霧島百合子2
霧島百合子は東京の音大へ進学した。音大に進学しても、彼女はアナザーワールドの探索を続けている。経験値の蓄積はすでに彼女のバイオリン人生の柱の一つになっていて、今更止めることは考えられなかった。
『わたしが世界の天才どもと戦うにはコレしかない』
彼女はそう考えていた。アナザーワールドにダイブインできることを、彼女は卑怯だとは思わない。「これを卑怯だというのなら才能を寄越せ」と本気で思っている。努力の仕方は人それぞれで、自分の努力とはコレなのだ、と。
そうやってレッスンとアナザーワールドの探索を平行して行うことで、百合子はめきめきとバイオリンの腕を上達させた。そして夏が終わる頃には学年でも随一の腕前ともくされ、同級生達からは一目置かれるようになった。
とはいえ彼女は慢心しない。彼女からすれば、レベルアップという下駄なしにここまで来ている同級生達のその才能こそが脅威である。評価され一目置かれることは嬉しく思いつつも、彼女は怠ることなく二本柱のトレーニングを続けた。
そしてこの頃になると、百合子はヨーロッパへ留学できなくてかえって良かったかも知れない、と思うようになっていた。その理由の一つは音大へ誘ってくれた教授だ。教授のレッスンは非常に分かりやすくまた新鮮で、彼女は蒙が啓かれる思いで毎回のレッスンを受けていた。要するに留学が早かったことに気付いたのだ。
そしてもう一つの理由はモンスターだ。リアルワールドにもモンスターが出現するようになり、世界情勢は不安定化している。特に東京に現われたラフレシアは衝撃的だった。またヨーロッパのほうからもモンスターによる被害は聞こえてくる。
留学していれば家族を心配させ、ともすれば「帰ってこい」と言われたかも知れない。日本国内にいることで家族の心配は和らぎ、彼女もまた音楽に打ち込むことができる。理想的とは言わないが、比較的良い環境であることは間違いない。
『それに留学するなら、語学のほうも頑張らないとですね』
『……はい。そっちも頑張ります』
からかい混じりに告げられた教授の言葉に、百合子はやや苦み走った顔でそう答えた。やることは多く、そしてストレスはそれに比例する。今夜もアナザーワールドでは薙刀の技が冴え渡りそうだった。
そんなこんなで百合子は音大の一年目を終えて二年生に進級した。そしてこの一年の間に彼女は新しい趣味に目覚めた。ラーメンである。それもこってり系のラーメンが彼女の好物ランキングのかなり上の方にランクインしたのである。
百合子のこの新しい趣味というか好物は周りの人たちには秘密だった。彼女はお洒落で上品な音大生なのだ。田舎者と思われたくなかった彼女は、必死にそういうイメージを作り上げていた。そして音を立てながらラーメンを啜る姿は、そのイメージから大きく逸脱している、ように思えたのだ。
彼女はカフェで食べるパンケーキやパフェも大好きだ。たびたび友人達と食べに行く。だがそれでも、時々無性に食べたくなるのだ。食べたらその日はもう知り合いに会えなくなるほどニンニク増し増しで、火を近づけたら燃えてしまいそうなくらい背脂ギットギトなラーメンを! 豪快に! 無心に! 啜りたくなるのだ。
そんなとき、彼女はまず電車に乗る。知人、とくに同級生に鉢合わせしないよう、普段の行動範囲の外にあるラーメン屋に行くのだ。コソコソしなければいけなくて大変だったが、それでも上京してからの一年で、すでにお気に入りのお店は何軒か見つけている。
この日、彼女が向かったのは都立理工学大学の近くに店を構えるラーメン屋。そのいかにも「男子学生をターゲットにしています」と言わんばかりのメニューは、彼女のラーメン欲求にどストライクだった。
「へいお待ち」
「来た来た、これこれ」
注文したラーメンが運ばれてくると、百合子は手を叩いて顔をほころばせた。嗅覚が麻痺しそうなくらい強烈なニンニクの香り。どんぶりを白く染め上げる豚骨スープと大量の背脂。そしてぶっとい太麺とステーキと見間違うほど分厚いチャーシュー。完璧である。彼女はさっそくラーメンを食べ始めた。
「へいいらっしゃい」
百合子がラーメンを食べていると、一人の若い男性客が入って来て、カウンター席に座った。彼女は何となしに彼の方を見て、次の瞬間に怖気が走った。思わず口に中のモノを吹き出しそうになり、乙女のプライドにかけて堪える。むせてしまった口元を拭いつつ、彼女はもう一度カウンター席のほうへ視線を向けた。
(なに、アレ……)
百合子の眼には、彼がバケモノに見えた。少なくともアナザーワールドで出会ったらすぐさまダイブアウトを選択するくらいには、隔絶した実力差がある。溜め込んだ経験値量の差が、彼女の魔眼にはハッキリと映っていた。
(ニンゲン……? 人間よね?)
