第一話:雨音と絶縁の夜
重苦しい空気とともに、降り止まぬ雨が屋敷の窓を叩き続けている。
湿り気を帯びた風が、弔いのために炊かれた香の匂いを廊下の隅々にまで運んでいた。
「……やっと、終わったわね」
けだるげな吐息とともに発せられたその言葉は、夫を亡くしたばかりの未亡人のものとは思えないほど、晴れやかな響きを含んでいた。
私が父の葬儀の後片付けを終え、報告のためにサロンへ足を踏み入れた時のことだ。
豪奢な深紅のソファにその身を沈めているのは、義母のベアトリス。そしてその傍らで、退屈そうに自分の爪を眺めているのが、義姉のリリアナである。
二人は喪服に身を包んではいるものの、その表情に悲壮感はない。むしろ、目の上のたんこぶが消えたことへの安堵感すら漂っていた。
私は胸の奥で燻る黒い感情を押し殺し、努めて冷静な声で告げる。
「お義母様、葬儀に関する支払いの整理と、参列者リストの作成が完了いたしました。明日の朝一番で関係各所への礼状の手配も行います」
私が差し出した書類の束に、ベアトリスはちらりと視線を向けただけだった。手にとろうともせず、まるで汚らわしいものを見るかのような目で私を見下ろす。
「ご苦労さま。相変わらず、そういう地味な仕事だけは早いのね、アリア」
「……恐れ入ります」
「でも、もうその必要はないわ」
ベアトリスは優雅な仕草で扇子を開き、口元を隠しながら目を細めた。その瞳の奥にあるのは、明確な悪意と排除の意志だ。
「アリア、単刀直入に言うわ。今日限りでこの家から出ていきなさい」
予想していなかったわけではない。
父が生きていた頃から、彼女たちが私を疎ましく思っていたことは痛いほど理解していた。
ルクレール商会は、祖父の代から続く魔導具を扱う老舗だ。父の前妻であった私の母が亡くなり、父がベアトリスと再婚して以来、この家の空気は一変した。
没落貴族の出であるベアトリスにとって、商売とは「金に意地汚い平民のすること」であり、その最前線で帳簿を管理し、商品の検品を行う私は、彼女の「高貴な美学」を汚すシミでしかなかったのだ。
「……出ていけとおっしゃいますが、私はこの家の次女です。それに、現在商会の実務を取り仕切っているのは私です。私が抜ければ、取引先との調整や在庫管理はどうなるのですか」
私の反論に、それまで黙っていた義姉のリリアナが吹き出した。
「あはは! 何言ってるのよアリア。自分がいないと商売が回らないとでも思ってるわけ? うぬぼれるのもいい加減にしてよね」
「リリアナお姉様、これはうぬぼれではありません。事実です。現在のルクレール商会の利益構造は綱渡り状態です。流行り廃りの激しい魔導具市場において、適切な仕入れ判断ができる人間が必要です」
「うるさいわね!」
リリアナが柳眉を逆立てて立ち上がる。
彼女はベアトリスに似て華やかな容姿をしているが、その内面は驚くほど幼く、そして浅はかだ。
「お母様、聞いてよ。この子ったら、また小難しい話をして私を馬鹿にしてるのよ。自分だけが賢いと思ってるんだわ」
「ええ、そうね。本当に可愛げのない……」
ベアトリスがため息をつき、私に向き直る。
「アリア、あなたは勘違いをしているようだけれど、商会に必要なのは『華』と『品格』よ。あなたのように一日中倉庫に籠もって、薄暗い顔で帳簿とにらめっこをしているような娘は、ルクレール家の品位を下げるだけなの。お客様だって、あなたのような地味な娘より、リリアナのように美しく着飾った令嬢に応対されたほうが喜ぶに決まっているでしょう?」
それは、商売というものを根底から履き違えた暴論だった。
魔導具は高価な実用品だ。顧客が求めているのは販売員の愛想やドレスの豪華さではなく、正確な魔力伝導率のデータであり、安全性の保証であり、適正な価格だ。
だが、この二人にどれだけ論理を説いたところで、言葉は虚空に消えるだけだろう。
「父上は、私の仕事ぶりを認めてくださっていました」
すがるような思いで、亡き父の名を出した。しかし、それが火に油を注ぐ結果となった。
「ええ、そうね。あの人は優しすぎたのよ。前妻の娘であるあなたを不憫に思って、商売ごっこの相手をしてあげていただけ。でも、もうあの人はいない。これからのルクレール家は私が当主として、そしてリリアナが次期当主として、貴族的な品位を持って運営していきます」
ベアトリスはテーブルの上に置かれていた革袋を放り投げた。
ジャラリ、と硬貨がぶつかる音が重く響く。
「手切れ金よ。あなたの母親の遺品も、さっきメイドにまとめて持たせたわ。今すぐ出ていきなさい。二度と、その貧乏くさい顔を私の前に見せないでちょうだい」
床に転がった革袋。中身を確認するまでもなく、それがはした金であることは重量感のなさで分かった。
