表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
157/286

霧島百合子1


 霧島百合子は東京の音大に通う音大生である。専攻はバイオリン。地方の普通高校から一発合格して音大に入ったのだから、才能豊かな音大生と言っていい。


 彼女の実家は地元の名士と言って良い。議員やその秘書がたびたび挨拶に訪れる。彼女はその家の末娘として生まれた。なんでも「本家では八十年ぶりの女の子」だそうで、彼女は祖父にも父にも兄たちにも可愛がられて、ともすれば甘やかされて育った。


 それでも彼女がわがままに育たなかったのは、ひとえに祖母が彼女を厳しくしつけたからである。そういうこともあり、当時、彼女は祖母が怖かった。ただ今では感謝している。祖母がしつけてくれなければ鼻持ちならない性格になっていただろう。彼女自身でさえ、そう思っている。


 さて百合子がバイオリンに出会ったのは小学校に入る前のことである。家族でコンサートに行ったのだが、そこでバイオリンのソロ演奏を披露する女性奏者の華やかなドレスに一目惚れしてしまったのだ。あんなドレスを着たいと思った彼女は、両親にバイオリンをやりたいと強請ったのである。


 末娘に激甘な父親はすぐにそれを許し、三日後には彼女はバイオリン教室に通っていた。ただ教室が少し遠かったこともあり、父親はなんと娘が自宅で個人レッスンを受けられるようにまでした。ともかくこのようにして百合子はバイオリンを始めたのだった。


 バイオリンを習い始めてすぐ、百合子は子供ながらに「思っていたのと違う」と感じ始めた。彼女は綺麗なドレスが着たかったのであって、バイオリンを演奏できるようになりたかったわけではないのだ。もっとも相性は良かったのだろう、やってみれば面白く、すでに十年以上の付き合いになっている。


 ただ長くやっていれば、嫌でも見えてくるモノがある。子供の頃、百合子は「神童」だった。ひとたび彼女がバイオリンを奏でれば、聞く人全てが彼女を絶賛し「天才」と褒めそやした。だが全国レベルの大会に出れば、彼女程度の人間は幾らでもいる。彼女はその現実に直面することになった。


 それでも投げ出さずにレッスンを続けたのは、その頃にはすっかりバイオリンが好きになっていたからだろう。しかし同時に彼女は焦ってもいた。自分の才能の限界というヤツを、あるいは「本当の天才」との差を、嫌でも感じるようになったのだ。それがだいたい高校に入ったときくらいの話だった。


 伸び悩む技量に焦りつつ、百合子は高校三年生に進級した。この頃になると、当然ながら進路に関する話も増える。彼女は音大に行きたいと思っていた。祖父も父も賛成してくれたが、問題は彼女自身の力量である。だがどれだけレッスンに時間を割いても上達しない。彼女は徐々にストレスを抱えるようになった。


 そんなときである。彼女がアナザーワールドに招待されたのは。妙な夢の中でヘンな人形をボコボコにしたら不思議な石版が出てきて、それに触ったらアナザーワールドへダイブできるようになったのだ。


『なに、これ……?』


 わけの分からない展開に、当然ながら百合子は困惑した。困惑し、棚上げし、その日はともかく学校へ行った。学校から帰ってくるとバイオリンのレッスンを受け、そこでまた伸び悩む自分の技量に苛ついた。


 恐らくはそういうストレスのせいなのだろう。百合子はアナザーワールドへダイブインしてみる気になった。いつもの彼女なら家族に相談しただろう。だがこのとき彼女はちょっと自棄になっていた。それでほとんど衝動的に彼女はこう宣言した。


『アナザーワールド、ダイブイン』


 視界は一瞬で切り替わった。彼女の目の前に現われたのは美しい夕日。そして爽やかな風が彼女の髪を軽やかに梳く。周囲を見渡せば、どうやらそこは広大な渓谷のよう。見ず知らずの大自然のなか、予想を超えたこの事態に彼女は呆然とする。呆然として、数秒後に大笑いする。こんなに笑ったのはいつ振りだろうか。それくらい、お腹が痛くなるまで彼女は笑った。


