そこに俺はいない
突然だが君に朝起きていたら別人になっていたということはあるだろうか。俺——天雲誠にはある。三日前、一月のド頭に身長が頭ひとつ分下がり腕や足は細く、体つきも丸みの付いたものになってしまった。
我が校は有数の強豪校であり俺もその中の男子バレーボール部のウイングスパイカーの一人としてベンチに入るほどの人材になれていたのだ。そのはずなのだ。
「失礼しました」
かくして、俺は部活を辞めた。未練はないし、むさ苦しい男衆のなかで運動しなくていいのはこれ以上ないメリットである。それに部活のせいでできなかった勉強にも力を入れられるのだ。嬉しいことこの上ないのだ!
それから他クラスのバレー部男子に直接ユニフォームを渡した後、誰にも顔を見せることなく部から姿を消すことにした。もちろん二十五人も部員がいるのだからそれに不満を持った奴もゼロではなく、一人だけが下校中に俺に話し掛けてきたのである。
「誠、勝手に逃げてんじゃねぇよ」
「海斗、これは逃げるとかそういう話じゃない、諦めざるを得ないんだよ。目の前にいる人間をしっかり見ろ、男子バレー部で活動できるわけない。そもそも実力でなんとか部での立場を保っていたんだ、正直言って邪魔だと思っていた奴だっていただろう」
「マネージャーとか、色々できることがあるだろうが!」
目の前で道を阻む幼馴染の海斗が焦った様子で大口を叩く。天雲には彼の姿は前と比べてとても大きく壁のように感じ、コートの中で大粒の汗が背中を伝うのがわかる。
「お前、俺の部での雰囲気を知らねえだろ。君はスタメン(スターティングメンバーの略。最初から試合に参加するメンバーのこと。)だろうが、何がわかんだよ! ……ほっといてくれ」
海斗の顔も見ずに天雲は足早に帰路を進もうとするとゴツゴツとした手が彼の白く華奢な腕を鷲掴みする。天雲は目の敵である男を睨みつけるも彼は臆することなくこちらに迷いなき眼差しを向けてくるのだ。
「お前の言いたいことはわかった。でも、明日の春高準決勝だけは来てくれ、頼む」
「は、はぁ?」
明日の春高順決勝は毎回全国大会で決勝戦を勝ち取るほどの犬猿の仲である富美野高校である。犬猿の仲ということもあって大会以外でも交流の機会がありこんな俺とも仲良くやってくれる人間がいるのだ。
「じゃあ、頼んだわ」
海斗はそれ以上口にせず、駆け足で雨雲を追い抜かして行った。
「勝手なこと言わないでくれよ」
程なくして少しも光を通さぬ分厚い雲から白い綿が舞い降り始めた。
会場まで二時間というところか。無事に会場に到着した、というよりも「してしまった」のほうが正しいだろう。
「最初からでなくとも構わないだろう、あいつと顔を合わせたくないし」
二階に上がって中央の会場に向かうと第二セットの途中である。どうやら第一セットは我が校が取っていて第二セットは16 - 20で富美野が優勢となっている。
「このセットは渡したほうがいいなぁ。こっから挽回はきついぞ」
無理やり第二セットを取ろうとして嫌な雰囲気で相手にセットを譲るのと良い雰囲気のまま次のセットに臨むのとでは最終的な勝率を考えると天と地の差があるだろう。
富美野の主砲が力強いスパイクによって強力な一点を捥ぎ取られながらも我が校は順当に球を落とさず相手のミスで徐々に相手の背中を掴もうというところまで来ている。
『ついに24対24のデュースです、ここで生良野はタイムアウトをとりました。さて勝利の女神は生良野に微笑むか、それとも富美野に振り向くのか。苫井さんはどう考えていますか?』
『そうですね。生良野は粘るチームですからデュースには強いと思いますが、なんと言っても相手は富美野ですからね。富美野は生良野のスタミナを相当削っていますから、私は富美野のほうが優勢だと思っています。』
ああ、くそ。「俺が辞めてなければ、出場できていたら、女になってさえいなければ。時間稼ぎぐらいはしてやれるのに。」そんなたらればばかりが脳をよぎる。
