第四話:美しき買収劇
「アリア……? まさか、そんな……」
時が止まったかのような静寂の中、ベアトリスの掠れた声だけが虚しく響いた。
彼女は目の前に立つ人物と、記憶の中にある少女の姿を必死に重ね合わせようとしているようだった。
だが、それは無理もないことだ。
かつて灰色の服を着せられ、背を丸めて帳簿をつけていた「地味な次女」はもういない。
今、彼女たちの前に立っているのは、隣国の最新ファッションを完璧に着こなし、自信と知性に満ちた一人の経営者なのだから。
「どうして……あなたがここに? 死んだと思っていたわ。野垂れ死んだと……」
「残念ながら、しぶとく生き延びてしまいました。あなた方が追い出してくれたおかげで、広い世界を知ることができましたから」
私は微笑みを崩さず、優雅にヴェールを畳んでテーブルに置いた。
リリアナは口を半開きにしたまま、パクパクと金魚のように唇を震わせている。
「う、嘘よ! アリアが商会長だなんて! あんたなんか、ただの計算係じゃない! きっと何か騙しているのよ、偽物よ!」
「偽物、ですか。……リリアナお姉様、昔から現実は直視しない癖がおありでしたが、まさかここまでとは」
私はため息交じりに首を横に振る。
そして、先ほど彼女たちが署名したばかりの契約書を、指先で軽く叩いた。
「ここにある署名は本物です。そして、この契約書の効力もまた、絶対です。あなた方はルクレール商会の全権を、私、アリア・ルクレールが代表を務める関連会社へ譲渡したのです」
「騙したのね!?」
ベアトリスがテーブルに身を乗り出し、金切り声を上げた。
「これは詐欺よ! 相手があなただと知っていたら、サインなんてしなかったわ! 無効よ、こんなもの!」
「詐欺? 異なことをおっしゃいますね」
私は冷ややかな視線で彼女を見下ろした。
「私は身分を偽ってはいません。『A.L』。私のイニシャルです。それに、契約の内容に虚偽は一切ない。あなた方は借金の肩代わりを望み、私はその対価として権利を求めた。双方の合意に基づいた、極めて公正な取引です」
「でも……! 親に向かってこんな真似をして、タダで済むと思っているの!?」
「親、ですか」
その言葉が出た瞬間、私の胸の奥で冷たい炎が揺らめいた。
親。家族。
その言葉を、この人たちが口にする資格があるというのか。
「ベアトリス様。あなたは三年前のあの日、私にはっきりとおっしゃいましたね。『他人の娘』と。そして『二度と顔を見せるな』と」
「そ、それは……言葉のあやよ! 感情的になっていただけだわ!」
「あいにくと、商人は言葉の重みを大切にする生き物なのです。一度吐いた言葉は飲み込めない。……それに、先ほどあなたご自身が認めたではありませんか。私に横領の濡れ衣を着せ、自分たちの浪費を隠蔽していたと」
私は一歩、前へ踏み出した。
カツン、とヒールの音が響く。
たったそれだけの動作に、ベアトリスは怯えたようにソファの背もたれに張り付いた。
「粉飾決算、横領、そして詐欺未遂。これらは全て立派な犯罪です。本来なら、このまま衛兵を呼んで突き出しても良いのですよ?」
「ひっ……!」
「嫌! 牢屋は嫌!」
リリアナが泣き叫び、ベアトリスの腕にしがみつく。
その姿はあまりにも無様で、かつて私を嘲笑っていた傲慢な貴婦人の面影はどこにもなかった。
「お、お願いよアリア! 許してちょうだい! 私たちが悪かったわ、謝るから! ね? 家族じゃないの!」
「そうよアリア! 私たち、姉妹でしょう? 私が今まで着ていたドレス、あげるから! だからこの契約書を破って!」
媚びへつらい、保身のためにプライドをかなぐり捨てる二人。
これが見たかったのかと問われれば、否と答えるだろう。
こんな哀れな生き物たちに、私は長年苦しめられていたのか。そう思うと、復讐の快感よりも、空虚な憐れみの方が勝った。
「……ご安心ください。私はあなた方を牢獄へ送るつもりはありません」
