懸念
勲から連絡があったのは、この年のゴールデンウィークの予定が決まった、その二日後のことだった。ただし、彼の話はゴールデンウィークの予定についてではなかった。彼の話はもっと深刻なもので、その深刻さを共有できるのは彼の知る限り秋斗ただ一人だった。
「……まさか東京にモンスターが現われるとは、思ってもみなかったよ」
二日前とは打って変わり、勲は憔悴した様子だった。東京にモンスターが現われ、あろうことか孫娘が襲われるなど、彼にとっては最悪の悪夢であるに違いない。奏が無事だったから良かったようなものの、もし彼女が大怪我をしたり一生消えない傷を負ったりしていたら、彼は十億円を用意して秋斗の前に並べ、土下座して「エリクサーを譲ってくれ」と懇願していただろう。
(奏ちゃんが死んでたら、勲さんも自殺してたかも知れないなぁ)
[うむ。その可能性は否定できんな]
秋斗の心の中の呟きをシキが肯定する。「そんなことにならなくて良かった」と彼はしみじみ思った。ただ話題をそちらに振っても、勲は辛いだけだろう。それで秋斗は勲にこう尋ねた。
「奏ちゃんの件以外に、東京での目撃例はあるんですか?」
「こちらでもいろいろ調べたが、私の知る限りではない。東京どころか日本で、だ」
「そうですか。じゃあ、ひとまずは安心、って言えるのかな……、コレ」
秋斗が首をかしげると、勲も重々しく頷いた。他に例がなくとも、奏が被害に遭っているのだ。勲としては心配だろう。
「日本以外でも、あのロサンゼルスの件を除けば、他に目撃例はない。もっとも、私も素人だからね。十分に探れているかは自信がない」
勲は面目なさそうにそう語る。彼にとっては他に目撃例があるほうが良いのだろうか。秋斗には分からない。
それに今となっては、世界のどこで目撃例が出てもあまり関係はない。問題はまた東京で同じようなことが起こるのか、そしてその時にまた奏が巻き込まれるのか、という点だ。
「今回は不幸な事故で、こんなことは二度と起こらない。是非ともそう思いたいところだが、残念ながらその確証はない。だが、『では確実に二度目が起こるのか』と言われると、それも分からない。何とももどかしいよ」
勲はそう言って力なくため息を吐いた。確証があるならば、あるいは十分に可能性が高いと言えるなら、彼は何か手を打つだろう。だが現状はそうではない。何もかもが不確実で、そのために効果的な対策が取れず、彼は無力感を覚えていた。
「秋斗君はどう思う? 二度目はあると思うかね?」
「無ければ良いとは思いますけど……」
秋斗はそう答えて言葉を濁す。それを聞いて勲は苦笑した。「有る」とも「無い」とも、はっきりとしたことは答えようがない。それは彼も分かっているのだ。
「まあ、そうだな。私も無ければ良いとは思っているよ。……ところで秋斗君」
「はい、なんでしょうか?」
「奏の話を覚えているかな。モンスターはあの子目掛けて飛びかかった、と」
秋斗は無言のまま頷く。もちろん奏の話は彼女の主観で話されている。だが彼女の蹴り上げたつま先がモンスターのみぞおちを捉えたと言うことは、両者はそういう間合いになっていたと言うことだ。そうであれば「奏目掛けて飛びかかった」という話は、客観的な事実と考えて良いだろう。
「私は最初、偶然だろうと思っていた。よしんばモンスターなりの判断基準があったとしても、それは弱そうなところを先に狙った結果なのだろう、と。だがこの前、奏の話を聞いて別の可能性が頭に浮かんだんだ」
「どんな可能性ですか?」
「奏は他の五人と違い、いわゆる経験値を得ていた。そして経験値は魔素と関係がある。モンスターはそれに惹かれたのではないかと、そう思うんだ」
「……否定できませんね」
秋斗は一瞬押し黙り、それからため息を吐くようにそう答えた。以前、シキが「経験値とはパーソナライズされた魔素である」という仮説を立てたことがある。つまり「レベルアップとは魔素を取り込むことで身体を作り替えていく行為である」というわけだ。
今のところ、この仮説を証明する証拠はない。だが勲も言っていた通り、経験値と魔素に何らかの関係がある事は確実だ。そしてモンスターは魔素の塊である。同質の、もしくは似た性質を持つモノに惹かれたとしてもおかしくはない。
(もしかしたら……)
もしかしたら、東京に出現したモンスターは腹が減っていたのだろうか。アナザーワールドと比べ、リアルワールドの「魔素濃度」は低いだろう。奏はモンスターについて「なんだかモヤモヤしていました」と語っている。ロサンゼルスで撮られたという例の写真も、モンスターが黒いモヤを纏っているように見えた。
その黒いモヤは、もしかしたら魔素ではないだろうか。つまり魔素濃度が低いために、モンスターは身体を維持できないわけだ。そこへ体内に魔素を持つ奏が現われた。モンスターから見て彼女はとても美味しそうに見えた、のかも知れない。
(ま、これも想像、いや妄想だな)
心の中でそう呟いて、“妄想”を打ち切った。そして勲が話した可能性について、疑問に思ったことをこう口にする。
「でも、モンスターが経験値に惹かれたって言うのなら、奏ちゃんじゃなくて、オレや勲さんのほうに現われるんじゃないんですか?」
「探知できる範囲がそれほど広くないと考えれば、筋は通る」
「近くにいたのがたまたま奏ちゃんだった、ってことですか?」
秋斗がそう尋ねると、勲は「うむ」と重々しく頷いた。彼の表情は渋い。もしこの仮説が正しいのだとすれば、奏が襲われたのは半分は運が悪かったからだとしても、もう半分は必然だったことになる。