会場の自販機で買ったスポーツドリンクは既に空になってしまい、喉が乾いているのに口を開けペットボトルを何度振っても水滴すら落ちてこない。手汗で目の前の柵は滑るし、動いていないのに動悸と荒々しい息が止まらないのである。
ホイッスルとともに彼らはゾンビのようにのそりのそりとコートに戻っていく。対する相手チームは英雄のように力強い一歩を踏みしめながら戻ってくるのだ。
主審が合図をすると同時にこちらのサーバーがフローターサーブを打つと、相手はいとも容易くその球を捉え、セッターへと繋ぐ。
いつも大砲を放つスパイカーはやはりこの場面でも猛威を振るい、ブロックに阻まれながらも壁ぐらいにまで吹き飛んでいく。
天雲はその球を必死に追いかける海斗がバレーボールにわずかに届かず倒れてしまう。すぐに相手のレシーブに戻るため彼は立ち上がるも足並みが疲労のそれとは明らかに違うふらつき方をしている。
「海斗、あいつ捻挫しやがったな」
監督もすぐさまそれに気付いたのか海斗はベンチに下げられてしまった。それを見た天雲は引っ提げてきたバッグを肩にも掛けずに掴み取り医務室へ足を急ぐ。たどり着くと案の定、そこには海斗が足にテーピングを巻いている姿があった。
「お前、何してんだよ。焦る場面じゃねぇだろうが」
「なんでだろうなぁ。なんかやらなくちゃって、そう思っちゃったんだよ」
海斗はこちらに振り向こうともせず背中を見せたまま話す。不思議に思い、近づくも彼は「近づくな」の一点張りでそれを許す様子もない。
「ふざけんな、なんのために俺を呼んだんだよ。いつものお前はどうしたんだよ」
「まだあと一セットあるか——」
「——何言ってる、その腫れ方じゃ今日はもう無理だ。そんぐらいお前もわからないわけないだろうが」
一切、海斗の思考が読めないので彼の返事さえ待たず医務室を出て、何を思ったのか天雲は一階の直接試合が行われている会場に足を運んでしまった。二階から俯瞰したときにわかっていたが何度か話したことのある面子が観戦していた。既に7−1という悲惨な状況になっていて見るに耐えないのである。
そこで一人の選手らしき男が割り込むように入ってきたので思わずそちらを向いてしまった。
知っている顔だ。ネットを挟みながらも対面で目を合わせた男、あの時は同じぐらいだったのに、今では俺の方が一回りどころかそれ以上に小さくなってしまっている。その事実が鈍器のように俺の頭をがちんと打った。
「おヴェェえ、オッヴェエ」
いつの間にか俺は踵を返し、便所と顔を向かい合わせていた。手を洗っている最中、鏡に映った私の顔は死人のように青く血色を失っていた。
川が流れる音の中、人の会話とシャッター音が響く。黄と黒のテープが橋の下の河川敷にあり、それを潜って入ってきた男性が手を合わせ足元のブルーシートを軽く捲る。一月ということもあって隠されているそれは綺麗な形で残っていた。
「やっぱり、こういうのはいい気分じゃねえよな。身元はわかったのか?」
「ええ、天雲誠さん十七歳です。女性ですが最近話題となっているトランスセクシャル病でしてね、やっぱ多いですよね。」
刑事はすぐに立ってきた道を戻っていくが、それに目を向けた鑑識の一人が彼を呼び止める。
「どこいくんです?」
「一度署に戻ってから聞き取り調査だよ。事件性がないか御遺体の親族と友人に聞き込み調査をする。別に前みたいに事件になったりしねぇよ」
「最近、若者の調査に乗り気ですね。何かあったんですか?」
「いや、ただこの歳で死ぬのはもったいねぇなって思っただけだよ」
彼は自家用車に乗ってアクセルを踏んだ。
完
デュース
一セット取る一点前で同点になってしまった時に適応されるルール。二点差がつくまで終わらない。
主審
台に上がっている審判。
サーバー
サーブを打つ人のこと
フローターサーブ
ジャンプをせずに手を上からボールに当てて打つ、回転のかかってないサーブ
セッター
比較的二番目に球を触る役割、スパイカーにとって打ちやすい球をパスする。