広がっている。

『了解です。軍師、参ります』と返信を打つ。


 わたしは顔を上げ、雑踏の中へと歩き出した。これまでの道のりは、決して平坦ではなかった。傷つき、迷い、瓦礫の中でうずくまった夜もあった。けれど、その全てが今のわたしを作っている。


これまでの道のりを振り返る。

瓦礫みたいだった自己肯定感。

本能寺みたいな会議室。

姉川有彩さんの一言、若月直美ちゃんの笑顔、新田くんのエール。

玲さんのプライドと変化。

そして、雨の夜にタオルを被せてくれたパティシエ。

全部が、今のわたしを形作っている。


 順理こそが永遠なり。孔子の言葉も、光秀の生き様も、今のわたしには肌感覚として分かる。

正しい道は、険しくて孤独だ。でも、その道を歩いた足跡だけが、誰かの心を照らす灯りになる。


 人の知る所にあらざるも、天の知る所なり。誰も見ていなくても、天は見ている。 そして何より、棚の向こう側の「誰か」が、ほんの少しだけ笑ってくれるなら――。私の戦いは、きっと無駄じゃなかった。

「仕事も、恋も……わたしは、わたしの順理を歩いていこう」


 ガラスの扉が開き、初夏の風が吹き抜ける。その風は、新しい戦場の匂いがした。でも、もう怖くはない。わたしには、守りたいものと、共に戦う仲間がいるのだから。


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