第一章 今、幸せですか?幸せとはなんですか? 『酒飲んで、ラノベの新刊待ちわびで、寝ることですby 二十五歳社畜』
真っ暗で、肌寒いオフィスの一席。
そこにあるパソコンから放たれるブルーライトの光だけが、唯一の光源。
その画面と向き合って、一心不乱に叩いていたキーボードから蒼砥輪はゆっくり手を離した。
「終わった~」
自分以外誰もいないので、憚ることなく放たれた彼の声はオフィスに反響した。
椅子に深くもたれかかり、天井を仰ぎながら、デスクに置かれたスマホに手を伸ばして、画面を見る。
「もぅ、十時かよ」
六時の定時上がり。つまり四時間残業したことになる。
昨今、労働時間に非常にうるさくなってきて、残業すればするほど怒られる時代。オフィスの電気も七時以降は点かない。
でも、いくら勤務時間が決まっているとはいえ、年に何回か有休を取らないといけないと言われたところで、その分仕事量を減らすことしますということには決してならない。
給料面や労働時間が見直されたところで、会社というものは根本的なところ利益を出さないといけないので、当然といえば当然で、もぅ今年で二十五歳になって、アラサーと呼ばれる歳になった輪もそれは十分に理解しているのだが、三六五日社会人でいないといけない中で、偶にそれが頭の片隅に追いやられて、自分の今の欲求に忠実に反応して貪りたくなるが、そんなことをしたら悪くて犯罪者、よくて社会の落後者だ。
人間という職業は実に厄介だ。
「帰るか」
明日も朝一で仕事だ。年内には絶対終わらせないといけないので、もぅ、休む暇なんてない。
「まぁ、世の中には徹夜したり、会社に泊まる人がいたり、するのだから、それに比べればましか」
そんな不幸比べを始めたら既に末期なのだが、そうしないとやっていられないのも事実。
オフィスが入っている十階建ての雑居ビルから外に出た瞬間、輪は思わず空を見上げた。
「……雪」
そういえば今日が二十四日、世の中的にクリスマスイブだということにようやく気が付く。
まぁ、だからといって、どうこうという話なのだが。
残念ながら、輪にはクリスマスの存在を忘れていたところで、
「早く帰って来るって言ったじゃない!」
と怒る人もいないし、
「可哀そうなお兄ちゃんの為に妹の私が祝いに来てあげたよ」
と残念な兄を労わる妹もいない。
「積もるなよ」
雪も学生時代は楽しかったが、大人となっては、電車のダイヤを乱し、全ての行動がそれを念頭に置いておかないといけないので、厄介以外なにものでもない。
バックの中に折り畳み傘はあるのだが、差すほどでもないので、マフラーに口を埋めて、トボトボと駅に向かって歩く。
社会人になって三年目。今年になって、仕事を振られる数も後輩に仕事を振る数も増えた。
元来そこまで容量がよくない輪にとって、その仕事量はどう考えても定時に帰られるものではなかった。
だったら仕事を振れと言われるが、如何に仕事を振ることが難しいことを最近痛感している。
仕事を振るにも、その人の能力と適性を見極め、その分に見あった仕事量を振らないといけない。
じゃないと余計な仕事が増えたり、計画に支障をきたすようなミスをしたりして、そのフォローに回らないといけない。
しかもその仕事は元来彼の仕事のタスクに入ってない。
どこがどう間違ったのかを、本人に一から説明するぐらいなら自分でやった方が早い。
ということで大概の仕事は未完成のまま輪のところに戻ってくる。
結果仕事が余計に増える悪循環。
「本当に俺、リーダー気質ないよな」
そんな時に不意に旧友の顔が浮かぶ。
星夢希空。
輪が学生時代所属していた「カノープス」というグループのリーダー。
メンバー全員の適性を把握して、人に上手く頼り、自分でやるところはちゃんと締める。
そして何より全てのことを前向きに楽しくやっているので、誰もがやる気になるし、彼女を助けたいと思う。
輪もその中の一人だった。
だから。
「あなたはカノープスに相応しくありません。二度とこのグループの一員だということを口に出さないでください」
思わず身震いがする。
寒さからか、それとも過去に負った心の傷からなのかはわからないが、何かを振り払うように、輪はその歩を早めた。
居酒屋、カラオケ、レストランなど多くの店が立ち並ぶ駅前は夜の一〇時とはいえ活気づいていた。
イルミネーションが煌々と照らされて、サンタの服装をした女の子が呼子をしていたら、嫌でも今日が、なんでもない平日の一日ではないことを思い知らされる。