その言葉に、二人の表情がパッと明るくなった。
「本当!? さすがアリア、優しい子ね!」
「そうこなくては! やっぱり家族の絆は切れないものね!」
「勘違いなさらないでください」
私は冷水を浴びせるように告げた。
「牢獄へ送れば、国税を使ってあなた方を養うことになる。それは国民への背信行為です。……それに、あなた方にはもっと相応しい場所を用意してあります」
「相応しい……場所?」
「ええ。商会の資産整理にあたり、あなた方が所有していた別荘や宝石類も全て売却処分となります。ですが、一つだけ、売れ残った物件がありましてね」
私は鞄から一枚の古びた鍵を取り出し、テーブルの上に放った。
チャリ、と乾いた音がする。
「北の国境近くにある、古い山小屋です。かつて祖父が倉庫として使っていた場所ですが、雨風くらいは凌げるでしょう。周囲には何もない土地ですが、畑を耕せば自分たちが食べる分くらいの作物は育つはずです」
「は……? 畑……?」
「あなた方は以前、私に『商才がない』とおっしゃいましたね。その通りかもしれません。ですが、あなた方には『生きる力』そのものが欠けている。……これからは、自分の手で土を耕し、自分の汗でパンを得る生活を送ってください。それが、あなた方に残された唯一の道です」
二人は絶句していた。
華やかな社交界、美しいドレス、美食と宝石。それら全てが永遠に失われ、泥と汗にまみれる生活が待っているという現実を、すぐには理解できないようだった。
「ふ、ふざけないで! 私がそんな田舎で暮らせるわけないでしょう! 私はルクレール家の当主よ!」
「『元』当主です。今の当主は私です」
私は毅然と言い放った。
「屋敷の立ち退き期限は明日ですが、ご慈悲として、今夜はこのホテルの別室を用意しておきました。……ただし、スイートではなく、使用人用の控え室ですが」
「屈辱だわ……! こんな屈辱、許せない!」
「屈辱? 三年前、着の身着のまま雨の中に放り出された私が味わった絶望に比べれば、屋根があるだけ感謝すべきではありませんか?」
私の瞳が、射抜くようにベアトリスを捉える。
彼女は言葉を失い、ただわななきながら私を睨みつけることしかできなかった。
そこへ、控えていたルシアン商会の屈強な護衛たちが部屋に入ってきた。
「お客様、退出のお時間です」
「さあ、こちらへ」
「離して! 自分で歩けるわよ!」
「お母様、お母様ぁ……!」
抵抗も虚しく、二人は両脇を抱えられ、部屋から連れ出されていく。
廊下へ引きずられていくその背中に、私は最後の言葉を投げかけた。
「さようなら、ベアトリスさん、リリアナさん。二度と私の前にその顔を見せないでください。……これは、かつての『家族』からの、最後の慈悲です」
扉が閉まる。
喚き声が遮断され、部屋に再び静寂が戻った。
私はふっと息を吐き、肩の力を抜いた。
「……見事な手際だ」
それまで気配を消して部屋の隅に控えていたルシアンが、ワイングラスを片手に歩み寄ってきた。
彼は楽しげに口元を歪めている。
「もっと甚振るかと思ったが、意外とあっさりしていたな」
「彼女たちと同じ土俵に立って、感情的に叫び散らすなんて無意味ですから。それに、本当の地獄はこれからですわ。プライドだけの無能な人間が、誰の助けも借りずに生きていく……それは牢獄よりも過酷な罰になるでしょう」
「違いない。……だが、お前が本当に手に入れたかったのは、復讐そのものではないだろう?」
ルシアンの言葉に、私は窓の外へ視線を向けた。
雨は上がり、雲の切れ間から月が顔を出している。
「ええ。……これからが本番です。父の残した商会を立て直し、本当の意味で私のものにする。それが私のゴールです」
「ああ。そしてお前ならできる。俺が見込んだ女だからな」
ルシアンは私の肩に手を置き、力強く頷いた。
その手の温もりが、私の冷え切った心を少しだけ溶かしてくれた。
***
翌日。
