不透明になった世界
夏休みが近づいたある日の夜。秋斗は自宅アパート近くの道を歩いていた。散歩だが、目的は特にない。強いて言うのなら、「虫が知らせた」とでも言うのだろうか。そして彼はそれが確かだったことを知った。
「グゥルルルル……!」
ソレはうなり声を上げて秋斗を威嚇した。イヌのように見えるが、イヌでは無い。真っ黒な身体。真っ赤な双眸。モンスターだ。「ついにこんなド田舎にも」と彼は緊張感なく心の中でそう呟いた。
(シキ)
[周囲に人影と民家無し。監視カメラも無いぞ]
「こういう時ばかりは田舎の過疎っぷりがありがたいね」
秋斗がそう呟くと、それがきっかけになったのか、モンスターが動いた。街灯の明かりを避け、暗がりに紛れるようにしながら距離を詰める。そして口を大きく開き、凶悪な牙を見せながら彼に飛びかかった。
だが秋斗は動じない。タイミングを合わせて左足を振り抜く。サンダル履きのその足はモンスターの脇腹に突き刺さり、そのまま吹っ飛ばして電柱に激突させた。だがモンスターは倒れず、再び秋斗に襲いかかる。
姿勢を低くして足を狙うモンスターを、しかし秋斗は上から踏みつけた。モンスターは力一杯もがくが、彼はまったく動じない。そのまま足に力を込めてモンスターの頭を踏み潰した。モンスターが黒い光の粒子になって消えていく。残った魔石を拾い上げてから、彼はこう呟いた。
「弱いな」
[良いではないか。強くなった証拠だ]
「そういう意味じゃなくてさ。レベルアップしてもコッチだと抑制されるって話を、前にしただろ? でも抑制されるにしてはモンスターが弱く感じたってこと」
[ああ、なるほど。ではやはりモンスターの周囲では魔素の濃度が高くなるのだろうな]
「って事はさ、コッチでもモンスターを倒せば経験値が手に入る、ってことじゃね?」
[その可能性は高いな]
「やれやれ、良いことなのか、悪いことなのか……」
秋斗は肩をすくめながらそう呟いた。リアルワールドでも経験値が得られるなら、モンスターへの対処は徐々に楽になるだろう。だがそれは超人が生まれることの裏返しでもある。レベルアップした者たちがこの世界にどんな影響を与えるのか。彼にはちょっと予想が付かない。
「ま、悩むのはお偉方にやってもらうさ」
そう言ってもう一度肩をすくめると、秋斗は来た道を引き返した。ズボンのポケットに拾ったばかりの魔石を突っ込んで。こうしてこの夜、一体のモンスターが人知れず討伐された。だが日本のみならず世界中で、モンスターの出現例は増え続けている。その被害も、また。
- * -
「実はいまちょっと、夏休みの補習に出るか悩んでいるの」
夏休みが近づいたある日の昼休み。紗希は秋斗にそうこぼした。彼らの高校では、進学を選んだ生徒のうち希望者を対象に、夏休みに補習を行っている。その補習に彼女は申し込んだと聞いていたので、秋斗は首をかしげてこう聞き返した。
「なんでまた? もう教材も買ったんだろう」
ちなみに秋斗自身は補習に申し込んでいない。シキがマンツーマンで教えてくれるので、補習に出るより自習した方が勉強は捗るのだ。またアナザーワールドの探索を行うためにも、家で自習のほうが時間の都合がつけやすいという理由もある。
まあ、シキやアナザーワールドの存在は大っぴらにはできない。それで新たに第一志望にした工科大学の模試判定が上々であること、また推薦入試を受けられるのがほぼ確実になったことなどが表向きの理由になる。
『ええっ? アキ君、夏休みの補習出ないの!?』
『出ない。家で自習する。もしかしたら図書館くらいはいくかも』
『一人だけクーラーの効いた部屋でポテチ食べながら勉強する気なのね!?』
『ポテチではない。アイスだ!』
『くぅ~~、夏太りすればいいわ!』
秋斗が補習に出ないことが分かると、紗希はずいぶんと悔しがっていたが、それはそれとして。今は紗希の話である。彼女はやや不安げな顔をしながら秋斗にこう答えた。
「うん……。でもほら最近、世界中で大変なことになっているじゃない? 勉強して、大学に行って、そんなことしている場合なのかな、って思っちゃって……」
「ああ、なるほど……」
紗希の話に秋斗はひとまず頷いた。彼女の言う「大変なこと」とは、昨今世界を騒がせているモンスター関連の問題のことだ。この頃はモンスター被害が報じられない日は一日としてない。それくらいモンスターは無視できない存在になっており、そして今のところ人類の側に抜本的な解決策は見当たらない状態だった。
