地味モブと言われましても、よくわかりません
薄く、はっきりしない赤色の髪に、くすんだ紫色の瞳。美人でも可憐でもなければ、醜貌でもない。
…と思う。
少し吊り上がった目がきつい印象を与えるが、小心者である。
そんな見た目も中身も平凡な私、イリス・シュリントはシュリント伯爵家の第二子で長女である。
父も兄も綺麗な深紅の髪と瞳で、母は輝く金髪に綺麗に透き通った紫色の瞳。
私以外は『美』の部類に入るだろう。
それでも私は自分の見た目を恥ずかしいと思った事は一度もない。
父母も兄も、こんな私を愛し、大切にしてくれるから。
勿論、私も家族を愛している。
そんな私が16歳の時に、王命によって婚約が決まった。
相手はこの国の有力貴族であるローガー侯爵家の嫡男、アロイスと言う一つ年上の青年である。
彼は控えめに言って、美男子である。直接的に言ってしまえば、タイプだ。
それはもう、直球ど真ん中である。
彼の髪は金糸のように輝く綺麗な金髪に、宝石を溶かして固めたような若草色の瞳。
整った鼻筋に、切れ長の瞳に長いまつ毛。神の創りたもうた芸術品である。
彼を慕う令嬢は山の様にいる。
彼は見た目だけでなく、今年から通い始めたアカデミーでは学業も剣術もトップの成績を修めているという。神は時に不公平である。
しかし見た目はともかく、学力も剣術もきっと彼が努力した結果なのだろう。
そんな所も彼の魅力の一つなのだ。
そんな一級品の彼と平凡な私がなぜ婚約したのか。それも王命で。
それは6年前に遡る。
私が10歳の時、突然私の頭に「ぽんっ」と何かが浮かんだのだ。
それは見たこともない物なのだが、なぜか使い方も分かった。
私はその浮かんだ物の形を紙に描き出した。
そこに簡単な仕組みと使い方を書き、それを父に見せた。
父はそれを『大発明』だと言って、すぐに試作品を作り上げた。
出来上がったそれは、木でできた柄の先に馬の毛を植えた棒状の物だった。
それはこの国には習慣のなかった「歯を磨く」道具だった。
歯の痛みの原因は、治癒魔法では治せないもので、人々を苦しめる病の一つであった。
その歯の痛みを予防できるとあって『歯磨きブラシ』と名付けられたそれは、爆発的なヒット商品となったと同時に、歯磨きが習慣化され、歯痛に悩まされる者も年々減少してきている。
それから、次々に私の頭にいろいろな物が浮かび、その度に紙に描き出し、父に渡しては商品化していったのだ。
それは、ロール状にした粘着紙をコロコロとすることで、細かいゴミを簡単に掃除できる、その名も『コーロコーロ』といったものから、国王の有り難いお言葉や、緊急時に必要な情報を何処にいても聞くことの出来る箱型の魔道具『レーディオ』や、何処にいても特定の相手と通話ができる通信機器と言った、軍事にも役立つ『ケータイ』など、たったの6年でこの国の文化は大きく進化した。
しかしどれもこれも私はただ案を出しただけ。
形にしたのも、それを売り込んだのも、全て父と兄の力である。
なので全ての権利は私ではなく、シュリント伯爵家にある。
しかし次々と画期的な発明をし、今やこの国で一番裕福であり、しかも発明品に関するすべての権利を有する伯爵家に王家が目を付けたのである。
その上、イリスの発明品の噂は他国へも広がりつつあるため、国外への流出を防ぐためと言うのもあるのだろう。
その結果、気の毒なことにアロイス様が泥をかぶることとなったのだ。
彼ほどの美青年であれば、もっときれいで聡明な方といくらでも結婚できただろうに。
* * *
そんなアロイス様と婚約を結んで約半年後、私も17歳になりアカデミーに入学することとなった。
入学式は厳かに行われ、初日はクラスで簡単な説明を受けてから帰宅となる。
説明も終わり教室から先生が退室し、私はカバンを手に取ると帰りの支度を始めた。
その時、後ろから声を掛けられた。
「イリス、門まで一緒に行きましょう」
私が振り返ると、そこにはふわふわと波打った銀の髪を揺らし、潤んだように光る青目の美少女が立っていた。
彼女はエステル・ブラントン。ブラントン伯爵家の一人娘である。
彼女は私の幼い頃からの友人で、唯一無二の親友である。
「エステル。貴女と同じクラスで嬉しいわ」
「私もよ。イリス」
そう言ってほほ笑むエステルは、この国で一番美しいと思う。
私はエステルの笑顔が一番好きだ。
彼女、エステルとの出会いはまだ8歳の時だった。
◇ ◇ ◇
その日、私は母に付き添ってお茶会に参加していた。
顔つきがきつい私は、他の貴族令嬢から遠巻きに見られ、なかなか友達を作ることが出来なかった。
そんな中、ある令嬢が私の近くで転んで泣き出してしまった。
それを見た他の令嬢は、私が転ばせたと言って責めてきた。
私はもともと気が弱かったこともあり、数人の令嬢に責め立てられ、怖くて何も言い返すことが出来ずに固まっていた。
それをどうとったのか、一段と皆の言葉が強まった時、一人の可憐な少女が私と令嬢たちの間に立った。
私も他の令嬢たちも呆気に取られていると、その少女ははっきりとした言葉で言った。
「この子は何もしていないわ。そこの子が勝手に転んだだけだわ」
私はこの目で見ていたと言い切った彼女に、他の令嬢も何も言えずにいた。
「そこの貴女。いつまでしゃがみ込んでいるの?貴女が一言違うと言えば、この子はこれ程責められずに済んだのよ」
ビシッと転んだ子に言った後、今度は私の方を向くと眉を顰めて言った。
「貴女も貴女だわ。貴女は何も悪くないのだから堂々としていればいいのよ」
そう言った後、優しくニコリと笑った彼女はとても美しくて、私はまた何も言えずに固まってしまった。
その後、お茶会が終わり帰りの馬車に乗ろうとした時、あの少女の姿を見つけた私は自然と走り寄っていた。
そして彼女の目の前まで行くと、勇気を出して言った。
「しゃ、先程はありがとうございましt、た。よかったら私と、その…お友達になってもらえませんか。」
緊張して少し噛んでしまった私は拳を握りしめ、目の前で驚きこちらを見つめている少女の顔を見つめた。
急に話しかけられた少女は一瞬の間があったものの、すぐに美しい笑顔を浮かべた。
「喜んで。これから宜しくね」
そう言って私の手を取ってくれたエステルは、それから私の大事な親友で、憧れになった。
◇ ◇ ◇
私たちが門に着くと、門の前には各家の馬車が何台か止まっていた。
馬車と言っても荷台を引く馬はいない。今は魔石を動力として、御者が荷台自体を操る物が主流になってきている。
これもイリスの発明の一つであった。この発明により馬車渋滞が半減しただけでなく、馬車での事故も大幅に減少した。
イリスの開発した馬車には安全装置が装備され、急停止が可能になり衝突事故や人身事故が十分の一以下にまで激減した。
しかも馬を付けなくなった為、車輪自体を可動式にする事が可能になった事で小回りが利くようになり、非常に実用性が増したと人々を喜ばせた。
エステルに別れを告げ、馬車に乗り込むと息を一息吐く。
