ダークネス・カーテン1
年度が変わり、秋斗は大学の二年生になった。昨年一年は日本中が、いや世界中がかつてない変化を経験した年だった。モンスターという異形の存在が世界に現われたのである。いかに否定しようともモンスターは世界中で猛威を振るい、人類は否応なしに対処することを求められた。
幸いにして、人類はモンスターに対応できたと言って良い。もちろん、瑕疵一つ無い完璧な対応だったとは言えない。だがそれでも試行錯誤を重ね、知見を重ね、そして共有し、人類はこの未曾有の災害に立ち向かってきた。そして今のところ、対処出来ないモンスターは存在していない。ともかく人類は新たな歴史のスタートで躓くことは避けられたのだ。
そうこれは始まりだった。多くの人は世界が以前の状態に、モンスターが現われない世界に戻ることを期待していただろう。モンスター対処の最前線にいる人たちは、「せめてこのまま安定して欲しい」とそう願っていたはずだ。しかしそうはならなかった。むしろ変化の流れはその激しさを増していく。
この年の五月。そうゴールデンウィークのころ、後にアリスが言うところの「決壊」が起こった。つまりアナザーワールドからリアルワールドへの、本格的な魔素の流入がついに始まったのだ。
もちろんリアルワールドの人々は「決壊」が起こったなどということは分からない。だが何かが起こったことだけは分かった。はっきりとした変化、目に見える異変が起こったからだ。それはあまりにも明らかで、しかも規模が大きく、隠しておくことは不可能だった。それで「決壊」が起こった数日後には、世界人口の六割以上がそれについて知ったと言われている。
雲の話をしよう。空に浮かぶ、あの雲である。普通、雲の色は白だ。ただ雲の描写として「重たい雲」や「灰色の雲」という表現がある。雲の分厚い層に光が遮られ、下から見上げるとそういう色に見えるわけだ。だがそれは決して雲の色が変わったわけではない。
「決壊」が起こったその日、衛星画像にまるで墨汁を垂らしたかのように「黒い雲」が現われた。それが単なるディスプレイの故障ではないことはすぐに分かった。その「黒い雲」は普通の雲と同じように動いていたからだ。
「一体コレは何なんだ……!?」
初めてその「黒い雲」を確認した者たちは揃って首をかしげた。雲と同じように動いているから、状態としてはガス、気体なのだろう。だが「黒い雲」とはどういうことか。雲の中に入っても、暗くなることはあっても黒くなることはない。そもそも宇宙から見える雲は全て白い。一体何をどうすれば雲が黒くなるというのか。
「どっかのバカが大量のタイヤでも燃やしたのか?」
もちろんそんなことはないと、言った本人も分かっている。範囲が広すぎるからだ。幾らなんでも煙であんな風にはならない。ではコレは一体何なのか。その明確な答えが出されるまでには時間を要した。だがこの「黒い雲」がもたらす影響については、一日も経たずに明らかになった。
「黒い雲」は白い雲と同じように動く。そして「黒い雲」が通過した地域ではモンスターの出現数が急激に増えたのだ。つまり「黒い雲」はモンスターに関係するモノであったわけである。そしてその認識は瞬く間に世界中へ広がった。
モンスターは討伐されると魔石を残す。そして残りの部分は黒い光の粒子になって消えていく。「黒い雲」とはこの黒い光の粒子の集合体であると思われた。いわばモンスターを生み出す母体である。白い雲が雨を運んでくるように、「黒い雲」はモンスターを運んでくるのだ。
まさに厄災と言って良い。そう人類にとっては災いそのものだった。多くの者がそう感じたのだろう。この頃からモンスターを生み出す「黒い光の粒子」は「瘴気」と呼ばれ、瘴気の集合体である「黒い雲」は「ダークネス・カーテン」と呼ばれるようになった。「暗黒の帳」とでも訳そうか。ともかくこの呼称は世界中で使われるようになった。
「『瘴気』、か。オレからすれば『魔素』なんだけど……」
[『魔素』などという言葉は知られていないからな。まあ、『瘴気』というのはずいぶんイメージ先行に思えるが]
「イメージ、ねぇ。地獄の釜の蓋が開いた、ってか?」
[まさにな]
シキとそう話して、秋斗は肩をすくめた。とはいえリアルワールドの人々がそう感じるのも理解できる。全てはあまりにも唐突で、しかもそれが短期間の内に起こった。得体の知れないモンスターは基本的に害悪だし、その害悪を生み出す黒い光の粒子は「瘴気」と呼びたくもなるだろう。
それがアナザーワールドとの違いだな、と秋斗は思う。アナザーワールドでは有史以来ずっと魔素がありモンスターが存在した。いわば当たり前の存在だったわけである。また魔素やモンスターは人類に損害を与えたが、一方で恩恵を与えもした。
さらに魔道炉が登場し、その改良が進むにつれて恩恵の方が大きくなる。少なくとも次元抗掘削計画以前までは、間違いなく魔素は人類社会にとって有益な存在であったと言って良い。だからこそ「魔素」と呼ばれているのだ。
だがリアルワールドは違う。この世界において人類は瘴気が存在しないことを前提に文明を発達させてきた。そしてごく最近になって瘴気とモンスターは現われた。もたらされたのは破壊と混乱、そして恐怖である。
一部では「魔石バブル」なるものも起こった。だが全体でみれば、人類社会は間違いなく損害を被っている。例のクリスマス大停電はその一例と言える。瘴気もモンスターも、この世界にとっては異物なのだ。その異物を疎ましく思う気持ちが、「瘴気」という言葉になって表れていると言えるだろう。
