10.初めての海*
観覧車を降りると、早速とばかりに駐車場へ移動する。
車に乗り込むと目的地を近くの海岸に設定して走り出す。
めぼしい専用道路がないので、ほぼ地道を走るしかないようだ。
直線が長い区間に入るとマキナさんは、ハンズフリーで赤井さんに電話する。
「マキナです。ちょっと海に出かけるので夜遅くなります。食事は用意しなくていいです」
『分かりました。ですが食事は用意しておきます。温めて食べてください』
念のためお訊きします、と念押しして「キョウ様と一緒ですか」と言ってくる。
マキナさんが「そうです」と答えると、ふふっと薄笑いして「お気をつけて」と言って赤井さんは通話を終了した。
道中、学校の話とか会社の話とか他愛のない話をやり取りしている内に魚臭いというか嗅いだことのない臭いがしてきた。
「変な臭い……」
「磯の臭いだな。魚じゃなくプランクトンの死骸の臭いだとか、なんとか……」
「へえ~」
防風林だかの松林の隙間から青い地面に白い波濤が棚引いて見えた。
その松林にある駐車場で車を降りると車内で嗅いだ独特の臭いがより強く感じられた。
松林の遊歩道を抜けて行くと海岸沿いの遊歩道とぶつかって海と浜の全貌が見えた。
シーズンでもなく、砂浜には人影はまばら。遊歩道にも犬の散歩をしている人くらいしか見えない
陽が傾き赤みが射す空の下、下り口から砂浜に下りて歩いてみる。
折角、海に来たんだから波打ち際まで行こうとしたけど、砂に足を取られて歩きにくいし、パンプスに砂が入ってきてジャリジャリするし。
「ちょっと波打ち際までは行けないな~。日没はここでは見れないのか」
「今度、夕焼けを見に行こう」
そう言うマキナさんに身体を支えてもらい、砂浜での散策をあきらめて駐車場に戻る。
今度はちゃんと準備をして来よう。
何か吹っ切れて晴れやかな気分になっていた。マキナさんは満足げなボクの様子を感じ取ったのか、帰宅を勧めてくる。
休日の帰宅に重なって軽く渋滞して、行きよりは時間がかかって家に辿り着いた。
眠っていれば良いと言うマキナさんに甘えて帰路は眠ってしまったので実感はしなかったけれど。
車の荷物をマキナさんが運び、ボクは新居の解錠テストをかねて玄関を開けてみる。
玄関を入るとむわっとスパイスの薫りがしてきた。照明をつけると、ダイニングのテーブルに置き手紙があった。
荷物をダイニングに置いたマキナさんに、手紙を渡すと一緒に読む。
「私は帰ります。温めて食べてください。サラダと飲み物は冷蔵庫の中です」と優しい字で書いてあった。
お風呂のお湯張りを始めて、準備していてくれた食事を温める。
食事は室内の匂いから薄々わかっていたがカレーだ。カレー皿によそって温める。
付け合わせにサラダがあり、飲み物にラッシーが冷蔵庫に用意されていた。
「「頂きます」」
マキナさんは何か黙々と食べ始める。
鶏肉がごろっと入ったチキンカレーで、ボクは辛くてヒーヒー言って食べた。口直しにラッシーを、ぐびぐび飲む。
「卵を割り入れたらマイルドになるぞ?」
そう言うマキナさんの提案に乗って、生卵をカレーに混ぜて食べた。
言葉がなくて食器とスプーンが当たる音が強調される。
今夜は赤井さんが既に居ないんだなって思う、それだけで静かさが強調されたような感じ。
カレーを食べ終えて、コーヒーを飲もうかとしていると、お湯張りできたと通知が鳴る。
どちらともなく、入るか勧めるかを躊躇っているとマキナさんが傍に来てボクの手を取り導いていく。
まあ「一緒に入ろう」ってことなんだろう。手をつなぎ二人で風呂場に入った。
躊躇なく脱ぎ出すマキナさんに合わせて、ボクも脱いでいく。
脱ぎ終わると、待っていてくれたマキナさんと手をまた繋いで浴室に入っていく。
明るい場所でお互いに裸でいるのは初めてだ。それぞれ自分で身体を洗っていたけど、いつしか互いに洗い合っていた。
ボクは今夜も念のためスペシャルソープで身体を洗い、泡を流すと湯船に浸かる。
「今日はありがとうございました。思い付きに応えてもらって。運転たいへんでしたね」
向かい合うマキナさんを労った。
「いや、そうでもないさ。君は座っているだけで疲れたろう?」
「いえ。帰りは眠ってしまい、すみません」
「構わないさ。久々に海が見られて楽しかった」
また一緒に行こう、と誘ってくれる。また行きましょう。次はちゃんとして行きたいな。
「ほぉう。いい匂いがする……」
風呂から上がり、脱衣場で体を拭くと擦れるたびにスペシャルソープ由来の匂いが立ち上る。
身体から発するそのバラのような香りにマキナさんが気づいて言う。
「ありがとうございます。母が持たせてくれたソープなんです」
「あの匂いは、それだったんだな……」
思い出すようにボクの背中に鼻を近づけて嗅いでくる。肌をなでるような鼻息がこそばゆい。
替えの下着を持ってきていなかったので穿いていた下着を穿こうとするとマキナさんに止められる。
「新しいのを穿かないか?」
新しいの、ってお昼に買ったヤツですか? たぶんマキナさんが選んだものでしょうね。
「はあ、構いませんけど?」
「待ってろ」
風呂場から飛び出すと荷物がそのままのダイニングに向かっていくマキナさん。
ガサゴソ聞こえてきたあと、手には薄衣をまとめて持っている。薄らと紅いのも透けて見える。
「これだ」
「はい……」
ボクは丸まった布を受け取った。
「私は先に部屋へ行ってる」
そう言ってマキナさんは一糸まとわぬ姿で二階に上がって行った。二人の汚れものをまとめてカゴに収めると渡された物を調べる。
薄くひらひらしたのは、やはりベビードールだった。素肌に着ける紅いビスチェはレースでできていてカップがなくコルセットみたいだ。
ってこれ、背中で留めるようになっていて自分で留められないよ? そしてヒモと見紛うショーツ、いやほぼヒモですよ、これ。
ビスチェに下がったベルトで落ちないようにするのかな?
ビスチェを体の前である程度留めて回転させて後ろ手に残りをなんとか留める。
紅いヒモを穿くとベルトでつないで、自身の姿を見るとなんだか物悲しくなってきた。
「婦夫って大変……」
まだ見ぬ旦那様があと二人、いるんだよね。まあ姉妹だから、そうは違わないと思うけど……。
その人その人に好みを知って性格に合わせて……ボクにできるんだろうか?
まあ今から考えていても仕方ないけど、マキナさんとは上手くやってけそうだから大丈夫だろう。
ベビードールを羽織ってダイニングに行き、散らかった荷物をまとめる。
「朝、早く起きて片付けよう」
荷物から取り出した電動歯ブラシで歯を磨くとボクの部屋へのろのろと向かった。
部屋に入ると待ってましたと満面の笑みで両手を広げるマキナさんがいた。その中に身体を預けると二日目の夜が始まる。
まあ、結婚しては初めての夜だけど。明日は、普通の日常が始まるので控えめにお願いします……。