ツーリング
「これは……」
アリスの口から愕然とした呟きが漏れる。彼女がいるのは成層圏。そこは漆黒の天蓋に覆われていた。傍目にはただ暗いようにしか見えない。だがアリスの目はそこに極めて高度な術式が展開されているのを見て取っている。
秋斗と別れた後、アリスの胸に去来していたのは不吉な予感だった。彼に指摘されたのは赤い瞳の色。青かったはずの瞳が赤くなっていると言うことは、ただ色が変わったというだけの話ではない。
アリスはそもそも封印処理されていたのだ。それなのにわざわざ封印を解いて瞳の色だけを変えた? あり得ない。瞳の色の変化は、彼女という存在が変質してしまったことの象徴に思えた。何かが彼女を塗り替えてしまったのだ。
秋斗はアリスに「モンスターなのか?」と尋ねた。あの時、アリスは「分からない」と答えたが、実のところ心の中では必死になって否定していた。彼女は守護天使。そして神に最も近しき者。たとえ出来損ないの失敗作であろうとも、「そうあれかし」と願われた存在であることが、彼女の最後の拠り所だった。
『そんなわけはない。そんなわけはないのじゃ……!』
アリスは自分にそう言い聞かせながら世界中を飛び回り、情報収集を続けた。だが目の当たりにする光景と集まっていく情報は、どれも彼女の不吉な予感のほうを強くしていく。そして彼女はついにその計画にたどり着いた。
【惑星炉計画】
紙の資料に殴り書きされていたその言葉に、アリスは一段と不吉なものを感じた。そして彼女の内心とは裏腹に、その言葉を中心にしてこれまでに集めた情報が組み上がっていく。彼女は最後の答えを確かめるために、空へ上がった。
そして彼女は成層圏までやって来た。幾つかの積層結界を突破してようやくここまでたどり着いたのだ。しかしここで彼女を待っていたのは、彼女にとって残酷な事実だった。そこに、これまでに得た情報を加え、彼女は絶望を悟る。
「ふははははははははははははっ! 滑稽だ、実に滑稽だ! これを滑稽と言わずして何と言えば良い!?」
涙を流しながら、アリスは狂ったように笑う。何もかもが遅かった。いや、もともと彼女には何も期待されていなかった。彼女のことを蚊帳の外に置いたまま、全ては計画され、そして実行された。
運命は彼女に見向きもしなかった。彼女とはまったく関係のないところで、世界は勝手に救われていた。残された現実は彼女に「何もするな」と告げている。その事実が彼女の存在意義をズタズタにする。
目覚めたことに意味は無かった。この身に宿った強力な力は、しかし誰もそれを当てにしてはいない。当然ながら成すべき使命はなく、彼女は空っぽである。「そうあれかし」と願われたその想いさえ、今となってはアリスのものであるのか疑わしい。
「ふふふ、ふハは、ハハはははハはハハはははははっ!」
アリスの背中に顕現していた翼が、まるでほどけたように形を失う。泣いて、狂って、笑いながら、彼女は落ちていった。後にはただ、漆黒の天蓋だけが残った。
- * -
「いぃぃやっほ~!」
秋斗の後ろ、バイクのタンデムシートに乗った紗希が歓声を上げている。春休みの良く晴れた日に、秋斗は約束通り紗希をツーリングに連れてきたのだ。
連れてきたのは、近くの山中を通るドライブコース。本来は観光用として整備されたらしいが、県外ナンバーどころか車自体が一台も走っていない。新緑の季節にはまだ少し早いこともあるのだろうが、典型的な失敗例と言って良い。
(というか、地元の人間がネットで調べなきゃ分かんないって時点で、知名度ゼロだろ)
秋斗は心の中で軽くそう毒づく。ただし彼が地元のアレコレに精通しているかと言えば、まったくそんなことはないのだが。彼はそれを意図的に無視した。この道が閑散としているのは紛れもない事実なのだ。
もっともそのおかげで、山中を走るこのドライブコースは秋斗たちの貸し切り状態だった。対向車も後続車も来ない道は、大変にストレスフリーだ。またコーナーの多い山道はツーリングコースとしてなかなか面白い。
[アキ。スピードを出し過ぎるなよ]
(分かってるって)
