レベルアップについて
秋斗がアナザーワールドで大量のフルーツを採取してきたその後日、秋斗と百合子は彼の家で大量のコンポートとジャムを作った。甘ったるい匂いをさせながら作ったコンポートとジャムはゆうに一年分くらいはありそうで、二人は約束通りに折半した。
「ユリは、それ全部自分で食べるのか?」
「そうよ。同級生にあげたらレベルアップしちゃうじゃない」
百合子のその考えに、秋斗は呆れるのを通り越していっそおののいた。ライバル視というか、それはもう敵視ではないのだろうか。ジャムを少量食べたくらいでは、目に見える変化はないと思うのだが。まあそれだけ彼女が同級生たちとの才能の差を感じているということなのだろう。
「レベルアップと言えばさ、勲さんから聞いた話だけど、やっぱり警察や自衛隊でそれっぽい人がすでに何人もいるんだって」
「それって、モンスターを倒してレベルアップしたってこと?」
「そうみたい」
「まあ、おかしな話ではないわよね」
百合子の言葉に秋斗も小さく頷いて同意する。警察官にしろ自衛官にしろ、最前線でモンスターを駆除する任務を行っている人間は、それだけ経験値を得やすい。そして経験値を得ればレベルアップするのは自然な流れである。
「……ところで、そのレベルアップの話ってどれくらい広がっているのかしら?」
「さあ、どうだろうなぁ……。勲さんは役人から聞いたって言ってたけど。あとオレの大学じゃ、まだ聞かないな」
「ニュースでも聞いた覚えはないわよね……。ネットの方はどうなのかしら?」
「そこまで調べてないな……。まあ、そのうち知られるようになるんだろうけど」
秋斗のその予感は、もう確信に近い。各国政府は秘匿しておきたいのかもしれないが、レベルアップは世界中で起こっているはずで、これを秘密にしておくことは不可能。いつかは広く知られるようになる。
そもそもモンスター・ハントにいそしむ民間人も多いのだ。そういうところから情報は漏れる。さらにこの情報化社会。一度漏れた情報はあっという間に拡散するだろう。そしてその日はそう遠くはないはずだ。
「で、ユリは何を気にしているんだ?」
「どういう形でレベルアップが発覚したのか考えてみたのだけど、やっぱり筋力や体力の上昇という形だと思うのよ」
「うん、多分そうなんだろうな。測定もしやすいだろうし」
「でしょ? そうなると特にアスリートとかは興味を持つと思うのよ」
つまりアスリートやプロ格闘家などの人たちがトレーニングとしてモンスター・ハントを採り入れるようになるのではないか、ということだ。秋斗は「あり得る話だ」と思った。ただ彼としては別の懸念も抱かざるを得ない。
レベルアップというのなら、秋斗はこの世界でもトップクラスのレベルだろう。しかしその彼でもほんの二年ほど前までは、リアルワールドでのレベルアップの効果は限定的だった。言い方を変えるなら、超人化はしていなかった。そしてそれはリアルワールドにおける魔素の濃度が低かったからだと考えられる。
レベルアップしたという警察官や自衛官がどれくらいモンスターを倒したのか、それは分からない。だが時間的に考えて一〇〇体か、多くても二〇〇体くらいではないか。その程度でもレベルアップを実感できると言うことは、つまりそれだけリアルワールドにおける魔素の濃度が上がっていることを意味している。
(まあ、だからといって何ができるわけでもないんだけど……)
地球規模の話となると、秋斗には手の出しようがない。とはいえやはり漠然とした不安は覚える。もしかしたらそれは社会が変質していく事への不安なのかも知れない。何しろ魔素にモンスターにレベルアップだ。社会が変わるのは避けられないとして、良い方向へ変わるとは限らない。
トレーニングとしてのモンスター・ハントもそうだ。魔石ではなく経験値を主な目的としたモンスター・ハントは恐らくこの先増えるだろう。経験値を稼いだ選手が大会や試合で結果を出せば、他もそれに追従せざるを得ない。
すると本当に超人が現われるかも知れない。その時世界はどう変わるのだろうか。“ヒーロー”がモンスターを倒してくれるようになるだろうか。回復魔法の使い手が現われ、その治療方法が広がるだろうか。それとも怪しい新興宗教にすり替わるだろうか。想像するだけなら可能性は幾つも思いつく。
(でも……)
一つだけ確かな事があるとすれば、良いことも悪いことも起こるだろう、ということだ。そして彼にはその流れを左右するだけの力はない。傍観者でいられるならまだマシかも知れないが、しかしこの件について言えば全人類が当事者である。
であれば自分は濁流に流されるだけなのか。溺れる自分の姿を想像して、秋斗は「嫌だな」と思った。そして顔をしかめた彼に百合子がこう話しかける。
「……秋斗? どうかしたの?」
「あ~、いや、次の陸上大会とか、無名の選手がいきなり結果を残したりするかな、って」
「う~ん、どうかしらねぇ。今はまだモンスター・ハントをトレーニングに組み込むなんて、そんなチャレンジャーはいないと思うけど」