「着いたら起こして頂戴」
御者にそう告げると私は目を閉じた。
馬車がシュリント伯爵家の前に着くと、御者がイリスに声を掛けた。
「もう着いたのね」
私は伸びをして、身だしなみを整えてから馬車を降りる。
出迎えの使用人たちに頭を下げられ、その中を歩いていると執事が足早にやってきた。
「お帰りなさいませ。イリスお嬢様」
執事が頭を下げ、私が答えると執事は矢継ぎ早に用件を伝える。
「本日は旦那様がお帰りになられております。それから、ローガー侯爵子息様がお越しになっておいでですので、お仕度が整い次第、旦那様の執務室までお越しくださいませ」
「アロイス様が?わかったわ。すぐに準備をお願い」
私は侍女に急いで支度をお願いして、父の執務室へと向かった。
部屋へ入ると、お父様とアロイス様がテーブルを挟んでソファに座っていた。
私は二人へ挨拶を済ませるとお父様の隣へ座った。
「いやぁ、街で偶然アロイス君に会ってな。久しぶりにゆっくり話がしたくて招待したのだよ」
今日は入学式の為、在校生であるアロイス様は休みなのだ。
普段アロイス様はお忙しい方なので、定期的に交わす手紙と、これまた定期的なお茶会以外にお会いすることはあまりない。
最近はアカデミーの入学試験や入学準備で私の方が忙しく、先月のお茶会をお断りしてしまった。
そのため、会うのは実に2か月ぶりである。
アロイス様と婚約を結んだのはわずか半年前の為、彼と顔を合わせたのは数える程である。
彼の整いすぎた顔は何度見ても慣れるものではない。
むしろ会うたびに色気が増していると思う。
「そうだ、二人は久々に会ったのだから少し庭園でも散歩しながら、ゆっくり過ごすといいよ」
しばらく三人で話していたが、どうやらお父様は私たちに気を使ってくれたらしい。
その言葉に甘えて私たちは庭園を二人で歩いていた。
「アロイス様はお忙しいでしょうに、お父様が無理にお連れして申し訳ありません」
「いや。実を言うと近いうちに伺おうと思っていたんだ」
「え?」
思いがけない彼の言葉に私は隣を歩く長身の彼を見上げた。
「少し座って話さないか?」
彼は近くにあったガゼボの方に目線をやると、そんな提案をしてきた。
二人は隣り合って座ると、彼は上着のポケットから小さな箱を取り出した。
「入学おめでとう」
そう言って私の目の前にその箱を差し出した。
「え?私に…ですか?」
おずおずと箱を受け取ると彼に確認を取り、箱をゆっくりと開けた。
中にはアロイス様の瞳の色によく似た宝石がはめ込まれ、細かな細工の施された金の髪飾りが入っていた。
「わぁ…綺麗…」
私は髪飾りを手に取るとじっくりと見つめた。
細工の部分には様々な複雑な模様が彫られており、一見シンプルな作りながらも意匠の凝らされた物だとわかる。
その中に私の名前と同じ“イリス”の花が彫られているのを見て、私はバッと顔を上げた。
「気に入ってくれたかな。本当は今日の入学式に着けて行ってもらいたかったんだけど、間に合わなくて今になってしまった」
申し訳なさそうに眉をさげる顔もまた、色香を纏っている。
今日街に出ていたのはもしかして、この髪飾りを受け取りに行っていたのだろうか。
「ありがとうございます。とても嬉しいです。大事にしますわ。家宝にします」
私がそう言うと、彼は楽しそうに笑った。
その笑顔がとても美しすぎて、心臓の鼓動が速くなった。
顔と耳が熱くて、それをごまかす様に私は彼に尋ねた。
「あの、この石はなんていう宝石なのですか?あまり見掛けない宝石の様ですが」
私は宝石にはあまり詳しくないが、アロイス様と婚約してからというもの、彼の目の色に似た宝石を見るとつい興味を持ってしまうのだ。
おかげで彼の煌めく若草色の瞳と似た宝石に限り、詳しくなってしまったのだ。
しかし、今までこの色の宝石は見たことがない。
エメラルドに似ているが深みが全く違う。
髪飾りに付いた宝石は浮き通るような綺麗な緑色だ。
「それはグリーンガーネットだよ。数年前に発掘されて、産出量も少ないから市場に出回る事が殆どないんだよ」
「え!?そんな貴重なものを!?」
驚きのあまりつい大きな声を出してしまった私に彼は優しく言った。
「今回たまたま手に入ってね。小さいけど品質は折り紙付きだよ」
「でも…」
そんな貴重な物…私には勿体ないと思わず恐縮してしまう。
けれど彼の困った顔を見て私は心がチクリと痛んだ。
そうだ、彼は私の為にこの髪飾りをわざわざ作ってくれたのだ。
もしかしたら婚約者の義務としてだけかもしれないけれど。
いずれにせよ、これはアロイス様が私の為にデザインしてくれたものだ。
入学祝いに、私が喜ぶと思って作ってくれたのだ。
「アロイス様、どうもありがとうございます。とても嬉しいですわ」
私はアロイス様の目をまっすぐ見て笑って言った。
彼は安心したように、目を細めて笑った。
その顔がまた破壊力がありすぎて、心臓が痛くて泣きそうになった。
その夜、何だか大事な夢を見た気がしたが、朝目が覚めた時には内容を忘れていた。
* * *
「お嬢様、いよいよ今日から学生生活のスタートですね」
幼い頃から私の侍女をしてくれているアンネは、私より4つも上だがしゃべり方も所作も子供っぽい。
今もこうして身支度を手伝ってもらっている間、私より浮かれて落ち着かない様子だ。
「お嬢様、次は髪ですよ。うんとかわいくして差し上げますからね」
そう言って鼻息をふんっと荒くするアンネに、昨日アロイス様に頂いた髪飾りを見せた。
「アンネ、昨日これをアロイス様に頂いたのだけど…これから毎日この髪飾りを着けてほしいの」
アンネは髪を結うのが得意で、地味な私がアカデミーで埋もれないようにと、いろいろな髪型を考えてくれていた。
それだけに、毎日同じ髪飾りを着けろなんて言ってしまったら、がっかりさせてしまうのではと不安になった。
しかしアンネはなぜか嬉しそうに髪を結い始めた。
「素敵な髪飾りですね。制服や普段着にも合わせやすそうで、まるで常に身に着けていて欲しいみたいですね」
アンネの何かを含んだ笑みの意味はよくわからなかったけど、アロイス様のセンスがいい事だけはわかった。
支度を終えて馬車に乗り込むと、今日から学生なのだと実感し、急に緊張し始めてしまった。
門の前で馬車を降りると、そこにはエステルの姿があった。
「おはよう。イリス」
エステルは今日も朝から眩しいほどに美しい。
「おはよう。もしかして私を待っていてくれたの?」
「うふふ。きっと緊張していると思って」
エステルの優しさに泣きそうになり、つい抱き着いてしまった。
よしよしと私の頭を撫でてくれるエステルは、今日も優しくて美しい私の女神だ。
教室に入ると何やら重たい空気が流れていた。
「どうかしたの?」
教室にいた他の生徒にエステルが尋ねる。
「それが…」
そう言った生徒の目線を追うと、そこには一人の女子生徒を囲んで数人の男子生徒が立っていた。
