フェイク……?
自炊クラブの昼食会が開催されたその日の放課後、紗希はさっそく秋斗を掴まえて勉強会を開催した。ただ紗希と秋斗は二人きりで勉強したわけではなかった。紗希は二人の友達を連れてきたし、彼女が秋斗を掴まえた時に事情を聞き、興味を持った彼の友達も勉強会に参加することになった。
[二人っきりになれなくて残念だったな]
(うっさいよ)
茶化すシキを、秋斗は疎ましげに黙らせる。紗希と二人きりになれなかったのは残念なのか、それともそれで良かったのか。自分の心に尋ねてみても、ハッキリとした答えは出てこない。「昼休みの間ずっと二人きりだったのだから今更だ」と思う一方、やっぱりちょっと残念に思うし、同時にホッとしてもいるのだ。
「……アキ君、それでここなんだけど」
「ええっと? ああ、これは補助線を引いて、こことこの値を使って方程式を立てるの」
紗希が尋ねる数学の問題に、秋斗は手際よくアドバイスをする。すると彼女はパッと顔を輝かせて、一心不乱にシャーペンを動かし始めた。その様子を見ながら、彼は自分の問題に取りかかる。ちなみに国語だ。
「……毎回思うけど、作者の意図って、そんなの分かるわけないだろ」
「アキ君、それは出題者の意図だよ。問題文にちゃんとヒントがあるでしょ?」
「いや、それは分かるけどさ……」
そう言って秋斗は肩をすくめる。出題者の意図だというのなら、ちゃんとそう書いておけば良いではないか。彼はそう思うのだ。まあそうできない理由も分かるが。大人の事情ってヤダね、と彼は心の中で毒づいた。
さて、そうやって九〇分ほど放課後に勉強し、「来週も一緒にやろう!」と約束してから、秋斗らは解散した。「部活は大丈夫なのか?」と聞いたら、それぞれ「大丈夫」というので、秋斗はそれ以上気にしないことにした。そもそもダメなら今日の時点で来ないだろう。
勉強会を終えてから帰宅すると、時刻はすでに夕方の六時を過ぎていた。外はまだ明るいが、太陽はすでに山の向こうへ隠れている。
「夕飯の支度でもするかなぁ」
やや気怠さを覚えつつ、秋斗はそう呟く。自分で用意しなければ何も出てこないのが、一人暮らしの辛いところである。そしてそんな彼にシキがこう尋ねた。
[アナザーワールドはいいのか? 今ならまだ、かろうじて安眠アイマスクが使える時間帯だと思うが]
「あ~、今日はいいや。風呂に入る前に二、三時間くらい武技の訓練をして、そんで汗流すことにするよ」
秋斗は肩をすくめてそう答えた。夏休み明けくらいから、彼のアナザーワールドの探索の仕方は以前と比べて大きく変わっている。その理由はやはりドールだ。
以前は不寝番がいなかったので、仮眠が必要になる度にリアルワールドに戻ってきて仮眠を取っていた。しかしドールが使えるようになったことで、仮眠のためにダイブアウトする必要がなくなり、そのままアナザーワールドで仮眠が取れるようになったのだ。
その影響は大きい。探索範囲が広がったこともそうだが、何よりリアルワールドでの時間的な余裕が生まれた。以前は仮眠のためにかなりの時間が必要だった。安眠アイマスクを手に入れてからもそれは変わらない。一回あたりの仮眠時間が短くなっても、その分だけ回数が増えたからだ。
だがアナザーワールドで仮眠が取れるようになったことで、一回の探索に関して事実上時間的な制限がなくなった。準備さえしっかりしておけば、秋斗の気力が続く限り探索を行うことができるのだ。
実際、彼がアナザーワールドへダイブインする回数は大きく減ったが、その一方で一回あたりの探索時間は大幅に増えている。それも何時間の単位ではなく、何日の単位で。今ではリアルワールドにいる時間よりも、アナザーワールドにいる時間の方が長くなっているほどだ。
しかしながらアナザーワールドでどれだけ長く過ごしたとしても、リアルワールドでの経過時間はダイブイン一回につきたった一秒。つまりこれまで仮眠に当てていた時間が丸ごと空くことになる。それこそが、秋斗が得た時間的余裕というヤツだった。
要するに、ドールが使えるようになったことで探索時間が増え、さらに自由時間も増えたのだ。そのおかげで秋斗は時間を惜しんでダイブインする必要がなくなったし、リアルワールドでのあれこれにも時間を使えるようになった。今日の勉強会などは良い例だ。これが夏休み前だったら、彼は何かと理由をつけて勉強会を断っていたに違いない。
まあそれはそれとして。秋斗はラフな格好に着替えてから台所に立つ。幸いというか、冷蔵庫にまだ作り置き(残り物)が入っている。簡単な物を何か作れば良いかと思ったのだが、そんな彼にシキがこう言った。
[アキ、紗希嬢との約束を忘れたのか?]
「……ちゃんと作れってうるさかったっけか。じゃあハンバーグにしよう。見栄えがするし、量を作れば向こうにも持って行ける」
[手の込んだ物を作るんじゃないのか?]
