壁を破る
漫画喫茶から帰ってくると、秋斗はすぐにアナザーワールドへダイブインする。そして【鑑定の石版】のところへ向かった。幸運のペンデュラムを発動させ、トレント・キングがドロップした宝箱(白)を開封する。中から出てきたのは、宝箱(黒)を安全に開封するためのセキュリティーカードだった。
「お、ちょうどいいな」
宝箱(黒)なら、以前にウェアウルフがドロップしたモノがある。秋斗はいそいそとそれを取り出した。セキュリティーカードを差し込むと、宝箱の色が黒から銀色へ変化する。秋斗はそれを捻って開封した。
宝箱(銀)から出てきたのは、見覚えのあるアイテムだった。ただ彼自身が持っているわけではない。出てきたのはモノクル。そのモノクルは勲が持つ鑑定のモノクルによく似ていた。とはいえ決めつけは良くない。彼はそのモノクルを【鑑定の石版】に乗せて鑑定した。
名称:鑑定のモノクル
物品を鑑定する。
「おお、やっぱり鑑定のモノクルだったか!」
秋斗は歓声を上げた。今まではこの場所に【鑑定の石版】があった。だが彼は新年度から東京の大学へ進学する。東京へ引っ越すわけで、すると当然アナザーワールドへダイブインする際のスタート地点も変わってしまう。
新たなスタート地点に【鑑定の石版】はあるのか。もしなかったら手に入れた物品の鑑定はどうすれば良いのか。彼は内心で心配していたのだが、その問題は解決された。秋斗がホクホク顔でダイブアウトしようとしたとき、シキが彼にこう声を掛けた。
[アキ。この【鑑定の石版】を回収できないか、試してみないか?]
「石版を? なんでまた。モノクルがあれば要らなくないか?」
[しかしモノクルは壊れることがあるかも知れん。鑑定ができるか否かは、探索の進捗に大きく関わってくる。保険を用意しておくにこしたことはないだろう]
「まあ、シキがそう言うなら構わないけど……」
秋斗はそう言って強く反対することはなかった。彼自身、「【鑑定の石版】を持って行けないか?」と考えたことはあるのだ。鑑定ができなくなれば困るのは明らかなのだから、それを考えるのは当然だ。
ただ、今までは【鑑定の石版】が使えなくなることを恐れて踏ん切りが付かなかった。だが鑑定のモノクルが手に入ったからには、石版が失われても致命的な損失にはならない。ならばやってみても良いだろうと思い、秋斗は石版に向き直った。
彼は改めて【鑑定の石版】をよく観察する。【鑑定の石版】は台座の上に石版が乗っているという構造。側面を見れば、その境界線がよく分かる。ただ上の石版だけを持ち上げようとしてもそれはできない。モルタルかなにかで接着されているようだった。
ふむ、と秋斗は呟いて顎先に指を添えた。ハンマーで下の台座をぶっ壊せば、上の石版だけ持って行けないだろうか。そんな脳筋的発想が浮かぶが、さすがに乱暴すぎるかと思い直す。ぶっ壊すのは最終手段でいいだろう。
(要するに接着をはがせればいいんだろ)
秋斗は頭の中でそう呟く。彼はもう一度よく【鑑定の石版】を観察してから小さく頷いた。そしておもむろに魔石を右手に握り、左手で石版に触れる。それから目を閉じ、ゆっくりと魔石に思念を送った。
「はがれろ」
次の瞬間、淡い光が格子状に走った。石版を持ち上げようとしてみると、まだ持ち上がらないものの、グラつくようにはなっている。彼はさらに二度、同じ事をした。するとようやく石版が持ち上がった。
持ち上げてみると、やはりかなりの重量がある。だがレベルアップしてきた秋斗なら余力を残して持てる。さらにそうやって持ち上げみると、彼の頭の中で【鑑定の石版】という文字が躍った。やはり台座込みではなく、この石版こそが【鑑定の石版】なのだ。
秋斗は一つ頷いてから、【鑑定の石版】を慎重にストレージへ収めた。さらに台座を作っていたブロック状の石材も、シキに言われて回収する。シキは「一応」と言っていたが、秋斗は「またシキの収集癖が出たな」と言って笑った。
全ての回収を終えると、秋斗はダイブアウトを宣言する。アパートの一室に戻ってくると、彼は「んっ」と声をもらしながら大きく身体を伸ばした。それから彼は台所へ向かった。夕食の支度をするためだ。探索中は肉食が多かった。「野菜たっぷりのポトフでも作るかな」と考えながら、彼は冷蔵庫を開けた。
さて一月末の、珍しく暖かな陽気に恵まれたある日の事。秋斗はバイクを走らせて例の展望台へ来ていた。アナザーワールドの山岳道路エリアへ向かうためである。彼の今日の目標は、あの次元の壁をぶち破ることである。
[しかし本当に破れるモノなのか、アレは]
秋斗の挑戦にシキは懐疑的だった。実際、一度挑戦して失敗している。しかもあの時は多量の魔力を念入りに練っていた。それでも失敗したのだから、シキの懸念も当然だろう。ただ秋斗は、破壊自体は可能だと思っている。
その根拠は石版の情報、だけではない。次元坑掘削計画もその一つだ。あの世界の人たちは一度次元の壁に穴を開けている。つまりそこは人間でも手を触れることのできる領域なのだ。
もっとも、秋斗にそれが可能であるかは別問題だが。彼自身、そのことは弁えている。だがそれでも。挑戦しないままで終わらせたくはなかった。無理なら無理で、しっかり納得してから引っ越したかったのだ。
「まあ、腹が減ったら止めるとするよ」
