距離と偶然の演出、雨宿りの戦線
昼過ぎ。天気は快晴だったが、予報には“通り雨の可能性”と小さく書かれていた。
その情報を信じて傘を持ってきた者は、庁舎内にほとんどいなかった。信じなかったのではない。ただ、「降っても短時間だろう」と軽く見ていたのだ。
だが、その日。
通り雨は、予報よりもずっと長く、そして局所的に激しかった。
◇
庁舎の中庭――通用門から連絡通路までのわずかな距離。そこには、木製の簡素な東屋があり、庁舎職員のちょっとした休憩所として使われている。
午後三時。
激しく降り始めた雨のなか、その東屋に偶然、二人の人物が“鉢合わせた”。
ミリア・アスターと、レオン・グレイフ。
「……奇遇ですね、監査官」
「まったくだ。君がこの時間にここを通るとは思わなかった」
「私も同じです。あなたはいつもこの時間、書庫の点検では?」
「それを言うなら、君こそ来客対応の時間では?」
二人は、東屋の端と端に立ったまま、静かに睨み合った。
──明らかに、どちらもこの雨宿りを“狙って”来ていた。
(ここは屋根が狭い。距離を縮めざるをえない)
(雨の音が会話を遮る。聞き返すために、自然と声を近づけることになる)
そして何より――雨という状況が、「二人きりの偶然」を演出するのに格好の舞台だった。
レオンが一歩、内側に踏み出す。ミリアがその対角に下がる。
距離は保たれる。だがそれは、警戒ではない。計算だった。
「あなたが先に来ていたのですね?」
「いや、君が一歩早かった。俺は……“ついでに寄っただけ”だ」
「私も“偶然、近くを通りかかっただけ”です」
「そうか。ならば、互いに目的はなかったわけだ」
「……でも、こうして会話が生まれている以上、“偶然”も意味を持ちますね」
(くっ……“偶然を意味に変えた”か……!)
レオンの眉がわずかに動く。
“偶然”を演出するのは戦略だ。だが、それを“意味あるもの”に変換するのは、さらに上の技だ。
(これは……俺がこの場を“特別な出来事”と認識した時点で、彼女に軍配が上がる)
だからこそ、レオンは言い返す。
「いや。これは意味を持たない偶然だ。ただの雨宿りだよ、ミリア」
「……もしこれが“ただの雨宿り”だとしても、私は“雨宿りの時間”をあなたと過ごすことになります」
「……!」
「何も起こらなかったとしても、何も起こらなかった時間を、私と過ごした記憶は、あなたの中に残るでしょう」
雨音が大きくなる。
レオンは、口を開けずに、しばらく彼女を見つめた。
その沈黙を破ったのは、ミリアだった。
「……たとえば、“私がこの雨を読んで、ここにいた”としたら」
レオンの瞳が細められる。
「それはつまり、“あなたも私と同じように読んだ”ということになります。そうでなければ、ここで会うはずがない」
「君は……俺がここに来ると、思っていたのか?」
「いえ。思っていません。ただ、“来るかもしれない”と期待していました」
その言い回しは、まるで“期待していたこと”を責めるなと言わんばかりの無垢さだった。
「雨が降る可能性にかけて、ここに立っていただけです。もしあなたが来なければ、それはそれで、“誰とも話さずに過ごした東屋の時間”が残ります」
たったそれだけの言葉。
けれども、それはレオンにとって、確実に“意識”を刺激する一撃だった。
(……“誰といたか”より、“誰といなかったか”を使うとは)
レオンは静かに視線を外す。そして自分の立ち位置を一歩、中央に寄せた。
「なら、俺も同じだ。俺がここに来たのは……誰かがいるかもしれないと思ったからだ。誰でもよかった」
「なら、私でよかったですね」
ミリアはそう言って、傘を開いた。
その傘は、朝、別の同僚が忘れていったものだった。
「私はこれで失礼します。……あなたが傘をお持ちでないなら、お貸ししますよ?」
「……俺が“貸された”ら、君に恩を返すことになるな」
「ええ。“返さなかったら薄情”という空気が、庁舎中に漂うでしょう」
レオンは、静かに笑った。
「それは困る。……だが、君に借りを作った方が、返す楽しみもある」
「でしたら、お貸しします。あなたが“楽しむ”というなら」
二人は、互いの距離を、雨の音に紛れて一歩だけ縮めた。
ほんのわずか。誰にも気づかれない程度に。
それが、この日、この東屋の雨宿り戦線で、唯一確かに起きた変化だった。