表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/6

返報のルールと、贈り物の罠

翌日の朝、庁舎の一角にある文書管理課には、ふんわりとした甘い香りが漂っていた。


 それはミリア・アスターが焼いてきた菓子――バラ風味のクッキーによるものだった。


「よかったら、皆さんで召し上がってください」


 同僚たちにそう差し出したミリアは、あくまで自然体だった。まるで毎週のように焼いてきているかのような顔で。


 だが実際、手作り菓子を持ってきたのはこれが初めてだった。


 ……この日を選んだ理由。それは、昨日の“雨の同行”の後にある。


(あの沈黙の時間。あの距離感。レオン監査官が、何かを考えていたのは明らかだった)


 だからこそ、次の一手が必要だった。

 それは“偶然のような、好意のような、しかし意図を確定させないもの”。


 そうして選ばれたのが、「全体に配るお菓子」だった。


「ミリアさんって、そういうの得意だったんですね~。え、これバラの香りですか?」


「ええ。香り付けに少しだけ使っています。強すぎない程度に」


 皆が笑顔でクッキーを取っていく。

 その後ろに、意図して少し遅れて現れた男が一人。


 ――レオン・グレイフ。


(来たわね)


 ミリアは何も言わず、焼き菓子の皿を一歩、手前に出した。

 視線は合わさず、あくまで“誰にでも勧めている体”を保ちながら。


「……君が焼いたのか?」


「いえ、私が“持ってきた”だけです」


 レオンの指が止まる。曖昧な言い方だ。持ってきた=作ったではないと、あえて明言を避けている。


(なるほど、“誰に向けた好意か”を曖昧にする作戦か)


 たとえ彼が受け取ったとしても、それは「皆に配っている中の一つ」なのだから、特別扱いではない。

 だが、レオンの内心では――


(この香り、この見た目……明らかに“俺が好きな味”を狙ってきてる……!)


 そう、“分かっていて選んでくれた”のだと感じさせるように仕向けておきながら、「これは全体向け」として逃げ道を用意する。


 それはミリアにとって、“攻撃”であると同時に“防御”でもあった。


「監査官もどうぞ。香りが苦手でなければ」


 やはり、視線は合わせない。あくまで自然に勧めている“だけ”。

 それなのに、レオンの心は少し乱れる。


(……これを受け取ったら、借りができる気がする)


 いや、それだけではない。もし彼が「これは自分に向けたもの」と思い込み、反応を返したなら、その瞬間――


 「意識してる」と宣言したも同然になる。


 それが、ミリアの狙いだった。


(……受け取る、か。いや、むしろ“受け取らされる”のか?)


 レオンは、ほんの一瞬、手を伸ばしかけてから、言葉を変えた。


「少しだけいただこう。監査中に糖分が欲しくなる時もあるからな。……あくまで業務効率のために」


 ミリアは、にこりともせず、頷いた。


「そうですね。あくまで“公務の補助”です」


 会話のすべてが仮面越し。


 甘い香りの漂う職場の片隅で、目に見えぬ勝負が続いている。


 そして午後――


 レオンが一つの包みを手に、ミリアのデスクに現れた。


「これは、差し入れのお返しだ」


 包みには、上質な文具セットが入っていた。ミリアがかねてから欲しがっていた、評判のメーカーのもの。


「これは……ずいぶん高価では?」


「いや。ついでに購入しただけだ」


「ついでに?」


「……俺が気に入ったものを人に使ってもらいたいと思うのは、職業病のようなものだ。君は文書管理課の一員だろう?」


「……そうですか。では、ありがたく使わせていただきます」


 と、そのまま受け取る――わけがない。


 ミリアは文具のひとつひとつをじっくり眺めたのちに、こう返した。


「でも、お返しは期待しないでくださいね?」


「……別に、期待してないが?」


「あなたが“期待していない”と公言した時点で、“期待していない”ことに対する返礼が発生するのが、返報性の罠です」


「なんだそれは」


「あなたの心の隙に、私が勝手に入り込むことになります」


 レオンは、言葉を失った。


(……この女……!)


 “贈り物を渡したら負け”ではない。

 “それを受け取らせた上で、心理的優位に立つ”という巧妙な戦略。


 だからこそ、二人は今日も言えない。


 ──「好き」なんて、言ったら負けだから。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