奏のアナザーワールド探索5
奏のアナザーワールド・トレーニングはおよそ四〇時間に及んだ。三〇〇体近いゴブリンを討伐した今回のトレーニングは成功と言って良いだろう。ただ奏本人はもう少しやりたそうだった。アナザーワールドへダイブするための招待チケットは一枚しかなく、次にいつ手に入るかは分からないからだ。
だが勲がストップをかけた。彼は孫娘が一種の興奮状態にあり、そのために限界に近づいていることに気付いていないと分かっていた。それでいわばドクターストップをかけたのである。
勲の見立てが正しかったことはすぐに明らかになった。シャワーを浴びると、奏はすぐにうつらうつらし始めたのである。このままだと髪も乾かさずに寝てしまいそうなので、百合子がかいがいしく世話を焼く。だが結局、彼女が髪を乾かしてやっている間に奏は寝落ちしてしまったのだった。
「あらあら、寝ちゃったわね」
百合子は苦笑しながらドライヤーを止め、勲から受け取った毛布を彼女に掛ける。それから彼女もシャワーを浴びるために浴室へ向かった。ちなみに秋斗と勲はクリーンの魔法で済ませたので、シャワーは浴びない。
「秋斗君も疲れただろう。良かったらゲストルームを使ってくれ」
「ありがとうございます」
勲から休憩を勧められ、秋斗はありがたくそうすることにした。アナザーワールドにいたおよそ四〇時間で、彼は仮眠を一度しか取っていない。決してハードな探索ではなかったが、それでも疲労の蓄積と睡眠不足は否めない。安眠アイマスクを装着すると、彼はすぐに眠りの中へ落ちていった。
彼が目を覚ましたのはおよそ三時間後。彼がベッドの上で身体を起こすと、どこからかバイオリンの音が聞こえてくる。どうやら百合子が練習しているらしい。時計で時間を確認すると十二時を少し過ぎている。彼は大きく伸びをしてからリビングへ向かった。
リビングのソファーでは奏がまだ眠っている。秋斗は彼女を起こさないようにしつつ、勲から許可をもらって昼食の支度を始めた。作るのは和風パスタ。奏は起きなかったので、昼食は百合子を呼んで三人で食べる。その席で勲は二人に向かって深々と頭を下げた。
「……二人とも、改めて礼を言わせて欲しい。奏のために力を貸してくれてありがとう」
「お気になさらずに。わたしはただバイオリンの練習をしたかっただけですから」
「オレも、アレはもともと使い道のないアイテムだったので」
「そう言ってもらえるとありがたい」
そう言って勲は頭を上げた。そしてフォークを手に取ってパスタを食べ始める。秋斗の作った和風パスタは好評で、三人はしばらく無言のままフォークを動かした。
「……それにしても、あなたの廃人プレイっぷりにはちょっと引いたわ。なによ、二〇〇時間って。限度ってものがあるでしょ、限度ってものが」
そう言って百合子は呆れた顔をしながらフォークを秋斗の方へ向ける。彼は小さく肩をすくめてまたパスタを口に運ぶ。彼に悪びれた様子はない。そんな彼に百合子はさらにこう言った。
「だいたい、二〇〇時間も何をしていたのよ?」
「修行?」
「修行って……。少年漫画じゃないんだから……」
「ユリだって修行しているようなもんだろ、バイオリンの。セーフティーエリアで弾きまくったって言ってたじゃん」
「だからって二〇〇時間はないわ。何泊するのよ。準備だけで一苦労じゃない」
「準備らしい準備なんてしなかったけどな、あの時」
「なるほど、その前からすでに廃人だったわけね……」
ため息を吐いて頭痛を堪えるようにしながらも、百合子は納得したようにそう呟いた。そんな二人の会話を聞いていた勲は楽しげに笑みをもらす。彼は静かにフォークを動かした。
「良ければ夕飯も食べて行ってくれ」
勲がそう言ってくれたので、秋斗と百合子はそのまま佐伯邸に留まって思いおもいに過ごした。途中、二時過ぎに奏が起きて、「秋斗さんのパスタを食べ損なった」とむくれる。仕方がないので、秋斗は材料を借りてスコーンを作ってやった。
彼がスコーンを作っている最中、奏と百合子がセッションを始める。曲名は分からないが、秋斗も聞いたことのある曲だ。所々にアレンジやアドリブが入っていて、二人が楽しんでいることが伝わってくる。それを見て秋斗もなんだか楽しくなった。
「秋斗君は、楽器はやらないのかい?」
勲が近くにやって来て、秋斗にそう話しかける。彼の表情は穏やかだ。孫が楽しそうで、彼も嬉しいのだろう。秋斗は二人のセッションを邪魔しない声量でこう答えた。
「楽器はなにも。でもアレぐらい弾けたら楽しそうですよね」
「本当にね」
莞爾と微笑みながら、勲はそう言って大きく頷いた。やがてスコーンが焼き上がると、二人はセッションを一旦切り上げた。奏は焼きたてのスコーンを見て目を輝かせる。百合子は感心しつつも、「もしかしてわたしより女子力高い……?」とややおののき気味だった。
