東京遠征9
空調の効いた部屋、柔らかいベッドの中で秋斗が身じろぎする。彼は「んっ」と小さく呻いてから安眠アイマスクをずらし、寝ぼけ眼で室内の様子を眺める。一瞬ここがどこかだ思い出せなくて顔をしかめ、それから皇国グランドホテルのスイートルームであることを思い出し、彼は「あ~」と声を出した。
ベッドから抜け出すと、彼はあくびをしながらトイレに向かう。手を洗ってから時計を見ると、時刻は午後の一時前。どうやら一時間強、寝たようだ。冷蔵庫を開け、ウェルカムドリンクの残りを飲み干す。軽く身体を伸ばして眠気を払い、それから脱ぎ散らかしていた探索服を着る。そして「よしっ」と呟いてから秋斗は「ダイブイン」を宣言した。
スタート地点は一回目と同じ。秋斗はストレージから六角棒を取り出すと廊下に出て、ゴブリンを蹴散らしつつ真っ直ぐに階段へ向かった。彼はそのまま探索済みの二階と三階をスキップして四階へ向かう。そして四階の探索を始めた。
四階の様子はモンスターも含め三階と大きく変わらない。それで秋斗は四階も三階と同じように探索を行った。そのなかで彼は何度か実験を行った。弓を使ってみたのだ。隱行のポンチョを装備しているとはいえ、六角棒の間合いまで近づこうとするとその前に気付かれてしまうことが増えた。それでより遠距離から不意打ちができないかと考えたのだ。
結果は良好。不意打ちの成功率は再びほぼ一〇〇%になった。しかも最初の一撃でホブ・ゴブリンを狙えるので、その後の展開がかなり楽になった。また射撃は一射で終わるわけではない。距離にもよるが二射、三射と放てる場合も少なくなく、モンスターの数によっては弓だけで片がつくこともあった。
仮に接近を許しても一体か二体で、それも多くの場合ゴブリンのみ。素早く六角棒に持ちかえれば、たちまち瞬殺できた。そもそも三階と同じなら接近されても圧倒できるのだ。その自信が彼を落ち着かせ、そして落ち着いているからこそ射撃の命中率も上がる。
命中率が高くなれば、接近してくるモンスターは少なくなる。また体重の軽いゴブリンは、矢が当たればそのままひっくり返ってしまうこともあった。つまり一撃で仕留める必要はない。当てさえすれば十分に有利な状況を作れるのだ。そこから残りを倒すのは容易で、それがまた自信に繋がる。好循環だった。
[良い腕じゃないか。いっそ弓をメインにしたらどうだ?]
「盾役、いや前衛がいれば、それでもいいな」
シキの軽口にそう答えつつ、秋斗もまんざらではない様子だ。実際、彼の命中率は九割を超えている。アナザーワールドでの活動をふまえても、初めて弓を握ってからまだ一年も経っていない人間とは思えない。ただその一方で、彼はここが比較的弓を使いやすい場所であることも弁えていた。
廊下は幅が限られていて、かつ直線的で遮蔽物がない。標的との距離もそれほど遠くなく、しかも狙うのはゴブリンだ。ドールのように変則的な動きをするわけではないし、鳥系のモンスターのように素早く空を飛び回るわけでもない。むしろその動きは鈍重そのものだし的も大きい。一撃で仕留めることに拘らなければ、矢を当てるのはそれほど難しくなかった。
「ま、楽に勝てるのは良いことだ」
嘯くようにそう呟き、秋斗はドロップと射た矢を回収する。問題があるとすれば、矢が基本的に消耗品であることだろう。つまり使っていればダメになるモノも出てくる。ただそういう矢も彼は回収した。鏃や羽などの部品取りをして、次の矢を作るためだ。もっとも実際にその作業をするのは、彼ではなくシキだが。
