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鏡の中の訪問者

 大学生のアヤは、期待と不安を胸に抱きながら、古びた一軒家に引っ越した。

 初めての一人暮らし。誰にも邪魔されず、自分のペースで暮らせる喜びは、胸の奥に小さな光を灯した。

 しかし、その家には、どうしてか不思議な雰囲気が漂っていた。

 部屋の隅に置かれた大きなアンティークの鏡。最初はその美しい装飾に見惚れ、少しだけ心が安らいだ。

 だが、日が経つにつれて、その鏡が彼女の心に影を落とし始める。

 鏡を見るたびに、何かが違う。

 映る自分の姿に違和感を覚える。動きが微妙に遅れているのではないか、背景がほんの少し違って見えるのではないか。

 アヤは目を凝らし、必死に自分を納得させようとした。

「疲れているだけだ、気のせいだ」

 何度も繰り返すその言葉は、自分への言い訳に過ぎなかった。


 ある晩、寝室の薄暗がりの中で、アヤは息を飲んだ。

 鏡の中に、まったく知らない女性の影が映っていた。

 その影は静かに、けれど確かにこちらを見ている。

 目が合った瞬間、アヤの体中に冷たい電流が走り、心臓が激しく鳴り響いた。

「誰……?」

 声にならない声が、喉の奥で絡まった。

 恐怖が体を硬直させる。

 逃げたい。けれど、なぜか動けない。

 その女性の視線は、冷たく鋭く、逃げ場のない迷路に彼女を押し込めた。

「ここにいるのは私だけじゃない」

 そんな思いが胸に重くのしかかる。


 翌朝、眠れぬまま朝日が差し込む部屋で、アヤは鏡を見ないように努めた。

 しかし、心はざわつき続け、鏡のことが頭から離れなかった。

「気にしない、気にしない」

 何度も呟きながらも、胸の奥は締め付けられ、不安が膨れ上がっていった。

 そして夜。静寂を裂くように、鏡の表面が微かに揺れ、ざわめきが聞こえた。

「助けて……」

 その声は囁き、まるで彼女の耳元で囁かれているようだった。 恐怖で手が震え、全身が凍りつく。

 それでも、真実を知りたかった。

 震える指で鏡の縁に触れた瞬間、背後から誰かに肩を叩かれたような感触が走った。

 振り返ったが、誰もいなかった。

 孤独と不安が混ざり合い、アヤの心は千々に乱れた。

 日々が過ぎるにつれ、アヤの心は蝕まれていった。

 睡眠は浅く、悪夢にうなされ、昼間も集中できず、精神は疲弊した。

 孤独が膨らみ、鏡の女性に共感し、同時に恐怖した。

「このまま私も、あの影のように閉じ込められてしまうのではないか」 

そんな恐怖が彼女の思考を支配した。


 ある夜、ついに鏡の中の女性は言葉を発した。

「私はこの鏡に囚われた者。あなたに助けを求めている」

 その声に、アヤの胸は締め付けられた。 

 助けたい。だが、同時に恐ろしくもあった。

「どうすればいいの?」

 涙がこぼれそうになる。

 女性は静かに答えた。

「鏡の向こうの世界は、現実の影。私はそこから出られない。でも、あなたが目を閉じてくれたら、私が出られるかもしれない」

 アヤの中で恐怖と希望がせめぎ合う。

 現実的に考えれば狂気の沙汰だ。

 だが、その声の真剣さに押され、彼女は決断する。

 震える手で目を閉じ、深呼吸を繰り返す。

 心臓は激しく鼓動し、汗が額を伝った。

 何かが自分の内側で動き出すのを感じながら、静かな闇に沈んでいった。

 目を開けた時、部屋は静まり返っていた。

 鏡はただの鏡に戻り、そこには何も映っていなかった。

 その瞬間、安堵のような感情が一瞬アヤの胸をかすめた。「終わったのかもしれない」

 しかしその安堵はすぐに冷たい現実へと飲み込まれた。

 目の前の静寂が、まるで深い闇の底に沈んでいくように重く、心を締め付ける。

 助けたはずの女性の姿は消えたが、代わりに何か得体の知れない空虚さがアヤの心に広がっていった。

 孤独。それは言葉以上に重い存在だった。

 彼女の中にぽっかりと穴が開いたような感覚が生まれ、呼吸が苦しくなった。

 いつの間にか、誰もいない部屋で独りきりだということを思い知らされる。

 鏡の向こうの影と交わした言葉は、まるで幻だったかのように遠く感じられ、彼女を支えていた糸が一本、また一本と切れていくようだった。


 翌日になっても、その虚無感は消えず、むしろ増していった。

 何気なく手にしたスマートフォンにさえ、どこか空虚な意味を見出せない。

 家を訪ねてきた友人の笑顔も、遠い昔の幻のように思え、言葉を交わしていても心がどこか遠くに漂っているのを感じた。

 日が経つにつれて、アヤはその孤独から逃れるために必死で人と接しようとした。

 しかし、誰かと話している最中も、頭の中で繰り返されるあの女性の囁きが、重く重くのしかかった。

 夜になると、家の中は再びざわめき始めた。

 足音が響き、冷気が漂い、鏡は不気味に震えた。

「あなたも、ここに来る番よ」

 その言葉が、静かな闇の中で何度も反響し、アヤの胸に重く落ちていった。

 この孤独の闇は、助けたはずの誰かのためだけではなかったのだ。

 それは、彼女自身をゆっくりと、逃れられない世界へと誘うものだった。

 孤独は彼女の心を完全に支配し、どこにも逃げ場のない深い淵へと引きずり込もうとしていた。

 彼女の内側で、かつて確かにあった温もりや安らぎは、今や薄れ、過去の幻のように霞んで消えていった。

 アヤは鏡の前に立ち尽くし、重く沈んだ瞳で自分の映るその表面を見つめた。

 そこに映っているのは、確かに彼女自身だった。

 しかし、どこか違う、もう自分ではない誰かの影がひそんでいるようにも思えた。

 深い孤独の中で、彼女は静かに呟いた。

「私は、もうここから逃げられないのかもしれない……」


 鏡の中の女性は、不気味に微笑んだ。

「ようこそ」

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