 最初のダイブがそんな感じだったからだろうか、百合子はアナザーワールドが気に入ってしまった。そこにモンスターが跋扈していることを知っても、彼女がアナザーワールドを敬遠することはなかった。むしろストレス発散のためにはちょうど良いとさえ思った。祖母に言われて中学卒業まで習っていた薙刀がこんなところで役に立った。


 彼女はアナザーワールドのことを誰にも言わなかった。家族にも、である。一人で黙ってアナザーワールドへのダイブインを繰り返していると、なんだか自分がいけないコトをしているようで、ちょっとゾクゾクした。小さな背徳感が彼女をやみつきにさせ、彼女は自分だけの秘密を持つようになったのだった。


 さて百合子がアナザーワールドへダイブインする主な理由はストレス発散だった。彼女はその世界を冒険しようとは思っていなかったし、ましてその謎を解こうとは少しも思っていなかった。彼女が情熱を傾けているのはあくまでバイオリンで、アナザーワールドが現われたからと言って熱量が分散されることはなかった。少なくとも当初は。


 事情が変わってきたのは、高校三年生のゴールデンウィークが終わったころである。ずっと躓いていた課題曲が、ある日突然スルスルと弾けるようになったのだ。手が、指が、思い通りに動く。むしろ動きすぎて最初の一回はめちゃくちゃになってしまった。だがそれでも壁を越えたことは間違いない。


『素晴らしいわ! 今まで練習してきた成果が出たのね!』


 バイオリンの先生はそう言って百合子を絶賛し、これまでの努力を褒めた。彼女自身、課題曲が弾けるようになったのは嬉しい。もちろん弾きこなすためにはさらなる練習が必要だが、それでも大きな前進であることは間違いない。だが彼女はこのブレイクスルーが、日々の練習にのみ起因しているとは思えなかった。


『レベルアップってことよね、これは、きっと……』


 彼女は小声でそう呟いた。アナザーワールドでモンスターを倒して経験値を蓄積したことで、諸々の能力が向上したのだ。そうとしか考えられない。そしてそれを理解した瞬間、彼女はおののきながらも歓喜した。


『つまりもっと経験値を稼げば、わたしはもっと上手くなれる……!』


 バイオリンへ傾けていた情熱が、アナザーワールドへも向かった瞬間だった。そして例の課題曲を弾きこなせるようになった頃、百合子はバイオリンの先生からこんなことを勧められた。


『百合子さん、良かったらこのコンクールを目指してみない?』


 そう言って先生が勧めたのは、国内の天才・秀才が集まるコンクール。百合子が本選に出場するには幾つかの予選を勝ち抜く必要がある。


『あの曲をあれだけ弾きこなせたんですもの。今のあなたならきっと本選に出られるわ』


『はい。頑張ります』


 こうして彼女はコンクールを目指すことになった。以来、彼女はアナザーワールドの探索により多くの時間をつぎ込むようになる。一方でバイオリンのレッスンの時間は減らさない。アナザーワールドでどれだけ過ごそうともリアルワールドでは一秒しか時間は経過しないという仕様がそれを可能にした。


 そしてその成果は如実に出た。経験値を蓄積すればしただけ、手も指も身体も思い通りに動いた。ずっと「こういう音を出したい」と思っていた音を、いとも容易く奏でることができる。ちょっと前まで伸び悩んでいたのがウソのようだ。彼女はある種万能感のようなものさえ感じていた。


 アナザーワールドで経験値を蓄積することを、百合子は卑怯だとは思わない。人間が生まれ持つ才能には個人差がある。だが才能を持つ人間はそれを卑怯とは思わないはずだ。アナザーワールドもそれと同じ事。彼女はそう考えて自分を納得させていた。


