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雨と書類と、偶然の策略

昼過ぎまで晴れていた空が、午後になって曇り始めたのは予報通りだった。庁舎の職員たちは皆、朝のうちに「傘を持ってくるように」と言い合っていた。だが、そういう日に限って傘を忘れるのが人の常だ。


 夕刻。退勤の鐘が鳴り響くと、入口には帰宅を躊躇う者たちの群れができていた。


 ミリア・アスターは、その横を無言で通り過ぎた。


 傘は持っていない。だが、ためらいもない。両腕に抱えた一抱えの書類を濡らさぬよう、胸元に収め、早足で雨のなかに出る。


 建物の奥――別棟の行政文書局。その締切は、今日の鐘と同時だった。


 ──ただし、彼女の真の目的地は、そこではない。


「……やはり、君か」


 声をかけてきたのは、回廊の中程に立っていた男、レオン・グレイフ。


 濃紺のマントを羽織り、傘を片手に。濡れていないということは、最初からここにいたのではない。どこかで彼女の動きを察知して、わざわざ来たのだ。


 ……おそらく、そう“思わせるため”に。


「急ぎの書類を、届けに参りました」


「その件なら、本日中に出せば良いと確認済みのはずだ。無理に雨の中を行く必要はない」


「はい。でも、確認したのは“あなた”では?」


「……それが?」


「ならば、形式としては“まだ未確認”です。ですから私は、確認する必要があったと判断しました」


 事務官としては完璧な論理。だがそれは、どこか針の先でなぞるような皮肉を含んでいた。


 レオンの眉がわずかに動く。


「つまり――俺に“ちゃんと見届けろ”と念押しに来た、ということか?」


「まさか。そんなつもりは一切」


 ミリアはわずかに首を傾げ、無垢な瞳で微笑んだ。だが、その言葉の裏には確かな意図があった。


(今のは……“手柄を確認してもらいに来た”演出だ。俺が見ていなければ意味がない、という前提を押しつけてきた……!)


 書類を届ける。ただそれだけの行為の中に、「私は仕事ができる人間で、あなたに見ていてほしい」という無言の訴えを忍ばせる。


 そしてその“気配”に気づいたことを悟らせた時点で、レオンの負けだった。


 ──気づいたということは、意識したということ。

 意識したということは、何かしらの感情が動いたということ。

 感情が動いたということは、ミリアの“戦略”が奏功したということ。


 だが、当然このままでは終わらない。


 レオンは傘を差し出した。


「……ならば、せめて、書類が濡れるのを防がせてくれ。俺は君の監査官だ。これは“業務上の監督行為”だと受け取って構わない」


 ミリアは一瞬、躊躇したように見せた。だが、その実、それも演出。


「……ありがとうございます。ですが、監督官が差し出した傘を、私が勝手に受け取れば、それは“職権濫用”に近くなります」


「……っ」


 打ち返された。


 レオンの意図は、傘を貸すことで“自分の気遣い”をアピールし、立場の優位を取ることだった。だが、それを職務上の問題にすり替えられてしまっては、もはや引き下がるしかない。


「ならば、俺も同行する。書類の安全確認のために」


「……構いません。でも、私のためではなく“文書のため”でお願いしますね」


(……この女……どこまで計算している?)


 傘の下。二人は並んで歩いた。


 庁舎の石畳を打つ雨音。淡々と歩く二人の足音。そのあいだにあるのは、沈黙と、静かな戦火。


 言葉を交わせば交わすほど、立場が揺らぐ。


 好意を抱いたように見えた方が、敗北に近づく。

 告白した方が負け。

 プロポーズした方が、恋愛的立場を明け渡すことになる。


 だからこそ、二人は――好きだなんて、一言も言えない。


「……俺が言うのもなんだが、ミリア。君はもっと、素直になったほうがいい」


「そうですね。あなたが素直になる気配が見えたら、考えてみます」


 小さな笑いが漏れた。


 傘の中。雨は二人を遮らなかった。

 だが、その距離は、あと一歩、縮まらない。

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