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行政から補助も出るのでタクシーで通院しています

作者: 浅賀ソルト

 タクシーに乗り込んだ瞬間どころか、ドアが開いて空気が流れてきた瞬間から酒の臭いがした。

 え?と思ったが、気のせいかと思い、何も言えなかった。

 まだ午前の8時だった。タクシー利用は病院の送迎のためだった。

 とにかく朝は時間通りに病院に行かなくてはいけない。私は挨拶をしてお礼を言い、予約のときに告げていたけど、総合病院と伝えて息をついた。タクシーに乗り込むのも疲れる年齢だ。

 運転手の身分証が読めるような健康な目はしていないけど、あとでこの運転手が深川さんというのを知った。

 世間話は嫌いな方ではないけど、この深川さんは何も言わない人だった。天気の話をしたけど、あまり合わせてこない人だった。

 それよりも最初は気のせいとか前の乗客の臭いかもしれないと思っていたのだけど、確実に酒の臭いが運転手の口から出ていることに確信が持てて不安になった。深酒特有の深呼吸までしていて、そのたびにむわっとした臭いが客席まで流れてきた。二日酔いが残っているという感じでもなく、顔も赤く、朝まで飲んできたか、それに近く、残っている酒ではなくいま回っている酒だと思った。

「あのー、二日酔いですか?」

 このとき期待した返事は、『あー、分かります?』だった。それでもタクシーの運転手として今は言語道断だけど、相手も若く見積っても60代、私が若かった頃だともっと大目に見られていた時代だから、『あんまり無茶しないでね』と言って済ませようと思っていた。

 誤魔化すというのも想像していた。『いやー、飲んでないですよ』と笑いながらトボケるというのも私達年寄りではよくやるやり取りで、『またまた~』などとこちらも笑って済ませるというのも考えていた。

 実際には完全な無視だった。絶対に聞こえたはずなのに、表情も変えずに無視をした。あ、バレちゃったというきまずさもなかった。

 いたたまれなくなり、私は窓の外の景色を見て到着を待った。

 運転は急発進、急ブレーキ、急ハンドルのオンパレードでひどいものだった。私はそれから到着まで何も言わなかったけど、信号が赤でもそのまま行こうとして慌ててブレーキを踏み、信号が青でもなかなか出発しなかった。

 急ハンドルは死んだ叔父さんの運転にそっくりで、タイヤを鳴らすためにわざとやっているか、自分の体が横に動くのを目的にした遊具に乗った子供のようだった。

 これはもしかしたら本当に命の危険があるかもしれないと思い、連絡を取るために降りるときに身分証を確認しておこうと思った。降りるときには確認を忘れてしまったけど。

 そうして総合病院の車回しに入り、私はカードでタクシー代を払ってそこから降りた。ちょうど9時前で受け付けが始まるところだった。いつものことなので降り際に習慣で「帰りもお願いしますね」と言った。

 診察の日は総合病院から薬局にまわって帰宅するまでの運転をお願いしている。診察はいつも1時間で終わり、10時過ぎの時間もあらかじめ伝えてある。それでも10時にお願いしますねとその日も伝えた。

 そのときはちゃんと返事があった。顔は赤らんでいて、こっちの顔を見ようともしなかったけど、「分かりました。よろしくお願いします」という声が口から出ていた。

 待合室ではもちろんその話をした。

 今日のタクシー運転手がひどいの。完全に酔ってるの。あれはちょっと言わないと駄目だわ。

 みんなの反応はおなじで、それはひどい、会社に連絡した方がいい、というものだった。名前は確認したのと言われて、それが忘れちゃったのと言うと、駄目よー、すぐに確認しないと、と言われた。本当にその通りだ。それから昔の飲酒運転の話になり、あったあったとお互いに田んぼに突っ込んだとか軒先に突っ込んだといった話で盛り上がった。最近も飲酒運転で子供が轢かれたなんてニュースがあったから、自分が事故をするならともかく、子供を巻き込んじゃ駄目よ。