クルクルと巻いた淡いピンクのツインテールをぴょこぴょこと揺らし、両手を目の前で組み、ウルウルと潤んだピンクの瞳で上目遣いに男子生徒を見つめる女子生徒。
それを赤らんだ顔で見つめる男子生徒。
私はこの状況を見ても全く何が起きているのか理解できなかった。
それはエステルも同じようで、眉を顰め先程尋ねた生徒に再び質問をする。
「これは何が起きているのかしら?」
質問された生徒は私も何が何だかと言ったように、自分の知っていることを話してくれた。
どうやらあの女子生徒はメロディ・ゲイラと言う男爵令嬢らしい。
彼女は男爵家の庶子で、元は平民として暮らしていたという。
しかし男爵と正妻との間に子供が出来なかったこともあり、最近彼女は男爵家に引き取られたそう。
ここまではそれほど珍しい話ではないのだが、どうやら問題は彼女自身にあるらしい。
「やだぁ。バルトったら。私はそんなにかわいくなんてないわぁ」
突如メロディと言う生徒の声が響いた。
彼女は傍に立っている男子生徒の腕に自らの腕を絡めると、男子生徒の腕に豊満な胸をむぎゅっと押し付けた。
ええ!?男性の、それも婚約者でもない方の名前を呼び捨て、体に触れるだけではなくあんなに密着するなんて…。
驚きのあまり、幼い頃より淑女として厳しい教育を受けてきた貴族令嬢たちは、口の端をひきつらせたまま固まっている。
そんな状況に気づいていないメロディ様は、なおも男子生徒と触れ合いを続けている。
そんな彼女にあっけにとられているうちに、ホームルームの開始を告げる鐘が鳴り教師が教室へ入ってきた。
皆席に着き、何事もなかったかのように学生生活一日目がスタートしたのだった。
それから一月、相変わらずメロディ様は男子生徒との触れ合いを続けていた。
何度か他の女子生徒が注意をしたが、その度に「いじめられた」とメロディが男子生徒に泣きつき、一向に改善されなかった。
それでもまだクラス内で収まっているのなら良かったのだが、最近では他のクラスや上級生の男子生徒まで巻き込み始めていた。
そんな中、事件は起こった。
その日の昼休み、私はエステルと食堂で昼食をとっていた。
「イリス、隣に座っても大丈夫?」
そう声を掛けてきたのはアロイス様だった。
同じ学舎にいても殆ど顔を合わせることはないが、たまに食堂で会う事はあった。
けれど会っても挨拶を交わす程度で、一緒に食事をとるのは初めてだった。
「アロイス様。どうぞ」
突然現れた美青年にドキドキしながら席を勧める。
エステルの許可を取らなかったのは、彼女の隣にいる男性が同じようにエステルに話しかけたから。
その男性はグレナー伯爵家の次男であるシモン・グレナー。
何を隠そう、エステルの婚約者である。
婚約が決まったのは私と同じ時期ではあったが、ずっと前からシモンがエステルに懸想していたことは、同世代の貴族令嬢の間では有名な話である。
いや、彼以外にもエステルに恋をしていた人はたくさんいるだろう。
エステルの隣で優しく笑うシモンは、少し癖のある栗毛に同色の瞳のとてつもなく優しい青年である。
伯爵家の次男という事で、婚姻後はエステルの家へ婿入りするのだ。
「今日は食堂が混んでいて席が空いていなかったんだ」
アロイス様に言われて周りを見渡せば、いつもはまばらに空いている席が今日は殆ど埋まっていた。
「本当ですね。今日は何かあるのでしょうか」
私が疑問に思っていると、アロイス様は小首をかしげながらさぁと言った。
私は手に持っていたサンドイッチを一口食べると隣からの視線に気づき、慌てて口の中の物を飲み込んだ。
「ごほ…どうかしましたか」
こちらを見ているアロイス様に何か用かと尋ねると、彼は少し照れたように言った。
「髪飾り毎日着けてくれているね。ありがとう」
「え?あ、はい。とても気に入っているので、休みの日も着けさせてもらっていますわ」
そう言うと、アロイス様は嬉しそうに微笑んだ。
今日も兵器並みの威力のあるアロイス様の笑顔に、心臓がバクバクと爆発しそうな程音を立てた。
顔が熱くなって、とっさに顔を背けると目の前に座るエステルと目が合った。
あれ?今なんか…
「イリス、どうしたの?」
エステルがなんとなくいつもと違う雰囲気の様な気がしたが…。
いつもの美しい顔で、首をかしげて心配そうにしているエステルを見て、気のせいかと思い少し安心した。
そんな時だった、突然大きな音と女性の大きな声が聞こえてきた。
「貴女、はしたなくってよ!」
声のする方を振り返れば、そこには王弟殿下のご息女であるミシェル様が、ある女生徒に向かって指を突き付けている姿があった。
「貴女が今腕を絡めているのは、私の婚約者でしてよ!」
ミシェル様に指を突き付けられた令嬢、メロディはそれでも絡めた腕をほどこうとはしなかった。
「ミシェル、落ち着いて」
腕を絡められた男性はと言うと、まんざらでもないような顔をしてミシェル様を窘めていた。
男性はミシェル様の婚約者であり、隣国の第二王子である。
そもそも御身にみだりに触れていい方ではないのだ。
「クラウス!貴方なに鼻の下伸ばしているのよ!」
流石に淑女の鑑と称されるミシェル様も頭に来たようで、言葉遣いが乱れている。
「ゲイラ嬢!貴女の家には我が公爵家から、正式に抗議文を送らせて頂きますからね」
「ミシェル様、あんまりですわ。王族だからと言って、むやみに権力を振りかざしてはいけません」
メロディ様の口から出た言葉にミシェル様が呆気に取られている間に、メロディ様が続ける。
「クラウス様は貴女の様な傍若無人な方より、私の方が癒されると言っていましたわ」
「なっ!!」
ミシェル様がクラウス殿下をキッと睨むと、クラウス殿下は目線をそらせた。
メロディ様は何を考えているのか、万が一にもクラウス殿下の不貞が原因で婚約が破綻になれば、最悪国際問題にもなりかねない。
そんな事を思っていると、アロイス様が立ち上がり修羅場へと向かって行った。
「え、アロイス様?」
私も慌てて後を追っていく。
その間もミシェル様とメロディ様の言い合いは続いていた。
次第に激しくなる言い争いに、メロディ様の口から出た言葉にミシェル様の顔が一層険しくなった。
「そんなに傲慢だから婚約者に嫌われるのだわ。クラウス様は孤独なの。私だったらクラウス様のお心に寄り添えますわ」
その言葉に激怒したミシェル様が右手を高く上げ振りかざし、その手をメロディに向かって振り下ろした。
まずい!そう思った瞬間アロイス様がミシェル様の腕を掴んだ。
「アロイス様!」
ミシェル様がハッとした顔でアロイス様の顔を見た。
そしてそのまま、未だにメロディに腕を絡め取られているクラウス様に目線を移す。
「クラウス殿下、恐れながら申し上げます」
スッとアロイス様は目を細めると、大きなため息をついた。
「貴方が何を考えているのかは大方見当がつきますが、あまり令嬢をからかいますと今度こそ愛想を尽かされてしまいますよ」
そして掴んだままのミシェル様の腕をそっと下ろすと彼女にお詫びを言い、アロイス様は私の方に歩いてきた。
