距離の測り方、感情という証拠
庁舎内の一室、会議準備室。
文書管理課と監査官室が共同で扱う「予算申請書」の精査が行われていた。
部屋にいるのは、ミリア・アスターとレオン・グレイフ、そして文書課の若手が一人だけ。
「この数字の重複、意図的なものではないかと……」
若手職員が差し出す申請書の端を、ミリアとレオンが同時に覗き込む。
その瞬間――
二人の肩が、触れそうになった。
「──っ」
気づいて、お互いが微かに身を引いた。
若手職員は気づかない。だが、当人たちはわかっていた。
(この距離……!)
書類という“中立的な共通物”を口実にしても、身体の距離はごまかせない。
この場面において、どちらが先に引いたかは、明確な“恋愛的譲歩”のサインとなる。
今回、わずかに早く引いたのは、ミリアだった。
(くっ……)
自分でも意外だった。レオンの気配に、ほんの一瞬だけ“怯み”を見せてしまった。
そのわずかな差を、レオンは見逃さない。
「……どうした? 体調でも悪いのか?」
「いえ。ただ少し、手元の紙が湿っていたので」
「紙が? この部屋は乾燥しているぞ」
「それはつまり、私の指が湿っていたのかもしれません」
「つまり、“汗をかいていた”と?」
「……その解釈は、あなた次第です」
ミリアは冷静を装いながらも、自分の体温が上がっているのを感じていた。
不覚にも、レオンに“ドキッとした”証拠を残してしまった。
その反撃として、今度はミリアが動く。
「では、こちらの誤記……監査官、ご確認いただけますか?」
彼女が差し出した書類は、意図的に“反対側の手”で持たれていた。
つまり、レオンがそれを受け取るには、手を大きく伸ばしてミリアの懐に近づくしかない。
レオンは、その意図を即座に察する。
(この女……さっきの距離で引いた負い目を、取り返しにきたな)
距離を“測らせる”ために、相手を“動かさせる”。その手口は実に巧妙だった。
だが、レオンもまた一枚上手だった。
「……なるほど。これは確認ではなく、誘導だな?」
「おや。誘導されていると気づいてしまったら、それはもう誘導ではありません」
レオンは書類を取らず、そのまま指先でミリアの手元を示した。
「ここだな? “1”と“7”の書体の崩れ」
「ええ。指摘できるということは、“見た”という証拠になります」
「つまり、“見える距離”にいたという証明でもある」
二人の目が合う。
互いの意図を読み、先手を読み、出方を読み、隙を探す。
そのすべてが、“好きだ”の一言を避けるために行われている。
◇
会議が終わり、若手職員が退出したあと、ミリアがぽつりと呟いた。
「距離って、不思議ですね」
「どういう意味だ?」
「心が近くても、身体が遠ければ関係は成り立たない。でも、身体が近いだけでも、誤解は生まれる」
「つまり、今日の君の“後ずさり”は、心の距離だったと?」
「……言葉にされると、認めたようで癪ですね」
「俺は“そうか”とは言っていない。君が“そう取った”だけだ」
「……ずるい方ですね」
「君ほどではないよ、ミリア」
二人は、わずかな間を空けて、同時に笑った。
恋愛の戦場において、“笑い”は最も高度な防御でもある。
そして攻撃でもある。
まだ言えない。
でも確かに、距離は測られ続けている。