はじまりのアリス
アナザーワールドのどこかの空。眩い金髪と赤い瞳を持つ少女、アリスは背中に顕現させた純白の翼を羽ばたかせてその空を縦横無尽に飛び回っている。彼女を追うのは無数の飛竜。ワイバーンはみな、赤い目を爛々と輝かせてアリスを追う。彼女は嘆息しながらこう呟いた。
「まったく。追って来さえしなければ、見逃してやったものを」
彼女の言葉や表情に緊迫感はない。むしろ面倒くさがっているような雰囲気さえある。とはいえこのまま追われ続けるのはより面倒だ。彼女はため息を吐いて腹を決める。そしてスッと表情を鋭くすると、飛びながらワイバーンどもの方を振り返った。
「……失せよっ!」
タメを作り、右手を水平に振り抜く。次の瞬間、無数の白い閃光が放たれた。それらの閃光は散開するワイバーンを追尾して次々に撃墜していく。だが全てのワイバーンが撃ち落とされたわけではない。生き残ったワイバーンはまたアリス目掛けて殺到した。
「邪魔じゃ!」
群がってくるワイバーンの包囲網を、純白の翼をはためかせ鋭い飛翔で一気に破る。そのとき一体のワイバーンとすれ違っていたのだが、彼女は手刀でその首を切り落としていた。そして残りのワイバーンも次々に仕留めていく。
結局、五分もかからずにアリスはワイバーンの群れを殲滅した。だが彼女の顔に笑顔はない。むしろ己の手を見下ろす彼女の顔には、苦い困惑が浮かんでいた。
「むう……。この力は……。単に目覚めただけではない、ということかのう……」
アリスが顔を上げる。その表情は険しい。先ほどの攻撃、ともすればやり過ぎてしまうところだった。力を振るうことより、とっさに抑える事のほうに神経を使ったほどである。そして表情を緩めることなく、彼女はさらにこう言葉を続けた。
「この世界のこともそうじゃが、この力、いや身体のことも事案じゃの。まったく、けったいなことになったものじゃ」
そう呟くと、アリスは素早くその場から飛び去った。おおよその事情は理解している。いや、察しがついていると言うべきか。だが足りない。それに間違っている可能性もある。だからこそ調べなければならない。
全ては他でもない、彼女が「そうあれかし」と願われた存在であるために。たとえ全てが徒労に終わろうとも、彼女はそれに全てをかける。それだけが彼女の寄る辺なのだから。
- * -
目覚めてからと言うもの、アリスはこの世界をせわしくなく飛び回っている。この世界の様子を確認するためだ。そして彼女はすぐに大きな異常に気付いた。眼下に広がる廃墟群を見下ろしながら、彼女はこう呟いた。
「本当に人っ子一人居らぬなぁ」
アリスの口調はやや不機嫌そうではあったが、しかし不思議そうではなかった。廃墟群を我が物顔で占拠しているのは無数のモンスター。数は多いが、しかしその数が問題なのではない。倒しても倒してもキリがないこと、それが問題なのだ。
「当然じゃな。この魔素の濃度では、の……」
アリスは諦めの滲んだ声でそう呟く。これだけ魔素の濃度が濃いと、次から次へと新たなモンスターが生まれているに違いない。言い換えれば、いつどこでモンスターが現われてもおかしくない。そんな状態では都市を、ひいては文明を維持することは不可能だ。治安の問題もあるが、より致命的なのは社会インフラの維持である。
発電所、通信設備、上下水道設備、公共交通機関の司令室など、クリティカルな場所にピンポイントでモンスターが発生してしまった場合、都市機能はあっという間に麻痺してしまうだろう。そしてこの魔素の濃度では、その問題はもはや現実のものと捉えなければならない。
一度や二度ならまだ良いだろう。だが回数を重ねる毎に、文明はその余力を削られていく。そして最終的には社会インフラを維持できなくなり、それが文明の終焉に直結するのだ。簡単に言えば、この星の文明はそうして滅んだのだろう。アリスはそう思っている。
「まったく、けったいなことになったものじゃ」
アリスはそう吐き捨てた。もっとも文明が滅んだとして、それで人が、知的生命体が絶滅したわけではないだろう。彼女を目覚めさせたあの少年の例もある。きっとどこかに生き残りがいるはずだ。彼女が世界を飛び回っているのは、そういう者たちを見つけるためでもあった。
ただあれ以来人に遭遇したことはなく、もう少しあの少年から話を聞いておけば良かったと思わないでもない。カッコつけて「名前は次に会ったときに聞く」なんて言っている場合ではなかった、かも知れない。
(いや、じゃが、あの状態であの少年が目を覚ますまで待っているのも間抜けじゃぞ?)