その顔がいつもの優しい笑顔ではなく厳しい顔つきだったので、私の心臓が飛び出てしまいそうなほどに大きく跳ねた。
しかしその鼓動もチラリと覗き見たメロディ様の表情のおかげで、嫌な鼓動へと変わった。
彼女は頬を赤く染めて、潤んだ瞳で去っていくアロイス様を見ていた。
それはまるで恋する乙女の様だった。
その日の帰りは珍しくアロイス様が自宅へ招待してくれた。
ローガー侯爵家の客室で香りのよい紅茶を頂く。
「それにしても、クラウス殿下はてっきりミシェル様にご執心なのだとばかり思っていました」
二人の婚約はもちろん政略であるが、二人は婚約以前から仲が良く、特にクラウス殿下に至っては、ミシェル様に近づく男性を分かりやすく牽制していた。
「クラウス殿下は…まあ変わった方だから。正直あまり気にしなくて大丈夫だよ」
そう言ったアロイス様の表情は心なしか疲れているようだった。
「あの二人はなんだかんだうまくいっているから」と言うので、アロイス様が言うのならそうなのだろうと思った。
「問題はあのゲイラ男爵令嬢だ。彼女は好色女と言うのか、学院内の男子生徒に近づいてはその中で気に入った男子生徒達と関係を持っているらしいんだ」
それを聞いて私は驚きのあまり声が出せなかった。
彼女が不特定多数の男子生徒と仲良くしていることは知っていたが、まさか仮にも貴族令嬢が婚前交渉を、それも複数人と…。
そして昼間の食堂で、メロディ様がアロイス様に向けた顔を思い出し、背筋に嫌な汗が流れた。
それと同時に胸がざわざわと騒めいた。
「とにかくイリスも彼女には注意してくれ」
考え込む私に向かってアロイス様はいつもの優しい口調で言った。
その時私の頭に例のごとく一つの映像が流れ込んだ。
「アロイス様、紙とペンを貸して頂けませんか」
「え、ああ」
突然慌てたように言う私に戸惑いながらも、アロイス様は紙とペンを貸してくれた。
私がすらすらと紙に書き出す様子をアロイス様は横から覗き込みながら、私が書き終わるのを静かに待ってくれていた。
私が全てを書き終えるとアロイス様が先に口を開いた。
「なるほど。これは面白いね」
「今まで似たような物はあったのですが、なぜ思いつかなかったのでしょう」
「これはどのくらいで完成できそう?」
「そうですね…これなら以前作った“通信鏡”の応用の様な物なので本体自体はすぐに完成できるかと。ですが、問題は記録媒体なのですが…」
「…それならば魔水晶はどうだい?」
「魔水晶…」
アロイス様の提案に私はしばらく考え込んだ。
魔水晶を使った発明品も作った事はあるのだが、魔水晶は高価な物なので商品化するには採算が合わないのだ。
商品化したところで買えるのは裕福な貴族か富豪だけになってしまう。
過去に発明した魔水晶を使用した“通信鏡”と呼ばれる物は、軍事目的に使用できるとの事で、国に権利を買い取ってもらった。
今回考え付いたものは出来れば多くの人に使ってもらいたい。
そんな考えをアロイス様に伝えるとしばらく考え込んだ後、一日待ってくれないかと言ってまたしばらく考え込んでしまった。
* * *
翌日、登校して教室の前までやってくるとなんだか人だかりが出来ていた。
私が人垣をかき分け教室に入ると、そこには顔を真っ青にしたエステルが私の席の前で立っていた。
「どうしたの…え…」
「イリス…。私が今朝来た時には…」
私は一体何が起きているのかわからなかった。
「一体誰がこんなひどい事…」
エステルが私の背中に手を置き、優しく撫でてくれた。
信じられなかった。私の席の木製の机には大きく中傷する言葉が書かれ、ナイフで傷つけられていた。
机の中には残飯が押し込まれ、腐っているのか異臭を放っていた。
暫く放心していた私だが、我に返り周りを見渡した。
憐みの目を向ける者、眉を顰める者、好奇の目を向ける者。
私は向けられる視線に耐え切れず、教室を飛び出した。
人をかき分け必死に走った。
学舎の一階の角の部屋。この部屋が空き教室なのは知っていたから、初めからここへ向かって走っていた。
教室に飛び込むとすぐにしゃがみ込んだ。
どうして私があんなこと。
知らないうちに誰かの恨みを買っていたのか。
私の発明したものは喜ばれるものだけではない。
発明品によって売れなくなってしまった従来の物もある。
そういった物を扱う商売をしていた人からすれば、私は憎しみの対象だろう。
あるいは…アロイス様に好意を向ける令嬢の嫌がらせ。
考えてみれば私に恨みを持つ人は案外多いのかもしれない。
ただこういう風に悪意をぶつけられた事がなかったので動揺してしまった。
―どれくらい経っただろう。
少し落ち着いてきた私は空き教室から出た。
重い足で教室へ向かう。
本当は行きたくないが、いつまでもこのままでいるわけにはいかない。
教室の戸を開けると一斉に視線が私へ向かう。
すぐにエステルが駆け寄ってきてくれた。
「大丈夫?顔色が悪いわ。今日は帰った方がいいわ」
エステルはそう言ってくれたが、今日帰った所で変わらない。
私にはエステルがいる。
机は先生とエステルが綺麗にしてくれたらしい。
お礼を言うと、自然と涙が溢れた。
どうにかその日は残りの授業には出席したが、何も頭に入らなかった。
それから数日、毎日のように嫌がらせが続いた。
初日の様な大きなものはなかったが小さいことが続き、エステルにもアロイス様にも心配をかけてしまった。
そんなある日、食堂でメロディ様がアロイス様に話しかけているのを見かけた。
ドクンと心臓の跳ねる音と、胸の奥がざわざわと騒ぎ出す感覚で、目の前が霞んで見える。
私の座る席からは遠く、何を話しているかは聞こえない。
だけどメロディ様がアロイス様の腕にいつもの様に自分の腕を絡みつけた。
私の目線を追ってエステルが気づいたのか、席を立ちアロイス様の方へ歩いていった。
「え、ちょっと待って!エステル!」
私は慌ててその姿を追って行った。
私がやっと追いついた時にはエステルはすでに二人の前に立っていた。
「メロディ様、アロイス様の腕を放しなさいませ。彼には婚約者がいるのですよ」
エステルがメロディ様を睨みつける。
普通の令嬢ならここで怯み腕をすぐに離すものだが、メロディは一層強くしがみついた。
「ゲイラ男爵令嬢、申し訳ないが離れてもらえないだろうか」
アロイス様が顔をひきつらせながらメロディ様に優しく言うが、彼女は唇を尖らせてエステルに言った。
「知っています。エステル様がアロイス様の婚約者ですよね?どうせ家同士が決めた婚約ですよね。それじゃあアロイス様があんまりですわ」
言われたエステルは毅然と立ち向かう。
「アロイス様の婚約者は私ではなく、イリス・シュリント伯爵令嬢です。それも、家同士の婚姻ではなく、王命です。その意味お分かりになりますよね?」
エステルがメロディ様に向かって言えば、なぜかメロディ様は一瞬戸惑ったような顔をした。
しかし、それはほんの一瞬ですぐにいつもの彼女に戻った。
「え?ど、どのみち本人の意思は関係なく決められたという事ですよね?アロイス様かわいそう」