「少々、な。それにハンバーグは十分手が込んでるだろ」
そう言って秋斗はさっそく調理に取りかかった。手際よくタマネギを刻み、挽肉をこねる。つなぎを入れる前に、塩だけで良くこねるのがコツだ。成形したハンバーグをフライパンで焼き、片面に焦げ色をつけてからひっくり返し、弱火にして蓋をする。ちょうどその時、彼のスマホが着信を知らせた。メールである。
「ん……? 勲さんからだ」
秋斗は画面をタップしてメールを開く。勲からのメールは短い。「確認して見てくれ」というメッセージと一緒に、URLが貼り付けられている。秋斗は首をかしげてから、青いそのリンクをタップした。
繋がった先は、英語のサイトだった。ざっと見た感じ、どうも掲示板のような雰囲気のサイトだ。「勲さんもこんなサイト見るんだな」と、秋斗は困惑するやら感心するやらだった。
「これか……? 勲さんが『確認して見てくれ』って言うのは」
スマホの画面を見ながら、秋斗はそう呟く。勲の用件と思われるのは一枚の写真だった。ピンボケした、不鮮明な写真である。ただそこに映っているモノは、確かにちょっと見過ごせない。特にアナザーワールドを知っている人間ならば。
「モンスター……?」
眉間にシワを寄せながら、秋斗は唸るようにそう呟いた。投稿された写真に写っていたのは犬のような動物だ。全身が真っ黒で、しかもなにやら黒いモヤのようなモノを纏っている、ように見える。正面を見据える赤々とした目は、なんとも不吉だ。これだけ見れば、およそまともな生物には見えなかった。
「すごいな。オレが知ってるモンスターより、よっぽどモンスターっぽい」
そう言って秋斗は呆れたように肩をすくめた。もっとも彼の声音には、警戒感が無視できない分量で含まれている。
アナザーワールドを見知っている人間なら、彼と同じようにこの写真を見てモンスターを連想するだろう。だからこそ勲も秋斗に連絡を寄越したに違いない。
ただ秋斗の目から見ると、この写真はどうも嘘くさい。モヤも、本当にモヤなのか、それともピンボケや手ぶれのせいでそう見えるのかは分からない。そもそも写真自体がフェイクの可能性もある。そしてその可能性は高いように思えた。
そう思うのは、彼はアナザーワールドでこういうモンスターに遭遇したことがないからだ。彼がこれまでに倒してきた、特に動物型のモンスターは、リアルワールドの動物と似通った姿形をしていた。多少凶暴な姿に進化しているモンスターもいたが、少なくともモヤを纏うなんて、そんなあからさまなモンスターはこれまで見たことがない。
しかしながらその一方で、写真を「フェイクだ」と切り捨てるのは躊躇われた。その理由は目だ。写真に写る犬のような動物の、赤々としたその不吉な目。その目はアナザーワールドのモンスターたちの目とそっくりだった。
モヤにしてもそうだ。確かに秋斗はアナザーワールドでそういうモンスターを見たことがない。だが彼が見たことがないだけで、存在しないとは言い切れない。どこかに存在していたとしてもおかしくはなく、ではその場合この写真は本物なのだろうか。
「普通に考えればフェイクだ。だけど……」
[確信がもてない、か]
シキの言葉に秋斗は無言で頷いた。リアルワールドにモンスターが現われる。そんなことがあり得るのか。普通に考えればあり得ない。だが忘れてはいけない。リアルワールドでも魔法は発動したのだ。つまりこの世界はすでにアナザーワールドの影響を多少なりとも受けている。
秋斗も、まさかモンスターがリアルワールドで自然発生したとは思わない。だが誰かがアナザーワールドでモンスターを捕獲してきたのだとしたらどうだろう。秋斗はやったことはないし、やりたいとも思わない。だがやろうと思えば、多分できてしまうだろう。
「なら誰かがやったとしてもおかしくはない、か」
[アメリカにも向こうへ行ける人員はいるだろうしな]
シキの言葉に秋斗は頷く。何しろアナザーワールドへいける人員は日本だけでも二人以上いる。単純に数だけ比べればアメリカのほうが人口は多いのだから、アメリカにはそれ以上いると考える方が自然だ。
「未確認生物の捕獲とか、アメリカ人好きそうだしなぁ。独断と偏見だけど」
ぼやくようにそう呟いてから、秋斗は視線をスマホの画面に戻す。読める英単語を拾っていくと、どうやらこの写真はアメリカのロサンゼルスで撮られたものらしい。時刻は真夜中、場所は何とかという通り。ロサンゼルスも広いから、多分裏道か何かなのだろう。
ただその一方で、倒したとか逃げたとか逃がしたとか、そういうことは書かれていない。魔石の写真でも一緒に投稿されていれば信憑性が上がったのだが、そういうモノはなかった。そして例の写真と書かれている内容だけでは、写っているのがモンスターであるとはとても言い切れない。
[どのみち、本物であってもフェイクであっても、アキにできることは何もない。ならば今結論を出さなくても良いのではないか?]
「ま、そもそも結論なんか出せないけどな」
そう言って秋斗は肩をすくめた。そしてスマホを操作し、勲に「見ました。また何か見つけたら教えて下さい」とだけメッセージを送る。メッセージの送信が完了すると、秋斗はスマホを置いてフライパンの様子を見る。ハンバーグはそろそろいい塩梅だった。
シキ[ハンバーグをこねる手はしっかりと冷やすんだぞ!]