さてこのように、廊下にいるモンスターには弓矢が有効だった。その一方で室内にいるモンスターには、弓矢は有効とは言いがたい。それでその場合は、これまで通り雷魔法を中心にして戦った。
四階のマッピングを終えると、休憩を挟んでから秋斗はさらに上の階へ向かった。五階から九階までは、三階や四階と大差がない。弓と雷魔法を上手く使いつつ、秋斗はモンスターを蹴散らしてマッピングを進めた。
ただ大差はないとはいえ、小さな変化はあった。上の階へ上るごとに、アクセサリーを身につけているホブ・ゴブリンの数が多くなっていったのだ。ホブ・ゴブリンの中にも格付けがあって、上の階ほどより上位のホブ・ゴブリンが多く配置されているのかも知れない。秋斗はそんな風に思った。
「でも戦ってみた感じで言うと、アクセサリーの有り無しで、そんなに強さが変わるようには思えないんだよなぁ」
[それだけアキのレベルが高いと言うことだろう。それに上の階にいけば、もっと強い個体が出てくる。油断しない方がいい]
シキにそう忠告され、秋斗は大きく頷いた。そしていよいよ十階へ向かう。ここで難易度が上がった。角から廊下にいるゴブリンたちの様子を眺めて秋斗は顔をしかめる。数は四。内、ホブ・ゴブリンは一体。だが彼が顔をしかめた理由はそこではない。
「弓、か……。まあ、予想はしていたけど……」
[ホブもこれまでと比べて装備が充実しているな]
シキの言葉に秋斗は険しい顔のまま頷く。ただこれまでに戦ったモンスター、特にドールはもっと良い武器を装備していたし、当然飛び道具も使ってきた。加えて隱行のポンチョも効果が期待できる。
(油断はできないけど、深刻になるほどじゃないな)
秋斗はそう考え、一度大きく深呼吸した。彼は集中力を高め、ストレージから弓を取り出して矢をつがえる。そして角から身体を乗り出して弓を引いた。やはり隱行のポンチョは効果を発揮しているようで、廊下に陣取ったゴブリンたちは秋斗に気付かない。彼はホブ・ゴブリンに狙いを定め、そして矢を放った。
矢が風切り音を立てて飛ぶ。秋斗は第一射が当たるより早く次の矢をつがえた。その動作は素早く、かつよどみがない。そしてホブが喉元に矢を受けて短い悲鳴を上げるのとほぼ同時に第二射を放つ。次の狙いは弓を持つゴブリン。彼は見事にヘッドショットを決めた。これで残りは二体。
「ギギィ!?」
そこでようやくゴブリンたちが動き出す。数は半減しているし、まだ距離もある。油断したつもりはなかったが、秋斗は少しだけ気を緩めてしまった。そしてここで片方のゴブリンが思いがけない行動に出た。
秋斗がさっき倒したゴブリンの弓を拾ったのだ。それを見て彼は小さく動揺し、かつ一瞬迷った。もう一体のゴブリンは奇声を上げながら突進してくる。どちらを先に射るべきか。秋斗が選んだのは突っ込んでくる方だった。だが彼の放った矢はわずかにゴブリンの頭を逸れて、その耳を突き破って飛んだ。
耳を負傷したゴブリンはそれでも足を止めない。秋斗はもう一度矢を放とうとし、しかしそこへ後ろのゴブリンが矢を射かけた。彼はその矢を簡単に回避したが、その間にもう一体のゴブリンがすぐ近くまで来ている。飛びかかろうとするゴブリンを、彼は左足で横から蹴り飛ばしてコンクリートの壁に叩きつけた。
「ギ……!」
ゴブリンのくぐもった悲鳴が響く。それとほぼ同時に、後ろにいるゴブリンがまた矢を放つ。秋斗は素早く身を翻してその矢を回避すると、小さく舌打ちをしてから鋭く踏み込み、矢を放ったゴブリンへ一気に間合いを詰めた。