「いや、意図せずってヤツでさ。バイトの代わりにモンスター・ハントをしていた無名選手がいきなり、とかありそうじゃない?」
「まあ、トップ選手がいきなり、とかよりはありそうだけど……。でもその選手、ドーピングを疑われそうね」
「実際ドーピングみたいなモンだけどな、レベルアップって。そしてそのドーピングは技術方面にも効果があるらしいのだが……」
そう言って秋斗は百合子へやや意地悪げな視線を送った。音楽業界にもモンスター・ハント・トレーニングの波は押し寄せるのではないか。要するに彼はそう言っているのだ。ただ思いのほか百合子は冷静だった。
「いずれはそういう日が来るでしょうね。でも音楽家がモンスター・ハントに手を出すハードルは高いわ」
音楽家にとって指は命よりも大切だ。だがモンスターから経験値を稼ぐには戦闘が避けられない。つまりそれは指を負傷するリスクの高いトレーニングだと言える。自分の音楽家としての命をベットしてまで経験値を欲するだろうか。活躍している音楽家ほど躊躇いは大きいだろう。百合子はそう話した。
「じゃあ、くすぶっている音楽家は?」
「あり得るわね」
百合子ははっきりそう答えた。というより、音楽家で最初にモンスター・ハント・トレーニングに手を出すのはそういう者たちだろう。彼らがそのトレーニングでどれだけ結果を出すのか。それによってその後の展開は大きく変わってくるに違いない。
「お、じゃあ、ユリは結構ピンチ?」
「分かってないわね。いい? 特にクラシックの世界で活躍できる音楽家っていうのは、小さい頃からそれ一本でやって来たような人たちがほとんどなの」
逆を言えば、音楽以外の習い事はしていない事が多い。まして指を怪我するリスクの高い格闘技や武術は、本気で音楽をやる者ほど避けるだろう。百合子のようにやっている者がいないとは言わない。だが間違いなく少数派だ。
「そんな人たちがどれだけモンスターと戦えるのかしらね。きっと負傷者の方が多くなるわ。もしかしたら死者だって出るかも知れない。そうしたら迷っていた人たちは思うでしょうね、メリットよりデメリットが大きいって」
「でもやるヤツはいるんじゃないのか? ユリみたいに」
「それは否定しないけど……。だけどそんな博打を打つ人の才能は大したことないでしょうね、わたしみたいに」
百合子はやや自嘲気味にそう話した。彼女が言うように、現時点でモンスター・ハント・トレーニングが博打の域を出ないのは確かだろう。先ほど秋斗は「超人が現われるかも知れない」と考えたが、それも根拠のない予想に過ぎない。
(ただ……)
ただレベルアップの話が広がれば、今度は「経験値の争奪戦」が起こるだろう。モンスターの資源化が進む、とでも言えば良いのか。やはり社会の変化だけは止められそうにない。
火を止め、作ったコンポートとジャムの粗熱を取る。その間、百合子はバイオリンを取り出して練習を始めた。秋斗がリクエストを入れると、「それはピアノの曲よ」と言いつつも弾いてくれた。そのお礼に彼は「夕飯食べていけば?」と彼女を誘った。
きっちり夕食を食べてから、百合子は自分の家に帰った。約束通りコンポートとジャムは半分ずつにしてある。彼女をバイクで駅まで送ったその帰り道、秋斗はヘルメットの中でこう呟いた。
「うん、魔石を燃やそう」
つまりそういう動画を作成して投稿しよう、ということだ。この先、モンスターのために社会はどんどん変わっていく。それに流されるだけというのは嫌だった。少なくとも流されるためにアナザーワールドの探索をしているのではない。
もっとも思い立ってすぐ行動、ということはしない。秋斗はまず勲に相談した。勲は一度まだその時期ではないとして魔石の燃焼動画には反対していたのだが、秋斗の話を聞くと彼は「ふむ」と呟いてからこう答えた。
「良いんじゃないのかな」
「本当ですか?」
「ああ。魔石の値段もずいぶんと下がったからね。まだ燃料として使えるほどではないが、研究試料としてはかなり手を出しやすくなっている。魔石の研究の呼び水というか、とっかかりとしては面白いんじゃないかな」
そう言って勲も賛成してくれたので、秋斗はさっそく動画の作成に取りかかった。とはいえ、やることはただ魔石を燃やすだけ。撮影場所を決めるのに少し手間取ったが、動画の撮影自体は簡単だった。編集も必要最低限である。
動画が完成すると、秋斗はまず勲にチェックをお願いした。「問題なし」と感想をもらうと、秋斗は次に漫画喫茶に向かった。そして漫画喫茶のパソコンから、件の動画を投稿する。もちろん、シキにあれこれ指図されて出所を誤魔化すためのよく分からない操作をしてから、である。
(これで……)
これで少しは何かをしたことになるだろうか。漫画喫茶からの帰り道、秋斗はぼんやりとそんなことを考える。何かをしたのは確かだ。だがそれでもまだ、彼は自分が流されるままのような気がするのだった。
百合子「今のうちに差を付けておかなくっちゃね」