もちろん中には「クソ」と舌打ちをして歩く女もいれば「我がクリスマスに悔いなし!」とアニメのキャラの法被を着た男もいた。
哀れとは思わない。どっちかというと輪もその一派の一人なのだから。なにせクリスマスだからといって、チキンを買う気もケーキを買う気も起きないの。
家に帰っても何もないのだが、食べる時間があったら、寝たいのでそのまま素通りしようとした時だった。
「ベルか?」
不意にかけられたその声に立ち止まったのは、そのあだ名で輪を呼ぶのが、この世に三人しかいないからだ。
振り返りそこに立つスーツにコートを着た男は、とても自分と同い年と思えないぐらいに若々しく、最後に出会った高校の卒業式からプラス二歳ぐらいにしか思えない。
それでも明らかにガタイは大きくなっているし、顔つきはきりっとして大人の魅力を増していた。
そんなイケメンの知り合いで自分をベルと呼ぶ人の心当たりは一人しかいなかった。
「恭平か?」
輪の返答を聞いて、酒で少し染めた頬に笑みを浮かべて、恭平は歩み寄ってくる。
「久しぶり!お前も東京にいたんだな!」
「そういう恭平こそ。まさかこんなところで再会出来るとは思えなかった」
そう言った輪の表情を見て、恭平は苦笑いを浮かべる。
「だったらもう少し嬉しそうな顔をしてくれよ」
「表情作るのは苦手なのは知ってるだろ?」
目を逸らした輪に、恭平は肩をすくめた。
「仕事帰りか?」
「ああ、そっちは飲み会の帰りか?」
「忘年会だ。二次会にも誘われたが、断った」
「だったらさっさと、喜瀬羅のところに戻ってやれよ。後が怖い」
恭平と喜瀬羅が結婚したのは、直接知らされてないがSNSのつぶやきで知った。
恭平はニコリと笑った。その表情は高校の時と全く変わらない。
「明日は一日付き合うことになっているから大丈夫だ。
輪と一緒にいることもメールしておくし」
そう言いながら恭平はスマホを操作して、ナチュラルな動きで輪を写真に撮った。
「……勝手に撮るなよ」
「うん?あ、俺とのツーショット写真の方が良かったか?」
何が悲しくて聖夜の夜に男と肩を寄せ合ってツーショット写真を撮らないといけないのだ。
この独特な恭平の距離の詰め方。
同じグループの中にいた時はただ、感心していたが、いざグループから離れた後はひたすら煙たがった。
でも今はそれほどでもなかった。時間が全てを解決してくれるというわけではないのだが、ある程度は解決してくれるものなのだと思えるほどにはなっているようだ。
メールを打ち終わった恭平はスマホをポケットにしまって、
「ということで、ラーメン食いに行こうぜ!」
と唐突に切り出した。
「何故に聖夜の夜に男二人でラーメン食いにいかないとならないんだよ」
「え?じゃあ、喜瀬羅呼ぼうか?家遠いから少し時間かかるぞ?」
もはやこうなったら輪に拒否権はなかった。晩飯も食べ損ねていたので丁度いいかと自分で自分を説得した。
「恭平の奢りな」
「え、いや、それは」
「ラーメンの一杯も奢れないのか?
随分、小さな男になったな」
「……わかったよ。全くお前の性格の悪さも相変わらずだな」
「ノブレスオブリージュ。持つもの義務だ」
「俺が今持っているのはマイカーと家のローンだけなんだが」
妙に現実味あふれる自虐ネタを披露されたが、それでも恭平はそのことに対して全く嫌そうに見えなかった。
「幸福手当だな」
「それは否定できないな」
そう言ってニコリと笑う彼の笑顔を見て輪は思わず胸を撫でおろす。
不幸中の幸いだった。出会ったのが恭平で。
もし、他のメンバーだったらきっと、もっとギクシャクしたのは想像に難くなかった。
二人が向かったのは輪がよくいく駅から少し離れたラーメン屋だった。
チキンの匂いが街全体を立ち込める中、その一角だけ豚骨臭で充満していた。
「なんかすごい店だな」
席に座った恭平は店に充満する豚骨臭に顔を引きつらせる。
「まぁ、女の子を連れてくる場所ではないかもな」
「おい、まるで俺が女しか連れ歩かないみたいな言い方するなよ」
「喜瀬羅が臭いのが、苦手だったからといったつもりだが」
ニヤリと笑った輪を恭平は苦虫を噛みしめながら睨みつける。
「……お前、性格の悪さに磨きかかってないか」
人間ずっと綺麗なままでいられない。
恭平の言葉を無視して、豚骨ラーメンを二つ注文する。
「あ、一つはにんにく抜きで」
「はい、わかりました」
見た目から、とても豚骨臭が漂う店で働くような子ではなさそうな二十代前半と思われる女の子は笑顔で気持ちの良い返事をしてくれて、これだけでここに来た価値があったと思えた輪は単純だろうか?