 ただアナザーワールドで経験値を蓄積するためには、モンスターとの戦闘が避けられない。百合子はそれを受け入れていたが、同時に怪我を恐れてもいた。特に指。音楽家の指は命よりも大切だ。指を怪我するようなことは絶対に避けなければならない。だがアナザーワールドでのレベリングを止めることもできない。


『ダメージを受けない。これしかないわね』


 彼女はそう考えた。赤ポーションや傷薬はクエスト報酬などで手に入れたモノが幾つかある。だが安定的に手に入るモノではない以上、できるだけ温存したい。であればそもそもダメージを受けない方向で行くしかない。つまり敵の攻撃をちゃんと回避するのだ。


 そのために百合子が鍛えたのは「目」だった。いや実のところ彼女に鍛えたという意識は希薄だ。ただ彼女は敵の動きをよく見るようにした。この時にも薙刀の経験が生きたと言っていい。そして彼女のこの「鍛錬」に蓄積された経験値が応えた。


『見える……!』


 彼女は魔眼を手に入れた。つまり見ることに特化した能力だ。その後も経験値を蓄積することで彼女の魔眼は徐々に強化されていった。これによって彼女がダメージを受ける率はグンと下がったのだが、魔眼の恩恵は何もアナザーワールドに限った話ではなかった。


『見える……』


 百合子の魔眼はリアルワールドでも有効だったのだ。もちろんアナザーワールドでの使用と比べると、その性能は一段も二段も劣る。だが優れた演奏家の指使いを見て学ぶなど、「見える」というのは大きなアドバンテージだ。


 彼女は動画投稿サイトで有名なバイオリニストたちの演奏をあさり、ひたすらその指使いを見て盗んだ。指の部分だけをずっと映してくれている動画はないが、それでも十分参考にはなる。この学習も彼女の技量を高めるのに一役買った。ただコンクールが、それも本選が近くなってくれば焦りは募る。


『時間が、時間が足りないわ……! 向こうでもバイオリンの練習ができたら良いんだけど……』


 これまで百合子はアナザーワールドでバイオリンの練習をしたことはなかった。モンスターが襲ってくる環境では、まともに練習などできるはずもない。だが時間的な制約のないこの世界は、バイオリンの練習にこそ向いている。百合子はそう思っていた。


 そしてついに彼女はソレを見つけた。セーフティーエリアだ。モンスターが入ってこないその部屋を見つけた時、彼女は狂喜乱舞した。そしてクエストそっちのけでセーフティーエリアに引きこもり、バイオリンの練習に明け暮れた。


 そのように準備してきたコンクールであるから、彼女には自信があった。本選に出場する自信、ではない。優勝する自信だ。しかもこのコンクールで優勝するとヨーロッパの音大に留学できる。「自分はここから世界に羽ばたくのだ」と、そんなことさえ思っていた。


 だが優勝したのは百合子ではなく、国内の音大に通う音大生だった。彼女の成績は五位入賞で、四位以上はすべて音大生以上だったことを考えれば大健闘したと言って良い。だがこの結果は彼女にとって衝撃的だった。


 あれだけ経験値を溜め込み、あれだけアナザーワールドで練習したというのに、優勝できなかったのだ。それもヨーロッパではなく日本のコンクールで、である。本物の天才達との絶望的な差を思い知らされた気分だった。ただこのコンクールで彼女は一つの出会いを得た。


『霧島百合子さん、だね? 良ければウチの大学に来ないか?』


 ある音大の教授にそのように誘われたのだ。もともと音大に進学するつもりだったこともあり、百合子は家族と相談した上でその教授の誘いを受けることにした。


 こうして百合子は東京の音大へ進学することになったのである。



百合子「魔眼の百合子よ」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] クエストの時間制限がこのときもリアルワールドの時間基準だとしたらセーフティーエリアではそれこそ無限に練習できたはずだから、満足できるまで……それこそ優勝を確信するまで練習しただろうに…… …
[一言] コンクールの上の方はすでに決まっているから実質1位だったんじゃ・・・
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