そう言ってメロディ様はアロイス様にしなだれかかった。
流石に私も耐えられなくなり一歩前へ出て口を開きかけた時、それより先に放たれたアロイス様の声に遮られた。
「ゲイラ男爵令嬢、申し訳ないが離れて頂こうか」
アロイス様がメロディ様の肩を掴み、体から離す。
「先程ブラントン嬢が言った通り、私には婚約者がいるのでこれからは弁えて頂きたい。婚約者を悲しませたくないので」
そう言う彼の顔は真剣で、私の胸はこれまで以上に高く跳ね上がった。
アロイス様が私の横に立ち腰を抱き寄せた。
心臓の鼓動が彼に聞こえてしまうのではないかと思うほど高鳴る。
顔に熱が集まるのを感じて顔を伏せる。
メロディ様をチラリと盗み見れば、唇を噛みしめ憎しみの籠った目で私を見ていた。
私の肩がビクッと跳ねたのがわかったのか、アロイス様がメロディ様を警戒した。
メロディ様は拳を握りしめ肩を震わせた後、もう一度私を睨みつけると食堂を後にした。
私は力が抜け、はぁと大きな息を漏らした。
「大丈夫?」
アロイス様が私の顔を覗き込む。
「はい。ありがとうございます。エステルもありがとう」
私はすぐ近くに立つエステルにもお礼を伝えた。
「…うん」
エステルは何か言いたげな表情で、でもそれを笑顔でごまかしたように見えた。
普段言いたいことをはっきりと言うエステルだったので、その態度に違和感を覚えつつも、
食堂にいる生徒達の視線に耐えかねて、私たちは慌てて食堂を出たのだった。
それから一週間。
相変わらず嫌がらせは続いており、私は心が折れかけていた。
それに加え、食堂での一件からメロディ様から目の敵にされており、毎日のように「別れて」
や「こんな地味な方が相手ではアロイス様がかわいそう」などと言われ続けている。
エステルが追い払ってくれてはいたが、どうも会話が成り立たないようで、エステルも心底疲れ切っていた。
「ごめんなさいね、エステル。私がもっとちゃんとしていれば…」
「大丈夫よ。私がついているわ。とにかく嫌がらせの犯人を見つけないとね…」
「…そうよね」
「ねぇ、イリス。私思うのだけど、犯人はメロディ様ではないかしら?」
「…でも…」
確かに私もその考えが浮かんだ時もあったが、それには違和感があった。
「とにかく、メロディ様には近づかない方がいいわね」
そんな会話をエステルと交わしてすぐの事だった———。
「きゃああああっ!」
私たちが移動教室である次の授業の為に、二階の教室から一階の教室へ移動中の時だった。
「メロディ様!」
大きな叫び声の後、小さな悲鳴と慌てた様子の複数の人の声がその場を埋め尽くす。
そしてその人々の視線が一斉に階段の上に立ち尽くす私に集まった。
階段の下では倒れたメロディ様、階段の上には私が一人。
状況が呑み込めずに立ち尽くしていた私だが、一人の生徒の言葉に一気に何が起きたのか理解した。
「イリス様が…?」
その声を合図に皆が一斉に私を責め立てた。
「ち、ちが…」
必死に声を絞り出そうとするが、喉が締め付けられて思うように声が出ない。
その間も皆が私に非難の言葉を投げかける。
「ちが、私…」
どうしようもなく悔しくて泣きそうになったその時、一人の生徒が前へ歩み出た。
私はその姿を見て安堵した。
「エステル…」
いつも一緒に移動教室に向かうエステルだったが、今日は先に行くと言って私より少し前に教室を出ていた。
その時私は思った。
やはりエステルは私の救世主だ。いつも困った時には私を助けてくれる。
優しくて美人な私の親友。今日はお礼に帰りにカフェへ寄ってエステルの大好物のアップルパイを御馳走しよう。
そして私もエステルにばかり頼らず、勇気を出して立ち向かおう。
そんな事を考えていると、みんなの注目を集めたエステルは私へ視線を移した。
それと同時にみんなの視線も私へ移る。
「私見ましたわ。メロディ様はイリスに階段から突き落とされました」
その言葉に一瞬頭が真っ白になる。
他の生徒達も唖然としていた。
いつもイリスを庇うエステル。きっとエステルは私をいつもの様に庇うのだと多くの生徒は思ったのだろう。
かくいう私がそうだったのだから。
しかし却ってそれに信憑性が増したのか、皆の顔が一気に怒りや蔑みの色に変わる。
その中の数人の男子生徒が憎悪に満ちた顔で階段を上り、イリスに掴みかかった。
この男子生徒はメロディ様の取り巻きの人達だ。
きっと私が彼女を階段から突き落としたと思って…。
勿論私はそんな事はしていない。
教室を出ようとした時、アロイス様にもらった髪飾りがないことに気付き、探していた。
結局見つけられずに、皆から遅れて次の授業の教室へ向かっていると、急に叫び声が聞こえてきた。
声の方へ走って向かうと、すでにそこにはメロディ様が倒れていたのだ。
しかしそれを説明しようとも、恐怖で声が出ない。
「見て!メロディ様の手の中にこれが」
そんな時、一人の生徒が声を上げた。
メロディ様の一番近くにいた女生徒が金色に光る髪飾りを掲げた。
「それってイリス様の…」
その瞬間、疑惑が確信に変わった男子生徒の顔が怒りに真っ赤に染まり、拳が降りかざされるのを見て私は思わず目を瞑った。
ぎゅっと目を閉じた瞬間、私は思い出した。
この場面、どこかで見た気がする。
…そうだ、入学式の日の夜。
あの日の夜、何か大事な夢を見た気がした。
けれど朝目が覚めると内容がどうしても思い出せなかった。
けれど今確信を持って言える。あの夢の内容は今この場面だった。
しかし少し内容が違うように感じる。
夢では確かに私がメロディ様を階段から突き落とした。
そして断罪されるのだが、その相手はエステルではなくアロイス様だった。
アロイス様が倒れるメロディ様を優しく抱きながら、私に憎々し気な視線を向ける。
確か夢ではそんな内容だった。
それにしてもなかなか痛みがない事に疑問を感じ、恐る恐る目を開けてみる。
「アロイス様!?」
そこには息を切らし、男子生徒の腕を掴みあげるアロイス様の姿があった。
アロイス様の額には汗が滲み、肩で息をして急いできたのだという事が分かった。
私は安堵の気持ちから力が抜け、その場にへたり込んだ。
そして視界が霞み、涙が瞳から溢れたのが分かった。
「アロイス様、ようやく来てくれましたね!」
先程まで倒れて意識がないように見えたメロディ様の声が響いた。
「メロディ様、大丈夫ですか?医師を呼びましたから安静になさって」
そんな女生徒の声など聞こえないかの様にメロディ様は立ち上がった。
嬉しそうに笑いながら階段を駆け上がってくるが、アロイス様の言葉にすぐに足を止めた。
「ゲイラ男爵令嬢!それ以上私に近づかないで頂こう」
掴んでいた男子生徒の腕を放し、今度は私の腰を抱き寄せた。
メロディ様はそんなアロイス様に怪訝そうな顔を向けた。
「なんで!?なんでそんな地味な女なの!?」
メロディ様はいつもの天使のような顔とはまるで違う、怒りに満ちた顔で言葉を続ける。