 けど私もその運転手がアル中だなんて思っていなかったし、昨日の夜からずっと飲んでて、朝にも飲んでて、そしてこの私が診察をしている9時から10時の間にさらにコンビニで酒を買っていたなんて思いもしなかった。

 アル中も昔は今とは比べ物にならないくらいいたんだけど、最近はめっきり見なくなった。そういう男は長生きするけど、それでも70歳くらいには死んじゃうからねえ。

 検査をして問診を受けて処方箋を貰うといつもの時間だった。私は10時前に病院の出口から外に出た。総合病院にはタクシーの待機所があり、私を見かけるとすーっと寄ってくることもあった。そうじゃないときは私からその待機所まで歩いていくことになるんだけど、この年だとその100メートルくらいの距離はほとんど地平線の彼方だった。私は出口の日陰の下でしばらく待っていた。病院も気をきかせてそこにもベンチが並んでいる。外の空気が吸いたい人が何人か座っているけど、空いているベンチもあった。

 よっこいしょと声に出して腰を下ろした。カート兼バッグを横に立て掛けて一息ついた。歩く前に整えなくちゃいけないし、ここで座っていると、運転手の誰かが気づいてお互いに連携してくれたりする。その日がどれだったのかは分からないけど、運転手の深川さんは私に気づいてやってきてくれた。

 車は縁石を乗り上げて、それからどすんと車道に戻り、そのまま進んで私の前で止まった。

 運転席の深川さんは中からこちらの方を見ていて、自動ドアを開けてくれた。

 私はゆっくりと腰を上げた。

 出発のときはそんなことはなかったのだけど、このときの深川さんは運転席から降りて荷物の上げ下げを手伝おうとしてくれた。

「おつかれさまです」

「ありがとうございます」

 近付いて外の明かりで見ると顔が真っ赤になっていた。完全に千鳥足だった。

 あとになって思うと、朝はまだ自分が酔っているからまっすぐ歩けないという自覚があったのだけど、もうこのときには自分は酔ってないという自覚に変わっていたのだと思う。ふらふらと近付いてきて、私のカートを持とうとするのだけど、取っ手を掴めずに空振りしてしまっていた。

「ちょっと、あの、大丈夫ですか?」

「え、大丈夫大丈夫」

 私が覚えている限り、このときはまだ「だーいじょーぶ」というほどには調子を外れていなかった。それでも運転手が客に『大丈夫大丈夫』と言うものではないので、まともでないのは確かだけど。

 深川さんはカートをやっと掴むと、必要以上の力で握って運んだ。そして車の後部座席に乱暴に突っ込んだ。

「ありがとうございます」私はお礼を言ったけど、どんなときでも親切にされたらお礼を言うというのも時と場合によりで考える必要があった。

 いまどのくらい飲んでいるのかはっきり聞くべきだった。

 私はカートに続いて後部座席に乗り込み、深川さんは運転席に回り込んだ。回り込む途中でタクシーの角に体をぶつけてふらついてしまっていた。それからタクシーに手をついて、その手を支えに運転席に回るのだけど、その音は車内に大きく響いた。

 運転席にどさっと乗り込むと——そのまま横になって寝てしまうのかと思った——ゆっくりと上体を起こし、シートベルトをしめ、後部座席の自動ドアを閉めた。

 バタンとドアは正常に閉まった。後部座席のシートベルトってしたことがなかった。どこにあるのかしらと思った。

「おつかれさまです」

「ありがとうございます」

 深川さんは車のエンジンをかけた。

 そういえばこれを書いていて思い出したけど、ここでも深川さんの身分証を確認してなかった。色々状況がおかしくてそれどころではなかった。

 私は、「それじゃあ薬局までお願いします」と告げると、後部座席のシートベルトを探した。

 最近は運転手の方からシートベルトお願いしますと言われることも多いけど、深川さんから言われることは最後までなかった。

 薬局はすぐそこで、移動はすぐだけど、そこで処方箋を出してから薬を受け取るまでがまた結構時間がかかる。

 私は、時間がかかるときは30分くらいかかりますから、それまで待っていてくださいね、と告げて薬局に入った。

 私は薬局の中から何度か外のタクシーを確認した。タクシーの運転手は、運転していないときは外で立っていることが多い。深川さんもそうだった。タクシーの脇に立って何かを飲んでいた。缶コーヒーだと思った。