走りながら、秋斗は右手を腰に回す。そしてそこに装備しているナイフを引き抜いた。【クエストの石版】の報酬で手に入れたナイフだ。彼はゴブリンが次の矢を放つよりも早くその懐に潜り込み、そしてナイフを喉へねじ込む。ゴブリンは一瞬だけその赤々とした目を秋斗に向け、それから力を失って崩れ落ちた。
[三体目、まだ息があるぞ]
シキにそう言われ、秋斗は背後を振り返る。見れば壁に叩きつけたゴブリンが起き上がろうとしている。彼は急いで駆け寄り、足で踏みつけてから逆手に持ったナイフでとどめを刺した。
「ふう」
最後のゴブリンが黒い光の粒子になって消えていくのを見ながら、秋斗は大きく息を吐いた。終わってみれば無傷での勝利。だが負傷していてもおかしくなかった。だから「勝った」という喜びより、「終わった」という安堵感の方が強い。
秋斗はナイフを鞘に収めて弓もストレージに片付ける。それから壁に立てかけたままにしていた六角棒を手に取った。ちなみにゴブリンらのドロップはシキがストレージを操って回収済みだ。
探索を再開しようとして、秋斗はふと足を止める。今後は今回の戦闘と似たような展開になることが増えるだろう。であれば何か対策を講じるべきかも知れない。では具体的に何をするべきだろうか。
「何か別の武器を出しておくとか……?」
秋斗は小さくそう呟いた。現在のメインウェポンは六角棒で、これを変えるつもりはない。だが先ほどの戦闘では六角棒の出番はなく、代わりに接近戦ではナイフを使った。今回はナイフで間に合ったが、今後のことを考えるとナイフだけでは心許ない。
「ショートソードを出しておくか」
そう呟き、秋斗はストレージに手を突っ込み、ショートソードと剣帯を取り出した。そして剣帯を腰に巻き、そこにショートソードを吊す。少し動いてみて具合を確かめ、「よし」と一つ頷いてから彼は探索を再開しようとした。そこへシキがこう声をかける。
[アキ。防具も装備したらどうだ?]
「防具か……」
シキから防具を勧められたことは以前にもあった。だがその時は動きやすさを優先して、結局後回しにしてきた。だが装備を充実させるのなら、防具についても当然考えるべきだろう。少なくともコレクションではないのだから、ストレージの中で種類を揃えても意味はない。
「じゃあちょっと試着してみる」
秋斗はシキにそう答えた。ただこの場で防具の試着をするのは不用心だ。それに四階から九階までを一気に攻略したことで疲労も溜まっている。彼は一度ダイブアウトして仮眠を取ることにした。
「ショートソードを装備した意味がなかった」
[そんなこともある]
シキとそんな会話をしながら、秋斗はベッドに入る。安眠アイマスクを装着すると、彼はすぐに眠りに落ちた。
仮眠から目覚め、眠気を払うと、秋斗はまた百貨店エリアにダイブインする。そしてすぐに探索を始めるのではなく、仮眠前に話していたように彼はスタート地点で防具の試着を始めた。
[これを着てみてくれ]
そう言ってシキが寄越したのは、胸当てと籠手と脛当てだった。「動きやすさ優先」という、秋斗のスタイルを考慮してのチョイスだ。ちなみにこれらの防具は全てドールのドロップ品である。
「お、意外と動きにくくない」
[そうだろう、そうだろう]
防具を装備して、秋斗はその場で軽く飛び跳ねる。その顔には笑みが浮かんでいる。そんな彼の頭の中で、シキの得意げな声が響く。感触が良かったので、防具はそのまま装備していくことになった。
ディスカウントショップでまとめ買いした十秒チャージなゼリー(見切り品)でエネルギー補給してから、秋斗は探索を再開する。一階から十階まで一気に上らなければならなかったのが地味に疲れた。
秋斗「迷うとダメだなぁ」
シキ「判断は速やかに、だな」