「おかしいじゃない!アロイス様ルートの悪役令嬢はエステル様のはずなのに!その女はただの悪役令嬢の取り巻きのモブだったのに、なんであんたなんかがアロイス様の婚約者なのよ!」
メロディ様の言っていることは到底理解できる言葉ではないはずなのに、なぜだか胸に引っかかる。
「アロイス様、よろしいでしょうか」
いつの間にかメロディ様の横までやってきていたエステルが、息を荒げるメロディ様の肩に手を置きながらアロイス様に話しかけた。
「アロイス様がイリスが犯人だと信じたくない気持ちはわかりますが、残念ながら私はイリスがメロディ様を突き落とす所を目撃しているのですわ。それに…」
エステルは自身の掌の上に置かれた髪飾りをアロイス様に見せた。
「これがメロディ様の手に握られていたのです。婚約者を庇いたいお気持ちはわかりますが、これ以上はアロイス様の名前に傷が付いてしまいますわ」
いつもの毅然としたエステルの姿でアロイス様に淡々と告げる。
だけど気づいてしまった。
その目に、エステルがアロイス様を見るその目に、彼を慕う他の令嬢たちと同じ熱を孕んでいることに。
「どうして、エステル…」
私が呟いた言葉はエステルには聞こえなかったのか、彼女は続けた。
「ローガー侯爵家の名に傷が付く前に、婚約破棄をなさる事をお勧めしますわ。そして本来あるべき形に戻すべきですわ」
エステルの言葉を聞いたアロイス様は私を抱く腕に力を込めた。
「ブラントン嬢の“本来あるべき形“と言うのはわからないが、私はイリスと婚約を破棄する気はない」
ハッキリと言い切るその言葉に胸が苦しいほどに締め付けられた。
そして涙でまた視界が滲む。
「それよりブラントン嬢、先程貴女が言った、イリスがゲイラ男爵令嬢を突き落とすのを目撃したというのは間違いないか?」
普段の優しい声音と違い、低く重々しい声にエステルの顔が一瞬曇る。
「ええ、間違いありません」
それでもはっきりと言い切るエステルの言葉は、第三者から見れば真実に思えるだろう。
「おかしいですね。私が見た真実とは違っているようだけど」
「っ!」
一体何を言っているのか、周りの皆はそう思うだろう。
それこそ婚約者を庇うための虚言にしか聞こえない。
アロイス様が駆け付けたのは、事件が起きてから大分経ってからである。
しかし、イリスには彼の言うその意味が分かっていた。
そもそも彼がなぜこの現場に駆け付けられたのか。
彼は同じ学舎内にいるとは言え、学年は違うのだ。
こんなに都合よく婚約者のピンチに駆け付けられるものか。
その答えは、彼が手にした掌より少し大きめの四角いプレートにあった。
「間に合ってよかったよ」
そうニコリとアロイス様が笑うと数人の女生徒がほぉっと感嘆の息を漏らす。
「皆には明日にでも学長から報告があると思うが、いい機会だ。ここにいる者には最初に教えておこう」
アロイス様の言葉を黙って聞いているエステルが、ごくりとつばを飲みこむ。
メロディは落ち着かない様子で目をきょろきょろとさせている。
もう一度手に持った四角いプレートを高く掲げると、アロイス様に皆の視線が集まる。
「これは“Sパッド”と言って、主に軍で使われている通信鏡を簡素化したものだ」
“通信鏡”とは相手の姿を投影しながら会話をすることが出来るもので、他にも様々な機能があるが国家機密の為、ここでは割愛させてもらう。
通信鏡は魔水晶を使い、相手の映像や声を記録することが出来る。
今回の発明品に必須の“記憶媒体”に、この通信鏡と同じ魔水晶を用いたかったが、魔水晶は希少で高額の為、実用的ではない。
何か代わりがないかと模索していた所、ローガー侯爵家から共同開発の話が出たのだ。
ローガー侯爵家の領地はこの国唯一の魔水晶の産地で、加工も行っている。
そして加工の際に出る削りかすや欠片を使えないかと、シュリント伯爵家へ提案したのだ。
その発案者がアロイス様だと聞いたのは商品が完成した後だったのだが。
そうして出来上がったのが“魔鏡”である。
シュリント家の今までの経験と知識で思いのほかすぐに完成した“魔鏡”は、本来の魔水晶の性質をそのままに様々な形態に容易に変形させられるという世紀の大発明となった。
そしてアロイス様の手にある“Sパッド”こそが、魔鏡を用いた商品第一号なのである。
アロイス様は皆がいる階段下までゆっくりと降りながら説明する。
そして皆の前に立つアロイス様はSパッドに触れる。
するとそこには映像が映し出された。
「わっ!」
驚いた生徒が声をあげる。
当然だろう。何もないプレートにいきなり映像が現れたのだから。
そしてそこに映し出された映像に皆が釘付けになる。
◇ ◇ ◇
映し出されたのは今皆がいるこの階段の踊り場。
数人の生徒が階段を下りていく。
しばらくしてメロディ様が現れる。
メロディ様はきょろきょろと周りを見渡しながら踊り場に立っていた。
暫くするとエステルが現れ、同じく周りを警戒しながらメロディ様に何かを手渡した。
二人は何かに反応して後ろを振り返り、エステルが慌てて階段を下りる。
そのすぐ直後にメロディ様が大きな叫び声をあげ、意を決したかのように身を屈めて自分から階段を転げ落ちた。
それから数秒もしないうちにイリスが踊り場にやってきた。
◇ ◇ ◇
そこまで見せるとアロイス様はSパッドを下ろす。
「どうだろうか、これを見てもまだイリスがゲイラ男爵令嬢を階段から突き落としたと言えるか?」
いつもの優しい声ではなく、怒りをにじませた表情と声をエステルに向ける。
「っ!」
エステルは声にならない声を上げ、顔を歪めた。
「どうしてここで起きたことがその...Sパッドでしたか?その魔道具で見ることが出来るのですか?」
そんな一人の生徒の疑問にアロイス様が先程までと違う優しい声で答える。
「あぁ、そうだったね。ごめんね、これこそが皆に知っておいてほしい事だったんだ」
アロイス様はそう言って階段上の踊り場を指さした。
「踊り場の天井、あの角にある四角い物が見えるかい?あれは“キャメラ”と言って、この場所を映してその映像をこのSパッドに送っているんだ。皆には少し窮屈な思いをさせてしまうかもしれないが、この学園の危険なところや死角になるところに、あれを設置させてもらったんだ」
試験的な物だから一時的な物だとアロイス様は説明したが、今回の件で学園側は正式にキャメラの設置を検討するだろう。
それよりも、と言ってアロイス様は再びエステルに向き合う。
「今回の件はブラントン嬢とゲイラ嬢、二人が共謀してイリスを貶めようとした。間違いないね?」
エステルは何も答えなかったが、それこそが答えなのだろう。
「どうして…エステル…」
「ふっ。どうして、ですって?」
私の問いかけにエステルは口端を上げ侮蔑の目で私を見た。
「どうしてって、あんたが私からアロイス様を奪ったからよ!!」
私はその声に驚き体を震わせた。
そんな私の肩にアロイス様の手が優しく乗せられた。
「どうして、あんたなんかに。本当はアロイス様と婚約するのは私のはずだったのに!なんであんたが当たり前のようにアロイス様の隣にいるのよ!返してよ!」
