ヘキサ・シープの羊毛1
十二月が間近に迫ったある日の午後。この日、秋斗の時間割は午前上がりになっていて、彼は午後から勲の車で立川市のとある立体駐車場へ来ていた。そこからアナザーワールドへダイブインするためである。
『秋斗君、少し手を貸してくれないか』
秋斗が勲からそう頼まれたのは三日前。テレビ電話で話していた時のことである。それに対して秋斗はすぐにこう答えた。
『良いですよ』
『……そう言ってくれるのは嬉しいが、頼み事の内容を聞かなくて良いのかね?』
即答した秋斗に、勲はやや呆れながらそう尋ねる。「とんでもない頼み事だったらどうするのか」と、言外にはそういう響きがある。だが秋斗は気楽な調子でこう答えた。
『勲さんがオレに頼むとすれば、アッチ関連のことでしょう? 手伝いますよ。あ、でもいざとなったら先にダイブアウトしますからね』
『ああ、そうしてくれ。助かるよ』
『それはそうと、ユリには声をかけなくて良いんですか?』
『ああ。今回はちょっと、経験値が稼げそうな案件ではなくてね』
『へえ。どんな案件なんですか?』
『うむ。実は……』
勲は事情の説明を始めた。事の起こりは、彼が新たなエリアを開拓しようとしたこと。立川市の立体駐車場からダイブインしてその周囲を探索すると、彼は長閑な草原に出たという。そしてその草原で納品クエストを見つけた。
当然ながら勲はそのクエストをこなそうとした。だがどうにも一人では手が足りない。それで秋斗の手を借りることにしたわけだ。勲一人では「手が足りなかった」理由を聞き、秋斗は一瞬ポカンする。ただ危険は少なそうだったので、彼は改めて手伝うことを了解したのだった。
そんなわけで今日、二人は立川市の立体駐車場へ来ている。奥の方で車を止め、周囲に人がいないことを確認してから、二人はタイミングを合わせてアナザーワールドへダイブインした。
ダイブインすると、そこはどうやら雑木林のようだった。位置的には浅い。すでに草原のような開けた場所が見えている。二人はまず装備を調えた。それから勲が秋斗に「こっちだ」と声をかけて歩き始めた。向かうのは当然、草原側である。
草原に出ると、秋斗はすぐにモンスターの姿を見つけた。羊の姿をしたモンスターで、長閑に草を食んでいる。その羊のモンスターは草原中にいるのだが、どの羊もみな五年くらい毛を刈っていないかのように、伸びすぎた羊毛でモフモフだった。
いやモフモフを通り越してモコモコというべきか。実際にはそんな可愛らしい姿ではないのだが、秋斗は他に良い擬音を思いつかなかった。ただ、これらの羊の最大の特徴はその毛の量ではない。これらの羊たちには、なんと足が六本あった。
「まずは石版のところへ行こう」
そう言って勲は少し高くなっている丘の上を目指して歩き始めた。そこに石版があるという。秋斗も彼の後に続く。二人が近くを通り過ぎても、羊のモンスターたちは素知らぬ顔で草を食べ続けている。
モンスターとしては特異な反応と言って良い。ただ秋斗もそのことは事前に聞いている。それで警戒はしつつも、ひとまずは無視して勲の後を追った。とはいえこれらのモンスターは決してノンアクティブというわけではないことも、彼は聞かされている。
そして結局一度も戦うことなく、二人は小高い丘の頂上に到着。勲に促されて、秋斗は石版に触れた。頭の中に浮かんだ、納品するべきアイテムのリストを見て彼は苦笑する。「ヘキサ・シープの羊毛」。それがズラリと並んでいる。そしてそのどれもが未達成の状態だった。
(ヘキサ・シープ、か。やっぱり足が六本あるからかな)
[だろうな。ところでヘキサ・シープについてアカシックレコード(偽)で調べて見たのだが、なかなか興味深いぞ]
シキによると、ヘキサ・シープからは最上級の羊毛がとれるという。納品するべきアイテムのリストに「ヘキサ・シープの羊毛」がずらりと並んでいるのは、ある意味当然と言えるだろう。そこに最も価値があるのだから。
ちなみに、ヘキサ・シープはもともとモンスターではなく動物である。麒麟と同じく、アナザーワールドがこの状態になってからモンスターとして再構築されたのだろう。また肉の方は特筆されていないので、普通のラム肉と変わらないのだろうと推察された。
そのようなわけでヘキサ・シープは家畜化されたらしいのだが、しかし決して飼いやすい家畜ではなかった。六本の足をもつことから分かるように、ヘキサ・シープは高い運動能力を持つ。そのためアカシックレコード(偽)曰く、「脱走の常習犯」だったという。
(つまり脱走して、毛を刈ってもらえなくて、この状態ってことか?)