ラーメンを食べながら百合子は内心で首をかしげた。姿形は人間のように見える。だが魔眼が映す内包された圧は人間とはあまりにも隔絶している。陳腐な表現になるが、まるで竜が人の形を取っているかのような、そんなふうにさえ思えた。
チャーシューにかぶりつき、心を静める。ニンニクの香りは精神安定剤の代わりだ。もう一度さりげなく視線を向ければ、彼は注文を終えたのか何やらスマホをいじっている。それだけ見れば普通の男の子に見えるし、周りの人間も特別注意を払ってはいない。それがいっそ百合子にはうらやましかった。
気付けばもう麺も具もなくなっている。彼の方に気を取られていたらいつの間にか食べ終えてしまった。あまり食べた記憶がなく、百合子は内心で「失敗した」と悔やむ。もっと真摯にラーメンと向き合うべきだった。忸怩たるものを払拭するべく、いつもは残すスープを飲み干す。飲み干してから「暴挙だった」と気付いた。
会計を済ませて店を出る。その際、百合子はもう一度だけカウンター席に座る彼の方を見た。すると彼がふっと彼女の方を見て視線が合う。敵意や害意があるわけではない。だが強烈なプレッシャーが彼女の方を向く。彼女は逃げるように店を後にした。
ブレスケアの錠剤をかみ砕きながら、百合子はゆっくりとした足取りで駅へ向かう。今の腹具合では、せかせかと歩くのはきつい。なにより考え事をしていると、自然と歩くのはゆっくりになった。
冷静になって考えてみれば、彼はバケモノでもなんでもなくやはり普通の人間だろう。いや、普通と言えるかは怪しい。要するに百合子の同類だ。彼もまたアナザーワールドへ招待され、そこで経験値を稼いできたのだ。
(一体どれだけ経験値を稼いでいるのよ……)
百合子は内心でそう嘆息する。彼女が感じた隔絶した実力差とは、つまりレベル差の事なのだろう。一体どれだけモンスターを倒せばあんなバケモノが生まれるのか、百合子には想像も付かない。彼女自身、結構な時間をアナザーワールドに費やしてきたつもりなのだが、「上には上がいるものね」と呆れるやら頭痛がするやらだった。
(でも……、これはチャンス、かしら……?)
百合子は内心でそう考える。これまでずっと彼女は一人でアナザーワールドの探索を行ってきた。自分の他に招待された者を知らなかったからだ。ただ「自分一人だけではないのだろう」とは思っていた。
もし二人で探索を行えるなら、モンスターとの戦闘はかなり楽になるだろう。一緒に探索できなくても情報交換したいことは色々とある。相手が自分よりもアナザーワールドに詳しいのならなおさらだ。彼女は自分でアナザーワールドの謎を解くつもりはない。だがそれは優先順位の問題であって、気にならないわけではないのだ。
まあ優先順位の話をするのなら、それこそ情報交換は二の次なのだが。百合子が今一番欲しいのは赤ポーションなどの回復アイテムだ。余らせているなら幾つか譲ってもらえないだろうか。切り詰めてきた生活費が貯まっているので、買い取らせてくれるならありがたい。また彼女が持っている不要なアイテムとの交換でも良い。
(でも、そのためには……)
そのためには話しかけなければならない。それも百合子の方から。あのバケモノに。逃げることもできず、正面から。いきなり取って食われやしないとは思うが、しかし相手はライオンを素手で引き裂けそうな存在。そんな相手と真正面から向き合わなければならないのだから、怖いものは怖い。ついさっきも話しかけることなく逃げてきてしまった。
(きっと大丈夫……。だって日本人なんだし、たぶん……)
日本語で注文していたし、彼は日本人のはずだ。そして日本の社会で育った日本人なら、少なくとも話しかけただけで逆上したりはしないだろう。そう考える自分の思考がやや迷走気味であることに、百合子自身は気付いていない。そもそも話しかけること以前に考えなければならないことがある。
百合子は彼の名前を知らない。どこに住んでいるのか、そして連絡先も把握していない。同じラーメン店でラーメンを食べただけだ。つまりいつ会えるのか、それさえも定かではないのだ。
(何て話しかければ良いかしら……?)
肝心なことに気付かないまま、百合子は頭の中で彼との会話をシミュレーションする。知らない男性に話しかけるなんて、彼女にとっては初めてのこと。話しかけられることはあっても、話しかけたことはこれまでにない。
(同い年くらい、よね? 去年は見かけなかったし、今年からコッチに来たのかしら……?)
すでにリピーターである前提で話を進めている。仮にリピーターだとして、また運良く同じ時間に同席できる可能性は一体どれほどなのか。彼女がそんな肝心で根本的なことに気付くのは、自分の部屋に帰宅してからのことだった。
「これは……、しばらく通わないとダメね……」
どうやらそんな結論になったらしい。
「体重大丈夫かしら……」
そして今夜もまた、アナザーワールドでは薙刀の技が冴え渡る。
百合子「ラーメンを食べるためにもアナザーワールドの探索は続けるわ」