私は訳が分からずアロイス様を見た。
アロイス様はまっすぐエステルを見たまま言った。
「ブラント嬢。貴女は何か勘違いしているようだから、私からはっきりと言わせてもらうよ」
その声はどこまでも冷たく、まるで何の感情も籠っていないようだった。
「たしかにローガー家とブラントン家の婚約話は両家の親同士で出ていた」
エステルが顔を上げ、期待に顔を綻ばせた。
だがアロイス様の続く言葉にすぐに顔を曇らせる。
「しかしその話はすぐに私の方から断らせてもらった。両親も私の意思を尊重すると言ってくれた」
そこまで言うと、アロイス様が私の方に視線を移したので私もアロイス様の方を見た。
思いのほか顔が近くにあり、思わず顔が熱くなる。
「私は最初からイリスを望んでいた。王命が無くてもイリスに求婚するつもりだった」
「へ?」
思わず間の抜けた声が出てしまった…。
どういう事だろうか、初耳だ。
私がアロイス様に会ったのは両家で顔合わせを行った時だったはず。
勿論アロイス様の事は知っていたが、直接会った事はなかったはずだが…。
そんな私の気持ちを読み取ったのか、アロイス様は私を見て優しく笑うとそっと頭を撫でた。
その甘い顔に私の胸はざわざわと騒ぎ出す。
落ち着かなくなって目を逸らした。
逸らした視線の先には力なく項垂れるエステルがいた。
「エステル…私、エステルのこと親友だと思っていた。たくさん助けてもらって、私にとって貴女はヒーローだった。世界一綺麗で強くて…大好きな友達だった」
変わらず項垂れたままのエステルに構わず問いかけた。
「あの嫌がらせも貴女ね?メロディ様がアロイス様の婚約者が私だと知ったのは嫌がらせが始まった後だった。それに、メロディ様は直接私にアロイス様と別れて欲しいと言ってきた。こそこそ嫌がらせをしている人とは思えなかった」
「…いい気になってんじゃないわよ。私があんたを助けて傍に置いたのは、あんたが弱くて一人では何もできない馬鹿だったからよ」
エステルが私に憎悪で歪んだ顔を向けると、庇うようにアロイス様が一歩前に出た。
するとエステルがアロイス様を切なげに見つめた。
「アロイス様…私は貴方の事がずっと好きだったわ。お父様からアロイス様との婚約話を聞いた時はすごく嬉しかったのです。…なのに…その後、イリスにアロイス様と婚約したと聞かされたわ…」
エステルがキッと私を睨む。
「なんでイリスなの!?そんな何もできない、人に頼ってばかりの女がアロイス様に相応しいはずがないわ。王命だからってあんまりよ…」
そこまで言うとエステルは涙で濡れた顔を両手で覆い、咽び泣いた。
「ブラントン嬢、貴女はずっとイリスと一緒にいたのに、イリスの事を何も知らないんだね」
アロイス様の声は小さく、でもとても通る声で、まるで憐みを含んだような声だった。
「イリスはとても優しくて頑張り屋だ。そして、とても強い子だよ」
アロイス様がそう言って私を優しい顔で見る。
恥ずかしいのか、嬉しいのか複雑な私はきっと、その時すごく不細工な顔をしていたと思う。
「ビデオ!タブレット!それに、ケータイも!本来エステル様のはずの婚約者が貴女なのもその証拠よ!」
なんだか場違いなほどの能天気な声がその場に響いた。
「あ、メロディ様を忘れていた…」
私がぼそりと呟いた声はメロディ様には届かなかったのか、つかつかと私たちに向かって歩いてくる。
そして私をびしりと人差し指で指し、頭に響く程の大きな声で叫んだ。
「イリス様!貴女も転生者ね!?」
「………テンセイシャ……?」
その場がしんと静まり返る中、メロディ様は再び大きな声で叫ぶ。
「貴女、発明品が作れるならゲーム機を開発して!お願い。出来れば恋愛シミュレーション!この世界の様な乙女ゲームがいいわ。退屈なのよ!この世界!男も簡単に落ちるし、他にやることないから男とやるしかないじゃない?」
早口でまくしたてる言葉の意味は全く理解できないが、後半はなんだか理解してはいけないような気がした。
「メインキャラはアロイス様そっくりがいいわ。あと、王子様はクール系がいいわ!私この乙女ゲームの攻略対象者はアロイス様しかタイプではないのよね。それから…」
なおも続くメロディ様の熱弁を遮ったのは複数の足音だった。
学院の警備兵と学長、それから数人の教師がやってきた。
アロイス様がここに来る前に呼んだのだろう。頃合いを見てやって来るようにと。
そしてもう一人。屈強な警備兵の間からひょろっとした男性が私たちの前に歩み出た。
シモン・グレナー伯爵子息だ。
「エステル」
崩れ落ちるエステルに手を差し出すその顔はとても優しく、その目は愛しくて堪らないと言ったようにエステルを見据えていた。
「大丈夫だよ。エステル、僕も一緒に罪を償うよ。だからお願い、この手を取って」
切なそうな声のシモン様の手は微かに震えていた。
エステルはその手を見つめて、戸惑った顔をしていたが目を伏せて言った。
「私にその手を取る資格はないわ。私が愛しているのはアロイス様なの。そして、私は罪を犯した」
「君が誰を好きかなんて最初から知っていたよ。君をここまで追い詰めた責任は僕にもある。僕が一緒に謝るよ。一緒に叱られる。一緒に罰を受けるよ。一生をかけて一緒に罪を償おう」
「そ、そんなの無理よ。あなたは何も悪くないもの。それなのに…」
「エステル」
シモン様はエステルの言葉を遮って再び手を彼女の前に差し出した。
「お願い、エステル」
その声はいつものシモン様からは想像も出来ないほどに力強かった。
エステルがおずおずとその手を取れば、シモン様の垂れた茶色の瞳が大きく開かれ、瞬間涙が流れた。
私はそれを見て、嬉しくて涙を流した。
私が知らず知らずのうちにエステルを傷つけていた。
親友だなんて言っておきながら、私はエステルの事を何も知らなかった。
結果、エステルを追い詰めて罪を犯させてしまった。
エステルのやり方は決して許される事ではないが、私はエステルに大きな罰を与えてほしいとは思えなかった。
それは決して罪悪感からではなくて、私が一方的にだけど友達だと思っていた彼女には、幸せになって欲しいと心から思えるから。
実際エステルにはたくさん助けられた。
一緒に過ごした時間はとても楽しかった。
これから先、もしもエステルが許してくれたなら、また一緒にお茶を飲みながらたくさん話がしたい。
そんな日が来るかはわからないけど、その時はもう一度、友達になって欲しいとお願いしよう。
シモン様に支えられながら、警備兵と先生たちと共に去っていくエステルを見ながら、そんな事を考えていた。
* * *
あの事件から数日、アロイス様が異常なほど私に過保護になった。
おそらく私がずっと落ち込んでいたからだろう。
皆の前では普段通りにしていたつもりだったけれど。
あの後エステルはアカデミーを辞め、領地での謹慎が命じられた。
本来ならもう少し重い罪になるところだったが、そこはお父様とアロイス様が掛け合ってくれたおかげである。