[……という設定、なのだろうな]
シキの言葉に同意しつつ、秋斗は内心で肩をすくめた。アナザーワールドは相変わらず、ヘンなところで手が込んでいる。
さて、未達成がずらりと並ぶ納品リスト。その中で一つだけ達成済みの項目がある。「ヘキサ・シープの血染めの羊毛」。そこだけがすでに達成されている。そのスプラッタなアイテムの名前に、秋斗は苦笑を浮かべた。そして石版から手を離すと、勲にこう尋ねる。
「本当に、あの羊を倒しちゃうと、ドロップするアイテムは血染めなんですか?」
「うむ。しかもビチャビチャでね。たいそう血なまぐさかったよ」
重々しく頷きながら肩をすくめるという器用なことをしながら、勲はそう答えた。周りにこれだけ羊がいるのだ。つまりこれらの羊のモンスターを倒して羊毛を手に入れれば良いのだろう、と誰だって考えるだろう。勲もそう考えた。だが実際にドロップしたのは血を吸ってビチャビチャになった、赤く染まって血なまぐさい羊毛であったという。
まあ実際に羊を殺せば、羊毛がその血を吸って赤く染まってしまうのは確かだろう。だがここはアナザーワールド。今まで散々ゲーム的にやってきたのに、こんなところだけリアルにしなくても良いじゃないか。秋斗はそう思うのだ。
「まあ、その血染めの羊毛のおかげで、ここにいる羊がヘキサ・シープであることは分かった。そしてこの鋏も手に入った」
そう言って勲は一つの鋏を取り出して見せる。名称は「毛刈りの鋏」。れっきとしたマジックアイテムで、その効果は「毛刈りの技量+5」。ここまでそろえばクエストの意図は明白だ。つまり……。
「ヘキサ・シープは倒さずにその毛を刈れ、ってことですか」
「だろうね」
事前に説明を受けていたとはいえ、「なんだかなぁ」という気分になって秋斗は肩をすくめた。ちなみにヘキサ・シープを倒してしまってもペナルティーはない。ないが、再出現までに時間がかかる。
つまりその分だけクエストが停滞するわけだ。加えてこのエリアには立川市の立体駐車場からダイブインしている。秋斗にとっても勲にとってもホームエリアではないのだ。さらにヘキサ・シープの羊毛を刈るために人手が必要であることを考えれば、そう気楽にここへ来ることはできない。
だから結論から言えば。「ヘキサ・シープはできるだけ倒さず、捕まえて毛を刈る」ということになる。一体として倒してはいけないというわけではないが、必要な量がどのくらいになるかは判然としない。あまりギリギリを攻めるような真似はしない方がよいだろう。
「さて。こうして長閑な景色を眺めているのも良いが、それではクエストを消化できない。そろそろ始めるとしようか」
「……ですね」
勲が声をかけたのを区切りにして、二人はヘキサ・シープの毛を刈るための準備を始めた。勲は分厚い革製のエプロンと同じく革製の手袋を身につける。秋斗は胸当てや籠手などの防具を装備した。ただ羊の毛を刈るだけなら必要の無い重装備と言って良い。だが相手はヘキサ・シープだ。
「まずは捕まえなければならないわけだが……」
そう言って勲が秋斗に視線を送る。彼は一つ頷いてからスルリと一体のヘキサ・シープに近づいた。だが野生の勘で不穏なモノを感じ取ったのだろうか。ヘキサ・シープはパッと顔を上げる。そして秋斗を一瞥すると、その場から勢いよく走り出した。
「この……!」
秋斗は慌ててヘキサ・シープを追う。だが六本の健脚を持つヘキサ・シープは足が速い。普通に走っても追いつけず、秋斗は身体能力強化を使わなければならなかった。そして彼はヘキサ・シープに追いつくとその伸びすぎた毛をムンズと掴み、そのまま地面に引き倒した。
「メェエエ! メェエエ!」
ヘキサ・シープが抗議の声を上げながら暴れる。だが秋斗は強化した身体能力に物言わせてヘキサ・シープを押さえ込んだ。そこへ勲が駆けつける。彼はしゃがんで毛を刈り始めようとしたが、ヘキサ・シープが足を暴れさせるのでそれを押さえ込むのにやや手こずった。そしていよいよ毛を刈ろうとしたその時、思わぬ横やりが入った。
「メェェェエエエ!」
「おぶ!?」
捕まえたのとは別のヘキサ・シープが仲間を助けに来たのだ。そいつは秋斗へ突進して体当たりする。伸びすぎた毛の分も含め、ヘキサ・シープの体重は結構重い。秋斗は側面からの攻撃をもろに喰らい、弾き飛ばされて地面を転がった。
「秋斗君!? ぬう!?」
さらに一拍遅れて勲も同じように別のヘキサ・シープの体当たりを喰らう。二人してド突かれ、捕まえていたヘキサ・シープは逃げてしまった。追撃はなく、ダメージもほぼない。秋斗はのそのそと立ち上がり、勲もゆっくりと立ち上がった。
「メェェェェ!」
ヘキサ・シープが鳴き声を上げて去って行く。秋斗と勲は顔を見合わせ、どちからともなくため息を吐いた。これは思っていたよりも大変な仕事になりそうだ。二人は揃ってそう思った。
ヘキサ・シープさん「きゃー、毛刈りよー、変態よー」