 それはそうと運転はかなりおかしいけど、とりあえず運転手として目的地までは着いているので、最低限の仕事はしているということで、自分がなにをどうすればいいのかは分からなかった。身分証を確認してタクシー会社の方にクレームを入れるのは間違いないとして、とりあえずそれ以外のことは家に帰ってから決めることだろうか。いま思うと自分も何がどうすればいいのか分からなかった。病院の診察の日に、診察を受けて薬を受け取るといういつものことをするのを普通にしていた。

 名前を呼ばれて薬を受け取った。いつもの薬なので説明はほとんどなかった。受け取った大量の薬をカートの中に丁寧にしまい、外に出て深川さんのいるところに向かってゆっくり歩いた。

 今度は荷運びを手伝ってはくれなかった。

 私は自分で一生懸命に後部座席にカートを上げた。

 ゆっくりと後部席に乗り込み、そこで乱れた息を整えた。

 まだ自動ドアは閉まっていなかった。

 運転席の深川さんが言った。「どちらまで?」

「ちょっと待ってもらえますか?」

 私は深呼吸をした。それから目できちんと確認し、シートベルトを持つと、それを絞めた。

 片手をカートに置いた。薬は貰った。あとは帰るだけだ。

「それじゃあ家までお願いします」

「かしこまりました」

 自動ドアが閉まった。ぶおんという音がしてタクシーが動き始めるとガガガガとすごい音がした。

「ちょっと」

「あ、いや、すいません」

 深川さんはギアをバックに入れると、運転席から後ろを振り返った。目が血走っていた。

 今度はバックに急加速してビルの手前の花壇にどかんとぶつかると、「おっと」と言ってギアを入れ直して前進を始めた。

「あの、ちょっと。大丈夫ですか?」私は言った。

 タクシーは薬局の路地から大通りに出る道へと左折したのだけど、一時停止をまったくしなかった。大通りに出る信号は赤だった。

 信号を守ってタクシーは停車した。

「なんか調子が悪いですね。すいません」深川さんは言った。

「はあ」

 この赤信号の停止のときに私は身を前に出して身分証を確認した。下の名前は覚えられなかったけど名字だけで充分だ。予約した私の名前もあればこの人が誰かはすぐに分かるだろう。

 信号が青になるとタクシーは出発した。信号は左折なのだけど大回りして対向車線に入った。そちらの右折専用レーンに車がなかったので大丈夫だった。中央のゴムポールを薙ぎ倒すだけで左側に戻れた。

 バキ、ドカ、ゴトンというすごい音が車内にも響いた。

「おっと」

 そのまま大通りを走るのだけど、動転した深川さんは今度は左に寄りすぎて縁石にのりあげてまたすごい音を出した。

 車は大きく斜めになった。

 私はまったく声も出せずに固まってしまった。

「おっと」

 深川さんはそれからまた車を道に戻した。

 戻しすぎて反対車線に入ったのだけど、ハンドルは右に切り続けた。そしてなぜかアクセルからは足を離さなかった。

 大通りの反対側、右側の電柱がほぼ正面に見えた。避けようというより、吸い寄せられるように正面に方向を整えたようだった。

「おっと」

 道に対してほぼ直角に進み、正面から電柱にぶつかった。

 衝突の瞬間を覚えていないけど、診察によると顔面打撲ということだった。軽傷という記事だったけど、これだけの怪我でも軽傷なんだと思うと納得がいかなかった。軽くはない怪我だと思う。重傷だとは言いたくないけど。

「おっと」

 深川さんはギアをバックに入れた。

「わあああああ」

 私はとにかく奇声というかなんだかよく分からない大声を出して深川さんを止めた。

 深川さんが動きを止めてゆっくり運転席から振り返った。私の顔をまじまじと見ると、「なんだこのババア……」と言った。


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