「まあ、異物なことは間違いないんだけど、もう存在しちゃってるしなぁ」
秋斗はぼやき気味にそう呟く。しかも取り除く方法については皆目見当もつかない。であれば付き合っていくしかないと頭では分かっている。だがそう簡単に納得できるものではないし、実際問題としても「ダークネス・カーテン」などは規模が大きすぎる。秋斗の対応能力などはるかに超えているし、ともすれば人類の対応能力さえ超えているように思えた。
「実際、どうなんだ? 影響って」
[酷いものだ]
ダークネス・カーテンが通過した地域では、その間に交通事故の件数が跳ね上がった。もちろんモンスターが原因だ。突然道路上に現われたモンスターを避けきれずに追突、もしくは反射的に避けてしまい対向車と衝突、というような事例が多い。
また鉄道車両の脱線事故も起こった。線路上に出現したモンスターが原因だ。さらに脱線して動けなくなった電車の周囲で多数のモンスターが出現。大きな混乱が生じて被害が拡大した。
海上でも被害は出ている。ダークネス・カーテンの下で操業していた漁船をモンスターが襲ったのだ。漁船は救難信号を発したが間もなく沈没。船員の遺体は回収されていない。船体の傷を分析した結果、海からではなく空から攻撃されたのではないかと考えられている。
航空機にも被害が出た。旅客機が一機、ダークネス・カーテンの中に突っ込んでしまったのだ。通信記録によると、ダークネス・カーテンの中はほとんど視界が効かず、「皆既日食でも起こったのか!?」とパイロットは叫んでいる。
この飛行機はまず尾翼をやられ、ついで左翼が折れ、最終的には空中分解して墜落した。詳しい経緯は不明だが、モンスターによって破壊されたものと思われている。当然ながら乗員乗客は全て死亡。海上だったこともあり、遺体や遺留品の回収さえままならない状況だ。
『ありがとう。愛してる』
『ママ、助けて』
『どうか悲しまないで』
『もう一度、君に会いたかった』
『あなたの幸せを願っている』
これは飛行機の中から家族や恋人、友人などに送られたメッセージの一部だ。これらのメッセージはメディアにも取り上げられ、多くの人々の心を締め付けた。この報道は秋斗もテレビで目にしていて、やるせない気持ちになったことを覚えている。
このほかにも大小様々な被害が出ている。中でも人的な被害が顕著で、モンスターが人間を狙って襲っていることは明らかだった。ある男性は果敢にも数体のモンスターを討伐したが、多数のモンスターに群がられて無残に殺害されている。「ダークネス・カーテンが通り過ぎた後、街はまるで戦場であったかのようだった」とある記者は述べたという。
「本当に酷いな……」
シキが被害の概要を聞くと、秋斗は痛ましげに顔を歪めた。今のところ、討伐できないほど強力なモンスターは現われていない。だが「では対処できているのか」と問われれば、これだけの被害が出ているのだ、とても対処できているとは言えないだろう。
ただ幸いというか、ダークネス・カーテンはまるで雲のように動くので、雨雲の予測と同じようにして進路を予測することができた。これにより早い段階で、ダークネス・カーテンがいつどの地域を通過するかが高い確率で予測できるようになり、警報を出したり戦力を集中したりということが可能になった。このおかげで被害は一定程度抑えることができるようになっている。
ただ雨雲と異なり、ダークネス・カーテンは唐突に現われ、そして唐突に消える。そのタイミングは予測できない。今後可能になるかもしれないが、今は無理なのだ。だから最初、現われるときには大きな被害が出る。今できるのは可能な限り迅速に対応する事だけだった。そしてそれは秋斗も例外ではない。
[アキ、ヤバいぞ。ダークネス・カーテンだ]
「え、マジ?」
秋斗は思わず立ち上がった。窓の外を見ると、急速に日が陰っていく。今にも雨が降り出しそうだが、本当にダークネス・カーテンだとすればそんなものでは済まない。
「っち。シキ、コッチでも目立たない武器ってあるか?」
一つ舌打ちしてから秋斗がそう言うと、ストレージが開いてニョキッと金属製の棒が出てくる。いわゆる鉄パイプだ。ただしシキ曰く「アナザーワールド産」。そりゃいい、と秋斗は笑った。
その鉄パイプを手に、秋斗は家の外に出る。ちなみに日本政府が示した行動指針によると、ダークネス・カーテンが現われた際には屋内退避が強く推奨されている。だがモンスター・ハンターなど稼ぎ時と考える者や、「自分や家族の身の安全を守らないと」と考える者は多く、必ずしも指針が守られているとは言えない状態だった。
外に出た秋斗は空を見上げた。空は黒い。暗いのではない、黒い。彼がダークネス・カーテンを直接見るのはこれが初めてだったが、これが普通の雲ではないことはすぐに分かった。
サイレンが鳴り響く。同時に避難を叫ぶメッセージが流れた。それを聞きながら、秋斗は鉄パイプを肩に担いだ。こうして外に出ている彼は、政府が推奨する行動指針には従っていないことになる。だが彼は家を守らなければならないのだ。
「壁に穴空けられるとか、ガラス割られるとか、絶対にヤだぞ」
顔を険しくしながら、秋斗はそう呟いた。そんな彼の脳裏でシキがモンスターの出現を告げる。彼は鉄パイプでそのモンスターの頭をかち割った。
モンスターが黒い光の粒子、いや瘴気に戻って消える。秋斗は魔石を拾った。ダークネス・カーテンが過ぎ去るまでの間、彼は断続的にモンスターを駆除し続けた。
シキ「やっていることは自宅警備員だな」
秋斗「ニートじゃないぞ」