勲が淹れてくれたコーヒーを飲みながら、四人は焼きたてのスコーンを食べる。奏は笑顔を浮かべながら頬張り、百合子はやや複雑そうな顔をしながら「三枚おろしなら負けないわ」と明後日の方向に対抗心を燃やしていた。
「いや、焼きたてのスコーンというのもなかなか……。バターの風味がたまらないね」
そう言って勲も美味しそうにスコーンを口へ運ぶ。三人とも反応は上々で、秋斗はホッとしながらスコーンへ手を伸ばした。ジャムをたっぷり付けて頬張り、満足げに頷く。そしてスコーンを食べながら、勲は奏にこう尋ねた。
「奏、セッションは楽しかったかい?」
「うん、とっても! お姉様がリードしてくれて、あんなに吹けたのは初めてかも」
奏は興奮気味にセッションのときのことを話した。彼女の感覚的な話は、楽器をやらない秋斗にはよく分からない。だが百合子とのセッションが奏にとって刺激的で楽しかったことは十分に伝わった。
「普段の部活だとやっぱり楽譜通りに吹かないとなんですけど、お姉様とのセッションはすごく自由で、とにかく吹いちゃえって感じで……」
「そういえばアドリブとか、アレンジが結構あったよね」
「そうなんです! お姉様はわたしがどう吹きたいのか分かるみたいで、凄かったです。バイオリンと合わせたのは初めてなんですけど、あんな演奏ができたのはやっぱりお姉様が凄いからですね!」
はしゃぐ奏を見ながら、秋斗は「経験値を稼いだのも関係あるんじゃないかな」と考えていた。経験値の蓄積が演奏の技量に影響してくることは、百合子がすでに証言している。そもそも奏はそのためにアナザーワールドへダイブしたはずで、その意味では早くもゴブリン・ハントの成果が出たと言えるかも知れない。
「奏ちゃんも良い腕をしていると思うわ。アドリブにセンスを感じるもの。わたしもセッションしていて楽しかったわ」
「ありがとうございます、お姉様!」
奏が感激した様子で頬を上気させる。彼女はすっかり百合子に懐いたらしい。秋斗はその様子を微笑ましく見守りつつも、内心では「お姉様?」と首をかしげていた。
(年頃の女の子の感性は分からないな……)
[アキはおっさんになってしまったのだな]
シキの毒舌に秋斗は顔をしかめる。幸い、奏と百合子はセッションの話に夢中で、勲はそんな二人をニコニコと見守っている。それで彼のしかめっ面を見とがめられることはなかった。
コーヒーとスコーンで一服した後、秋斗たちはまた思いおもいに時間を過ごす。奏は宿題があるとかで部屋に引っ込み、百合子はまたバイオリンの練習を始めた。秋斗も休み明けに提出するレポートに取りかかる。勲もパソコンに向かってなにやら仕事をしていた。
そして夕食。勲はいろいろと料理を取り寄せて振る舞ってくれた。テーブルの真ん中にはお寿司がドンッと置かれ、他にも数種類の惣菜がある。さらに冷蔵庫にはデザートのケーキも用意されていて、豪華なディナーだった。
「あら、このピザのお店……」
「ユリ、知ってるとこ?」
「ええ、確か友達が話していたわ。なんでもオーナーがナポリで修行して、世界的なコンクールで金賞を取ったとか……」
「へえ、有名店なんだ。てか、その友達も良く知ってたな」
「ええ。なんでも将来的にイタリアに留学する予定だから、今のうちにピッツァに慣れておくんですって」
「……慣れなきゃいけないほどピッツァが苦手なら、そもそもイタリアには行かない方が良いと思うなぁ」
斜め上を行く音大生の留学準備に疑問符を浮かべつつも、秋斗たちは勲が用意してくれた料理の数々に舌鼓を打った。ちなみに勲以外は全員二〇歳未満なので、アルコールは出されていない。全員しらふだったが、それでも食べて飲んで笑って、楽しい一時だった。
「余ってしまったね。私たちだけでは食べきれないから、ぜひ持っていってくれ」
デザートも食べ終わり、そろそろおいとましようかという頃合いになると、勲は秋斗と百合子にそう言って残った料理を持たせてくれた。恐らく最初からそのつもりで、彼は多目に料理を注文していたのだろう。二人は恐縮しながらお土産を受け取り、そして同じ事を思った。「これで明日のお昼くらいまでは自分で作らなくて済むな」と。
「……ユリは今日電車?」
「ええ、そうよ」
「オレ、バイクだから。駅まで乗ってく?」
「あら。じゃあ、お願いしようかしら」
百合子がそう言ったので、秋斗は予備のヘルメットを渡して彼女をバイクのタンデムシートに乗せた。エンジンをかけ、見送りに出てきてくれた勲と奏に手を振ってからバイクを発進させる。二人の姿を見えなくなると、秋斗は百合子にこう尋ねた。
「……で、なんでお姉様?」
「さあ? わたしの高貴なオーラが伝わったんじゃないかしら」
百合子の声の感じからして、どうやら彼女もまんざらではない様子。コイツも大概だな、と秋斗は思った。
勲(お姉様……?)