心の中でシキにそう答え、秋斗はバイクを走らせる。シキに注意されるまでもなく、彼は安全運転を心がけている。事故を起こすと面倒なのだ。
彼一人なら赤ポーションや回復魔法を使ってどうとでもなる。だが紗希が一緒だと、そういう手段は使えない。骨折でもしようものなら大人しく病院へ通わなければならないし、怪我が治るまではアナザーワールドの探索もできない。結局、何事もないのが一番なのだ。
(それに……)
それに、事故とは言え未成年が未成年に怪我をさせると面倒なのだ。どうしても保護者同士の話し合いが必要になる。だが秋斗は保護者と一緒に生活していない。そのことでまたいろいろと言われるのは目に見えている。避けられる面倒事は避けるに限るのだ。
幸いというか、タンデムシートに乗る紗希は「もっとスピードを上げて!」なんてリクエストはせず、ただ楽しそうに歓声を上げている。そのおかげで秋斗は拙いドラテクの限界へ挑まずにすんだ。
山の中腹あたりにある展望台で、秋斗はバイクを止めた。エンジンを止めると、紗希がバイクから降りてヘルメットを脱ぐ。彼女は小さく頭を振ってから、「ふう」と息を吐いた。表情は晴れ晴れとしていて、十分にツーリングを楽しんだらしい。
「わぁぁ、景色良いね~!」
紗希は欄干に駆け寄り、そこからの眺めに歓声をあげた。秋斗も彼女の隣に立ってその景色を眺める。展望台からは彼らが住む街の様子が一望できる。住宅地より農地の方が多い田舎の街だが、青空の下、広々とした景色の眺めは確かに良かった。
「あ、ほら、あれ学校だ。グラウンドが広いから、やっぱり良く分かるね」
「ってことは、オレんちはあの辺か」
「あたしのウチは、あの辺だね」
秋斗と紗希はそれぞれ学校の位置から逆算して自分の家がある辺りを指さす。それからスーパーはどこだの、誰それの家はどこだの、駅はここからじゃ見えないだの、二人は展望台からの景色を眺めながら他愛もない話をした。
「そうだ、アキ君、お茶いる? ハーブティー淹れてきたんだ」
そう言って紗希はリュックサックから水筒を取り出した。そして秋斗に紙コップを渡し、そこへ水筒からハーブティーを注ぐ。爽やかな香りが広がり、秋斗は顔をほころばせる。一口飲むと、香りがスッと鼻へ抜けた。
お茶請けはドライフルーツが入った手作りのクッキー。紗希はそのクッキーをタッパに入れて持ってきたのだが、タッパには可愛らしい花柄の紙が敷いてあって、それが女の子っぽいなと秋斗は思った。
「お、うまい」
「でっしょ~? 自信作だよ」
秋斗がクッキーを褒めると、紗希は得意げに笑って自分もクッキーを一枚つまんだ。二人はそうして一服しながらまた他愛もない話をする。最近作った料理のことや、受験勉強のこと。話題は尽きず、展望台に二人以外の姿はない。彼らは遠慮無く大声で笑ったりしながらおしゃべりをした。
「そう言えば、紗希の志望校は変わらず?」
「うん、そだよ。アキ君は?」
「実はここへ来てちょっと迷ってる。もともとは総合大学志望だったけど、いろいろ調べてたら良さげな工科大学があって、そっちにしようかなぁって思い始めてる」
「東京?」
「東京。まあ、次の模試で第二志望に書いてみるつもり。……でもその大学、オープンキャンパスに行ってないんだよなぁ」
「あらら。ここからだと、見学も一日がかりになっちゃうもんね」
「そうなんだよなぁ。まあ、五月のゴールデンウィークに東京方面に行くから、そん時によれないか、ちょっと考えてる」
「ゴールデンウィークにわざわざ東京って、何しに行くの?」
「ふふふん、知り合いからちょっとドリームランドにお誘いいただきまして」
「ええっ、ドリームランド!? いいなぁ~」
紗希がうらやましがる。秋斗はお土産を約束して彼女を宥めた。そうやってしばらくおしゃべりをして、その最後に秋斗はさらにこう言った。
「別の展望台からは海が見えるらしいよ」
「海! いいね、行こう、行こう!」
海と聞いて紗希がテンションを上げる。二人はまたバイクにまたがった。紗希がしっかりと抱きつくのを待ってから、秋斗はバイクのエンジンをかけた。
友人A「ただのデート……」
秋斗「デートじゃない」
友人B「……と被告は申しております」
友人C「判決、ギルティ」