さらに厄介なことに、モンスターは世界情勢をさえ大きく揺るがし始めていた。モンスター問題に端を発したデモやテロやパニックは連日のように世界のどこかで起こっている。そしてモンスター問題とは直接関係ないデモやテロやパニックもその数が明らかに増えていた。
揺れているのは一般の民衆だけではない。国家や国同士の関係も、同じく大きく揺れ始めている。ある国ではモンスターを口実にして少数民族への迫害を強め、その結果として多くの難民が発生した。
またある国は同じくモンスターを口実にして国境近くに部隊を集結させ、明日にも隣国へ侵攻しそうな雰囲気を醸し出している。似たような事例は世界各地で起こっており、沈静化の兆しは見られない。
これらの問題の多くは目新しいモノではない。むしろ長年拗れていた問題や、水面下にあったはずの問題である。それが“モンスター”という新たなファクターを投げ込まれたことにより、問題がより先鋭化したり顕在化したりしてしまったのが現在の情勢である。
民族紛争が再燃し、宗教対立が過激化している。係争地域にもモンスターは出現し、当事国は神経質になっている。当事者同士は退くに退けず角を突き合わせるしかない。当然ながら有利になるのは、力に物言わせる大国だ。
世界情勢の先行きはあまりに不透明で、そのために世界経済は冷え込み、あぶれたマネーは金とエネルギーになだれ込んだ。その結果、ありとあらゆるコストが上昇している。日本はその影響をもろに受けていると言って良い。
そんなニュースが連日報道されるのだから、紗希が不安になるのも当然だろう。そして不安になった彼女は、「このままで良いのだろうか?」と考えたらしい。そう考えるのは秋斗も分からないではない。だが彼はまずこう尋ねた。
「でも、じゃあ、大学進学を止めてどうするんだ?」
「え、ええっと……、その、け、拳法を習う、とか……」
紗希が隙だらけの構えを取って「あちょー」と秋斗を威嚇する。まったく迫力を感じず、秋斗は苦笑しながら彼女の頭に軽くチョップを入れた。それから彼はこう語る。
「世界がこんな状態だからこそ、大学には行った方が良いと思うよ」
「なんで?」
「今は不安定で先が見えない。だけど大学を卒業するころまでには、もうちょっと落ち着いているんじゃないかな」
「う~ん、落ち着くかなぁ?」
紗希はいまいち信じられない様子だったが、それでも秋斗の言うことにも一理あると思ったらしい。「補習に出るよ」と言って笑顔を見せた。
さてその日の授業が終わり、秋斗は帰路につく。彼が自転車をこいでいると、彼の頭の中からシキがこう尋ねた。
[昼休みの話だが。紗希嬢にはああ言っていたが、アキは本当にこの事態が落ち着くと思っているのか?]
(さあ?)
[おい]
シキが低い声を出す。「コイツ、結構紗希のこと気に入っているのかな」と思いつつ、秋斗は苦笑気味にこう答えた。
(様子見した方がいいと思っているのは本当だよ。今起こっている混乱のほとんどは、モンスターが直接の原因じゃないだろ?)
[ふむ。つまり、慣れれば落ち着く、と?]
(そういうわけじゃないけど……。いや、そうなのかな……? 逆に聞きたいんだけど、どうなったら「落ち着いた」って言えると思う?)
[それは……、モンスターが出現しなくなったら、ではないのか?]
(で、その見込みは?)
[…………]
シキが沈黙する。それが答えだった。秋斗は一つ頷いてから、さらにこう続ける。
(だよな。今のところ、モンスターが出現しなくなる見込みはない。少なくともこっち側からアプローチできることはないだろう。向こう側からなら何かできるのかも知れないけど、それこそ俺たちじゃ手が出せない)
[まあ、そうだな]
(そうなるとこっち側でできることって、結局出現したモンスターを手際よく倒すことだけだと思うんだよ)
[なるほど、な。つまり四年もあればそれができるようになるのではないか、ということだな?]
(なんなら院に行けばもう二年稼げる)
[ふむ。まあ、分からないではない]
シキはそう言って一応の納得を示した。とはいえ本当に秋斗の見込み通りに物事が進むのか。それは彼自身にも分からない。他の人よりマシとは言え、彼もまた混乱する世界に翻弄されていた。
少なくとも、この時はまだ。
紗希「アチョォォッォオオオ!」
秋斗「凄い迫力!」