それからメロディ様は、事を重く見たゲイラ男爵が養子縁組を解消。
庶民に戻ったメロディ様は案外うまくやっているらしい、とアロイス様が言っていた。
シモン様はアカデミー卒業後、すぐにエステルと結婚するためにアカデミーとブラントン家の領地経営の勉強で大忙しだ。
あれこれ言う生徒の言葉など聞いてる暇がないほど多忙な日々を送る彼に、嫌味など言っても無駄だとすぐに何かと言う者もいなくなった。
それどころか、あの事件の時の彼を知る一部の女子生徒の間で人気が急上昇中なのだが、これまた本人は気づいていない。
* * *
「イリス、街に出るときは護衛を付けないとダメだと、何度言ったらわかるんだい?」
私は今日、街に買い物に来ていた。
そこになぜかアロイス様も同行していた。
「大丈夫です。そんなに遅くなりませんし」
そう言って用もなくぶらぶらと街を歩いていると、一軒のカフェが目に入った。
「あのカフェ…」
私が思わずつぶやくとアロイス様が気付いたらしく「入るか?」と聞いてきたので、私は首を横に振った。
「あのカフェは…エステルと今度一緒に来ようと話していたカフェなのです」
私がそう言って立ち去ろうとすると、アロイス様に手を引かれた。
「入ろう」
「!?」
私は抵抗する間もなく店内へと連れてこられた。
案内された席に座りメニュー表を見ると、真っ先にエステルの好きな物があるか探してしまう。
「あ、エステル。貴女の好きなアップルパイが…」
言いながら顔を上げるとそこにはエステルではなく、優しく笑うアロイス様の顔があった。
「ふふ。妬けてしまうな。今度は私の好きな物も覚えてくれると嬉しいな」
そう言って笑うアロイス様が可愛くて心臓が飛び出かけた。危なかった。
「覚えていますわ。アロイス様はコーヒーがお好きでしょう。眠い時はそのまま何も入れず、疲れている時は砂糖を一つ、ゆっくり休みたい時はミルクを少々…」
私がすらすら言えばアロイス様は驚いたような顔をした。
「あ、あとアロイス様は意外と甘いものもお好きですわね」
そう付け足せばアロイス様は、嬉しそうに目を細めて笑った。
「知っていたんだね」
何を今さら言っているのだろう。
私はアロイス様の婚約者で、彼をそれなりに見てきた。
婚約者となってからそれほど時間は経ってはいないが、彼の好みや癖は結構知っている…つもりだ。
嬉しそうに笑っていたアロイス様が、急に真剣な顔を向ける。
「ブラントン嬢の事は申し訳なかった。私が前もって知らせておけばよかった。そうすれば今回のような事は避けられたかも知れないのに」
「いいえ、アロイス様のせいではありません。私がエステルの気持ちに気付いていれば…。親友なんて言っておきながら情けないです…」
あれから私なりに色々と考えてみた。
エステルの事、アロイス様の事。
だけどきっと私は自分の事で手一杯で、周りを思いやる事が出来ていなかったのだと思い至った。
「私はいつも他人任せです。発明品の事も、結局私はただ案を出すだけで、一番面倒な所は父や兄任せで…。エステルの事もそうです。エステルはいつも私が困っている時に守ってくれたのに…私は肝心な時に彼女を守る事が出来なかった」
そう言って、自分で自分が恥ずかしくなって泣きそうになった。
「イリスがそんな事を言うのなら、私はもっと人に頼ってばかりの人間だ」
アロイス様の言葉を否定しようと顔を上げた時、彼の泣きそうな顔が目に入り、言葉が喉の奥に引っかかってうまく出てこなかった。
暫く二人の間に沈黙が落ちる。
その時私は、ふと気になっていた事が頭によぎり、気づけば口にしていた。
「アロイス様、あの…。アカデミーでの事件の時に仰っていた事ですが…」
アロイス様の表情がすべてを見透かしているようで、急に恥ずかしくなり、顔が熱くなる。
しかし、ここまで言ってしまったのだ。変に誤魔化すのもわざとらしいと思い、思い切って彼へ疑問を投げかけた。
「その、アロイス様は以前より私の事をご存じだったのですか?」
言い切り私は視線を足元に向ける。
スカートをぎゅっとにぎり、恥ずかしさに唇を噛みしめた。
あぁ、なんて勘違い女だと思われているだろう。
私がアロイス様を知っている事はあっても、アロイス様が私を知っている事なんて…。
羞恥に顔を赤らめていると、彼の口から思い掛けない言葉が飛び出した。
「あぁ、イリスは私の初恋だからね」
「え…」
私はその言葉に驚いて、思わず顔を上げた。
そこには顔を真っ赤に染めたアロイス様の姿があった。
何も言葉を返せなくなった私に、アロイス様が一つずつ話し始めた。
「あれは、私が14才の時だった。イリスはまだ13歳だと言うのに、数多くの発明品を生み出していた。私は父に連れられてシュリント家の領地にある研究所へ行ったんだ。才女と言われる少女がどんなものなのかと、面白半分だった」
アロイス様は気まずそうに頬をかいて続けた。
「遠目で見ただけだけれど、父親の背に隠れ年相応に笑うイリスを見て、一瞬で心を奪われた」
アロイス様がそう言う事を冗談で言う方ではない事が分かっているから、余計に恥ずかしくなって目を逸らした。
「そして、イリスの事を知りたいと思って、父や君の父君や兄君から話を聞いたんだ」
それは初耳である。驚いてアロイス様の顔を見れば、バツが悪そうに「ごめん」と言う。
「知れば知るほど君に夢中になった。君は今の馬車を発明した時、従来の馬車を作っていた家へ一人で交渉に行ったそうだね。従業員とその家を守る為、製造の委託をお願いするために」
確かに記憶にあるが、結局子供は相手にされずに追い返された。
後日、兄が契約を成立させてきてくれたが、一人では何も出来なかった。
「それから、新しい馬車への不安を払拭する為に、事故件数の変動の調査や普及活動にも積極的に参加した。それもこれも、孤児院にいる“馬車の事故による孤児”を少しでも減らす為だね」
ああ、この人はどこまで知っているのだろう。
「ふふ。驚かせてごめんね」
いくら貴族とは言え、子供ではやれる事が限られている。
歯がゆさを感じながらも、父や兄の立場を利用してきた。
「私はね、そんな一生懸命誰かの為に頑張るイリスに惚れたんだ」
私をまっすぐ見つめて言うアロイス様の目は、いつになく真剣だった。
「同じだけの気持ちを返して欲しいとは言わないけれど、少しでも男として意識して欲しいというのが本音だよ…」
ゆっくり私のペースで構わないと言うアロイス様。
だけど、とっくにアロイス様の事を男性として意識している。
私は先程からうるさい心臓を押さえる。
アロイス様といる時にだけ騒がしくなる心臓の鼓動が、とっくにアロイス様を好きだと言っていた。
私はアロイス様をまっすぐ見つめた。
「アロイス様。好きです。貴方が婚約者でよかった」
緊張で震える手を強く握り、まっすぐな言葉で伝えた。
瞬間、アロイス様は私を抱き寄せた。
私を抱きしめる腕は強く、だけど優しくて、なんだか泣きそうになった。
END
お読み頂きありがとうございます。