声には出さず、アリスは心の中でそう言い訳をする。実際、脅威にはならなかったとは言え、攻撃もされたわけであるし。とはいえその一方で吹き飛ばして気絶させてしまったのも事実。介抱もせずに放置してきてしまったのは悪かったかも知れない。
だが介抱するとして何ができたのか。せいぜい寝かせておくくらいしかない。そういえば「男は膝枕をしてあげると喜ぶ」とデータベースにはあるが、その情報もどこまで信じて良いものやら。少なくとも彼女の実体験ではないので、検証が必要だ。今度機会があったらやってみよう。アリスの太ももはむっちりぷにぷにである。
「って、違うじゃろ」
声に出してそう呟き、妙な方向に走り出した思考を修正する。今はともかくこの世界のことだ。
この世界の魔素濃度は、アリスが知るそれよりもはるかに高くなっている。鍾乳洞の外へ出てすぐに、彼女はそのことに気付いた。そして世界を飛び回る中で、その深刻な影響を目の当たりにしてきた。
こういう廃墟はもちろんだが、あちこちで時空が歪んでいる。一見して見分けがつかないかもしれないが、アリスの目には一目瞭然だ。データベースにはない土地が文字通り“増えて”いたこともある。要するにこの星全体が、もうまともな状態ではないのだ。
ただまあ、アリスとしては分かっていたことだ。だからこそ彼女は叫んだのだ、「世界の箍は外れてしまった」と。世界を見て回っているのはその確認でしかない。そして今のところ、小さな希望さえも見つけられずにいる。
(なぜ……)
なぜ、今になって目覚めたのか。アリスはそう思わずにはいられない。頭では分かっている。この世界に魔素があふれたからだ。つまり世界がこのような状態にならなければ、彼女が目覚めることはなかった。
だがこの破滅を迎えた後の世界に目覚めて、そこに一体どんな意味があるというのか。アリスは守護天使であり、また神に最も近しい者としてあるよう望まれた。その彼女にこの世界で一体何を為せというのか。
「……いや、そうか。ふふふ、手遅れになってから目覚める。出来損ないの失敗作にふさわしい手落ちではないか」
アリスはそう自嘲する。そして「埒もない」と言わんばかりに首を小さく横に振った。自分が出来損ないの失敗作であることなど最初から分かっている。「あれかし」と望まれたその時に、彼女は起動することができなかった。そして封印処理され、長い眠りについたのである。
しかしアリスは目覚めた。あれからどれだけの時間が過ぎたのか、データベースには載っていない。だが目覚めてしまったのだ。そしてなぜだか分からないが、「そうあれかし」と望まれた存在としてそれに相応しいだけの、いや期待された以上の力を持つことになった。そうである以上、何も為さないではいられない。
「……情報が、情報が足りぬな。こうも世界が様変わりしていては、データベースが役に立たぬ」
アリスはそう呟いた。そもそも彼女が持っているデータベースは、彼女が封印処理される前の時点までのモノだ。あれからどれだけの時間が過ぎたのか分からないが、要するに最新の情報とは言いがたい。そもそもどうして世界がこうなったのか、その原因については何一つとして載せられていないのだ。
(まずは……)
まずは何が起こったのかを知らなければならない。何が起こったのかを理解して初めて、その後効果的に動くことができるのだ。遮二無二に動くには、今のアリスが持つ力は強大すぎる。下手をすれば、事態を悪化させかねない。
「とはいえ人っ子一人居らぬからのぅ。まあ、居たとしてこちらが求める話を聞けるかは分からぬか。となれば、ふむ、記憶媒体あたりをあさってみるかの」
アリスはそう方針を定めた。うまく情報を取り出すことができれば、データベースを更新できるだろう。そうやって、例え断片的であっても情報を集めてそれをつなぎ合わせていけば、そのうち全体像が見えてくるはず。彼女はそう考えた。
「あとは、この身体のことじゃが……」
アリスは胸に手を当てる。彼女の表情は険しい。いま彼女が自覚している力は、かつて想定されたスペックをはるかに超えている。つまり単純に封印処理が解けて目を覚ました、というわけではないのだ。
この身に一体何が起こったのか。それもまた知らなければならない。アリスはそう考えている。だがどれだけ記憶媒体から情報をあさっても、それを知ることはできないだろう。必要なのは精密な検査だが、さてそのような設備が使える状態で残っているかどうか。これまで世界を見て回ってきた限りでは、望み薄と言わざるを得ない。
「ま、できることから手をつけるとするかの」
アリスはそう呟き、この問題を一度棚上げした。情報が揃ってくれば、自身の身体に何が起こったのか推測することができるようになるかも知れない。ただ一つ確かなのは、何もしなければ何も分からない、ということだ。
一つ頷いてから、アリスはデータベースを検索する。記憶媒体をあさるとは言っても、ある程度狙いを定める必要があるだろう。それで彼女はデータベースに載っている研究所の幾つかを候補とした。
現在どのような状態になっているかは分からないが、駄目だったならその時はその時だ。彼女はそう考えて早速、背中に純白の翼を顕現させた。そして勢いよく飛翔する。
(あの少年は……)
あの少年は、元気でやっているだろうか。空を飛びながら、アリスは鍾乳洞で出会った少年のことをまた思い出していた。目覚めてから彼以外の人間はまだ確認できていない。それに少なくともアリスが目覚める直前のことを、彼は何か知っているはずなのだ。
「むう」
アリスは唸った。こうして考えてみると、あの少年が持つ情報は重要度が高いと思えてくる。やはり膝枕でもしてやるべきだったかと、彼女はちょっと後悔した。そうすればあの情報思念体もアリスが敵ではないと理解しただろうし、少年の意識が戻ればいろいろと話を聞けただろう。
「早く再会したいものじゃ」
アリスはそう呟くと、純白の翼をはためかせて速度を上げた。
アリス「アリス イン ザ 終末世界じゃ!」