返報のルールと、贈り物の罠
翌日の朝、庁舎の一角にある文書管理課には、ふんわりとした甘い香りが漂っていた。
それはミリア・アスターが焼いてきた菓子――バラ風味のクッキーによるものだった。
「よかったら、皆さんで召し上がってください」
同僚たちにそう差し出したミリアは、あくまで自然体だった。まるで毎週のように焼いてきているかのような顔で。
だが実際、手作り菓子を持ってきたのはこれが初めてだった。
……この日を選んだ理由。それは、昨日の“雨の同行”の後にある。
(あの沈黙の時間。あの距離感。レオン監査官が、何かを考えていたのは明らかだった)
だからこそ、次の一手が必要だった。
それは“偶然のような、好意のような、しかし意図を確定させないもの”。
そうして選ばれたのが、「全体に配るお菓子」だった。
「ミリアさんって、そういうの得意だったんですね~。え、これバラの香りですか?」
「ええ。香り付けに少しだけ使っています。強すぎない程度に」
皆が笑顔でクッキーを取っていく。
その後ろに、意図して少し遅れて現れた男が一人。
――レオン・グレイフ。
(来たわね)
ミリアは何も言わず、焼き菓子の皿を一歩、手前に出した。
視線は合わさず、あくまで“誰にでも勧めている体”を保ちながら。
「……君が焼いたのか?」
「いえ、私が“持ってきた”だけです」
レオンの指が止まる。曖昧な言い方だ。持ってきた=作ったではないと、あえて明言を避けている。
(なるほど、“誰に向けた好意か”を曖昧にする作戦か)
たとえ彼が受け取ったとしても、それは「皆に配っている中の一つ」なのだから、特別扱いではない。
だが、レオンの内心では――
(この香り、この見た目……明らかに“俺が好きな味”を狙ってきてる……!)
そう、“分かっていて選んでくれた”のだと感じさせるように仕向けておきながら、「これは全体向け」として逃げ道を用意する。
それはミリアにとって、“攻撃”であると同時に“防御”でもあった。
「監査官もどうぞ。香りが苦手でなければ」
やはり、視線は合わせない。あくまで自然に勧めている“だけ”。
それなのに、レオンの心は少し乱れる。
(……これを受け取ったら、借りができる気がする)
いや、それだけではない。もし彼が「これは自分に向けたもの」と思い込み、反応を返したなら、その瞬間――
「意識してる」と宣言したも同然になる。
それが、ミリアの狙いだった。
(……受け取る、か。いや、むしろ“受け取らされる”のか?)
レオンは、ほんの一瞬、手を伸ばしかけてから、言葉を変えた。
「少しだけいただこう。監査中に糖分が欲しくなる時もあるからな。……あくまで業務効率のために」
ミリアは、にこりともせず、頷いた。
「そうですね。あくまで“公務の補助”です」
会話のすべてが仮面越し。
甘い香りの漂う職場の片隅で、目に見えぬ勝負が続いている。
そして午後――
レオンが一つの包みを手に、ミリアのデスクに現れた。
「これは、差し入れのお返しだ」
包みには、上質な文具セットが入っていた。ミリアがかねてから欲しがっていた、評判のメーカーのもの。
「これは……ずいぶん高価では?」
「いや。ついでに購入しただけだ」
「ついでに?」
「……俺が気に入ったものを人に使ってもらいたいと思うのは、職業病のようなものだ。君は文書管理課の一員だろう?」
「……そうですか。では、ありがたく使わせていただきます」
と、そのまま受け取る――わけがない。
ミリアは文具のひとつひとつをじっくり眺めたのちに、こう返した。
「でも、お返しは期待しないでくださいね?」
「……別に、期待してないが?」
「あなたが“期待していない”と公言した時点で、“期待していない”ことに対する返礼が発生するのが、返報性の罠です」
「なんだそれは」
「あなたの心の隙に、私が勝手に入り込むことになります」
レオンは、言葉を失った。
(……この女……!)
“贈り物を渡したら負け”ではない。
“それを受け取らせた上で、心理的優位に立つ”という巧妙な戦略。
だからこそ、二人は今日も言えない。
──「好き」なんて、言ったら負けだから。