私は唇を噛み締める。
悔しさがないと言えば嘘になる。
幼い頃から、父の背中を見て育った。魔導具の一つ一つが持つ可能性に目を輝かせ、顧客の笑顔のために奔走する父が好きだった。だからこそ、父が病に倒れてからは、私が必死に家業を守ってきたのだ。
それを、「品位がない」の一言で切り捨てられる理不尽。
だが、不思議と涙は出なかった。
心のどこかで、この家に見切りをつけていた自分がいたのかもしれない。
私は足元の革袋を拾い上げず、懐から一冊のノートを取り出した。
「……分かりました。出ていきます。ですが、最後にこれだけは受け取ってください」
「何かしら、その汚いノートは」
「今後の経営改善案です。現在、我が商会が抱えている不良在庫の処分方法と、来季の主力商品の仕入れルートについてまとめてあります。私の言うことが気に入らなくとも、これ通りに進めれば、少なくともあと数年は現状を維持できるはずです」
それは、私が父の看病の合間を縫って、睡眠時間を削って書き上げたものだ。
私を追い出すにしても、商会自体が潰れてしまっては、働いている使用人たちが路頭に迷うことになる。せめてもの情けだった。
しかし。
「汚らわしい!」
ベアトリスが叫ぶより早く、リリアナが私の手からノートをひったくった。
そして、そのまま躊躇なく暖炉の炎の中へと放り込んだのだ。
「あっ……!」
私が声を上げる間もなく、紙束は炎に包まれた。
パチパチと音を立てて、私の努力の結晶が、父との思い出が、そしてルクレール商会の未来図が、灰へと変わっていく。
「な、何をするのですか!」
「何って、ゴミを処分しただけじゃない。そんな煤けた紙切れ、このサロンには似合わないもの」
リリアナは悪びれる様子もなく、ふふんと鼻を鳴らした。
ベアトリスもまた、満足げに微笑んでいる。
「リリアナの言う通りよ。あなたのやり方は古臭いの。これからは私たちが新しいやり方で、もっと華やかに、もっと大きく稼いでみせるわ。あなたの心配なんて無用よ」
燃えていくノートを見つめながら、私の中で何かがぷつりと切れる音がした。
それは、家族としての情か、あるいは家への執着か。
確かなのは、もうこれ以上、この人たちに言葉を尽くす必要はないということだ。
「……そうですか。後悔なさらないでくださいね」
私は深く一礼した。
それは感謝の礼ではなく、決別の儀式だった。
顔を上げた時、私の瞳に宿っていたのは、もはや悲しみではなく、冷ややかな憐れみだったかもしれない。
それに気づきもしない二人は、勝利の美酒に酔うように高笑いを上げていた。
サロンを出て、玄関ホールへ向かう。
使用人たちが不安そうな顔で私を見ていた。特に、古くから仕えてくれている執事のセバスチャンは、泣き出しそうな顔で私に駆け寄ってきた。
「アリアお嬢様……このようなことになり、申し訳ございません。私がもっとしっかりしていれば……」
「セバスチャン、顔を上げて。あなたのせいじゃないわ」
私は震える老執事の手を握りしめた。
「今までありがとう。お父様の代から、本当によく支えてくれたわね。……でも、一つだけ忠告させて。もし、次の給金が遅れるようなことがあれば、迷わずこの家を去りなさい。他の使用人たちにもそう伝えて」
「お嬢様……」
「この家の崩壊は、そう遠くないわ」
私はそれだけ告げると、使用人が用意してくれていた小さなトランクを受け取った。中には数着の着替えと、亡き母の形見であるロケットペンダントだけが入っている。
重厚な扉が開かれる。
外は相変わらずの土砂降りだった。
冷たい雨が、容赦なく私の体に打ち付ける。
傘を差す暇もなく、私は屋敷の外へと放り出された。背後で扉が閉まる音が、重く、鈍く響く。
それが、私が生まれ育った家との、最後の繋がりが断たれた音だった。
雨に濡れた石畳を歩き出す。
行く当てなどない。手持ちの金もほとんどない。
あるのは、燃やされたノートの内容をすべて記憶している自分の頭脳と、魔導具の良し悪しを見抜くこの目だけ。
「……寒いわね」
独り言は雨音にかき消された。
ドレスが水を吸って重くなり、足取りを鈍らせる。
街灯の明かりが滲んで見えるのは、雨のせいなのか、それとも涙のせいなのか。
いや、泣いてはいけない。泣いたところで、現実は何も変わらない。
私はルクレール家の「家門の恥」として捨てられたのだ。ならば、野垂れ死んでその通りの末路を辿るか、それとも這い上がって見返すか。道は二つに一つしかない。
大通りに出た頃には、すっかり夜も更けていた。
人通りはまばらで、時折通り過ぎる馬車が泥水を跳ね上げていく。
軒先で雨宿りをしようと、閉まった店の前で足を止めた時だった。