必然的な要素があるということは、今後もまた襲われる可能性が高いということだ。もちろん、もう一度モンスターに遭遇すること自体が稀だろう。だがいざその場に居合わせたとき、奏はまた真っ先に狙われることになる。
そして奏が取り込んだ経験値の出所は、全て秋斗である。彼が送った秘薬やアナザーワールド由来の食材から、彼女は経験値を得てきたのだ。最終的にそれを与える判断をしたのは勲だろうが、秋斗としても責任をまったく感じないではいられなかった。
「……食材送るの、もう止めておきましょうか?」
彼はそう提案した。食材を送るのを止めれば、奏がこれ以上レベルアップすることはなくなる。経験値を溜め込むことでモンスターに狙われやすくなるとして、状況がこれ以上悪化することは避けられるだろう。だが勲は首を横に振った。
「いや、食材はこれまで通り送ってくれ。むしろ、可能なら量を増やしてくれ」
「良いんですか?」
「ああ。私の考えが正しいかは分からない。だが間違っていたのなら、経験値の取得を避ける理由はない。正しいのなら、今の奏の状態はかえって中途半端だろう。自衛のための力をしっかりと身につけさせた方が良い」
「……そうですね。分かりました、見繕っておきます」
「頼む。……ああ、できれば肉類多目で頼む。それとトレントの実も好評だったよ」
「ははは。了解です。用意しておきます」
茶目っ気の混じる催促に、秋斗は笑いながらそう答えた。気鬱気味だった勲が調子を取り戻してくれて、彼も一安心だ。ただ、奏に自衛のための力を身につけさせることが目的なら、ただ経験値を与えるだけでは片手落ちのような気がする。それで彼は勲にこう尋ねた。
「本格的に何か習わせるつもりはないんですか? それこそ、剣道とか」
「本人が望むのなら、いくらでも習わせるのだけどね。強制はしたくないんだ」
勲は少し困った様子でそう答えた。無理矢理習い事をさせたとして、それは長くは続かないだろう。苦痛でしかないのなら、そんなことは勲もさせたくはない。こういうものは自発性が大事だと彼は思っている。
また、いきなり「剣道をやれ」と言えば、奏は当然その理由を尋ねるだろう。そして「自衛のための力を身につけるため」と答えれば、彼女はすぐにモンスターのことを思い浮かべるに違いない。
つまり勲の側から「剣道(もしくは武道)をやってはどうか」と話を切り出すことは、彼が「また同じ事が起こるかもしれない」と考えていることを奏に伝えることになる。それは彼女に無用な恐怖を与えることになるのではないか。勲はそれを心配しているのだ。
「あの子はモンスターに襲われたことを、そんなに深刻には考えていない。今は学校のうわさのほうに意識が向いているみたいだしね。だからコチラがあまり深刻になってしまうのもどうかと思っているんだ」
そう言って、勲は苦悩を滲ませた。怖がらせて奏の笑顔を曇らせてしまうことは、彼の本意では無い。だがリスクを説明しておかなかったために、将来彼女が大怪我をすることになれば、それは悔やんでも悔やみきれない。どこまで踏み込むべきなのか、彼はそれを図りかねていた。
「難しいですね……。モンスターの目撃例がもっと多ければ、いろいろ話した方が良さそうだと思うんですけど」
「だがその場合、話はもっと大きくなる。奏の自衛などという次元では済まなくなるだろう」
「ですよねぇ……」
秋斗は苦笑しながら勲に同意した。モンスターの目撃例が増えると言うことは、リアルワールドがアナザーワールドの影響を確実に受けているということ。その問題の大きさは佐伯家に収まるものではなく、それこそ世界レベルと言わなければならない。
「であれば、こうして孫のことで悩んでいられるのは、いっそ幸せなことなのかもしれない」
そう言って肩をすくめる勲に、秋斗は大きく頷いて同意してしまった。まあ、だからといって問題が解決したわけではないのだが。
その後、秋斗と勲はもうしばらく話し合ったが、「現状維持」以上の結論は出なかった。判断材料が少ないのだからそれも仕方がない。「また何かあったら連絡する」といって、勲は通話を終えた。秋斗もアプリを終了し、それからシキにこう話しかけた。
「……シキ。アナザーワールドがリアルワールドを浸食するって、あると思うか?」
[ふむ。浸食と言うからには、つまりモンスターの目撃例がもっと一般的になるような事態を想定しているのか?]
「まあ、そうかな」
[ない、とは言い切れんな。どういう形にせよ、アナザーワールドとリアルワールドは繋がった。繋がってしまったのだ。今後、その結びつきがもっと強くなれば、モンスターが一般に認知されるようなこともあるかも知れん]
「そっか……」
[ただ現状は推測の上に推測を重ねているに過ぎん。まったく的外れなことを考えている可能性もある。ここであれこれ考えるより、事情を知っていそうな存在に尋ねたほうが手っ取り早いのではないか?]
「アリスのことか?」
シキが「うむ」と答える。アリスはアナザーワールド側の存在で、しかもコミュニケーションが取れる相手だ。シキの言うとおり、あれこれと尋ねるには最適な相手だろう。問題は次にいつ会えるのか分からないことだが、秋斗はあまり心配していない。アリスの方も秋斗に用がある様子だったからだ。
そのうち向こうから顔を出すだろう。秋斗はそう思っている。
だがそうはならなかった。
秋斗「食材ハンターにお任せあれ!」
シキ「それでいいのか……?」