「覚えてくれたんだな。俺がにんにく嫌いなの」
つい自然に、あの時と変わらない感じで注文してしまったことに輪は今更気づいて、恥ずかしさを誤魔化すように水を啜った。
それからは喜瀬羅に対しての惚気や愚痴を聞いていた。
「いや、そろそろ子どもっておもっているんだが、まだまま二人でいたいというか」
「いや、確かに俺にも悪い面はあると思うが、それでもいきなり何も聞かず引っぱたくのはどうかと思うんだ」
もぅ、そこに数年間のブランクがあるとは思えないぐらいのフランクさがあった。
まさか再開してすぐに、ここまで隔たりがなくなるとは思っていなかったが、悪い気分ではなかった。
「お待たせしました」
そうこうしているうちに二人の前にラーメンが置かれた。心持ちいつもより麺の量が多い気がして、思わず女の子の方を見ると、
「サービスです。メリークリスマス」
と言ってくれたので、恭平が「ああ、メリークリスマス」と微笑んだので、女の子は頬を赤くしながら去っていった。
「イケメンと一緒にいると得だな」
「そんなことはない。この店の好意だよ。さぁ、食べよう!」
そう言って恭平は割り箸を割って、レンゲを持った。
「……確かに上手いな」
一口啜ったところで恭平はそう呟いた。
固麺に、匂いの割にそこまでこってりしてない豚骨の味が絶妙にマッチしていて、最初は抵抗があった輪もいつの間にか常連になっていた。
「そうだ。希空結婚したらしい」
半分ほど食べきったところで、徐に恭平はそう呟く。
輪は一瞬スープを啜るレンゲの動きを止めたが、すぐに再開する。
「まぁ、俺らの年齢からしたら珍しいことじゃないな」
「そうなんだけどな。俺らも音信不通だったから、事後報告だったんだよ。
俺も相手を聞いた時は驚いたよ」
「コノハか?」
「それは驚きだけですまないぞ」
昨今同性婚の話をSNSで聞く機会も増えてきたので各段珍しいことではないだろう。
「慎吾だよ」
「……驚きだな」
「だよな。まさかあの二人が」
輪は被りを振った。
「いや、俺が驚いたのは、恭平が嬉しそうにしてないところだ」
今度は恭平の手が止まった。
「……そう、見えるか?」
「ああ、といっても大人になった恭平のことは知らないからな。あくまで高校生の似鳥恭平基準だ」
彼は苦笑いを浮かべ、宙を仰いだ。
「……あまり幸せではないらしい」
「そうか」
「随分、冷たいじゃないか」
「俺はグループを脱退しているからな」
抜けたところで、メンバーと赤の他人になるわけではないのだが、そんな話をされたところで、迷惑だとは思わないが、何も出来ることはない。自分のことで手一杯なのだ。
それに恭平もそれを矢面に出されたら、こちらを糾弾することが出来ないという打算的な考えもあった。
それを証拠に恭平は何も言わず再びラーメンを啜り始めた。どうやら話をそれで打ち切るつもりだったらしいのだが。
「…………それは本人が言ったのか?」
ラーメンを食べ終わったところで輪は前を向きながらそう呟いた。
「……いや、この前喜瀬羅が会ったらしく、あいつの見た目の感想だが」
流石にタダ飯をもらっておいて、昔のことを引き合いに出して何の相談も乗らず、何の意見も出さないほど、輪という人間は薄情じゃない。
まぁ、一種の免罪符的なものなのかもしれないが。
もしかしたら無理矢理晩御飯に誘ったのは、希空の件を話したかったのかもしれない。
「喜瀬羅の感想か。なら、間違いないんだろうな」
彼女の前では嘘をつけない。それはカノープスの中では常識的だった。
「恭平が何もしてないってことは直接的に何かの問題があるんじゃないんだな?」
恭平は苦笑いを浮かべる。
「俺はそんな良い人間じゃないさ。
でも、そうだ。別に慎吾に問題があるわけじゃないと思う。
けど、いつもニコニコと笑っていた女の子の表情が曇っていたらな」
確かに。その気持ちは十分に輪にもわかった。でも。
「俺には想像できないよ。希空のそんな表情」
もしかしたら当時から無理をしていたのかもしれないが、今となってはそんなこと確かめようがない。
「まぁ、今度会ったら、俺も気にしていたこと言っといてくれ。
後、別に俺は気にしてないって言ってくれ。喜瀬羅にも希空にも」
所詮、幼馴染同士で結成された気まぐれグループだ。そこを追放されたからといって、いつまでも引きずっていられるほど、社会人は暇じゃないし。
「恭平に気を遣われるのは、落ち着かないんだ」
「……ありがとうな」
店を後にして、流石に奢ってもらうばかりではあれなので、自販機で缶コーヒーを二つ買って、二人でそれを啜りながら、駅に向かった。方面が逆なので、改札の前で別れることになった。
別れ際にアドレスの交換を頼まれたので、交換した。アイコンが喜瀬羅とのツーショットだった。
「ラブラブだな」
「あ~まぁ、色々と気を遣うところはあるがな。じゃあ、また。今度は喜瀬羅も連れてくるよ」
「俺、あいつ苦手だから良い」
「ハハハ、本当にそういうところばっかり、相変わらずだな」
ケラケラと笑いながら、逆方面のホームの階段を登っていく恭平を見送って、輪も家路に向かった。