澄み渡るような青空の下、一台の馬車がルクレール家の屋敷へと向かっていた。
今度は塗装の剥げた馬車ではない。
ルシアン商会の紋章が入った、最高級の馬車だ。
門をくぐり、車止めに馬車が停まる。
私は深呼吸をして、扉を開けた。
「お帰りなさいませ、アリアお嬢様……いえ、アリア当主様」
出迎えてくれたのは、執事のセバスチャンだった。
彼の目には涙が溢れ、震える手でハンカチを握りしめている。
その後ろには、数人の古参の使用人たちが並んでいた。彼らは皆、私の帰還を知り、戻ってきてくれたのだ。
「ただいま、セバスチャン。そしてみんな。……待たせてごめんなさい」
私が馬車を降りると、セバスチャンはその場に跪いた。
「この日を……この日をどれほど待ちわびたことか。あの御二方が屋敷を去り、お嬢様が戻られると聞いた時、私は夢かと思いました」
「夢じゃないわ。……見て、この屋敷を」
私は視線を上げた。
蔦が絡まり、壁は薄汚れてしまっているが、それでも骨格はしっかりとしている。
父が愛し、私が育った家。
「ボロボロね。庭も荒れ放題だし、外壁も塗り直さないといけない」
「はい。恥ずかしながら、人手も資金も足りず……」
「でも、基礎は腐っていない。磨けばまた輝くわ。……そうでしょう?」
私の言葉に、使用人たちが力強く頷く。
彼らの目には、昨日までの絶望的な光はなく、希望の輝きが宿っていた。
「未払いの給与は、今日中に全額、利子をつけて支払います。そしてこれからは、正当な対価と敬意を持ってあなた方を雇用します。……私と一緒に、もう一度このルクレール商会を盛り上げてくれますか?」
「喜んで! この命ある限り!」
「アリア様についていきます!」
歓声が上がる。
涙を流しながら笑い合う彼らの姿を見て、私もまた、目頭が熱くなるのを感じた。
復讐は終わった。
これからは、再生の物語だ。
屋敷の中へ足を踏み入れる。
埃っぽい空気の中に、懐かしい木の香りが混じっている。
玄関ホールの正面には、父の肖像画が飾られていた。ベアトリスたちが売り払わなかった数少ないものの一つだ。
描かれた父は、優しげな眼差しで私を見下ろしている。
「お父様。……取り戻しましたよ」
私は肖像画に向かって静かに語りかけた。
「少し遠回りをしてしまいましたが、私は強くなりました。お父様が大切にしていた『誠実な商売』、そして『技術への敬意』。それらを核にして、この商会を世界一にしてみせます」
「アリア」
背後からルシアンが声をかけてきた。
彼は玄関の柱に寄りかかり、感慨深げにホールを見渡している。
「いい家だ。主人の魂が残っている」
「ええ。……ルシアン様、改めて感謝を。あなたが拾ってくれなければ、今の私はありませんでした」
「礼には及ばん。俺は投資をしただけだ。そして、すでに元は取れている」
ルシアンは歩み寄り、私の手を取った。
そして、その手の甲に恭しく口づけを落とした。
「これからはビジネスパートナーとして、対等な関係だ。……だが、師匠としての特権で一つだけ言わせてくれ」
「何でしょうか?」
「あまり根を詰めすぎるなよ。お前が倒れたら、俺が困る」
その不器用な優しさに、私は思わず吹き出した。
「ふふ、肝に銘じます。でも、しばらくは忙しくなりそうですわ。新作の魔導具の開発に、輸出ルートの再構築……やりたいことが山ほどあるんですもの」
私はルシアンの手を握り返し、そして顔を上げた。
開け放たれた扉の向こうから、心地よい風が吹き込んでくる。
それは、新しい時代の始まりを告げる風だった。
「さあ、行きましょう。仕事の時間です」
私はドレスの裾を翻し、執務室へと続く階段を上り始めた。
その足取りは軽く、もはや過去の重みに囚われることはない。
“家門の恥”と呼ばれた少女はもういない。
ここにいるのは、ルクレール商会を率いる若き女傑、アリア・ルクレールだ。
私の物語は、ここからが本当の始まりなのだから。