一台の黒塗りの馬車が、私の目の前で止まったのだ。
車輪には、見たことのない紋章が刻まれている。双頭の鷲と歯車をあしらった、洗練されたデザイン。隣国のものだろうか。
窓が開き、中から一人の男が私を見下ろした。
年の頃は三十代半ばだろうか。
銀色の髪をオールバックにし、仕立ての良いスーツを着こなしている。その瞳は氷のように冷たく、しかし鋭い光を宿していた。
「……おい、そこの娘」
低く、よく通る声だった。
私は警戒しながら身構える。
「何でしょうか」
「お前、そのロケット……どこで手に入れた?」
男が指差したのは、私の首にかかっている母の形見だった。
古びた銀製のロケットだが、中には極小の魔石が組み込まれており、微弱ながら常に持ち主の体温を調整する機能がついている。母が父と出会う前、遠い異国で手に入れたものだと聞いていた。
「これは母の形見です」
「形見、か。……ふん、なるほど」
男は興味深そうに私を観察し、そして唐突に言った。
「そのロケットに使われている魔石の純度、お前には分かるか?」
試されている。直感的にそう感じた。
雨に濡れた惨めな小娘に聞くことではない。だが、その瞳は真剣そのものだった。
私はロケットを握りしめ、掌に伝わる魔力の波動に意識を集中させる。
「……純度はそれほど高くありません。おそらく60パーセント程度。ですが、加工技術が特殊です。通常の球体研磨ではなく、多面体にカットすることで、少ない魔力で効率よく熱変換を行えるように調整されています。この加工技術は、現在の王国の主流である『ローム式』ではなく、一昔前に隣国で流行した『ギルバート式』の応用かと」
一気にまくし立ててから、ハッとした。
初対面の、それも怪しげな相手に何を熱く語っているのだろう。これはベアトリスたちが嫌った「可愛げのない商人の娘」の癖だ。
しかし、男の反応は意外なものだった。
彼は口元をわずかに歪め、ニヤリと笑ったのだ。
「ほう。一目見ただけでそこまで読み解くか。……面白い」
男は馬車の扉を開けた。
「乗れ」
「え?」
「濡れたまま立ち話をする趣味はない。それに、お前のような目を持つ人間を、こんな雨の中に放置しておくのは資源の損失だ」
男の言葉は尊大だったが、不思議と嫌悪感はなかった。
そこには、私という人間を「価値あるもの」として評価する響きがあったからかもしれない。
「行き先は?」
「さあな。だが、少なくともここよりはマシな場所だ。……それとも、そこで凍え死ぬのを待つか?」
私は一瞬だけ、今来た道を振り返った。
雨に煙る彼方に、かつての我が家があるはずだ。今はもう、私を拒絶した場所。
そこに戻る未来など、万に一つもありはしない。
私は意を決して、差し出された男の手を取った。
その手は大きく、温かかった。
「……名前は?」
「アリア。……アリア・ルクレールです」
「ルクレールか。落ち目の老舗だな。……俺はルシアン。隣国でしがない商会をやっている」
馬車の中に入ると、ふわりと高級な革の匂いがした。
ルシアンと名乗った男は、向かいの席に座り、私に乾いたタオルを放って寄こした。
「拭け。商品が風邪を引いたら面倒だ」
「商品、ですか」
「ああ。お前を拾ったのは慈善事業じゃない。投資だ。……アリア、お前には才能がある。その目と知識、俺の商会で活かしてみる気はないか?」
馬車が動き出す。
窓の外を流れる景色は、雨に滲んで何も見えない。
けれど、私の心にかかっていた霧は、少しずつ晴れていくような気がした。
「……はい。やらせてください。私にはもう、商売しかありませんから」
「いい返事だ。ならば見せてみろ。お前を捨てた連中が、地団駄を踏んで悔しがるほどの成功を」
ルシアンの言葉に、私は強く頷いた。
そうだ。これは終わりではない。始まりなのだ。
「地味で華がない」と蔑まれた私が、実力だけでどこまで行けるのか。
そしていつか必ず、あの傲慢な母と娘に思い知らせてやる。
“家門の恥”と呼ばれた女が、どれほどの価値を持っていたのかを。
馬車は暗闇を切り裂くように走り続ける。
雨音はまだ止まない。だが、その音はもう、絶望の旋律には聞こえなかった。
それは、新しい人生の幕開けを告げる、力強い拍手のように私の耳に響いていた。
***
窓の外では、雷鳴が遠くで轟いている。
揺れる馬車の中で、私は濡れた髪を拭きながら、静かに誓いを立てていた。
次にあの家の人々と会う時、私はもう、ただの「アリア」ではない。
誰にも見下されることのない、真の商才を持つ女として、彼女たちの前に立つのだ。
私の瞳に宿る熱を知ってか知らずか、ルシアンは窓の外を見つめながら、静かに、しかし愉しげにワイングラスを傾けていた。