ヘルメットの中で苦笑しつつ、秋斗はそう答えた。さて、例によって展望台は無人である。とはいえ秋斗は油断しない。シキに索敵を頼み、周囲に誰もいないことを確かめてから、バイクをストレージに収納する。そして木陰に隠れてからダイブインを宣言した。
山岳道路エリアに降り立つと、秋斗は早速バイクを取り出してまたがった。右手に持つのは竜牙剣で、飛翔刃などの武技を駆使しながら彼はバイクを走らせる。彼は三〇分ほどで件の次元の壁のところへ到着した。
「さて、と」
バイクから降り、秋斗はそれをストレージに収納する。それから彼は淡い黄色をした、半透明の壁と向かい合った。彼は竜牙剣を構えて集中力を高める。思い出すのは、トレント・キングの障壁を破った時のことだ。
あの時、秋斗は魔力に思念を込めて、それをトレント・キングの障壁に叩きつけた。そうすることによって彼はあの障壁を破ったのだ。つまりただ漫然と魔力を使っているだけでは片手落ちなのだろう。思念を込めることで初めてその力は定義付けされる、あるいは方向性を与えられる……。秋斗はそんな風に理解している。
ただ最初にここへ来たときも秋斗は、少なくとも彼自身の感覚としてはしっかりと、魔力に思念を込めていた。それなのに易々と弾き返されてしまったわけだ。とはいえその方向性が間違っているとは思わない。
(トレント・キングの時も、一発で上手くいったわけじゃないしな)
大切なのは諦めないこと、なのだろう。才能のある者が偉業を成すのではない。諦めない者がそれを成すのだ。
それから秋斗は竜牙剣で次元の壁を斬りつけ続けた。一撃毎に多量の魔力を練り上げ、さらにそこにしっかりと思念を込める。だが次元の壁はびくともしない。彼は集気法で魔力を回復しながら試行錯誤を続けた。
「ああ、くそ……」
服の袖で汗を拭いながら、秋斗は小さく悪態をつく。消耗が激しい。魔力や集中力もそうだが斬りつけた際の反作用、つまり彼自身が受ける衝撃も馬鹿にならない。
武器強化はしているし、身体強化もしているが、だからこそ一撃ごとに大きな衝撃が跳ね返ってくる。いい加減手首をはじめとする節々が痛くなってきて、彼は赤ポーションを取り出して服用した。
スッと身体から痛みが引く。彼は「ふう」と息を吐いた。ストレージからマイボトルを取り出して水を飲む。マイボトルを片付けると、彼はすぐに竜牙剣を構えることはせず、険しい顔をして次元の壁を睨んだ。何十回となく斬りつけたはずなのだが、文字通り傷一つ突いていない。
彼は次元の壁に視線を向けたまま、これまでを振り返る。彼は「障壁を破る」というイメージで剣を振るってきた。だがそれで何十回繰り返しても手応えはない。ちょっとずつでも前に進んでいる、という感じもしないのだ。ということはこれではダメなのだろう。
アリスはこの次元の壁について、「物理的な壁ではなく、空間的な壁」だと言った。「三次元的に見るとすぐに道路が続いているように見えるが、より高次元の視点から見ればもっと距離が空いているように見える」だろう、とも。
ということは、単純に目の前の壁を破壊しても意味はないと言うことだ。なぜならこちら側とあちら側にあるのは「距離」という壁なのだから。その前提に立てば、「障壁を破る」というイメージは的外れであることが分かる。
ならどんなイメージが必要なのか。つまり「距離」という壁を突破するために必要なものは何なのか。秋斗は「う~ん」と唸りながら頭を捻った。考えること数分。思いついたのは「橋」だった。
(剣で橋を架ける……?)
まったくイメージが湧かない。それで秋斗はまた発想を変えた。橋ではなく「道」。剣で道を切り開くのだ。そのイメージはとてもしっくりきた。
秋斗はまた壁と向かい合った。ふう、と一つ息を吐く。目をつぶり、魔力を練りながら集中力を高め、同時に思念を研ぎ澄ましていく。彼はゆっくりと竜牙剣を振り上げた。そして踏み込み、振り下ろす。
「……っ」
竜牙剣の刃はまた弾き返された。少なからぬ衝撃が、また彼を襲う。だが彼の口元には笑みが浮かんでいた。手応えがこれまでとは違ったのだ。ようやくとっかかりを掴んだ、と彼は思った。
成果が出れば疲れも吹き飛ぶというもの。秋斗はまたすぐに竜牙剣を構えた。先ほどと同じようにして魔力と思念を次元の壁に叩きつける。回数を重ねるごとに手応えは大きくなっていく。そして手応えを感じてから数十回目、ついにその時が来た。
「……っ!」
手応えが違う。秋斗はすぐそのことに気付いた。「ヒビが入った」というのが一番近いだろうか。「ここが勝負所だ」と彼は直感した。
「はああああああ!!」
声を上げ、竜牙剣を押し込む。同時に思念を込めた魔力をねじ込んだ。今まではその大部分が弾かれているような感じだったが、今回は違う。思念を込めた魔力はしっかりと入っていく。秋斗は剣を振り抜いた。
――――リィィィィィィィィィンン……。
まるで鈴を鳴らしたかのような、涼やかな音色。それが次元の壁が破られた音だと気付くまでに、秋斗は一拍を要した。今、次元の壁には人が一人かがめば通れそうなくらいの穴が空いている。そして飛び散った壁の欠片がキラキラと周囲に舞っていた。秋斗は会心の笑みを浮かべた。だが本当に驚くべきはこれからだった。
子供オーク「ねぇねぇ、あの人、壁を叩いて何しているの?」
大人オーク「しっ、見ちゃいけません!」